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言葉で「斬る」という表現があるように、しばしば言葉は武器だと言われます。なるほど論理的に冴えている言葉は冷ややかで、刃物に喩えるのが相応しいと思えます。それでは仮に言葉とは、刀のような武器だとしてみましょう。しかし、言葉を発することが、すなわち抜き身の刀を振りかざすことであって、相手を傷つけるかもしれないとは、恐ろしいことです。そこでこの比喩を出発点に、僕が考えてみた疑問は次のものです。

(1)武器を持ち歩くからには、近世の武士のように刀を管理するモラルのようなもの、さしずめ言葉の武士道のようなものがあるのか。それがあるからこそ、皆は言葉という武器を持ち歩いていても、平然としていられるのか。
(2)よりよく斬れる刀と、あまり斬れない刀の差はどこにあるのか。鋭利な刃物である言葉は、そもそも何を斬っているのか。自分の言葉は斬れる方がいいと思うか。
(3)ラヴ・レターの言葉や慰めの優しい言葉は、本当は何か悪しきモノを断ち切っているからこそ、逆説的に心に響いてくるものなのか。あるいは優しい言葉が存在するということは、言葉が常に武器ではないことの証拠となるものなのか。

特に(3)の問いについていえば、言葉の作用の仕方はケース・バイ・ケースだと言ってしまえばそれまでですし、この設問は比喩を過剰にした遊戯なのです。ですから投稿者の方が遊びにのって下さらないと、簡単に破綻する緩い設定の質問なのです。しかし遊びから出発して、言葉の作用する性質の一端を知ることもできるかもしれません。皆さんのお考えを聞かせてください。

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A 回答 (16件中1~10件)

言語とは、空気の振動パターン、ないし画面の濃淡パターンに過ぎない。


その記号パターンによって、相互の中に共通の概念を想起させるものだ。
そんなもので何ひとつ切れはしない。
(「言葉で切る」のは話し相手ではなく言葉で表現している対象)
それで傷つくのは、自我が未完成で他人の評価に依存して自我の安定を図っている人間だけだ(子供に「バーカ!」と言われて腹立つか?)。
思想(物事の評価)を志す者であれば、自己を最もよく知るのは自身であって、批判者の評価が不当に低い場合は、その相手の認識力の低さ&言葉で攻撃する事が意味を持つと思っている=当人が他人の評価に依存している、という二重の意味で相手のレベルの低さを表明しているに過ぎない。

そもそも、相手に意味を伝えようとする時、相手を批判する必要はなく、自己の考えの正当性を表現すれば済むはずである。
そうした「表現」すべき中身のない人間が、相手を批判する事で自分を上に置こうとするのであって。
つまり、言葉で切り合うというのはレベルに低い者同士においてのみ成り立つ幻想であり、剣の達人が「活人剣」を口にするように、攻撃する言葉は無力で、活かそうとする言葉のみが相手を動かし得るのだ(物理的に屈服させる事が相手が心を動かされた事ではない)。

「活かそうとする」というのは、決して相手にとって分かりやすいという意味ではない。
「分かりやすい」というのは、相手が何の努力もせずに受け入れられる事を意味し、そのような惰性において力を持つ(=相手を動かす)はずがない。
そもそも、言語は「記号パターンによって相互の中に共通の概念を想起させる」=ある程度共通の概念を共有していなければ、どんなに分かりやすい概念も『わけのわからない事を言っている』としか思えないものだ。
それを「より分かりやすくしよう」などと、日常の言語に置き換えても、そうしたものは意味が不正確で、相手の惰性的概念による曲解を許すだけだ。

ただ可能なのは、予め似た概念を共有している、あるいはその方向への好奇心を有している人間に、昇るためのロープを垂らすだけだ。
せめてクモの糸のように切れやすい(曲解しやすい)ものではない、厳密化されたロープを。
ただし、カンダタのケースと違うのは、ロープが切れても、落ちるのは地獄ではなく“認識を深めずとも他律的に活かされる楽チンな極楽”であり、昇る先は“そうした惰性的な社会の中で自律的に生きるために考え続け自己を律し続ける地獄(のような天国=登山は険しいほど喜びが大きい)”だという事だ。
ゆえに、強制すべき(切る)ものではなく、当人の状態における最大充足の可能性の選択に過ぎない。

