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中世にはヨーロッパ有数の大国だったポーランドとリトアニアが没落し、挙句の果てには周辺国に分割滅亡という憂き目にあってしまった原因は何なのでしょうか?

A 回答 (5件)

ポーランドの衰退の根本的原因はセイムと呼ばれる身分制議会にあります


議会と言っても市民(都市)が参加できる民主的でもなく、立法するわけでもないです
アメリカの政治学者エアトマンは18世紀の欧州諸国の政治体制を4つに分類し
プロト近代官僚制の
・官僚的議会主義(イギリス)
・官僚的絶対主義(プロシア、ドイツ諸領邦)
腐敗し官職などを家産化した
・家産的絶対主義(革命前のフランス)
・家産的議会主義(ポーランド)
と分けています

ポーランドの議会の目的はシュラフタ(中小貴族)の利権を阻害する王権を阻止することで
選挙制で選ばれる王は弱体で官職はセイムに拠点を持つ貴族の私的所有物として家産化され
他の欧州諸国では官僚制や常備軍が整備され中央集権化されているにも関わらず
セイムはそれを極力阻害し健全な行政機能が施行できないまでに麻痺しました

さらに議会内の少数のマグナート(大貴族)が形成されると
自由な拒否権(liberum veto)と呼ばれる全会一致原則を導入しセイム自体も機能不全になり
大洪水といわれるロシア、スウェーデンなど外国の侵入や分割を招くのです

リトアニアはポーランドとは違います
そもそも合同国家の領土の大部分はポーランドでなくリトアニアが独力で領域を獲得したところです
リトアニアのアルギスダス大公が現代のベラルーシ、ウクライナにあたる領域を制圧しキプチャク・ハン国も破り
モスクワにも三度も攻め入っています(ポーランドとはガーリチの領域を巡り対立関係)
次代の甥のヴィタウタス大公もスモレンスクまで領域を拡大
彼等二人は今のリトアニアでも英雄ですが

ポーランド王になったアルギスダスの子ヨガイラはポーランドに国を売ろうとした売国奴とされます
もともとポーランド貴族は広大なリトアニア大公国の領域に進出したいこともあり
カトリックへの強制改宗など強いるなどしました

ヴィタウタス没後、リトアニアは衰退し始めロシアの攻勢を前に
16世紀ルブリン合同、リトアニアのポーランドへの吸収併合
ポーランドによる内国植民地化によりリトアニア人農民は
ポーランド貴族とポーランド化したリトアニア貴族により隷属化され完全衰退してしまうのです

長文失礼致しました
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すみません


打ち間違えました

アルギスダス大公→アルギルダス大公


失礼致しました
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選挙王政はひとつの原因かもしれません。


しかし、たしかにヘンリック・ヴァレジのような無責任な君主もいましたが(こいつは王位を投げ出して逃げた)、英邁な君主もでています。
ジグムント3世は、スウェーデン対策には失敗しましたが、モスクワを占領しました。今でもポーランドの人は言いますよ、ナポレオンも、ヒトラーも失敗したが、ポーランド人だけがモスクワを占領した実績がある、ってね。
ヤン3世ソビエスキは、トルコの侵攻からウィーンを守った、ヨーロッパの救世主です。ソビエスキの盾、というのがいまだに星座になって残っているくらいです。

ですから、私は、選挙王政より大きな原因は、ライバルの台頭だとおもいます。
ライバルとは主にスウェーデンとロシアです。大洪水時代、と歴史用語でいうのですが、17世紀にロシアはウクライナへ攻め込み(この時代ウクライナはボーランドだった)、スウェーデンにもチェンストホバまで攻め込まれました。ここで押し返しましたが、チェンストホバってポーランドの南の方です。
私は、これがボーランドの没落の始まりのように思います。

スウェーデンは、ロシアやデンマークとも争っていたのですが、ポーランドが漁夫の利を得る、と言うわけにも行かなかったんですね。バルト海沿岸はスウェーデンの影響下に入るし、プロイセンは独立して行ってしまうし、ウクライナも結局ロシアに半分取られてしまいました。
その後、この地域のメインプレーヤーはロシア・プロイセン・オーストリア、ということになっていきます。

将に「盛者必衰の理」ですよ。
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中世から近世になるということは、大雑把に言えば、貴族連合から中央集権国家になるということです。


中央集権の核が王権となります。

ポーランド=リトアニア
に関して言えば、ヤゲロー朝が続かなくて選挙制になったこと。
そのために、中央集権になれなかったのでまとまらなかったということになります。
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ポーランド史はほどほどに難しいですね。


「シュラフタ」について調べてみてください。
ポーランド貴族のことです。ポーランド政治は、シュラフタの民主政治といわれたそうです。
まとまれなかったという意味です。
だから、外部の干渉の余地もたくさんあったのですね。エカテリーナの「愛人」といわれるスタニスワフ・ポニャトフスキもそうした文脈の中で説明するでしょう。
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