A 回答 (16件中11~16件)
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No.6
- 回答日時:
中道が極端から極端に生きるという定義は初めて聞くんですが、なんの引用でしょうか?
それはともかく僕的な中道の理解と言うか比喩ですが、
例えば綱引きのロープがあって、それを右にいる人が右に引っ張ります。
左にいる人は左に引っ張ります。
この状態でロープが吊り合って動かない時、そのロープの中間地点が中道、という例え。
逆でもいいですが、
つまり、壁を左右から100人がかりで押して釣り合うことで、微動だにしないものすごい圧力のかかってその真ん中の壁が、中道です。
これはもうちょっと哲学的に言えば、対概念の境界線、境目を指す言葉です。
そこにおいては、凄まじい圧力がかかり、身は引き裂かれたり、潰されたり・・(怖い例えですみません)
これは、2元論の概念ー黒と白とか、生と死とか、善と悪とか、無と有とかの2つの概念が全く拮抗してどうしようもない様子です。
身動きがとれないからこそ、下の方も言われるとおり、今ここに戻ってきます。
他の言葉だと、中庸とか、止揚も同じ意味じゃないかと思います。
この真中にかかる圧力は、現実には強い精神集中状態です。
その集中でもって偏らない真ん中の道を歩いていく、という捉え方だと中道、
その集中でもって左右への変化をひらりと交わし、不変であること、と見ると中庸、普通が一番難しい、的な。
止揚はこの2つよりも客観的に全体を把握する感じがします。
よく言う真ん中だから、50:50と思われるのはもちろん勘違いで、
数字で例えるなら、中道とは、100:100の、まあガチンコ勝負、みたいなものじゃないでしょうか?
あるいは、物理学で言う、対消滅も僕はイメージします。
つまり、物質と反物質が対消滅して、巨大なエネルギーを生み出す、あのイメージは、中道中庸にかなり似てます。
右と左から100トンの貨車に挟まれて身動きも取れない、その高い集中に見合った解釈を見出すまでは、
と、そんなふうに受け取ります。
この回答への補足
「また、快楽主義と苦行主義の両極端を離れること」
ではありません。両極端を離れる中庸というのは儒教の教えで、大乗仏教でいう中道の本来の意味ではないんです。ただし、後には混同されて、世俗仏教では「何でもほどほど」の意味で中道といわれることがあるのは事実。
大乗仏教の「中道」の本当の意味「中観思想」は、大乗の基礎を作った理論家である龍樹菩薩(ナーガールジュナ)の「中論」という論書に詳しく説明されています。
この「中」は、左右、有無、上下の中間という意味ではなく、それらの対立を超越する立場です。
例えば
歌舞伎で言うと
傾く(かたむく かぶく)
奇抜で極端な様を言う。
これに少し似た部分はあると思います。
No.4
- 回答日時:
中道とは、言葉を替えて言うなら『平常心』です。
『在るがままに=そのままに』です。或いは『当たり前の心』ですが、当たり前の心のままでいた場合には、当たり前の心を把握でき無いかも知れません。何故なら、当たり前過ぎて、分からない可能性が強いからです。ではその当たり前の心は如何したら手に入るのかというと、当たり前の心ではなくなる場合です。この事を『一切皆苦』と言っています。
『意識している事自体が苦しみになる場合です』『意識地獄に陥った場合を、一切皆苦』と表現しています。
昔から、今も引き続き『人間は苦しむように出来ています。』この苦しみからの解放をお釈迦様は教えています。
人間が苦しい思いや、生き難い想いで生きる事を、仏教では『業』と言っています。キリスト社会では『罪の意識=原罪』と表現しています。
今は科学が進んで、或いは医学が進んで、悩みや苦しみを抱えた人は『宗教家の元に』行かなくなったようです。『宗教家達も、毎日の金儲けや、雑用に追われていて、自分本来の使命さえも忘れ果てているように見えます。』
