ルソーは教育論エミールで、子供の道徳は約束や義務などの理屈を教え込むことから
生じるのではなく、子供の悪さに対して親が怒りや不快を示すことで、子供は自己を
改変して行くと言ってます。
この理屈を教えず自然に道徳を学ばせる方法に特化した教育を行った場合
子供の道徳感はどう育ちますか?また社会性はどうなりますか?

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A 回答 (10件)

>ルソーは教育論エミールで、子供の道徳は約束や義務などの理屈を教え込むことから生じるのではなく、子供の悪さに対して親が怒りや不快を示すことで、子供は自己を改変して行くと言ってます。



確かに、ルソーの場合、大人からの規制、束縛こそが子どもの人間形成を歪める根本原因だという考え方をしていますよね。

ですが、ちょっと考えただけで明らかなように、「約束や義務などの理屈」といったところで、いずれも、過去から現在に至る、どんな場合に「親が怒りや不快を示す」かに関する経験則ほかならず、過去の人々の試行錯誤から導かれた教訓をより体系化した、便利な生活指針(=マニュアル)でしかないですよね。

>この理屈を教えず自然に道徳を学ばせる方法に特化した教育を行った場合
>子供の道徳感はどう育ちますか?また社会性はどうなりますか?

「理屈を教えず自然に道徳を学ばせる」というのは、子どもの主体性、自主性を尊重すると聞こえるだけに、確かに耳には心地よいのですが、本当にゼロから試行錯誤だけでもって「道徳」を学ばせようとするのは、あまりにも非現実的、あまりにも無茶な話だと思います。
と言うか、第一、どう考えても、これでは子どもはあまりにも無駄の多い試行錯誤のためにい、あまりにも多くの時間を浪費させられることになりますよね。

世間ではやや否定的に見られる、冠婚葬祭に関する因襲や慣習にしても、もし、これを完全に否定しようものなら、現実生活が不便きわまりないことになるはずです。
たとえば、お布施や祝儀にどれくらい包んだらよいのかというとき、「人それぞれの心ですから」などと言われるより、世間の相場がはどれくらいかを前もって知っていた方がはるかに余計な神経を使わずにすみますから。

ということで、子どもに「約束や義務などの理屈」を金科玉条とするよう教え込むのは愚行以外の何ものでもないと言えますが、これがあるお陰で、余計な試行錯誤や時間の浪費を強いられることはない、その意味では、世俗を生きていく上でなかなか便利なマニュアルでもあると教える分には、子どもにとってもたいへんありがたいと言えるのではないでしょうか。

なお、いかに立派な道徳律にせよ、善悪の規範にせよ、人間がより快適な生活していくための損得や利害得失の体系以上でも以下でもないと思われます。
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この回答へのお礼

自然に道徳を学んでも、生活の役に立たないんですね。
わかりました。
ありがとうございました。

お礼日時:2011/04/20 19:40

教育論ですね。


「子供を自然に任せれば、子供は自然から学ぶであろう」という
自然(神の意志)を真、善と信じる考え方であると思います。
(もちろん人間も自然の一部である)

しかし、これは200年以上も昔に書かれたものであり
現在の私たちの自然とは、意味合いが違っているかもしれません。

現在の自然な状態を考えますと、家庭では、カプセル母子 と呼ばれる
新しい親子関係も形成されつつあるようです。
父親不在の環境のもとに形成されたと考えます。

カプセル母子においては、依存及び同化の影響が強く
子供を親のコピーにしてしまうおそれがあります。
やがて子供に自我が芽生えると、今度は、互いに傷つけあう
ハリネズミ、シンドロームに悩まされます。
お互いの距離が近すぎるために起こる現象です。

現在においては、自然な状態というものは、およそ
偏りを作りやすい――好き嫌い――よそはよそ、うちはうち
親のしたたかさ ―― 欺瞞 ―― 偽善 ―― 利益追求
このような傾向を示すとも言えましょうか。

以上が家庭のカプセル化による弊害と考えますが
私たちが使用しているインターネットの世界、つまり
データ通信においては、カプセル化=TCP-IP通信であります。

ただしTCP-IP通信においては、データの自己チュー化に対する
補完性を考慮して、データに対して必要な規則性と階層における
誠実さを付加した形で、TCP-IPパケットを実現しております。

