電子書籍の厳選無料作品が豊富!

最近、若手の運動選手が、試合に負けたあとの感想表明などで、「みんなに元気をあげることが出来て良かった」とか、「これからもみんなに元気をあげたいと思います」などの発言をするのが気になります。

はたして、元気っちゅうもんは人様にあげることができるんですかい?

いえね、ピカソのゲルニカを見て元気を貰う人がいたり、ベートーベンのハンマークラフィアを聴いて元気を貰う人がいるのだから、野球や水泳の試合を見て元気を貰う人がいたって一向に不思議じゃなないんです。疑問なのは、「貰う」方じゃなくて、「あげる」方なんです。

運動選手と言えば、嘉納治五郎や大山倍達の伝記を読んで、ずいぶん元気をもらった記憶がありますし、ベルリンオリンピックで活躍した水泳の前畑秀子選手からは元気を貰った人が多いと聞きます。しかし、嘉納さんや大山さんや前畑さんが「元気をあげたい」なぞと言ったでしょうか?

嘉納治五郎や大山倍達や前畑秀子たちが言わなかったことを、21世紀少年(少女)たちが発言するようになったのはなぜだと思いますか?

A 回答 (51件中31~40件)

難問にたいし、しどろもどろの愚答になるかもしれません。

(とんちんかんな残暑見舞いにでもなれば)

「私の腎臓のひとつをあなたにあげる」

これは正当な文です。その場合、単に腎臓がひとつになるという意味です。
けれども、よく考えてみれば、この場合でも、

腎臓を「あげる」などと言うだろうか。そんな言い方が、この事態を適切に記述しているだろうか。

親と子が、子と親が、「腎臓」という「生き残るための筏」にしがみつかねばならないとき、

それを、

腎臓を「あげる」「もらう」というのは、一見、客観的な言い方に見えるだけで、当人たちは首をかしげるでしょう。
どういえばいいというか、「時間」や「責任」の分かち合いとでもいえるでしょうか。

他人に何かを「あげる(贈与する)」という行為は、記述しにくい事柄です。いわゆる「自然科学」では記述できません。
これを社会学的に記述するのもかなりむずかしいでしょう。法律などで「定義」して、それに即して記述することはできても、相手に「あげる」(恩義やら、義務やらがついてまわる行為を法律で記述することは不適です)ことを記述しきれるものではありません。

いわゆる「物」をあげる場合でもこのありさまです。

「元気をあげる」?

マンガやアニメの見すぎ?
超能力? オカルト?

いや、むしろ目には見えない「元気」だからこそ、「あげる」だの「もらう」だの言って、いっこうに「だれも傷つかない」(ことにしている)のかもしれません。
「あげられ」も「もらえ」もしないことを分かりきったうえで、なにか訴えたいことの「代理」にしているのでしょう。それが「みっともない」と気づき、報道のほうも少し考慮すべいきです(言葉を使うことを商売にしているだのだから)。

「あげる」と「もらう」の「非対称性」がご質問の眼目でした。

「もらう」は「一方方向」が成り立ちそうです。「これは、もらっとく」なんて言って相手の了解もないままもっていくことは可能でしょう(たぶん)。

「あげる」には、「いや、そんなもの、いらない」といって拒むことはできます。
つまり「双方向的」(少なくとも)です。
スタジアムか何かで「元気をあげる」というのは、おかしい。

以上です。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

有難うございます。

「人様から理由なく物を貰うんじゃないよ!」と言われて育ったものだから、だれかに「あげる」と言われると、つい「結構です、要りません」と答えてしまう(無言で)のかもしれません。

元気が欲しい時には奪ってこなくちゃね。

お礼日時:2011/08/10 14:04

そういえば、競技後に言っていますね。


この話しの流れでいくと、確かに偉そうですね。。

何も考えてないんじゃないでしょうか?
少なくとも見ていた私は何も考えていませんでしたから。
あぁ、そうなんだ。元気をもらったなと。

そう言う事を疑問に感じて正していくのは必要だなと感じました。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。

マタタビさんは性格が素直んなんですね。

お礼日時:2011/08/10 08:23

元気をもらうという表現がokで元気をあげるという表現はNGという意味でしょうか。


視点の違いで、もらうがあげるになるのは日本語文法上必然なことなので、
違和感があるとすれば、謙遜という美徳がつぶれ、世界標準の「正当な自己主張」に変わったことにあるはずです。それでいいよね?
 ※私も、「あげる」には多少違和感があります。ただし、「あげる」は、「与える」の敬語(謙譲語)に該当する(広辞苑)ので、原則としては気の持ちよう程度。

謙遜という美徳がつぶれた主な理由は2つ。
1.昭和52年の福田総理の「国民栄誉賞」の理念(社会に明るい希望を与える)
およびその第1号が王選手であったことから、
元気っちゅうもんは人様にあげることができると考えるのが多数派であること、
運動選手が元気を他人に与えることが可能であること
の2点が公式に確定。明るい希望と元気は、ここでは同義語とみなしていいですよね?
(昭和41年佐藤総理の内閣総理大臣顕彰(1号は男子体操ほか)でもいいけど。お好きなほうをどうぞ。)

