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最近、若手の運動選手が、試合に負けたあとの感想表明などで、「みんなに元気をあげることが出来て良かった」とか、「これからもみんなに元気をあげたいと思います」などの発言をするのが気になります。

はたして、元気っちゅうもんは人様にあげることができるんですかい?

いえね、ピカソのゲルニカを見て元気を貰う人がいたり、ベートーベンのハンマークラフィアを聴いて元気を貰う人がいるのだから、野球や水泳の試合を見て元気を貰う人がいたって一向に不思議じゃなないんです。疑問なのは、「貰う」方じゃなくて、「あげる」方なんです。

運動選手と言えば、嘉納治五郎や大山倍達の伝記を読んで、ずいぶん元気をもらった記憶がありますし、ベルリンオリンピックで活躍した水泳の前畑秀子選手からは元気を貰った人が多いと聞きます。しかし、嘉納さんや大山さんや前畑さんが「元気をあげたい」なぞと言ったでしょうか?

嘉納治五郎や大山倍達や前畑秀子たちが言わなかったことを、21世紀少年(少女)たちが発言するようになったのはなぜだと思いますか?

A 回答 (51件中21~30件)

 ピカソは“あげたかった”のだと思います。



 芸術家は自分の思いを「芸術」という手段を用いて、我が思いを人々に発信し、伝えたいと活動しているのだと思います。

 自分の思いを“あげたい”のです。

 木造さんは「不快感」が動機となって、自身の思いを他者に“あげよう”と、こうした質問を思いついたのではないでしょうか。

 純粋な疑問からではなく、我が思いを伝えたいんですよね。
 
 回答への返答に、そうしたお心持がよく表れています。

 自信をよく見つめてみましょう。
 

 
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

元気は人様にあげられるものとのお考えがあるとは思いますが、なぜあげることができるのか、が疑問です。

もし、あげられるものなら、鬱のひとにあげたいもんです。

お礼日時:2011/08/13 00:05

表舞台や大上段に上がれない人であっても、


敢えて裏方に徹する人に感化されることあります。

21世紀少年は気付き初めているのかも!

懸命に生きてなきゃ笑える時もなし、
仲間と一緒に誇らしげに、無為で笑えたら。
いずれ笑いたくて苦労するなら笑うことって苦労あってこそ。
ごく短絡的な人達は苦労を省略して?今笑ってはどうか?

人生長かろうが短かかろうが、
道が平坦でも険しくとも、視点や立場が違っても
一緒に楽しめるということに!

中川礼二


安尾 信乃助
http://www.youtube.com/watch?v=DZ7SsVq1pmQ&featu …

参考になりますでしょうか?
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この回答へのお礼

有難うございます。

お笑い芸人は人様に元気をあげることができるのでしょうかね。
ぜひ、活躍していただき、鬱の人、打ちひしがれた人が元気になると良いと思います。

お礼日時:2011/08/13 00:06

お笑いというスキルで道を探す人も居られます。

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この回答へのお礼

そういう人と嘉納治五郎や大山倍達を一緒にしないで下さい。

お礼日時:2011/08/12 13:49

こんばんは。

TANUHACHIさんの回答を読ませていただいて、なるほどと思うと同時に、一つ思いついたことがあります。

なぜ、東京オリンピックを境に選手の意識に変化が起きたのか?

我田引水ですけど、
「テレビ」
の影響はどうでしょうか。
時期としては点ではなく、帯かもしれませんし、グラデーションかもしれませんが、東京オリンピックがカラーテレビの爆発的普及を引き起こしたことも、その中に含まれていると考えます。

嘉納・前畑らの時代と異なり、
今の若い選手達は、テレビによって、
「観られる自分」を意識してしまうようになったのではないでしょうか。

これも
テクノロジーに人間が振り回されるという、近代テクノロジーによる倒錯の一つかと思いました。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

柔道は現場で見てればどっちか間違える事は無いのですが、ブラウン管で見る人達のために白と青の柔道着を着わけることになったのですよね。

商業スポーツだけでなく、柔道のようなアマチュアリズムの競技もTVを無視できないですね。

お礼日時:2011/08/12 01:14

「元気」と「慰め」に区別がいないのでしょうか?



何かに感化されていつの間にか慰められることはあっても
慰めることを意識してのことでも「慰めてあげれた」というのは
あげる側から決定してしまうのって変。

一縷の判断基準としては「笑わす」ことができたかどうか・・・ぐらいかな。
嘉納治五郎さんや大山倍達さんが感動的な笑いを取りに行ったかどうかはわかりません。
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この回答へのお礼