TCP-IPパケット化 = データ(自己チュー)+社会通念上の誠実さ
この基本概念が自律的に発揮されているがゆえに
データ通信は順番や相手を間違える事なく社会を構築しています。

データ通信は、人と人を結ぶ言葉の交通であり、心の交通であります。
家庭内の親子関係につきましても、TCP-IPパケット化を期待したいと
願わずにはおれません。

たまには俺も真面目な回答をする = TCP-IPパケット化である
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「欲求」は、「知識」とは異なります(相関はするが)。


同様に「感性」とも異なります。
真(知識)善(欲求)美(感性)と言えば分かりやすいでしょうか。
道徳は、知識のようですが、その根底である生きるモチベーション
に根ざしています。

個人の意識は、肉体に付属した感覚器官からの入力に依存する
以上、放置すれば自己中心的な考えに収束します。
家庭教育や地域コミュニティでの経験、そして学校教育などに
おいて、社会性を醸成するわけです。
そこに於て、個人の生命の社会性=他人とのつながり・助け合い
の第一歩は、親であり、家族なので、そこでボタンを掛け違えると
(人間不信や自己チュー)、その後の座学による“社会性”は、
自分の欲求とは異なる足カセや、社会的に受け入れられるための
道具に過ぎなくなります。

これは座学が無効だというのではなく、段階的に深める必要が
ある、という事です。
自己の生命性を、肉体に限定されたものから、家族、地域コミュ
ニティ、社会、環境へと拡張していくステップに他なりません
(遠いものの他我化は、知識によってしか入力できないので)。
そうする事で、権利や義務、モラルや法規、貨幣や権力といった
他律的制限(飴とムチ)によって自己中心的な意識をして社会性
のコースを走らせるのではなく、自己の社会生命性の自覚化=
愛による社会行動が可能になり、そうした拘束衣を必要としなく
なるのです。
(自由意志による最大生存(社会的最大効率の意思化)=精神的
充足量の最大化)
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>この理屈を教えず自然に道徳を学ばせる方法に特化した教育を行った場合・・・


いわゆる、子供は親の背中を見て育つ、というものでしょうか。
この場合、三つのケースがあるかもしれません。
親の道徳観をそのまま受け継ぐ
親の道徳観を受け継ぎながらも、自分なりに変えてゆく
親の道徳観を嫌って、独自の道徳観を築いてゆく
社会性も同様かもしれません。
さて、振り返ってみて自分はどうであったのか、と思ってしまいますね。
いいも、悪いも親次第、であったのか・・・などと
親は偉大であった・・・いや、親は偉大ではなかった
(これについては)親よりも自分は偉大だ・・・いや、親よりも自分は偉大ではない・・・などと
常に、人格や道徳観のレベルの基準といったものを、どこに置くかによって違った感覚を味わう事になるのでしょう。
現実的には、親の人格や道徳観のレベルを越えるか越えないか、という事が客観的には、どう育ってゆくのかという見方の一つにもなるのでしょう。
やはり、親あっての子供・・・なんでしょうね。
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偽善。

神。アロマ。マッサージ。
嫉妬。癒し。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽善。偽りの顔。
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>子供の悪さに対して親が怒りや不快を示すことで、子供は自己を


>改変して行くと言ってます。

これだと相手の立場に立ってものごとを考えるというよりも、人の顔色を窺うだけの
道徳観しか持てないように思います。いい価値観を教えることができますが、悪い
価値観も改善されないまま受け継がれてしまうことになるのではないでしょうか。

道徳的なセンスを養うためには、まず自尊感情を育てることが大切なのではないかと
思います。

厳しい言い方になるかもしれませんが、自尊感情が育ってない人間に道徳を積み上げよう
としてもそれは無理だと思います。人間が人の気持ちがわかるようになる為には、
自分が自分を大切に思い、自分の気持ちに正直に生きることができて初めて、人の気持ち
もそれと同じように理解しようと思うものなのではないでしょうか。
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>子供の道徳は約束や義務などの理屈を教え込むことから生じるのではなく