この回答への補足

【締めるにあたって】
皆さま、どうもありがとうございました。武士道についてですが、「電光石火の如し」と武蔵に喩えてくださる回答がありました。これは、言葉のある一面を鋭くとらえています。言葉はその力を制御しないと、本当に、電光石火のごとく、隙を見て相手を叩き斬ってしまいます。
なるほど、これもこれで、一つの生き方として人を魅了するに足るほど、爽快なのですし、弱肉強食は現実の一面なのです。とある高名な教授が、バッタバッタと論敵を斬りまくっていく姿は、ショーとしては見ものでした。「明快でないものは存在しないも同じことだ!隙あり!トゥ!」と刀を振るうのはさながら時代劇。しかしこれでいいのだろうかという疑問はあったのです。それではコミュニケーションにならんではないだろうか、と。
というのも、高みに達した人にしてみたら、その下の人と会話する必要など本来はないのです。からかうとか、「おまえなど話すに値しない」と蹴落とすばかりでしょう。上記の教授は、斬り捨て御免とやってみせていますが、要は相手を蹴落としているのです。僕も実生活では、そんなところがあるのです。「ん?おまえの言っていることは、~~という点で不備があるぞ。そんなの議論に値しない。出直してこい」と(丁寧な言葉で)言ったりします。

しかし、傷つけるのなら蹴落とすのではなく、黙って無視していた方が、親切というものです。そして会話する以上は、僕とて楽しくやりたいので、斬り捨てるのはストレスになってきます。そして誰にでも、目上の方もいるのです。僕はもちろんのこと、その電光石火の刀を振るった教授の上にも、更なる遣い手がいるのです。上の相手に勝とうと思えば、必殺の居合抜きとばかりに、虚を突いて、出来ないことはありません。しかし、ただの殺戮なら、敵を作るばかりで、いっそ会話しない方が処世術として優れているのです。
僕の糸を丁寧に察してくださったのだと思いますが、柳生の活人剣の例を出してくださった方がいました。まさに、言葉が刀であるのなら、それが理想です。しかし慢心に陥ったりすると、電光石火をやってしまいます。

もともとこの設問は、極端な喩えをしていたのです。ルール(武士道)があって振るう刀というものを僕は想定したのですが、ルールということを重くみれば、喩えは実は刀ではなくてよいかもしれないなとは思っていました。むしろ包丁であるというたとえが出たのは、僕の設問を尊重してくださったからでしょう。他には、次のものです。
・ピストル、ロープ
・救命の縄
・料理道具の包丁
・夢

こうした言葉へのイメージは、普段、その方がどこで言葉を磨いてらっしゃるかによりけりだと思います。そのどれも、その方の言葉の使い方の含蓄があって、優劣をつけることのできるものではないと思います。しかし自分の言葉の使い方を、惜しげも無く率直に伝えてくださったという意味で感動したので、psytexさんの回答を選びました。
なるほど、psytexさんの投稿は、他の方の設問欄でも拝読したのですが、難解で、揶揄されることもあるようです。しかし地獄へ垂らす蜘蛛の糸のごとく、強靭な綱でありたいとは、恐れ入りました。これは人間にできることを超えようとしているともいえ、その是非を問う意見もあるかもしれません。所詮人間が垂らすことのできる糸は、蜘蛛の糸より弱い程度のものなのではないか、とも。この点はまた設問を改めて議論することがあるかもしれませんが、しかし、実践から語ってくださったという意味で、僕には一番説得力をもっているように思われたのです。