2.バブル崩壊。これ以後、明るいニュースにロクなものがないから、何か明るいニュースを作る必要が急増したため。


>試合に負けたあとの感想表明などで、「みんなに元気をあげることが出来て良かった」
あ、これについては、誰も元気をうけとらない側に立ちます。
一応、目標達成までいったかどうかで、元気をあげることになったかどうか判断しますが、どこで負けたか記述が無いので
仕方なく誰も元気をうけとらないほうにカウントさせてください。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。

表現に拘っている訳ではないんですよ。「飼い犬に餌をあげる」という表現だってお咎めなしの時代です。ですから、ここはGive とTakeの違いだけに注目してもらってよい。
元気という概念において、他者の元気を制御することが可能か?と換言しても良いですね。元気をあげると言う事は他者の元気の量(?)を増大させるわけでしょう?そんなことできねぇんじゃないかな、と思いましてね。

もし、そんなことが可能であれば、この世から憂鬱なんて消えると言う事ですよね。そうは思えねぇんだな。

お礼日時:2011/08/10 08:01

出来ないと思います。



元気の意味は
1.心身の活動の源となる気力や気分が上向・前向きになる
2.気の一つ - 儒教における生成論で宇宙の根源である太極に呼応する概念、「元気・陰陽・四時・万物」の一つ。
と有りますが、1として進めます。

嘉納治五郎や大山先生の伝記を読んでずいぶん
【心身の活動の源となる気力や気分が上向・前向きになる】方法を学ばせて貰った。
これを
>嘉納治五郎や大山倍達の伝記を読んで、ずいぶん元気をもらった
と表現されているなら

>「みんなに元気をあげることが出来て良かった」

みんなに【心身の活動の源となる気力や気分が上向・前向きになる】方法を教えてあげる事が出来てよかった。

>「これからもみんなに元気をあげたいと思います」

これからもみんなに【心身の活動の源となる気力や気分が上向・前向きになる】方法をこれからも教てあげたいと思います。
と受け取れますね。

思い上がりも甚だしい、当然「ざけんな!!」です。

心の持ち方は自分で変えるもので、人に変えさせられる訳がない、変わったかどうかも分からない。
馬を水飲み場まで連れて行っても飲むかどうかなんて分からない。

「おばかタレント」が持てはやされる時代です。若者が短絡的に、貰えるものは、あげられると考えても仕方ないでしょう。

若者に迎合するつもりは有りません、いやなオヤジで結構、元気は人にあげれないと言います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>思い上がりも甚だしい、当然「ざけんな!!」です。


有難うございます!

お礼日時:2011/08/10 08:24

お礼ありがとうございます。


信長が桶狭間の戦いの直前で吉兆を流布し兵を鼓舞したそうですが、信長が頼りにしていたのは現実だったでしょう。
ただ兵の士気のうつろいも現実であり、ここにいたり孫子のいう虚実の円環の思想であり私の頭脳は拒絶反応をおこしております。
さて、信長のように、あるが如く振る舞うレベルの選手もイチローを筆頭に存在すると思いますが、あまり考えずに発言される方もいると思います。
どちらも善悪は流動的であり、どちらが欠けても人類の生命力は枯渇するでしょう。
また、元気を与えた、与えられたという勘違いも偽薬効果をもたらすわけですから、人類恐るべし。
もくぞうさんのような精巧な人間は、人類をなお恐れるべき。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

虚実の円環の思想!

敵を欺かんと欲すれば、まず味方を欺けっちゅうやつですか?
そこまで考えておらんでしょう。運動選手ですからねぇ。

お礼日時:2011/08/10 08:40

「我は神である」はちょっと誇大広告でしたね。

「我は神を見た」に訂正しておきますね。JAROのチェックが入るといけませんから。

バブルの水を飲まずに生きてこられたんですね。それならまだ少年の心を失ってはいない筈ですから、質問者様の意見にも信憑性を認めることができましょう。
ではそうなってくると、一番の原因はマスメディアということになりそうですが、選手たちを煽り立てて、金儲けを企んでいるのでしょうか?私は芸能界には疎い科学者なので、芸能界のお話しは他の方にお任せして。
あら、もうこんな時間。経験豊かなお話と、楽しい時間をありがとうございました。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

再度ありがとうございます。

aromaguidefeminさんの頭の中で「マスメディア=芸能界」という等式がなりたっているらしいですね。こういう大ざっぱな性格は好きですよ(笑)。

科学者ならブラックボックス法の評価もするでしょ。芸能界、否、マスメディアの内情を知らなくたって、どんどん語ってくださいね。

お礼日時:2011/08/10 08:37

人はひとりでなければ生きられない。



もらってなどいないのに、もらったと勘違いし、あげたと勘違いする。

 の、 だ ろう か?

