ルソーは教育論エミールで、子供の道徳は約束や義務などの理屈を教え込むことから
生じるのではなく、子供の悪さに対して親が怒りや不快を示すことで、子供は自己を
改変して行くと言ってます。
この理屈を教えず自然に道徳を学ばせる方法に特化した教育を行った場合
子供の道徳感はどう育ちますか?また社会性はどうなりますか?

A 回答 (10件)

>ルソーは教育論エミールで、子供の道徳は約束や義務などの理屈を教え込むことから生じるのではなく、子供の悪さに対して親が怒りや不快を示すことで、子供は自己を改変して行くと言ってます。



確かに、ルソーの場合、大人からの規制、束縛こそが子どもの人間形成を歪める根本原因だという考え方をしていますよね。

ですが、ちょっと考えただけで明らかなように、「約束や義務などの理屈」といったところで、いずれも、過去から現在に至る、どんな場合に「親が怒りや不快を示す」かに関する経験則ほかならず、過去の人々の試行錯誤から導かれた教訓をより体系化した、便利な生活指針(=マニュアル)でしかないですよね。

>この理屈を教えず自然に道徳を学ばせる方法に特化した教育を行った場合
>子供の道徳感はどう育ちますか?また社会性はどうなりますか?

「理屈を教えず自然に道徳を学ばせる」というのは、子どもの主体性、自主性を尊重すると聞こえるだけに、確かに耳には心地よいのですが、本当にゼロから試行錯誤だけでもって「道徳」を学ばせようとするのは、あまりにも非現実的、あまりにも無茶な話だと思います。
と言うか、第一、どう考えても、これでは子どもはあまりにも無駄の多い試行錯誤のためにい、あまりにも多くの時間を浪費させられることになりますよね。

世間ではやや否定的に見られる、冠婚葬祭に関する因襲や慣習にしても、もし、これを完全に否定しようものなら、現実生活が不便きわまりないことになるはずです。
たとえば、お布施や祝儀にどれくらい包んだらよいのかというとき、「人それぞれの心ですから」などと言われるより、世間の相場がはどれくらいかを前もって知っていた方がはるかに余計な神経を使わずにすみますから。

ということで、子どもに「約束や義務などの理屈」を金科玉条とするよう教え込むのは愚行以外の何ものでもないと言えますが、これがあるお陰で、余計な試行錯誤や時間の浪費を強いられることはない、その意味では、世俗を生きていく上でなかなか便利なマニュアルでもあると教える分には、子どもにとってもたいへんありがたいと言えるのではないでしょうか。

なお、いかに立派な道徳律にせよ、善悪の規範にせよ、人間がより快適な生活していくための損得や利害得失の体系以上でも以下でもないと思われます。
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この回答へのお礼

自然に道徳を学んでも、生活の役に立たないんですね。
わかりました。
ありがとうございました。

お礼日時:2011/04/20 19:40

教育論ですね。


「子供を自然に任せれば、子供は自然から学ぶであろう」という
自然(神の意志)を真、善と信じる考え方であると思います。
(もちろん人間も自然の一部である)

しかし、これは200年以上も昔に書かれたものであり
現在の私たちの自然とは、意味合いが違っているかもしれません。

現在の自然な状態を考えますと、家庭では、カプセル母子 と呼ばれる
新しい親子関係も形成されつつあるようです。
父親不在の環境のもとに形成されたと考えます。

カプセル母子においては、依存及び同化の影響が強く
子供を親のコピーにしてしまうおそれがあります。
やがて子供に自我が芽生えると、今度は、互いに傷つけあう
ハリネズミ、シンドロームに悩まされます。
お互いの距離が近すぎるために起こる現象です。

現在においては、自然な状態というものは、およそ
偏りを作りやすい――好き嫌い――よそはよそ、うちはうち
親のしたたかさ ―― 欺瞞 ―― 偽善 ―― 利益追求
このような傾向を示すとも言えましょうか。

以上が家庭のカプセル化による弊害と考えますが
私たちが使用しているインターネットの世界、つまり
データ通信においては、カプセル化=TCP-IP通信であります。

ただしTCP-IP通信においては、データの自己チュー化に対する
補完性を考慮して、データに対して必要な規則性と階層における
誠実さを付加した形で、TCP-IPパケットを実現しております。

TCP-IPパケット化 = データ(自己チュー)+社会通念上の誠実さ
この基本概念が自律的に発揮されているがゆえに
データ通信は順番や相手を間違える事なく社会を構築しています。

データ通信は、人と人を結ぶ言葉の交通であり、心の交通であります。
家庭内の親子関係につきましても、TCP-IPパケット化を期待したいと
願わずにはおれません。

たまには俺も真面目な回答をする = TCP-IPパケット化である
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「欲求」は、「知識」とは異なります(相関はするが)。


同様に「感性」とも異なります。
真(知識)善(欲求)美(感性)と言えば分かりやすいでしょうか。
道徳は、知識のようですが、その根底である生きるモチベーション
に根ざしています。