最後に自分のことを書きますが、僕としては、言葉を紡いでできるものは布だというイメージがありました。文章のまとまりを意味するtexteという西洋語の語源は、布なのだそうです。おとぎ話の冒頭、よく糸巻き車が出てきますね。運命の神が紡ぐことで、物語が出来上がっていくというイメージです。テクストの語源は、この場合、ただの連想ゲームの小道具に過ぎませんが、僕は次のように空想しているのです。
言葉という布を身体にぴたりと合った形でまとえば、自らのシルエットを際立たせることができ、自己表現ができます(鋭い言葉)。あるいは、だぼだぼに覆って、自らの姿を欺くこともできます(嘘の言葉、あるいは鈍い言葉)。
ガーゼのように優しい肌触りの布を傷口に当てれば、出血を止めるでしょう(慰めの言葉)。また分厚く作った布をねじって、綱にすれば、救命にも使える(導く言葉)。絹のようにはかなく作った布を身にまとっておけば、誘惑もできるでしょう(セクシーな口説き文句)。あるいはこの布が適度な厚みなら、お互いのプライベート空間を作るためのカーテンにもなるでしょう(線引きする言葉)。
逆に、重たい布を相手に覆いかぶせて、窮屈な気持ちにすることもできます(決めつける言葉)。更には、布を使ってグイグイと首を締めあげることもできます(批判する言葉)。足元にピンと縄状にした布を張って待ち伏せして、罠を作ることもできる(意地悪な言葉)。
他の使い方もあります。布をはためかせれば闘牛のようなことができ(挑発の言葉)、掲げれば標識になる(宣言やマニフェスト)。弾幕のような布をバシッと落とせば、話を切り上げられる……などなど。
連想はいくらでも膨らみますが、これ以上はポンジュを真似したような下手な詩になりますし、僕の言わんとすることの要領は伝わったと思いますから、そろそろやめにします。しかしこうやって比喩を列挙して行くと、何か言葉の可能性が広がっていく気がして楽しくならないでしょうか。

補足日時:2011/05/15 05:42
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この回答へのお礼

戯言につきあってくださり、感謝いたします。他の回答者から、言葉は鋭利だとしても、包丁のような道具で、料理に使うようなイメージじゃないかという比喩が提案されました。これはpsytexさんのお考えとも矛盾しないでしょう。刃物である言葉は、対話の相手を傷つけているのではなく、議題に上がっているテーマに細工をしているに過ぎないということですから。見事な細工の施された品を見て衝撃を受けるのは、確かに自分の力量を恥じいった未熟者に違いありません。子供は放っておくに限ります。

しかし言葉とは、地獄に垂らされた救命のロープと喩えてみせるあたりが、さすがにpsytexさんです。この比喩にOKWaveに参加してらっしゃるpsytexさんのお気持ちをみたような気持ちです。「おまえごときが」といって、足で下を蹴り落とすということをせず、鷹揚に糸を垂らす。しかしその糸は登るのが難しく、当人の意志と努力が無ければならない。あるいは素養が無ければならない。しかし、この糸を登れば、救いの地まで導けるという確固たるお気持ちがあるということに、恐れ入りました。

ロープが切れて落ちる先をpsytexさんは謙虚に、何も考えないでよい他律の極楽とおっしゃるが、やはりそれは地獄というべきでしょう。眠りを覚まされたことを恨むのは思春期の青年くらいです。考えに考えるしかなく、思考を徹底的に追求するしかないと思えます。その道を示す糸は、なるほど強固なモノでなければならず、直ぐに断ち切れてはならないでしょう。とはいえ、僕の糸は随分と気楽なものです。「束の間、まぁ楽しくやろうじゃないの」というのですから。この設問は、地獄で頭を休めるための遊具の一つなのです。敢えて縄という比喩にのるのなら、あやとりのようなものです。投稿者の回答に応じて、形が変わるのですから。

お礼日時:2011/05/14 09:46

#13の続きの追記をさせて下さい。



宮本武蔵と同時代を生きた柳生兵庫助(柳生新陰流)の「活人剣」の発想もが重要でしょう。

柳生新陰流の「活人剣」は、反撃のタイミングを合わせる為に、相手の自由意志を尊重して、相手が「先手」を出しやすい状況を提供してあげていますね。
http://legal-economic.blog.ocn.ne.jp/umemura/200 …
http://www.kitensha.co.jp/column/column1.html

対話の効果を高める場合にも、こういう配慮の適用が望ましいのではないでしょうか?
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この回答へのお礼

ありがとうございます。柳生は武蔵に剣の極意を訪ねて、武蔵が「電光石火の如し」と答えたら、「修行が足りませぬな」と応じたという逸話があると聞きます。僕も他の方の活人剣という言葉を出しましたが、最初に、これが僕の念頭にあったのです。だから広義の「武士道」と書いたのでした。ソクラテスの産婆術など、鋭い言葉で応答しながら、相手を育てているわけで、活人剣の好例と思います。