 これはおよそ正しい。

>子供の悪さに対して親が怒りや不快を示すことで、子供は自己を改変して行く

 これは正しくない。


「自分がされたくないことはするな」と感情的になって教えればそのまま利己的で感情的な人間に育

ちます。自覚はなくとも。


歪められた不自然で社会的な道徳は育たず、そのぶん、素朴な思いや感情はかえって残ります。

放任も、過保護・過干渉も誤りです。
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 ルソーは「情」を育てようとしたのでしょう。



 情的に判るか、理的に解かるか、という事の違いを考えるうえでのきっかけとなる、疑問、質問かと思います。

 うまく説明できないので、・・・・・これだけ。
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中国の道徳教育は非常に熱心で、日本の比では


ありません。
しかし、中国と日本とで、どちらがよく道徳を
守られているかは言うまでもありません。

子供に、いくら理屈を教えてもダメです。
幼い時から身体や心にたたき込まないと
効果が無いのです。
それで、あの有名な話が出てくるのです。

「お国では子供たちに宗教教育をしていないと
 聞きましたが本当ですか?」
「本当です」
「おー、それで一体どうやって子供たちに道徳
 を教えることができるのでしょう?」
「我が国には武士道があります」
(新渡戸稲造 武士道)

理屈抜きにたたき込む。残念ながらこういう
方法しか効果は無いのです。
「ならぬことはならぬことです」
(会津藩)

理屈云々いうのなら、何故人を殺すことは悪いことなの?
なんて問いに、どうやって答えるのでしょう。
「お前だって殺されるのはイヤだろう。自分がされてイヤ
 なことはするな」
「殺されたっていいよ。自殺を考えているぐらいだもの」

理屈で説明すれば、理屈での反論が可能なのです。

「神様がそう決めたんだよ」
と言えば、神の存在を当然視している人たちの間では
それ以上の理屈は不要になります。
道徳は宗教的深みにまで人間に浸透していないと
守られないのです。
理屈は効果がないです。
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江戸時代の様に皆が分をわきまえ、助け合い、弱きものは謙虚になり、強きものはより大きな社会的責任を担う、戦後の日本よりもよっぽど住み心地の良い社会になるのではないでしょうか。

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Qルソーって二人いるのですか?

憲法の本でよく出てくる
ジャン・ジャック・ルソー
というひとがいます。きっとこれがあの有名なルソーかとおもっていました(中江兆民は東洋のルソーですよね。
ところがネットサーフィン中に
http://www.tabiken.com/history/doc/I/I069L100.HTM
ケネー・ディドロ・ルソー
社会契約論を示したとかいています。
別人なのでしょうか?
ルソーは二人もいるのでしょうか?
素朴な疑問ですみません。宜しくお願いします。

Aベストアンサー

>ケネー・ディドロ・ルソー

ケネー、ディドロ、ルソーは3人の別の人です。

最後のルソーはジャン・ジャック・ルソーのことです。
よく読むと解ると思います。

Qカント実践哲学、要請論を含む全体の妥当性(道徳法則って本当に実在するの?)

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Qフランス文学のルソーの「エミール」を読んだ方へ

今、ルソーの「エミール」を読んでいるのですが、エミールとは想像上の人物ですよね?実際、ルソーには子供がいたのでしょうか?この本はルソーが子供を産む前に書かれたものなのでしょうか?それともその反対でしょうか?この本を読むにあたってどんな点に注意すればよいでしょうか?

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> エミールとは想像上の人物ですよね?

その通りです。

> 実際、ルソーには子供がいたのでしょうか?

ルソーは五人いた自分の子供をつぎつぎと養育院(孤児院)に送っています。
そのことは、以前
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/4004558.html
で回答しているので、興味がおありでしたら、参考にどうぞ。

> この本はルソーが子供を産む前に書かれたものなのでしょうか?

