プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

 意思疎通がさえぎられていると感じるとき 人は気力が萎え 怒りも憤りをも通り越して 心が凍った状態になりがちです。
 
 ( a ) コミュニケーションの問題――または コミュニケーションが問題――だと見るという場合。

 ( a-1 ) 父親または母親との話が 実質的に途絶えたゆえ。埋められない溝が出来てしまった。

 ( a-2 ) 兄弟姉妹または身近にいる人たちとの話が 成り立たなくなっている。

 ( a-3 ) 学校の先生とのあいだが うまく行かない。

 ( a-4 ) 職場の上司との関係が もはや人間的ではなくなってしまった。

 ( a-5 ) 政治家や官僚などのアマテラス公務員との関係がこじれた。

 ( a-6 ) マスコミとの関係がおかしくなり 相手とのチカラ関係で こちらが不利になってしまっている。

 ( a-7 ) アマテラシテ天皇との関係が――想像上だとしても―― しっくり行く感じがしない。

 ( a-8 ) 外国との関係。アメリカ? 北朝鮮? 中国? ・・・

 ( a-9 ) あるいは 自分自身との関係?


 ( b ) そのほかの理由や事情によって われらが魂は去勢されているという場合。

 ( c ) いやいや われわれは魂が去勢などされていない。バカも休み休み言えというご見解の場合。

 ・・・・


 展望としては 人間の存在論ならびにコミュニケーション論そして日本人論といった主題だと考えます。




 質問者のたたき台は これまでにおこなった設問の趣旨説明やそこでのやり取りが その内容となるとは思います。ここでは特にはありません。

 ひとつだけ取り上げるとすれば それは――最近にも設問したのですが―― 《わたし》の問題です。すなわち ( a-9 )の項目にあたります。
 日本語では《わたし》なる存在について その《わたし》のほかにわざわざ《自我》という用語をこしらえて これによって自己の言わば確認をおこなうクセがついてしまったこと。
 すなわちそれは 《自我》という用語を持ったことによって 《わたし》が 内部分裂してしまうとは言わないとしても わが自己還帰にとってきわめて不可解な道筋をたどらざるを得なくしてしまっているのではないか? 

 自己到来すなわち《われがわれに還る》というときのわれは ほかの誰れでもなく《わたしはわたしである》というその我れであることに決まっています。
 それを わざわざ《自我に目覚める》だとか 《自我の確立が弱い》だとかといった遣い方において表現するクセがついたことによって 果たして《わたし》は どこにいるのか? どこに行ったのか? といぶからなくてはならない情況を生んでしまった。

 こんな《自我》などという自己確認は おそらく日本人には なじみづらい。自我はせいぜいが 自己主張がつよいとか わがままを押し通すとかの意味合いにしか映らない。したがって世の中は 《自我を確立して――アマアガリして・またはアマアガリしたと同じ気分になって――街を颯爽と歩くアマテラス族》とそのほかのスサノヲ市民一般とに分かれてしまった。

 これら二分された人びとのあいだで 話が合うかと言えば なかなか合わない。けれどもこのように世界が二分されるというのは ただひとつの原因すなわち《自我》などという用語を 日本語では持ってしまったからではないか? 不必要で余分な分裂であるのではないか?
  
 アマテラス公民圏とスサノヲ市民圏との二階建てなる構造は その歴史も久しい。けれども 元はと言えば 両者はじつは じつの姉と弟どうしである。と神話はおしえる。それが 階層に分かれているとすれば その問題だけでよいはずだ。
 《自我》なる問題を余分につけ足してしまっているのではないか? おまけに今ではその検証がなされ得ないと考えられている《無意識》なる仮説も いまなお・どうしてなのか からまっている。

 ひとことで言えば アマアガリ・シンドロームと 自我ないし無意識症候群とが からまってしまっている。ほどくにほどけなくなってしまって われわれのあいだのコミュニケーションは 絡みに絡まってしまった。



 いざ われこそはゴルディオスの結び目を解くアレクサンドロスなりという方 またはそうでない方 ご見解をお示しください。
 

A 回答 (16件中11~16件)

長いお礼ですね。

私は、あなた個人の人生相談だと解釈し、お答えしました。私はあなたがお書きになったことを、ある種、精神分析的に読んで示したのです。しかし、それが受け入れられないようです。当然かもしれません。分析されて、それを受け止められる方は稀です。

>いくら去勢と言っても《魂が》のことです。☆ この場合にも 同じことですが これは《比喩》ではないということです。

似たようなフレーズが何度も反復されていますので、一箇所しか繰り返しません。あなたは比喩でも、象徴的機能もこの言葉は持っていないとおっしゃる。しかし、去勢を問題にする時点で、男根主義者の枠組みでモノを見ている指摘するのは、論理的に言って、当然だと思うのです。「魂が去勢される」ということは裏を返せば、魂はペニスを有している、ということです。この象徴的なペニスは、ファルスと言うべきものです。他に解釈の仕方があるのであれば、どうぞ説明してみてください。