 と、想いました。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。

勘違いか、何も考えていないかのどちらかでしょうね。

お礼日時:2011/08/10 08:38

 


 もらった人がいるという事は、あげた人が居たんでしょう。
 そのあげた人が、なぜ「元気をあげる事が出来ました!」なんて言うようになったのか?
 
 それは、たぶん、

 最近のマスコミが発信する“元気をもらいました”の大合唱?が「元気ってあげる事が出来るんだ」と、行為者が学び、自身らを注目する人たちの「興奮し、感激し、感涙する」姿を見て“思わず”「元気をあげる事が出来ました!」と、言ってしまい、それが結構気の利いたセリフだと受け止められ、あちこちに広まっていった。

 と、思いました。
 
 
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ピカソのゲルニカから元気を貰ったからって、「ピカソのゲルニカが元気をあげる」とは言えんでしょ。「あげる」と「もらう」は一事の両面ではないのじゃないか、ってのが哲学カテゴリにおける質問なんです。

お礼日時:2011/08/10 08:22

選手である少年、少女たちは、イベント(見世物)としての舞台に立ち、観客に向かって「我は神である」と宣言したことになるのです。

ただしこれには必要条件としての背景があります。それは荒廃した文化にあって、尚且つ未来の希望が見えない困惑と欺瞞が延々と続く海原に、情熱だけをもって舟を漕ぎ出す、そんな若者だけに限って、一時的にですが、歓喜に満ちた世界に居合わせた一体感として無条件に受け入れられるものです。たとえるなら絶海の孤島を発見した様な、そしてそこに泉を見つけた様な、絶対的な神の存在であるはずです。

そこが読めなかった、と、い、う、こ、と、は、
さては、質問者様が若者であられた頃は、文化が安定と希望を包括していましたね? バブルで良い思いをされたのではないでしょうか。羨ましい限りです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。

「我は神である」ってのは世界一になった場合はまだ良い。でも、3位入賞ぐらいで「我は神である」となると、1位や2位はなんじゃ?

「文化が安定と希望を包含」って江戸260年の事ですか?ワシはそこまで歳とっては無いよ(笑)。ワシのころは何でもアメリカが正しくて、ドイツとイタリアは悪いと教わった時代だ。だからイタ飯食うひとも居らんかったし、サッカーをやる人もすくなかった。全員が野球をやって、ギターを弾くなんて時代さ。当時の文化は戦後の荒廃とアメリカの汚染と高度成長の欺瞞に満ちていたな。厚化粧、メッキの文化だ。だから若者は造反有理って言って、現状に挑戦したんだな。その点、元気だけはあった。知能は今の若者よりも低かったけどね。

それから、ワシはバブルでなにも良い思いをしなかった。不動産も株も持っていなかったからね。お蔭でバブル崩壊のマイナス影響一切受けずに、バブル崩壊後に仕事で成功したよ。三冬枯木花っちゅうんかいね。本物は残るちゅうことや。

閑話休題。
だから日本人は自信を失って、武士道精神も仏教徒の出家も減った。
唯一の救いは、メディアが印刷メディアが中心で、今ほど愚かな商業主義のメディアが少なかった事かな。否、愚かなタブロイド版新聞などはあったが、人々が愚かなメディアとまともなメディアを明確に区別しておった。今ほどテレビ番組だって劣化していなかったしな。まして、値段が安いからって朝鮮語ドラマを流しておこうなんてテレビマンは居らんかった。

お礼日時:2011/08/09 23:56

元気を「上げた」「もらった」とか


感動を「上げた」「もらった」などと
幼児的安っぽい言いかたをする人は
所詮精神の根本がミーハーなのです。
スポーツでも芸術でも
「~を感じてもらえたら・・・」
とか
「感動を上げる」なんてね、
表現するほうが言っちゃおしまいです。

主さんは「もらう」のはいい、とおっしゃるが
わたしはそれも実にばかげた言い方だと思います。
そんなもん「もらう」ものですか?
相手がもらうと言うなら「上げる」も成り立つでしょう。
ちなみに「上げる」は以前は字のとおり尊敬語だったのです。

違う言い方が流行ればやはりその言い方をする人達です。
ほんとうに心底感動したり、腹から気力がわいたということが
ないからなんでしょう。
またマスコミにはそんな程度の人間しか出てこないので
わたしはテレビやラジオ等はまったく視聴しないのです。
世の中に絶望しちゃいそうになるのでね。
ちょっと「上から目線」で辛らつな言い方ですが
しかし、多くの現代人の精神的退行現象は
侮れない問題となっているとおもいます。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

精神的退行現象は運動ばかりしている21世紀少年(少女)にだけ生じているのでしょうか。それともとマスメディアで映像を編集しているメタボの20世紀オヤジにも同等の退行現象がおきているのでしょうか。

お礼日時:2011/08/09 23:07

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!