ルソー自身が『告白』の中で言っているのですが、『エミール』は「二十年間の思索と三年間の労作」がかかったものだということです。執筆されたのは、五人の子供を孤児院に送ったあと、ということになります。

そのことは、『エミール』の中でもふれられてあり、
「父親の義務を果たすことができない者は、父親となる権利はない。貧困も、仕事も、世間への思惑も、自分の子供たちを、自分の手で養い育てる義務から免れる理由にはならない。

読者よ、わたしの言葉を信じてもよい。誰でも子供を持ちながらこれほど神聖な義務を怠る者に予告しておく。その人はいつまでも自分の過失について後悔の涙を流し、しかもけっして慰められはしないだろう。」(『エミール』第一篇)
という箇所などは、ルソーの自責の念があらわれたものでしょう。

つまり『エミール』というのは、正規の教育を受けなかったルソーが、独学で本を読むことで自分の教養を築いていく過程で思い描いた理想と、当時のイエズス会による「不断の監視」をモットーとする厳しい学校教育に対して批判、『人間不平等起源論』などの人間と社会に対する考察、そうして自分が子供に与えることのできなかった理想の教育といったものがこめられている、と考えることができると思います。

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Qルソーの市民的自由と道徳的自由について。

倫理学の勉強をしていて疑問に思ったので質問します。
ルソーの社会契約論で、市民的自由と道徳的自由はほぼ同じものでしょうか?
また市民的自由の中に道徳的自由が含まれているのでしょうか?

Aベストアンサー

ルソーは個別意志と一般意志を区別しました。
個別意志は個人的なもの、私的なもの、それに対して一般意志は集団的なもの、公的なもの。

ルソーはスイスという直接民主制の国に生まれたので、村々で村人が全員集まり、みんなで物事を協議し、討論して、その意見を集約して、物事を決定するのを幼い時から見て知っていました。

スイスでは、この間テレビで見ましたが、村人が全員集まって村の方針を討議し、それで決定しています。
村議会で、村会議員が村人から選出されて間接的に物事を決定している日本などとは大違いでした。
今でも、直接民主制が生きているんですね。

だからルソーのいう道徳的自由というのは個別意志、それに対して市民的自由というのは一般意志のこと。
個人の道徳的自由を集約して一つにまとめること、あたかも一般人という人格がいて、その人格が物事を決定しているものと「擬制」されたものが市民的自由。

当然、その市民的自由の中に、道徳的自由も含まれるけど、道徳的自由がそのまま市民的自由に直結するわけではない。
時には道徳的自由が市民的自由と敵対することもある。
ルソーは狭いスイスの直接民主制を念頭に「社会契約論」を書いたから、その国家の中には家族と国家しかなかったから、家族と国家は同心円を描いて、つながっていたけど、現代の国家は家族と国家の間に「市民社会」というものが存在する。
ヘーゲルは「法の哲学」で、近代社会というものを「家族・市民社会・国家」の三層からなる社会と言い、ルソー・ホッブス・ロックの近代自然法国家論、社会契約説を批判した。
社会契約論者は自然状態があり、そこには自然人がおり、自然権がある、という。
そしてその自然状態では互いに闘争の関係になるから、それを避けたかったら、自然権を一時的に棚上げして国王などの統治者に統治権を委任し、統治してもらうほかはないと言った。
この社会契約説は当時の絶対主義の「王権神授説」、すなわち国王は神から統治権を委任された代理人で、人民を統治する権利を委任されたのだから、統治する正当性がある、と言った、その「王権神授説」を打倒するために持ち出されたイデオロギーであって、実際に社会成立以前に自然状態があり、自然人がいたという歴史的証拠なんてなかった。
現代でも、歴史をさかのぼって、見出されるは氏族制の社会であって、マルクスのいうような原始共同体なんて存在しない。
マルクスの原始共同体が、ユートピアであったのと同じように、ルソーなどの社会契約論者のいう自然状態だとか、自然人というのも単なるフィクション。
事実、後年、ルソーは自分の言った、自然状態とか自然人がフィクションであることを認めていた。
ヘーゲルは社会成立以前に自然人がいる、個人が存在するというのを否定して、人間は社会の中で個人を形成するので、社会・国家がなければ個人もまた存在しないのだと言った。
だいいち、私たちは社会の成員になるのに、いちいち社会と契約なんてしていない。
せいぜい、会社員になるときに会社と締結する雇用契約がある程度。
私たちを社会の一員に加えてください、契約します、と言って契約しているか?
だから社会契約論者のいう契約というのは「擬制」、フィクション。