お釈迦様も、自分が何をしたかを疑って、嘆いているように思えます。
そうして『一切皆苦』と感じている人達は『精神科医や心療内科医』の下に集まって、とても繁盛しているようです。
原罪や業とは『心に湧き上がる違和感の事を言っています。』何処から押し寄せているのか分らない漠然とした不安の事です。この違和感には幾つもの種類が在ります。
身体に感じる場合には胃や腸や足腰や心臓や呼吸器等ですが、その他至るところです。神経に感じる場合には、全身の神経の至るところです。心や精神に感じる場合にも至るところです。
そうして絶えず治したいと思って、治らない事にやきもきしています。そうして検査を受けた場合には『何処にも異常が見つかりません』ですが『本人は異常を感じていて、違和感の解消を願っています。』
この場合が『一切皆苦』と云う事になります。治したい、治りたいという気持ちが強ければ強いほど、その異常な感覚『症状は』きつくなるからです。
こうした症状を抱えている場合を『生病老死』に付いて,苦しんでいるとしています。何故なら生きる事や病気になる事や、老いてゆく事や、死んでゆく事に』深い不安を抱えているからです。
有限のこの身を嘆き苦しんでいると言う意味においてです。この苦しみからの解放を伝えようとしてきたものが『お釈迦様の教えです』
お釈迦様の教えは『宗教ではありません』究極の心や魂や肉体の癒しの心理学、或いは、決定的な全人格的な救いとも言える、心理療法です。
この事を科学的に説明したいと思います。意識地獄になってしまう原因は『人間の脳内には二つの意識が存在している為です。』初めにこの研究成果を載せてみます。ウイキペデアからです。
”ロジャースペリー 分離脳
ノーベル賞受賞者
受賞年:1981年
受賞部門:ノーベル生理学・医学賞
受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究
ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。”
この脳の研究成果には、右脳と左脳の機能に付いても違いがある事を報告しています。
左脳の意識は顕在意識です。つまり自我意識という事になります。この意識の機能は外界から入る言葉ではない情報を『言葉に翻訳をしてから、感情として味わっているという意味になります』
それに対して『右脳の意識』は、自我意識には判らないように出来ています。その訳は『潜在意識として、或いは無意識の意識として』働いているからです。
此処でもう一つ説明しておくべき事が在ります。この二つの意識は『心の奥底で』絶えず(分らないながらも)相談しながら、『どちらの意識が出たほうが上手くゆくのかの相談をしながら、交代制を取っています。
この交替制のバランスが崩れる場合に、『自我意識は、無意識から、交替要請を貰う場合が在ります。この交替要請が『漠然とした圧迫』つまり違和感の正体で寸。
此処でもう少し右脳の意識=無意識の意識の事を説明しておきます。この意識をお釈迦様は「仏性」といっていますが、もう少し詳しく書いてみます。
この脳の働きは「命そのものを働かせている意識」です。暑い所ではその暑いままに汗を流す仕組みそのものです。寒いところでは、身体にも心にも寒い事を教えていながら「身体全体に寒さの防御をしながら、心には暖かいところや温かい飲み物さえも探すように指示を出してさえいます。」
処が「自我意識は」その指示が何処から送られているのかを知りません=漠然とした不安が何処から送られているのか分らないと同じ理由から、です。」
命の働きは「命そのものを働かせている意識です」心も身体も働かせている意識です。この自分の命の働きと仲違いする時「生き難い想いが」沸いています。つまり心の矛盾を「自我意識は受け取っている事」を意味します。
もう少し右脳の意識=命を働かせている意識に付いて書いてみます。「身体全ての生命維持装置や生命を守る監視装置」としても働いています。