もしかしたら、「去勢」という語の選択が、あなたの元々の言いたいことからすれば、かけ離れているのかもしれません。しかし「魂が萎えている」という表現も、ペニスを連想させますね。どうも男根主義者的な枠組みに収まっている方のようだ、と指摘し続けることはできると思います。
無論、去勢は一語でしかありません。したがって、そこだけに拘泥すると、議論を矮小化するという反論もあるでしょう。しかし、一が、全を示しているということがあるのではないでしょうか。しかも、それは表題になっているのですから。そこで、敢えて、あなたがその枠組みを抜け出せたら、お悩みが解消されるのではないですか?と提案して見せました。

もっとも、ファルスが消失したと騒いでいる人だとか、鬱屈とした思いに陥っている人は、日本に、そして世界中に、いくらもいることでしょう。個人の話ではなく、あくまで一般論として捉えたいというのなら、どうぞ、そうしてください。そういうことに意味があるのかどうか、私はわかりませんが。去勢された仲間を募り、集合させ、傷の舐め合いであるフェラチオのような営みでも行おうというのでしょうか。

私をカウンセリングしてくださるそうですが、逆に、私はあなたを分析しておきながら、カウンセリングしてあげようという気はありません。前に書いたように、ファルスを生やそうという営みには「反吐が出る」わけですから。私から見ると、あなたがこうやって質問を投稿し続け、議論をしていることも、ファルスを再生しよう、生やそうという営みにしか思えていません。
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この回答へのお礼

 ☆☆(No.6お礼欄) ~~~~
  まづ魂の去勢は 直ります。自然本性としての人間つまり《わたし》が存在していますから。(そこに魂などないという議論になれば 別でしょうが)。しかも 魂の交流と 《去勢》の元の意味がかかわる両性の交わりとは 明らかに事態は別です。
 いいですか? 《ファルスが再び生えてくる》かどうかの問題と 自然本性としての魂が萎えてしまっている状態が元の姿に直るということとは 別です。だから 比喩ではないと言ったのです。(言いかえると 比喩として派生した意味を 元の意味からまったく切り離して用いていると言ったのです)。
 ~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ まづは この繰り返しにて――おっと まりえーめさん ご回答をありがとうございます―― お応えせざるを得ません。

 あなたの比喩なる用法は 次のような思惟ないし想像のつながりにおいてなされています。一般の思惟の形式をも交えて説明します。

 《去勢》という言葉の意味と用法にかんして 生成と派生とさらにそこからの派生があったようなのです。

  1. 動物〔ならびに 時として人間〕のオスの生殖能力を削ぐ。
 
  2. その結果 生殖行為にかんして気力が萎え 無縁のような状態となる。

  3. ただしそこから派生して 人間について用いるときには 《気力が萎え 相手に対するときや環境に応じるときの自己表現をおこなうに際して反発するチカラも応答する意志もなくなっている状態》といった意味に用いるはずです。ここまでは 私見としての一般論です。

  4. そうして――ここからが あなたの発想だとわたしが見たそれですが―― (3)の意味で《魂が去勢された》と用いるなら そこからは 再び元に戻って 《魂にも 生殖の機能ないし能力があるはずだ》と見なす。そうして だとすれば 《魂にとってのオスの生殖器が不全に落ち入ったことだ》と比喩的に表現しても通用するであろうと考えた。

  5. なぜ 初めの意味に戻るのか? (3)の派生段階ですでに 人間について用いるときには 生殖行為ないし両性のツイ(対)の関係からは離れたはずなのです。


 ☆ さて どうでしょう?
 いやいや(4)のさらなる派生を見るのは 精神分析としては 必要であり重要であるということでしょうか?

 もしそういう分析だとすれば こう反論し得ます。
 
  ○ それはあなたご自身の精神分析として現われたものでありましょう。

 と。つまりこのことによってわたしが言いたいことは 精神分析は――特にその《無意識のなせるわざ》などという手法を用いるならば―― 話にならない。これです。あるいはつまり 延々と火星にまでつづく話になる。これです。つまりは 水掛け論に終わるという意味です。