ルソーは家族と国家の間に、市民社会が存在するのを無視した。
というよりも、スイスという狭い国家を念頭に国家というものを考えたので、社会と国家の区別がつかなかった。
ところが現代の国家はスイスと比べてはるかに規模が大きく、市民社会という経済社会のウエイトが大きい。
市民はいちいち全員が集まって、物事を決定していられない。
働くことが忙しいから、政治は政治家を選出して代議員に代わってやってもらうしかない。
そして代議員は市民の意見を代表しているかと言ったら、必ずしもそうではなく、逆に国家の代理人であることもある。
だから、市民の意向に反することを決定して市民に押し付け、強制することもある。
だから近代国家では、家族と国家が相反する、個人の道徳的自由と国家の市民的自由が対立することがある。
国家には国家の行動原理があり、国家は他の国家と対立しているのだから、市民的自由を犠牲にしなければならないこともある。

今の政治家はポピュリズムと言って、市民の意見に迎合して政治を私的なものに間違えているけど、政治は公的なもの、私的なものじゃないのだから、市民的自由を守るためには市民の、個人の道徳的自由を犠牲にすることもいとわない覚悟が必要。

ルソーは個別意志と一般意志を区別しました。
個別意志は個人的なもの、私的なもの、それに対して一般意志は集団的なもの、公的なもの。

ルソーはスイスという直接民主制の国に生まれたので、村々で村人が全員集まり、みんなで物事を協議し、討論して、その意見を集約して、物事を決定するのを幼い時から見て知っていました。

スイスでは、この間テレビで見ましたが、村人が全員集まって村の方針を討議し、それで決定しています。
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Qルソーの著作の意図、目的

ルソーの社会契約論はのちのフランス革命の思想的な土台となったらしいですが、
ルソー自身がその著作を書いた意図、目的はなんだったのでしょう。

未来の市民革命の土台になることを意識して書いたのでしょうか。
それともただの知的追求心から?自己顕示欲?王政への批判?
ロックなどの先行世代への批判?、、、etc

ちなみにルソーの著作はまだ読んでません。
そのうち時間があれば読みたいのですが、、どうしても気になるので回答ください。
できれば読んだことある方!お願いします(図々しいですがw)

Aベストアンサー

ジツは読んだことがないのですが(友達のヒュームのほうは読みましたが)、回答が無いようですので一応参考になりそうなリンクを。

ルソーの野生の証明 - 質問・相談ならMSN相談箱 http://questionbox.jp.msn.com/qa632015.html

『社会契約論』を読む http://www1.ocn.ne.jp/~aktiv/lectures.2001.4.6.html

Qルソーの社会契約論について

明日提出のレポートでルソーの書いた社会契約論
の感想を書かなくてはいけません。でも何を書けばいいか
分かりません。時間も無い為手も足も出ません。
わかりやすく簡単な言葉でどんなこといっているのか、
どんなことを感想として書けばいいのか
明解な回答をお願いします!!!!!!!