身体全部は右脳の役割から成り立っています。心や精神もそうです。心が安らぐ時とは「右脳の意識」無意識が心を取り仕切っている時です。
「一切皆苦」という場合は「自我意識が身体と心を支配しようとしている時」です。心が休まらない時とは「無意識の自分と交替できなくなった証拠です」
此処にお釈迦の教えが在ります。「我を去れ」と言いましたが、この意味は「意識しないでやりなさい」と言う意味です。思わないでやりなさいと言う意味です。
その反対が「意識したから出来なくなる事」を意味します。身体を意識して出来なくなる場合を「自律神経失調症」
心を意識して出来なくなることが「心を病む事」になります。
行動する場合も意識すると出来なくなる場合が在ります、この事を神経症と言っています。
今書いた事柄は全て「無意識の自分と交替でき難くなった場合」に意識地獄に陥った事を意味します。
だらだらと書いてきて、何が言いたいのかがわからなくなりました、失礼致しましたが、質問があるならその時に、と言う事で一旦は此処で筆をおきます。
この回答への補足
宗教はビジネスにするものではないと思うんですよね。
宗教は人間誕生した時から(原始)ありますから、科学が発達した世の中でも、宗教はなくてはならないものだと思います。科学にはない神秘の力と言うのは誰にでもあるのではなく、技術があると思います。科学と神秘が合体したら凄いかもしれません。
お釈迦様は僧ではなく森羅万象のシャーマンです。衆生済度とはいいますが、大それたことではないようで、
自然界と調和し動物の声を聞きながら瞑想し、人の心の動きが、自然的宇宙的にかなりの影響を及ぼし、精霊たちをみながら、見るもの声を聞きながら生活してました。今では絶対的に数がへっています。いつからか自然から分かれ精霊や見えざる力を無視し好き勝手に生きるようになってしまいました。
No.3
- 回答日時:
あなたが「極端」に何を見出し、何を感じているのかは解りませんが、求道心から図らずも極端から極端へと生きる羽目になってしまうならともかく、極端に生きる事を戒律の如く守るのは、有為造作(ワザとらしい行動)であると言わざるを得ません。
それに、私は中間(ほどほど)を良しとした覚えはありませんし、むしろ極端から極端に生きる事は肯定する立場です。しかし、極端から極端に生きるのは、中道などでは無くて、ただの「迷い」に過ぎません。迷いはどこまで行っても迷いであって、迷う事それ自体を美化して「道」と呼ぶ訳にはいきません。
開悟した人が過去を振り返って「今にして思えば、あれこそが修行の道であった」と言うならともかく、本質的には中道と言う道はありませんし、無い道は歩む事も出来ません。つまり、悟る為の確実な手段や、方法論なんか無いって事です。仮に悟りの手段としての中道なるものが存在すると考えるなら、矛盾や板挟みで悶絶したり、理想と現実の狭間をうろつく事を、中道と呼ばなければならなくなってしまいます。
迷妄極まり、右にも左にも行けなくなれば、人はその場に立ち尽くすしかなくなります。散々工夫を凝らし、試行錯誤し、結局どこにも辿り着く事無く、矢折れ弾尽きた末に立ち返るのが「今ここ=中道」なんです。ここまでやって初めて、我々は元よりどこにも行く必要が無かった、あるがままでいいんだ、と言える資格を得るんです。
極端から極端に生きる事と、今ここに在る事は別ですし、迷いと悟りは表裏の関係にあるものの、全く同じでは無いのですから、明確に区別する必要があります。
それに、極端であり続ける事が道であると錯覚し、それに執着し続ければ「今ここ」に立ち返る機会は失われてしまいます。釈迦世尊が苦行を捨てた様に、いつかは極端に生きる事も捨てなければならないのです。
この回答への補足
お釈迦様は武道家だったので、中道とは武道の中にあるのかもしれません。
中道とは、凡人にはわからない、常人を超えた域なのかもしれません。迷いがなく恐れることなく、明快に判断、認識が出来るのでしょうか。悟りとは言葉と行為が一致しているものだと思います。