 ★ ~~~~~
 前に書いたように、ファルスを生やそうという営みには「反吐が出る」わけですから。私から見ると、あなたがこうやって質問を投稿し続け、議論をしていることも、ファルスを再生しよう、生やそうという営みにしか思えていません。
 ~~~~~~~
 ☆ という発想と論理で対話をしようとしても 話にならない。これです。
 人間には《意識されていないが 内面においてはその動きがある》といったバカ論理を持ち出すなら 話は 土星にまで続きます。そうはお考えになりませんか?


 ★ 分析されて、それを受け止められる方は稀です。
 ☆ この精神分析屋の手法ほど 人間を貶めたおのれの心の卑劣な考えはありません。《無意識》なる仮説に担保を取っているのみです。検証しえない仮説でありましょう。目覚めてください。
 だから――ひとつの原因として―― 《自我》を問題にしています。そしてまさにこの精神分析に対する根本的な批判が もし《人びとはその魂が去勢された状態にある》ならば 必要であり肝要であるのではないか。こういう問い求めになっています。

お礼日時:2012/02/02 10:23

>意思疎通がさえぎられていると感じるとき 人は気力が萎え 怒りも憤りをも通り越して 心が凍った状態になりがちです。



上記の文に注目すれば、ご質問は、コミュニケーションをとりたい相手と、それが叶わなかったということに読めます。そしてその感情は、失恋と似ていると質問者は捉えてらっしゃる。というのも、「去勢」と表現し、男根のイメージを喚起しているからです。

比喩を更に展開すれば、インポテンツになってしまった、とおっしゃるわけです。コミュニケーションがセックスではなく、オナニーになってしまった、と。
いや、オナニーでさえないのかもしれません。ファルスはもうないのですから、手に握るべき男根もなくなってしまった。男でも女でもなくなってしまった。それは哀しいことには違いありません。そこで、去勢された者の取る行動と言えば二つです。
・去勢したものを恨み、男根の返還要求をする、
・去勢されていない状態を懐かしむ。
事実、返還要求は、天皇だとか、外国だとか、(よく知りませんが)様々なものに向けられています。さらに質問者が他の問いで、男根を握りしめて射精する少年のフィギュアに関心を抱いています。これは、まったく当然の流れかもしれません。「本来あるべき」と考える質問者の姿だからです。それはファルスを握りしめ、精液である言葉を世界に散布しようという理想の姿なのです。

しかし、ペニスを握りしめた男性が、女性を犯すイメージをもって、対話を挑まれれば、誰だって嫌になります。強姦者とみなして、相手のファルスを破壊する方もいらっしゃることでしょう。そうでなければ、オナニストとして、忌み嫌われることでしょう。コミュニケーションの問題に去勢という比喩を出す時点で、考え方が封建的であり、あまりにもフロイト―ラカン的なのです。

さて、第三の道はないものか。あるいは、失われた男根を愛撫してくれるような方を見つければ、ファルスが再び生えてくるかもしれません。しかし、相手は御奉仕する女性の役割を演じるカウンセラーのイメージとして認識されているということになります。さもなくば、ファルスを失ったもの同士が、傷をなめ合っているのかもしれません。
ともあれ、何とも男性主権的なお話の枠組みで、質問者の去勢云々という問題提起には、反吐が出る次第です。要するに、去勢云々などという考えを妄想とみなして、根本からやめれば、ゴルディオスの結び目は切れることでしょう。
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この回答へのお礼

 まりえーめさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 この問いは 同じような趣旨ですでにいちど提出しています。でも今回は 少しその趣旨を述べ直したときそれをめぐっておこなう対話――つまりここの規約に言う情報交換――に関しては 姿勢だとか角度だとかが違って来たというように思いました。

 それは こうです。――と言って いまご返答におよぶ前に舞台裏の話を交えるのですが―― 日本の社会として国としてどういう方向へすすむべきか といった総論としてではなく そういう姿勢や角度ではなく 個別の問題や情況を持ち出してそのお話が聞けるのではないか。こう思ったわけです。つまりそういう角度から 趣旨説明をしたことになったようだと思ったわけです。いちいち コミュニケーションの相手を羅列していましょう? それです。

 ですから 少々皮肉っぽく言えば まさにその仕組まずして成った思わくが当たったと思うということになります。つまりは わざわざこのようにつうじょうは失礼な言葉を差しはさむのは そちらの回答姿勢にまづそれが現われていると感じたそのままで まづは受け答えをした。こうなると思います。すみませんが まづは そういう玄関でのやり取りです。



 と言いますのも そもそも問いは

 ○ われわれは 魂が去勢されていましょうか?
 
 です。いくら去勢と言っても《魂が》のことです。
 ☆☆(趣旨説明欄) 意思疎通がさえぎられていると感じるとき 人は気力が萎え 怒りも憤りをも通り越して 心が凍った状態になりがちです。
 ☆ この場合にも 同じことですが これは《比喩》ではないということです。


 どういうことか? 
 言いかえると こうです。ご回答は 一つの受け取り方としては

  ( c ) いやいや われわれは魂が去勢などされていない。バカも休み休み言えというご見解の場合。

 に相当するかと思われますが 必ずしもそうでもない。それはなぜか?
 つまりまづ次のようなご判断からは この( c )の場合の見解だと受け取れそうなのですが どうもそうでもないらしい。
 ★ 要するに、去勢云々などという考えを妄想とみなして、根本からやめれば、ゴルディオスの結び目は切れることでしょう。


 ☆ はてさて とすると どうなるのか?
 まづは ご回答内容を推し測ってみて 次のようなことでしょうか?

 ○ ~~~~~~~~~~~
  魂が去勢されているという見方は

   ――あっ ちなみにこの《魂が》の場合は おそらく決して
   《比喩》ではないのではないか? と考えているという意
   味です。
    《比喩》を言うなら すべての言語表現は 比喩になり
   ましょうし 魂についてなら 気力が萎え 反発する心も
   チカラもなくなっている状態であり これを比喩だとして
   扱う謂われはまづないでしょう。
    むろん去勢という言葉そのものは オスの生殖能力を削
   ぐということですから その意味からすれば いま使って
   いる用法も 用法じたいは 比喩から来ていることは分か
   りますが。――

  魂が去勢されているという見方は そもそもの言葉とその用法からすれば 比喩であって ならばこの比喩としての遣い方を 意志疎通の不全という状態に用いるのは まちがっている。けれどもその用法を離れれば いま指摘しているコミュニケーション論の問題は 現実である。
 ~~~~~~~~~~~~