>嘉納治五郎さんや大山倍達さんが感動的な笑いを取りに行ったかどうかはわかりません。

その疑問文自体が失礼ですよ。彼らはTV視聴率の時代の人ではなくて、本物の求道者でしたから。

お礼日時:2011/08/12 01:11

 こんばんは。

僕は嘉納治五郎や前畑秀子といった名前をテレビでちらと見聞きした憶えはあります。高校時代の体育の教本で写真も見たことはあります。その時の印象ですが、「肩に力が入っていない」との新鮮な気持ちを感じました。今のアスリートと違う点として彼らは相撲のように「○○道」に近い感覚があったのかもしれません。○○道は茶道や華道などの自由奔放な精神とは異なる例の「武士道」かもしれません。その代表が遙か昔のコマーシャルにあった「男は黙ってサッポロビール」のあの奇妙な台詞と三船敏郎でしょう。
 話には聞いていますが「東京オリンピック」とやらを境に日本のスポーツ選手は変わったような気がしています。「日本を代表して競技に臨む」という何処か特攻隊の様でイヤだなと感じてはいました。団体種目には殊にその傾向が強いかの様にも感じられます。ゴルフのトミー中島やAOKI(最初はエオキと呼ばれていました)ボウリングの故須田開代子プロなどはリトルタイガーなどのネームで親しまれていましたが、決して「私は日本の代表なのだ」などとの肩に力の入った姿を見たことなどありません。これは個人競技と団体競技の違いとして考えてみれば面白いかもしれません。団体競技ならば「ナショナルチーム」との意味で「チーム・ジャパン」「サムライ・ジャパン」「なでしこジャパン」などが命名され、それをある意味で選手が勘違いしているとも理解できます。
 もし個人種目ならばF1やスキーのワールドカップに見られる「チーム・シューマッハ」の様な形で一人のアスリートのためにコクピットスタッフやワックススタッフといったチームが作られるはずです。スタッフにとって文字どおりの「俺たちの旗頭」が支えるべき存在でしょう。そしてスタッフ達は自らの旗頭が最高のパフォーマンスを発揮できるように裏方に徹し黒衣として生きることを厭わず、旗頭はそれも織り込み済みで戦いに挑む。そして両者が共に口にする言葉が「好きだからやっている」のであって、そこには「元気をあげる」とか「元気を貰う」などのカミシモを着けた関係は見られない。ただ両者の間に有るモノを考えてみるならば「成功を判断基準とする契約関係」くらいしか考えられません。単純な表現ならば「フォア・ザ・チーム」との意味で集められた、或いは集まった集団であり、「ただ単にプロとしての仕事をするために集まり、終わったらまた離ればなれになる」それほどスポーツの世界はドライなものであるとも言われます。だから「結団式」「解団式」などの模様がニュースで放送されますが、あのシーンに僕は胡散臭さを感じてしまう(これは僕がヘソ曲がりなのかもしれませんが、競技経験のないオッサン達が喜々として出席している姿には意味がないと思う。選手達は次の目標に向けてクールダウンとコンディショニングの時間も必要)。
 もしテレビ画面に映るアスリート達が「みなさんに勇気と元気をあげたいと思って試合に臨みました」とコメントしているならば、恐らくは「チョッピリはにかんだ若者の照れ隠し」くらいに僕は受け取っています。本当は目の前の1プレーに集中していて気が付いたら終了のホイッスルが鳴っていて「あっ終わっちゃったよ、ヤバイな、何か言わなきゃ格好つかないな、どうしよう」の気持ちが本音じゃないのかなと思っています。多分カメラ目線を意識して「カメラの向こうにいる人が自分の事のように喜ぶなら、それに一言添えよう」くらいの心遣いに近い気持ちじゃないかなとも感じます。案外スポーツ選手にはシャイで人付き合いに不器用な人が多いから。
 尚音楽の世界ですが1曲だけ『命をあげよう』(原題I would give my lif for you)との作品があります。ミュージカル『ミス・サイゴン』の劇中で歌われる母と子の今生の別れを込めた歌曲です。息子の幸せを願い本当ならば共にアメリカで新しい生活を始めたいがその願いは叶わない、なぜなら彼女にはアメリカ国籍がないから。でも米兵との間に生まれた子供にはアメリカ国籍がある。だからその権利を行使して幸せになってほしい、との思いから彼女はこの曲を歌う。それは自らの命を息子にあげることではなく「願いを託す」ことの代名詞でもあった、と僕は理解しています。
 
 
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

その昔、自衛隊所属のマラソン選手で余りのプレッシャーから逃れるためか自殺してしまった人が居りました。このようなナショナル・フラッグ・キャリアの悲壮感がなくなったのは良いのかもしれませんね。

あるていど、ただしく自己チューでないと、政界のレベルで伍して戦うのはむずかしいのかもしれません。

お礼日時:2011/08/12 01:10

なるほど、そういう事情があったのですね。


役に立つかはわかりませんが、私は人間関係で悩んだときに、全ては設計と同じなんだと悟り、付き合いの要領がつかめました。
ですから、業界全体や人材を建物とみなすことにより建築のコツを活かせるような気がします。
私の経験が元気への踏み石になればと思いますが、事情を把握すればするほど、やはり元気をあげるとは言えないものですね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