そして妄想、迷妄は断ち切っていると思います。
No.2
- 回答日時:
こんにちは。
私の「中道」の解釈になりますが。
中道とは、極端でも中間でもありません。
御釈迦様は、人間はどうしたら一番楽しく(人間らしく生きられるか)を説いたと思います。
答えは、「あるがままに」生きなさいです。
御釈迦様は、まず自己を非我とし、生命の生と死を見つめ食物連鎖、万物の移り変わりから、
因果に気が付き、諸行無常に気が付き、それらは、「色即是空、空即是空」であるといいました。
其の生命の営みには、親の慈愛、慈悲の心があります。
さらに、死んだ後等の分からないことは、無記としたのです。
これは、誰にも理解できないだろうということで何も記さなかったそうです。
弟子の一人であるシャーリープートラは知彗(頭がよかったので)、御釈迦様は、
私と共に過ごした貴方は、自分の知彗を使って生きて生きなさい。と説いたのです。
だから、今の仏教は多くの弟子の解釈で幾つかの考え方があると思います。
でも答えは、自分の人生を「あるがまま」に受け入れて、生は生として慶び、死は死として悲しみ、苦は苦として悩み、楽は楽として喜ぶということだと思います。
そして、健康な肉体と精神を育みなさい、思いやりの心を持ちなさい、知彗を使いなさい(自分で出来ることは自分で考えてしなさい)ということだと思います。
この回答への補足
喜怒哀楽をはっきり示しなさい。と言う感じでしょうか。たしかに、喜怒哀楽はとても大事だと思います。快楽の道として、出家した後の厳しい修行は苦行の道として、それは両極端に過ぎる。その両極を避けなさいと言った。しかし私は「そのどちらの極限も知らないものがどうやって中道を知ることができるのか?」と思ったのです。
したがって真ん中を中道というのではなく、短絡に両極に走ることを戒めたのでしょうか。それが釈尊自らの出家前の優雅な生き方と、それを一転した苦行の道から導いた中道という意義でなければならないと思いました。
No.1
- 回答日時:
王族に生まれ、何不自由ないセレブな生活と、
死にかける程の壮絶な苦行の、両極端を経験した釈迦世尊。
この両極端を味わった結果として出てきたのが、
苦行に偏っても何も得られないと言うセリフであり、
両極端を知る釈迦世尊が言うからこそ、
このセリフには重みがある訳です。
しかし、中道とは両極端を経験し、
それを超越した悟りの見地から生まれた言葉であって、
両極端を経験する事、それ自体を指す言葉ではありません。
したがって、極端から極端に生きるのが中道と言うのは、
言葉の意味としては、正しい様で正しくないです。
厳しい修行をしている時というのは、
これは絶対的に価値があり、意味のある事なんだ、
と思い込む事が多いものです。
その錯覚が「主義」を生み出し、
むしろ極端である事を良しとする、
歪んだ見解を持つに至るケースも多々あります。
実際、専門僧堂という所は、この手の狂気に侵され易く、
修行と称してムチャクチャな事をやっています。
果たして、これを中道と言ってよいものやら。
個人的には、苦行の先には何も無いと知る事は、
愚かしい「主義」に陥る事の予防になると思うのですが・・・。
この回答への補足
中間も正しいようで正しくないとも思うのですが、果たして、生温い中間で何かを悟れるのでしょうか?心響く何かを得られるのでしょうか?清らかで明快で直く正しい認識、判断はあるのでしょうか??
もはや虚しく「無常」って言葉になってしまうのでしょうか?
ある修行僧の間では、今日でもなお、極端から極端に生き、中間はない。ことを刹那に守っている修行僧もいるわけで、ある意味、奴隷にもなれるし、極めて重圧な仕事を任せられる立場でもある。
身体はとても緻密(丁寧)で繊細な筋肉の締まりをしており、肌は黄金のように光輝いている。不思議だ…
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