お礼日時:2011/05/14 22:39

>つまり料理の素材とは何ですか? 美味しい料理の例や、レシピがあったら、教えてください。



料理の素材とは気持ちです。心とか、想いに置き換えてくださっても良いでしょう。美味しい料理の例は、とある遍歴の詩人の詩の一説であったり、あるいは名も通らぬ賢聖の一言であったり、身近な友人の語るさりげない一言であったり、それが、聞いた人にとってどこか心の休まるような、清まるような、あるいは温かくなるような、爽やかになるような、そういう素晴らしい味のするようなフレーズが、たとえば良い料理です。なかでも本音がでているものは、最高だと思います。活き活きした素材(=本心)から生み出される言葉が、私は程よく調理されたものとして、美味しい料理に相当するものと考えます。この場合の言葉は、放たれたものが料理ならば、内面で働いた言語作用が包丁と言うことになります。

美味しいレシピ(=調理手法)は、ずばりおもいやりのようなものでしょうか。だれかが凹んでいるときには励みになるような言葉が、だれかか浮いているときには落ち着きを取り戻せるような言葉が良いのではないかと思います。どうすればそれが作れるようになるのか、それは、相手の事を本当に大切に想うこと(もちろん自分の事もですが)、だと思います。

また、真実を求める人々の間では真実の言葉がもっとも素晴らしいとされますし、親しい間柄であれば本音が大事ですし、社交の場のようであればユーモアなんかが重宝されるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。おっしゃる通りですね。もう少し議論を前に進めさせていただきますが、たとえば悲惨な出来事を前に嘆いて見せるのは、誰にでもあるいはできるかもしれません。鋭利に描写しようと、簡潔にまとめようと、結局、似たようなことは誰でも鍛錬すれば出来るのです。しかし、そこでクスリと笑わせて、緊張をほぐすのは、誰にでも出来ることではありません。それはその人の気持ちが出ているからです。

もちろん、どんな味の料理が適当かは、時と場合によります。悲しんでいる人には、優しさや、笑いが必要でしょう。退屈している人には、挑発もまた面白い遊びの材料かもしれません。様々です。しかし、のろのろしている会議に限っては、エイッとばかりに終わらせてくれる議論がありがたい時もあるものです。やり過ぎるとファシストという渾名を頂戴してしまいますが。

お若いようですが、回答者様は、どんな料理を他人に出せる方をめざしてらっしゃるのでしょうね。おそらく真や善に関係するものでしょうね。No3の答えが秀逸なので、よかったら読んでみてください。

お礼日時:2011/05/14 22:33

言葉は夢(イマージュ)ですね。



良い夢も悪夢もありますけれど、
実態のない現象が成立しているだけのものですから。
文にして未来に託せても、未練や執着が残せるのみ。

平安の歌姫、和泉式部さんの初恋の人(弾正宮為尊さん)は、
「これもあなたを想うからこそ」といきなり姿を現し口付けをして去っていきました。

その後式部さんはさぞや愛欲に苦しみます(照笑)
年月が流れ、再開したとき、和泉式部さんが「あなたの歌を下さい」と願ったら
「私は言葉を信じていない」といいました。(漫画:「恋ひうた」より)

信じてなくてもリアルはイマージュを変えてしまえますね。

いくら「好きです、あなたが必要です、大切にします」とおもてなしされるより
嘘のつけない本能で示してくれることがよりリアル。
そんなリアルを愚かとかゲズいいますが、言葉よりも体は正直なんですから。

「宮様が本当に酷いお人ならこんなに苦しまずにすんだのに。」←わかる!
言葉をくれなくてもいい人は苦しいです。

人間らしさには言葉によっての夢や憧れあれば、
それを信じることで儚き世を生きる勇気に変えられる。
勇気を貰わねば、無力と思えてしまう。卑しくなってしまう。

言葉を捧げずとも、大切になってしまった人と
ありのままを認め合えたら「極み」。
もうそう感じたらそこが極楽浄土、天国かもと。

武士道の誠や心技体と方向が違うやうな、そうでもあるやうな。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。ロマンチストですね。楽しい気分になりました。僕は古典の漫画はあまり読まなかったのですが(というのも少女マンガだと思って敬遠した)、有名どころの「あさきゆめみし」などを一気読みした時のような感覚が蘇りました。