Aベストアンサー

私のうろ覚えの知識でよければ・・・。
 まず、社会契約論とはどういう考えかというところからお話しします。中世、ヨーロッパでは国王の力はそれほど強くなく、有力な貴族たちに支えられてようやく王座を守っている状態でした。しかし、国王の側もそれに甘んじてはいませんでした。国王は次第に有力な貴族を滅ぼしたり、取り込んだりして自分の力を強めていき、国王に権力を集中し、国王こそが国家そのものであるという絶対王政という状態を作り上げました。(フランスのルイ14世がその良い例です)すると、国王がなぜ国王でいられるのか、なぜ、国王が国を統治するのか説明する必要に迫られました。そこで、国王の側は「国王は神様から国を統治する権利を授けられたからだ」と説明しました。これを王権神授説といいます。
 しかし、市民の力が強まり、合理的な考え方が市民の間に広まると、王権神授説は市民に受け入れられなくなっていきます。そして、市民の側は自分達で国王はなぜ国を統治する資格があるのかという問題を考えるようになります。そこで、出てきたのが社会契約説という考え方です。これは大昔、人々が平和に生活するために国王の先祖に国を治める権利を譲ったのだという考え方です。この考えを最初に体系化したのが、イギリスのホッブズです。ホッブズは人間は放っておけば互いに殺し合うものだから、国王に国を統治する権利を譲り、代わりに国民が平和に暮らせるように治安の維持を任せたのだと説きました。(「リバイアサン」)ルソーの「社会契約論」はホッブズの「リバイアサン」をさらにすすめて、市民は良い政治を行ってもらうために国王に国を治める権利を譲ったのだから、もし、国王が市民の望む政治をしなければ、国王をやめさせ、新しい政府を作っても良いと主張しました。ルソーが理想としたのは、故郷、スイスのジュネーブで行われていた共和制でした。当然、当時のフランス王国政府はルソーを弾圧しましたが、ルソーの社会契約論は市民の間で読み継がれ、後のフランス革命を起こす原動力となっていきます。
 以上が、ルソーの社会契約論の内容とその意義ですが、どのような感想を書けばよいでしょうか。まず、このレポートを提出した教官の政治信条について考えましょう。まず、教官が右翼ならば、社会契約論は社会の安定を乱す悪書だとののしりましょう。ただし、こういうことはまれです。多分、教官は左翼か常識的な考えの持ち主であることがほとんどだと思いますので、ルソーの社会契約論によって人類は絶対王政のくびきから解放され、今日民主主義の世の中に生きる事が出来た。その意義たるや、永遠に語り継がれるべきであるといったようなことを書いておけばよいのではないでしょうか。
 なお、余計なことですが、私は大学生のときはレポートは提出期限の最低1週間前には書き終えていました。レポートはなるたけ、早めに準備しましょう。

私のうろ覚えの知識でよければ・・・。
 まず、社会契約論とはどういう考えかというところからお話しします。中世、ヨーロッパでは国王の力はそれほど強くなく、有力な貴族たちに支えられてようやく王座を守っている状態でした。しかし、国王の側もそれに甘んじてはいませんでした。国王は次第に有力な貴族を滅ぼしたり、取り込んだりして自分の力を強めていき、国王に権力を集中し、国王こそが国家そのものであるという絶対王政という状態を作り上げました。(フランスのルイ14世がその良い例です)すると、...続きを読む

Qルソーによるホッブズ批判

質問です。ルソーはホッブズを批判しましたが、その内容についてです。

ルソーのホッブズ批判としては、「自然状態」や「自然法」の解釈の違いが最も重要な点ですよね?それらほど重要でない批判には「ホッブズは社会契約を二重契約だとしていない」などがあると思います。

これらを踏まえて質問ですが、ルソーの「一般意思と主権は不可分だから、主権は譲渡不能である」という理論はホッブズ批判にあたるのでしょうか?
ホッブズは「主権は譲渡不能である」という趣旨のことは言っています。ただホッブズの社会契約の考え方が「コモンウェルスに権利を譲渡する」というものであるため、ルソーのその理論はホッブズ批判にあたるのではないかと悩んでいます。

ルソーのその理論とホッブズの考えが合致しているとするなら、ホッブズの言う「主権」と「社会契約においてコモンウェルスに譲渡される権利」とは異なった概念なのでしょうか?


何か間違って理解していることがあれば指摘してくださるとうれしいです。詳しい方の解答をお待ちしています。

Aベストアンサー

この点に関しては『リヴァイアサン』を見れば明らかだと思います。
第十八章「設立による主権者の諸権利について」を見てください。ここに《コモン-ウェルスを設立する行為とはなにか》として

「ひとつのコモン-ウェルスが、設立されたといわれるのは、人々の群衆の、各人と各人とが、つぎのように協定し信約するばあいである。すなわち、かれらすべての人格を表現(Present)する権利(いいかえれば、代表Reprisentativeとなること)を、多数者が、いかなる人または人々の合議体にあたえるにしても、各人は、かれらのあいあだで平和に生活し、他の人々にたいして保護してもらうために、それに賛成して投票したものも反対して投票したものもひとしく、その人または人々の合議体のすべての行為や判断を、それらがちょうどかれじしんのものであるかのように、権威づける、ということである」(p.37『リヴァイアサン 二』水田洋訳 岩波文庫)
とされています。

