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 同じおもむきの質問をしたことがあります。ふたたびみたび問いたいと思います。

 ひとつには けっきょく世界との和解にかかわっているものと考えます。
 言いかえると おのれの存在について心からやわらいでいるかどうか にかかわるであろうと。

 その意味は こうです。
 人は 人のあやまちを赦すことも赦さないことも出来ない。
 分かりやすく言えば 赦す資格も能力も じつは人は持ち合わせていないのだ。ということは 赦さない能力も資格もまったくない。

 では あやまちをこうむった人間に出来ることは何か?
 そのあやまちについて あやまちであることを経験合理性にもとづき説明し そのマチガイをその人に おこなってはいけないと伝える。すべての行為は 自由であるが 人に迷惑をかけることは 自由ではないと。
 つまり 哲学として批判をすること。および 必要ならば 法律にうったえるということ。
 ここまでしか われわれは為すすべは持たない。のではないか?

 こういう問いです。
 さらに この主題の内実が明らかにされて行くことをのぞみます。ふるってご回答をお寄せください。

 * 批判を伝えたあとは――人間存在としての関係は どこまでもありましょうが―― まじわりという意味での関係は もはや基本的にその相手の人とはなくなるということ。それが《赦すことも赦さないことも出来ない》の意味です。
 というのも 人は おのれのあやまちについては 一日二日経てばもうけろっとして忘れてしまっていると思われるからです。自分に対しては ほどなく赦しているというのが 世間の相場であろうと思われるからです。
 どうでしょう?

A 回答 (11件中11~11件)

>あやまち



ってなんでしょうね。
単なるうっかりミス:AがBに対する過失 である場合

他人Aの過失でBがフグになった場合、法律に訴えてBはAから保障金をぶったくる。世間的にはそれで一件落着?

もちろんAはBに誠意を尽くして謝り、Bはそれを評価するかどうかは自由であり、分からないにしても、
その前にBはAを批判し、その不注意ぶりを非難し、怒る、そういう経緯は前後するかもしれませんが、
現代の法律的倫理ではそれ以上のことは出来ない。
目には目を、とかいうことは、敵討ちのようなことは法律が許さない(Bの辛さです)。
これは確かですが、

ブラジュロン様はその先を問うておられるのでしょうね。

AがBに対して”赦して欲しい”なにもなかったことにして欲しい、と思っていることは間違いないでしょう。”保障金を払ったんだから、それは当然ではないか”と思っているかもしれません。
しかし、B がフグになったことは確かであり、それはどんな金を積んでも元に戻すことは出来ない。
そういう意味で”AとB が和解することはありえない” ともいえます。
>まじわりという意味での関係は もはや基本的にその相手の人とはなくなるということ。それが《赦すことも赦さないことも出来ない》
こういうことでしょうか。

もちろん、Aが不倶になったかどうかは本質的な問題ではありませんね。AとBとの不幸なかかわりがあって、Bが傷ついた、心身がAによって陵辱されたという事実がある以上、AとB との関係はそれ以前とはまったく異なった次元に入ったといっていいでしょう。

>人は 人のあやまちを赦すことも赦さないことも出来ない。
 分かりやすく言えば 赦す資格も能力も じつは人は持ち合わせていないのだ。ということは 赦さない能力も資格もまったくない。

私見として私はこういうふうに解釈してみました。
現実として、AとB が以前に増して親しくなったということはありうるのかもしれません。しかし、過去の事実というものをなかったことにすることは論理的には不可能です。

人(B)は 人(A)のあやまちを赦すことはできない


Aが自分の過失を忘れたいと切に念じていることは確かですし、実際にも忘れてしまうことはあるでしょう。でもBにとっては、どんなに軽い傷であってもそれはAに比べれば何十倍も忘れ難いことであるのは確かです。Aはそういう意味でB同様に忘れるべきではなく、辛くはあってもAが忘れるまでは(自身の罪として)保持しておく、それが倫理的にも正しいことであると考えるべきでしょう。
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この回答へのお礼

 こまあすさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 常識破りというふうに卑下しないとすれば それでも常識からうんと飛躍しております。そういう考え方について問うています。