>文にして未来に託せても、未練や執着が残せるのみ。

特にこの一節は、古典の才媛の、激しい世界観がよく出ています。男性にはいえない言葉ではないかとさえ、思われたものです。

確かに僕は言葉で、無理やり、どうしても落とすということはできないと思います。うまくいくときはうまくいくし、ダメな時はダメです。言葉が鋭利だからと言って、それを相手の喉元につきつけるのでは脅迫に過ぎない(それで落ちる人もたまにいる)。自分の胸に当ててみて、僕は不幸だと叫んで同情を引いても失笑されるだけ。

とはいえ、僕は次のように思うのです。恋愛とは、行きつく先はどれも同じでしょう。惹かれ合っている者同士は、黙っていても、そのまま結びついていく。であるとすれば、より趣のある形で結びついた方が、人生、より豊かだと思うのです。僕は若いわけですが、もっと若い時は、気の赴くままの愛で幸せなものでした。でも今は、その過程を楽しむ歳になったと思えます。告白する時は言葉は要らないかもしれません。でも関係が悪化した時に、言葉でバランスをとって、シーソーゲームをしているのではないですか。

お礼日時:2011/05/14 22:13

切れ味が良い「名言」は的確なタイミングで放たれているのではないでしょうか?



現代の大道芸的な居合抜きの場合には、刃物の切れ味を見せ付け合う要素が増えてしまっていますが、本来的な居合いはそういう技術と違っていました。寧ろ、不利な状況の下での逆転劇の為に、極力、刀剣を鞘から抜く前兆を敵に気付かせない様にするべく、刀剣を鞘から抜かずに耐えて待つ、という事が、居合いの極意になっていたそうです。

そして、それと同じ様に、様々な分野の名人の方々が語られる「名言」はたとえ短くとも、そのタイミング迄に蓄えられてきた情熱の御蔭で、鋭い威力を発揮する、という場合が有る、と思います。
http://kandoumeigen.seesaa.net/article/96085692. …

従いまして、「極意」との縁が薄い私が語らせて頂くべきではないかも知れませんが、発話の場合にも聞き手の方々へ上手く伝わるタイミングの見極めの技量が必要になるのでしょう。
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この回答へのお礼

おっしゃる通り、間合いを測って詰めて、一気に刀を抜くのが賢いですね。バルザックの『ゴリオ爺さん』は、青年の立身出世の始まりを描く物語という側面を持ちますが、ここで男爵夫人がツバメになった青年に教えたのは、「言葉は短く、刺すように」でした。話せば話すほど、攻撃される材料が増えるし、また短い方が心に鮮やかな効果を残すことができるからです。箴言を放つのが社交の妙だということでした。

お礼日時:2011/05/14 08:50

武士道とは目的(藩主に対する)で刀は手段でしょう。


大義名分がなければ、他人を殺めればただの犯罪者でしょう。
今でいえば条例や会社組織や一般的常識だと思います。
90歳のご婦人からラブレターもらっても・・・、人事担当から慰めの言葉をもらっても・・・
要は使われようでしょう。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。確かに叩き斬る場合は、大義名分が必要ですね。いいご指摘を頂きました。しかしそれは「自分が生きていくためである」「家族を養うためである」という程度ではダメでしょうか。
それと僕ならば90歳の御婦人から恋文を貰ったら嬉しいし、人事から慰めの言葉を貰ったら、怒り心頭していたのがやわらぐかもしれません。たとえば僕の友達は人事から直接電話を貰って「不採用ですが、大変な力をお持ちなので、わが社のような辺鄙なところではなく、もっと有力な企業で力を発揮していただきたい」と人事部長に言われたと喜んでいました……これは嘘も方便ということなのか、事実なのか、わかりませんが。