個人の意識は、肉体に付属した感覚器官からの入力に依存する
以上、放置すれば自己中心的な考えに収束します。
家庭教育や地域コミュニティでの経験、そして学校教育などに
おいて、社会性を醸成するわけです。
そこに於て、個人の生命の社会性=他人とのつながり・助け合い
の第一歩は、親であり、家族なので、そこでボタンを掛け違えると
(人間不信や自己チュー)、その後の座学による“社会性”は、
自分の欲求とは異なる足カセや、社会的に受け入れられるための
道具に過ぎなくなります。

これは座学が無効だというのではなく、段階的に深める必要が
ある、という事です。
自己の生命性を、肉体に限定されたものから、家族、地域コミュ
ニティ、社会、環境へと拡張していくステップに他なりません
(遠いものの他我化は、知識によってしか入力できないので)。
そうする事で、権利や義務、モラルや法規、貨幣や権力といった
他律的制限(飴とムチ)によって自己中心的な意識をして社会性
のコースを走らせるのではなく、自己の社会生命性の自覚化=
愛による社会行動が可能になり、そうした拘束衣を必要としなく
なるのです。
(自由意志による最大生存(社会的最大効率の意思化)=精神的
充足量の最大化)
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>この理屈を教えず自然に道徳を学ばせる方法に特化した教育を行った場合・・・


いわゆる、子供は親の背中を見て育つ、というものでしょうか。
この場合、三つのケースがあるかもしれません。
親の道徳観をそのまま受け継ぐ
親の道徳観を受け継ぎながらも、自分なりに変えてゆく
親の道徳観を嫌って、独自の道徳観を築いてゆく
社会性も同様かもしれません。
さて、振り返ってみて自分はどうであったのか、と思ってしまいますね。
いいも、悪いも親次第、であったのか・・・などと
親は偉大であった・・・いや、親は偉大ではなかった
(これについては)親よりも自分は偉大だ・・・いや、親よりも自分は偉大ではない・・・などと
常に、人格や道徳観のレベルの基準といったものを、どこに置くかによって違った感覚を味わう事になるのでしょう。
現実的には、親の人格や道徳観のレベルを越えるか越えないか、という事が客観的には、どう育ってゆくのかという見方の一つにもなるのでしょう。
やはり、親あっての子供・・・なんでしょうね。
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偽善。

神。アロマ。マッサージ。
嫉妬。癒し。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽りの顔。
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>子供の悪さに対して親が怒りや不快を示すことで、子供は自己を


>改変して行くと言ってます。

これだと相手の立場に立ってものごとを考えるというよりも、人の顔色を窺うだけの
道徳観しか持てないように思います。いい価値観を教えることができますが、悪い
価値観も改善されないまま受け継がれてしまうことになるのではないでしょうか。

道徳的なセンスを養うためには、まず自尊感情を育てることが大切なのではないかと
思います。

厳しい言い方になるかもしれませんが、自尊感情が育ってない人間に道徳を積み上げよう
としてもそれは無理だと思います。人間が人の気持ちがわかるようになる為には、
自分が自分を大切に思い、自分の気持ちに正直に生きることができて初めて、人の気持ち
もそれと同じように理解しようと思うものなのではないでしょうか。
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>子供の道徳は約束や義務などの理屈を教え込むことから生じるのではなく



 これはおよそ正しい。

>子供の悪さに対して親が怒りや不快を示すことで、子供は自己を改変して行く

 これは正しくない。


「自分がされたくないことはするな」と感情的になって教えればそのまま利己的で感情的な人間に育

ちます。自覚はなくとも。


歪められた不自然で社会的な道徳は育たず、そのぶん、素朴な思いや感情はかえって残ります。

放任も、過保護・過干渉も誤りです。
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 ルソーは「情」を育てようとしたのでしょう。



 情的に判るか、理的に解かるか、という事の違いを考えるうえでのきっかけとなる、疑問、質問かと思います。

 うまく説明できないので、・・・・・これだけ。
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中国の道徳教育は非常に熱心で、日本の比では


ありません。
しかし、中国と日本とで、どちらがよく道徳を
守られているかは言うまでもありません。

子供に、いくら理屈を教えてもダメです。
幼い時から身体や心にたたき込まないと
効果が無いのです。
それで、あの有名な話が出てくるのです。

「お国では子供たちに宗教教育をしていないと
 聞きましたが本当ですか?」
「本当です」
「おー、それで一体どうやって子供たちに道徳
 を教えることができるのでしょう?」
「我が国には武士道があります」
(新渡戸稲造 武士道)

理屈抜きにたたき込む。残念ながらこういう
方法しか効果は無いのです。
「ならぬことはならぬことです」
(会津藩)

理屈云々いうのなら、何故人を殺すことは悪いことなの?
なんて問いに、どうやって答えるのでしょう。
「お前だって殺されるのはイヤだろう。自分がされてイヤ
 なことはするな」
「殺されたっていいよ。自殺を考えているぐらいだもの」

理屈で説明すれば、理屈での反論が可能なのです。

「神様がそう決めたんだよ」
と言えば、神の存在を当然視している人たちの間では
それ以上の理屈は不要になります。
道徳は宗教的深みにまで人間に浸透していないと
守られないのです。
理屈は効果がないです。
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江戸時代の様に皆が分をわきまえ、助け合い、弱きものは謙虚になり、強きものはより大きな社会的責任を担う、戦後の日本よりもよっぽど住み心地の良い社会になるのではないでしょうか。

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