 そこで そのために重要と思われるところは
 ☆☆(趣旨説明) ~~~~
 というのも 人は おのれのあやまちについては 一日二日経てばもうけろっとして忘れてしまっていると思われるからです。自分に対しては ほどなく赦しているというのが 世間の相場であろうと思われるからです。
 ~~~~~~~~~
 ☆ というふうに 早い遅いはあるでしょうが 誰もが自分の与えてしまった迷惑や危害については いかにオモテ向きは低姿勢であやまり続けていたとしても 内心では《取り返しがつかない。けれども 詫びようがない。どうしようもない》というところに落ち着いて自分を赦していると思われるからです。

 もっと言うならば たとえばそのあやまちを犯してしまったそのあとの人生をすべてその害をこうむった相手のためにささげて生きるのみだと考え じっさいにそう生き切ったとした場合 そうだとしても オモテ向きは自分を赦していないけれども そのようなつぐない人生を送るというかたちで自分との和解は成り立たせていると思われるからです。
 つまり たいへんな負い目を負いそれをすべて払いきるというきびしい人生ではあるのですが たとえばそのようなかたちで けっきょく自分を赦している。こう思われます。
 そしてちなみに 昔は 死んでおわびしますという言い方(および実行?)がありましたが 死んだからと言って 自分を赦さなかったということにはならないように考えられるのではありませんか?

 そのように 自分を赦すかどうかについて考えるなら たいていは赦すのであり おそらく赦さない能力は 人間にはないのではないでしょうか?

 でも 被害者やその近しい人たちから見れば その加害者については とうぜんのごとく《おのれを赦す能力も資格もないに決まっているではないか》というふうに扱うはずです。
 そうして もしこの被害者やその身内の人びとが 仮りに自分たちがそれぞれ加害者になったとした場合を考えるなら どうなりましょうか。
 つまり 世間の相場から行けば 加害者である自分については遅かれ早かれ赦すでしょうし かつて自分が被害者であったときにはその加害者に対しては こんなことを言っていた。(あるいは思っていた)。と思い出す。つまり 《どんな面をさげて おまえは自分を赦せたのか? 自分を赦したなどと言えるのか。オモテにはその気配も出さないからと言って その内面でいったいどんなことを思っているのか? わたしは知っているのだ あんたは内心ですでに自分を赦してしまっているということを》と。

 だったら――つまりそんな内心の探りっこをしているくらいなら―― けっきょく人間には《赦す資格も能力もなく 同時に赦さない能力も資格もない》 こう考えをあらためるなら きわめて人間的な共生のための方程式が得られるのではないか?


 さて このように趣旨説明をさらに伸ばしてみたのですが ひとつには
 ★ A が自分の過失を忘れたいと切に念じていることは確かですし、実際にも忘れてしまうことはあるでしょう。・・・
 ☆ すでにいきなり 質問者の考え方をお答えに対してぶつけてしまう恰好で お応えしますが 基本的に《忘れる》こととは別なのです。
 ★ しかし、過去の事実というものをなかったことにすることは論理的には不可能です。
 ☆ つまり《あったことであり 忘れずにいる》ゆえに 赦すことも赦さないことも 人の能力にはない。という見方を提出しています。

 ぎゃくに言えば 《赦すことができず赦さないことも出来ない》という能力を人間は 持っている。のではないか? 
 《赦す・赦さない》にはかかわりを持たないという能力が 生まれつき人間にはそなわっている。のではないか?
 わたしは人間として 能力によって人を赦すことも赦さないことも出来ない。のだと。


 ★ もちろん、A (* たぶん B のこと?)が不具になったかどうかは本質的な問題ではありませんね。
 ☆ これを別の意味で展開します。つまり A が B を死なせてしまった場合などを例として考えるとき それでも A は・つまりわれわれの おそらく 誰もが 自分を赦すようになると思われます。これは いかにつぐないを続け 残りの人生がすべて償いの時間であったとしても その内心は自分を赦しているものと思われます。むしろ そうであるゆえに(つまり やがて時とともに自分を赦してしまったと或る日悔いたことがあった ゆえに) つぐないをして 自分の不甲斐無さのつぐないをしようと思うものなのでしょう。
 自分を赦していないという姿勢を採り その心を持ち続け つぐないの人生を送るという外形と 片や内心とは 果たして同じでしょうか? 舌を出して笑っているわけではないとしても 心はと言えば もうとっくに自分を赦しているのではないでしょうか?

 もし自分が加害者であって 想うにそのような外面と内面とを合わせ持つポスト加害の人生を送らざるを得ないのだと決めた場合 果たして《つぐない》ということは もしそうすべきだとして どうすればよいのか? 
 おそらく つぐないをする・しないの前に どうも人間は人をいかに嫌悪しいかに憎んでも 赦すことも赦さないことも 出来ないのかも知れないと思うのではないでしょうか?
 赦して欲しいとか 赦してやろうとか そういった思いを持つことは 人間にふさわしいとは思えない。のではないか?

 ★ もちろん A は B に誠意を尽くして謝り、B はそれを評価するかどうかは自由であり、分からないにしても、
 ☆ この質問が問うこととしては あやまりの言葉 おわびの言葉を申し述べること これは問題ないと思うのですが 問題は そこに《赦す・赦さない》が入ると ことは人間存在の一大事にかかわっているのではないかということにあります。
 きわめてぶしつけで挑戦的な言い方をすれば 《ごめんなさい》のひと言で ことは全部終わったということ これが 人間たちのあり方なのではないか? 

 あとは 法律上の――あるいは法律に準じた考え方の上での――かたちあるモノによるつぐない これは それとしてしかるべく伴なわれるだろうとは思います。心身のあるいは生活上の損傷を埋めるだけとしてでも 助け合いは必要でしょうから。

 いかがでしょう? 受け容れられませんか?

お礼日時:2011/07/14 23:39

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