お礼日時:2011/05/14 08:45

 この質問文を、文章という形での言葉ではなく、会話における言葉として取り上げていると、受け止めての私の回答であった事に、気づかされました。



 質問No.3はラヴ・レターと、文章としての言葉を取り上げていますが、これについても会話的状況を想定しての考えでした。

 テレビの映像からだけですが、イタリア人男性の女性を口説くセリフの見事な事には、恐れ入ったことを思い出します。
 また、日本人に目を向けては、夫婦間の愛情表現を想定しての事でした。

 そう気づくと、文章としての「武器」、会話としての「武器」なんて考えてみてもいいかな、なんて思いました。

 
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この回答へのお礼

補足の投稿、ありがとうございます。話し言葉も、書き言葉も、その心は同じだと僕は思います。どうぞお思いの言葉の姿を、何かになぞらえて、教えてください。包丁の他、ロープというご意見もありました。

イタリア人の告白はすごいですね。僕が出会ったのはイタリア系の移民の方ですが、僕は恋人ではない女性とレストランで食事したら、席を外したすきに、イタリア人の御主人が詩を暗唱してナンパしていました。「僕はこの世を旅して、美しいものを眺めてきた。でも君ほど美しい人はいない」という風に言葉の花束を贈っていたのです。

レストランの御主人はもう五十も半ばで、太っていて、髪も薄いのです。色男ではありません。正気かと思ったのですが、ご主人が僕に耳打ちして曰く、「うまくやれよ」というのです。僕がまごまごしていると思って、背中を押してくれたつもりかもしれません。うーむ、そういう相手ではないのだと思いながら、そのレストランはよく使うようにしています。

お礼日時:2011/05/14 10:06

#9さんの



> 日本人であれば、了解出来る心理かと思いますが、西洋人はどうもそうではないらしく、したがって言葉のテクニックの秀逸であることは、日本人は足元にも及ばない、と思えます。

んにゃにゃ。和歌で表現する情熱は西洋人のくだくだした駄言なんて足の爪の垢程もない。恋の歌か人をおちょくった歌かどうかは解釈する人によって違うだろうが

 柔肌の熱き血潮に触れもせで 淋しからずや道を説く君

情熱的だね。恋の歌に限ってもこんなんがゴロゴロしている。

また、子曰く、じゃなかった、モンテーニュ曰く、

 男女の関係は初めて手を握るときが最も興奮するときである

ちってたね。毛唐どもも言葉じゃないらしいよ。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。そうですね、歴史を通じてみれば、西欧も日本も、どちらが特殊ということはないでしょう。が、恋において、僕は言葉が大切な要素だと思います。というのも、歌が平安の公達の告白の方法であったことは御存じでしょう。

あれは非常に面白いと僕は思います。というのも、見知らぬ相手に、西欧人なら長い手紙を書きそうなものです。しかし名文家が書いたならともかく、普通の人の思い煩う文言なら読む方は大変だ。
ところが日本の公達となれば、選りすぐった紙に、鍛錬した字で、三十一文字書きつけるだけに留める。紙の材質でその人の経済状況がわかるし、字で教養がわかる。内容で心がわかる。相手への配慮としても、見事だと思います。

――とはいえ、僕のところでは、「毛唐」はやめてくださいね。明鏡国語辞典を引くまでもなく、差別用語ですから。ジャップと言っているのと同じことで、楽しい話も、楽しくなくなります。そんなにアメリカで御苦労なさったのかと、お察しもいたしますが……。

お礼日時:2011/05/14 07:33

 kusa-muraさんに回答?できる喜びを感じながら。



 解答No.5が私にとっては、はすばらしい!
 と、言っても捕捉してみたい気分もあります。
 そこで、
 
 言葉は使い方次第、という視点から
 質問(1)は、普通の人であるならば言葉が人を傷つけることを知っているので、自身の使う言葉には注意しようと思い、その思いゆえ日常の生活における“言葉”を「鞘」に収め、物事を穏便にしていこう(平然としていられる)とするのでしょう。でもこれは武士道とは言いませんね。

 質問(2)で、木造さんは「俗人は切れる言葉を持っていた方が良い」と云う意見をのべてますがそれは、俗人の言葉は鈍なる刃物だと思うので、その鈍なる「刃物」は振り回さぬ方が良いという考えでもあるかと思います。