代表者は「人々がかれらじしんのあいだで協定して、ある人または人々の合議体に、かれらすべての他人にたいして保護してくれることを信頼して、意志的に服従」(p.35)することによって主権者権力を持つに至ります。
つまり、この代表者に統治を委ねたその瞬間から、主権は譲渡されることになります。
ここで主権者=統治者ということになり、主権を譲渡した人々は「臣民」ということになっていきます。「臣民たちは統治形態を変更しえ」ず、「主権設立にたいして、抗議するものは、だれでも不正義たらざるをえな」くなり、「主権者権力の直接の放置なしには、いかなる授与によっても譲渡されえない」ということが導かれていきます。

それに対してルソーの『ジュネーヴブ草稿』の《主権とは》という項目には、このように書かれています。

「…国家のうちには、国家を支える共同の力が存在するのであり、一般意志はこの力を発揮する。この二つの要素がたがいに働きかけることで、主権が作りだされるのである。だからこそ主権というものはその本性からして法的な人格にほかならないことが理解できよう」(p.335『社会契約論/ジュネーヴ草稿』光文社 中山元訳)

つまり、ルソーの言う主権とは「共同体の利益と存続を目的として一般意志が行使されること」(同 p.497「解説」より)ということなのです。

すなわち「主権が譲渡されえない」のは、そもそも「意志」が譲渡することができないからです。
第二に「意志」というのは「人民全体の意志であるか、人民の一部の意志にすぎないか」というものであり、「人民の一部の意志」は「一般意志」とは呼べず、このことから「主権」は分割されえない。
そこから「一般意志は代表されえないという第三の特徴が生まれる」(p.498)

つまり、ルソーの主権概念は、ホッブズに真っ向から否をとなえたものと言えるでしょう。
すでにご存じかとおもいますが、そもそもルソーはホッブズの『リヴァイアサン』を読みに読み、そのうえでホッブズがうち立てた自然法学を批判し、作り直すことによって、『人間不平等起源論』を書いていきました。その意味で、ホッブズの「鍵概念」はルソーによってことごとく「批判的継承」されていっている、といっても過言ではないかと思います。

なお、文中にも引用しましたが『社会契約論』巻末の中山元氏の解説は、「一般意志」を大変わかりやすく解き明かしてあります。もし未読でしたら、ぜひご一読を。

この点に関しては『リヴァイアサン』を見れば明らかだと思います。
第十八章「設立による主権者の諸権利について」を見てください。ここに《コモン-ウェルスを設立する行為とはなにか》として

「ひとつのコモン-ウェルスが、設立されたといわれるのは、人々の群衆の、各人と各人とが、つぎのように協定し信約するばあいである。すなわち、かれらすべての人格を表現(Present)する権利(いいかえれば、代表Reprisentativeとなること)を、多数者が、いかなる人または人々の合議体にあたえるにしても、各人は、か...続きを読む

Qルソーの社会契約論

ルソーの社会契約論の中で道徳的自由という言葉が出てきますが、「一般意思に従うことによって道徳的自由を得ることが出来る」というのはどういうことなんでしょう?

Aベストアンサー

>For to be driven by appetite alone is slavery, and obedience to the law one has prescribed for oneself is liberty.

ここでは「本能にのみつき動かされる状態は奴隷に等しく、法に従うことは人はみずからを自由にする」って言ってますよね。ここでの法というのはmoralとほぼ同義と理解していい(結構あらっぽく説明していますので、理解の道筋ぐらいに受け取ってくださいね)。

> 道徳的自由とは、つまり共同体が持つ自由、例えば自然状態には存在しなかった「正義、理性、道徳、所有」などによって生じる利点、例えば法律によって他人に自分の権利を侵害させないことなど、と考えていいのでしょうか?