いえね、営業やマーケティングをバカにして、腕さえよければ客がくると多寡をくくっていた棟梁たちの自業自得ですけどね。住宅を買う人が建物を見て決めんじゃなくて、TV画面の俳優さんをみて決めんだってことに気づかない。

そんな技術だけで生きてきた棟梁や大工を元気づけるには、だれかが日本の木造建築の良さをTVで宣伝しなくちゃんイケねえんだが、本物の木造建築なんかやってちゃTVコマーシャル代を出せるほどは利益がでねえ。

そこで、パネルをパタパタ組み立てる○○○ハウスみたいに工業化量産住宅を粗製乱造する大企業が大儲けしてTV広告を連日連夜出してる。この悪循環で森林大国の日本において本物の木造住宅が珍しい物になってしまう。

笑えねぇ現実だし、元気をあげようがないね。

お礼日時:2011/08/12 01:03

たびたびお邪魔します。


元気というのは自分の中でもつくりだせもするのですが、もちろん、他人の経験を材料にしてつくりだすこともできるのですが、その場合、生産者のスキルに似たスキルが必要になるでしょう。
もくぞうさんはプロの大工ですから、元気をあげるなどと気安く口にする者が鼻につくということではないでしょうか?
気持ちは分かりますが、そういう時代ですから、種を残すしかないでしょう。
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この回答へのお礼

有難うございます。

ワシはノー天気で元気な方ですから良いのですが、技量のある棟梁がTVコマーシャルの○○○ハウスに仕事をとられて、100年住宅を建てられる技量で30年使い捨てパネル住宅の下請け仕事をしているとき、19歳の運動選手から「元気をあげます」と言われたって、元気を貰う事なんてでいないのですよ。

ワシのように元気なものには「元気をあげる」必要は無くて、元気を失った棟梁や大工に「元気をあげる」ことができないのですから、21世紀少年(少女)の「元気をあげたい」という発言がむなしく感じられるのです。

お礼日時:2011/08/10 22:33

黙僧さん、こんにちわ。



「もらう」も「あげる」も幻想だと思います。

運動選手は精一杯の業をする、だけで。
薬や添加物(?)を持ち込んで業をしたり、
それらをばら撒いたりしているわけではなく。

たまたま見ている人がいて、
たまたま影響を受ける人がいる、だけで。

たまたま影響を受けて、
「元気になる(元気が出る)」人や、
腹を立てる人や、悲しくなる人や、
悔しくなる人や、いろいろな人がいるだけで。

「(傷などが)癒える」という言葉がありますが、
最近は「癒す」の方がよく使われているようで。
流行でしょうか。


それでは回答を書きます。
>元気っちゅうもんは人様にあげることができる?
:できません。
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この回答へのお礼

有難うございます。

「癒す」よりも「癒える」の方が好きだな。

お礼日時:2011/08/10 13:58

たぶん・・・誰かが言い出したのでしょう。


ワイドショーなどなら、膨大なデータから割り出して、答えを出してくれそうなんですが・・・

元気=いい結果、成績、喜び、の言い換えでしょうか。
応援して もらった  いい成績を上げることが出来た、応援に答えることができた・・
私もよかった、皆さんもよろこんでもらえましたよね。
確かに、あつかましい、と言えばあつかましいですね。

誰でも、応援した選手が活躍すればうれしいもんです・・イヤーよかったよかった~
何だか元気が出たよ~元気がもらえたね~ なんて感じ。

災害とかで暗い感じになっている人に、スポーツをバカみたいにいっしょうけんめいやっている姿(ひたむき?)を見せてること。
自分より元気な人が普通の人だったり、金持ちでいやな感じの人だったりなら何でもないですが、スポーツを一生懸命元気にやっている人を見ると・・・それが、大きな大会で好成績を出し、涙していたりするのを見ると、何となく ちょっと頑張ろうかな~とか。

けっこうへこんで曲がっていて、こいつ、スポーツバカだな・・将来も約束されていないのにこんなに頑張ってやって、バカじゃないの~・・・でも、何か うらやましいな・・・
少し、何かしてみようかな・・・とか。

なんて思うかも。

スポーツのメンタル面の指導などで、謙虚な心、感謝の気持ち、などを教えていて、応援してもらうこと(注目してもらうこと)のお返しに好成績を出そう・・自分の力だけでなく、大勢の応援の気持ちが更なる活躍を生むのだよ・・君は他人に力を与えることが出来る人間なのだよ・・的な指導がなされているのではないか、と、想像ですが。

日の丸を背負って、内側にこもってしまい、重圧に負けてしまう日本人選手が多かったのが、こういうことを言い、考え、明るく、前向きに行動、力を出せるようになったのかもしれません。
自分を賛美することは大事なことです。
私やりました、すごいでしょう、みなさん、よろこんだでしょう?
結局は、自分のために言っている言葉のような気がします。
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この回答へのお礼

>重圧に負けてしまう日本人選手が、、、

たしかに、21世紀少年(少女)は正しく自己チューなので、勝ち抜くことができるのかもしれませんね。

お礼日時:2011/08/10 13:59

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