 質問No.(3)については、優しい言葉も武器として使える、と思います。
 また、木造さんが「愛さえあれば言葉はいらない」なんちゅうのは・・・・・については、「以心伝心」という文句をかざしてみたく思います。

 「恋」と云うものは出会った瞬間に芽生えることもしばしば。
 そこに言葉の介入はありません。 
 その世界の中の「愛情」の伝達は以心伝心、と言える状況もあり得ます。
 日本人であれば、了解出来る心理かと思いますが、西洋人はどうもそうではないらしく、したがって言葉のテクニックの秀逸であることは、日本人は足元にも及ばない、と思えます。

 西洋人の「以心伝心」は日本人に比べて希薄なのかも。だから言葉に依存するのだと思いますが、「以心伝心」が“あたりまえ”の日本人は愛(恋)に言葉は必要不可欠なものではないのかも知れません。

 この質問は、「斬る」から“武士道”なるものを関連付けたようですが、それにこだわるとかえって、答えが出しにくくなるかもしれません。
 だから自然と武士道を意識しない“回答”になってしまいました。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。問いを作る時は、わざと極端にやった方が、面白いこともあるので、斬るということにこだわっています(というわけで遊戯です)。しかしマナー違反をしない限りは、存分に遊んでくださって構わないので、僕の問いでは、本題から逸脱しても構いませんよ。

たとえば回答者様は、言葉を何に喩えますか。これまで武器以外では、料理という例が出ました。僕は中々、よいと思います。確かに相手の実際の料理を食べると、その人がどんな人か、よくわかります。ソースで誤魔化す人なのか、それとも素材の味をちゃんと引き出せる人なのか。言葉に置き換えると、虚飾を重んじる人なのか、実がある人なのか、とも思えます。

恋については、寛平のあたりの短歌など考えてみたら、幅が広がらないでしょうか。顔も知らない、噂しか知らない姫君に歌を送って、愛を打ち明けたわけです。こうした時に言葉が鋭利な刃物というのは無粋かもしれません。贈り物である言葉なら、さながら花に喩えたいものです。その方がお好みに合うのなら、どうぞそう論じて投稿してください。

No5のお礼欄でも書きましたが、言葉のイメージは、投稿者の方が、どこで言葉を振るっているかが、出てしまうと思います。僕といえば、……(それは当ててみてもらった方が面白いですね)。

お礼日時:2011/05/14 07:19

1)やはり気をつけて言葉は用いるべきでしょう。

そうでないと人や自分を傷つけてしまうから。しかも想いを伝える大事なものであるから、必需品だと思っている。誰もそれで人を斬ろうなんて思っていないとおもいます。料理人の刃物が料理するものであり人を傷つけるものではないようなものです。だから言葉を使うことにおびえたりはしない。

2)鋭い切り口と言うように、目を見張るような観点や、鮮やかな説得力とか、そういったことが切れ味に相当する事柄であるように思います。刃の通りが悪いと、途中で引っかかったり、貫通することができずに味気の悪い仕上がりになるのではないかと思います。的を外していたり、意味不明であったり・・・
切れ味は、歯切れのよさとは関係なく、放たれた言葉が真を突いているかどうかだと思います。その意味で、言葉は斬れる方がよく、自分の言葉も、使いこなせるならば斬れる方が良いのでしょう。自分の場合も、斬れる方が良いと思いますが、適切に使いこなさないと危ないので、自信が持てるようになってから、というのが答えかもしれません。

3)愛の告白ややさしい言葉は、余計なものをそぎ落として大事なものだけを抽出しているので、それはいわば調理済みの想いなのではないかと思います。悪しきものを断ち切っているとも言えますし、角を落としてまるく仕上げてあるといっても良いかもしれません。言葉が武器になるかどうかは、武器として使っていれば武器になるし、道具として使っていれば道具になるのだと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。言葉は鋭利な性質をもつには違いないが、包丁のように料理するもので、人間を斬るものではないというわけですね。そのお考えには、賛成です。
しかし様々な意見を聞きたいので、敢えて質問させていただくと、では、その包丁は何を切っているのですか。つまり料理の素材とは何ですか? 美味しい料理の例や、レシピがあったら、教えてください。

お礼日時:2011/05/14 07:02

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