これはちょっとちがう。これはどっちかっていうと、ロックの考えた社会契約に近いです。
ルソーの場合は共同体に対して個人の自由を全面的に譲渡するのです。共同体に属する人々が一人残らず自分の身体と自分の権利を譲渡する。そうすることによって、人は平等になり、団結するようになる。さらに、全員が譲渡することによって、譲渡していないのと実質的には同じことになる(これ、ちょっとわかりにくいかもしれないけど、囚人のジレンマって知ってる?あれを思い浮かべてみてください)。
ここにおいて、共同体=個人となっていく。このように、個人の利益や権利や喜びを全面的に譲渡した結果、共同体の利益が自らの利益、共同体の権利が自らの権利、共同体の喜びが自らの喜びとなる。


> 「自分の欲求のみに従うことは奴隷状態」(自然状態)となっていますが、自らの欲求に縛られている限り自由ではありえない、ということなんでしょうか?

そういうことです。この考え方っていうのは、いまのわたしたちにはちょっとわかりにくいんだけど、ヨーロッパでは伝統的な考え方です。

つまりね、すごく単純化して言うと、動物と人間はどうちがうか。
動物は本能に縛られている(自由がない)。人間は理性によって本能を抑えることができる(自由がある)っていう考え方なわけ。
自由っていうのは、いまのわたしたちだと、たとえば規則からの自由とか、抑圧からの自由とかみたいに考えるでしょ、だけどそうじゃなくて、何よりも、「本能からの自由」っていうことだった。だから、「規則に従って理性的に生きることが自由」という発想が生まれてくるわけ。これは結構押さえておかなきゃならないところです。


> ルソーは「一般意思はこれだ」という正しい答えは一つだけ、のようなことを言っているようなんですが、その一般意思の真偽性は、人数が多いほど、個人が考える「一般意思はこれだ」という全会一致はありえませんよね?

そうですね。
まず、個々人の意志の単なる寄せ集めと一般意志をルソーは分けて考えてるのはいいですね。
一般意志っていうのは、個人が個人として考えているのでは、決して生み出すことができない。そこで、共同体の一員は、誤りのないような一般意志が生み出せるような市民となっていくことが求められるんです。
そこからルソーは教育の必要性ということを考えていきます。
なんかここらへん、おお、啓蒙思想っていう感じですが。

なんとなく話が見えてきました?

>For to be driven by appetite alone is slavery, and obedience to the law one has prescribed for oneself is liberty.

ここでは「本能にのみつき動かされる状態は奴隷に等しく、法に従うことは人はみずからを自由にする」って言ってますよね。ここでの法というのはmoralとほぼ同義と理解していい(結構あらっぽく説明していますので、理解の道筋ぐらいに受け取ってくださいね)。

> 道徳的自由とは、つまり共同体が持つ自由、例えば自然状態には存在しなかった「正義、理性、道徳、所有」などによって...続きを読む

Q・ルソーが子供の死に対して「子供が死んだら・・また、子供をつくればいい。」といったのでしょうか?

私の娘の短大の先生の回答で著名な人の「死」に対する考えで・・ルソーが子供の死に対して「子供が死んだら・・また、子供をつくればいい。」と述べたと・・ときいて娘は驚いたそうです。

本当に、ルソーが子供の死に対して「子供が死んだら・・また、子供をつくればいい。」といつたのでしょうか?
教えてください。

Aベストアンサー

 言ったと思います。ルソーに限らず、知識人であれば誰でも、取り返し
のつかない状態になった者に、それを何とか取り返すように、或いはその
状態を誤魔化す為の思弁を用いて説得したりはしないと思われるからです。

 言ってないとは思われません。彼は言葉を話す事ができましたから。

Q唯○論を教えて下さい。唯心論,唯物論,唯識論…他にありますか?

この他にこの唯○論の○にあてはまる言葉があったら教えて下さい。あと私が思いついたのは、養老孟司の唯脳論です。

パロディ的な面白い言葉もあった気がしますが、思い出せません。おふざけな言葉でもいいので教えて下さい。哲学や思想には、他に唯○論がありますか?

Aベストアンサー

唯理論(理性論、合理主義:真の認識は、
    経験から独立した確実な理性的な、
    数学をモデルにしたような根本原理)

というのもあります。
今調べて知ったのですけどね。

唯霊論とか唯金論、とかあっても良さそうです。

唯不倫…。あるにはあるようです。


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