 ☆ こういったお考えなのでしょうか? それともその《現実の問題である》というのは 質問者ただ一人に当てはまるに過ぎない。こういうお考えなのでしょうか?


 こうおっしゃっています。
 ★ さて、第三の道はないものか。
 ☆ これは 人びと一般にも交通不全が当てはまると見てのことか? それとも 質問者であるわたしだけに向けた回答であるのか?

 次のような表現にまで及ぶところを見ると 《第三の道》すらないということかも知れないとまづは 思います。
 ★ あるいは、失われた男根を愛撫してくれるような方を見つければ、ファルスが再び生えてくるかもしれません。しかし、相手は御奉仕する女性の役割を演じるカウンセラーのイメージとして認識されているということになります。
 ☆ つまり――問題は 質問者ただ一人のことか それとも一般にも当てはまることかを措いておいて―― これでは 比喩にすらならない。のではないか? いいですか? いまの問いは 《魂が去勢されていましょうか?》です。

 まづ魂の去勢は 直ります。自然本性としての人間つまり《わたし》が存在していますから。(そこに魂などないという議論になれば 別でしょうが)。しかも 魂の交流と 《去勢》の元の意味がかかわる両性の交わりとは 明らかに事態は別です。
 いいですか? 《ファルスが再び生えてくる》かどうかの問題と 自然本性としての魂が萎えてしまっている状態が元の姿に直るということとは 別です。だから 比喩ではないと言ったのです。(言いかえると 比喩として派生した意味を 元の意味からまったく切り離して用いていると言ったのです)。

 ですから
 ★ 封建的 フロイト―ラカン的 男性主権的
 ☆ とは無縁です。ファルスもフィギュアもへちまもありません。そこのところをようく読み取ってください。

 でもあなたにとっては そういう問題であるかも知れない。そういう質疑応答が出て来るかも知れないとわたしが予感したことが当たっていたかも知れない。
 わたしはカウンセラーではありませんが 対話にはどこまでも応じます。
 そしてもし 以上のように受け取ったわたしの見方が勘違いであったとしたら お手数ですがいまふたたび――上にのべた質問者の問い求めのあり方をあらためて斟酌して―― ご見解をのべてください。
 このように考え このようにお応えします。

お礼日時:2012/02/02 08:51

 ○ 自我が仮りにあると思っている人の場合 それは じつは 《わたし》なのであるということ。

それ以外にありえないということ

 これです。すべて《わたし》どうしの意志疎通で社会は動いています。自我の原語の《 das Ich ( the I )》は 《わたしなるもの》です。多少 抽象化したということではないでしょうか? 抽象化したということは 一般化して捉え得るかたちになりましょうから。
 でも《わたしは 誰々です。( Ich heisse so-und-so. / I am so-and-so. )》というときの《わたし》なのですから 自我はないと言っても ちゃんと個々に人間存在はあります。思惟し判断する主体です。むろん 内省もおこないます。
 《わたし》が内に省みるのであり 《自我》が内省するわけではありません。
 《わたし》が 行動を起こすのであり 《自我》がそうするのではありません。
 行動を起こし判断をくだすのも 自我ではなく わたしであり わたしの意志です。

 このように言っているのみです。

>ここの部分は同意されていると理解しました。ただ表現として私の「自我」があなたの《わたし》で
>私の内省された後の「矯正された自我」があなたの《自我》に相当していると思います
>ですから、《自我》=「矯正された自我」にとらわれすぎて《わたし》=「自我」を喪失しているアマ
>テラス公民圏を嘆いておられるのだと。スサノオ市民圏は、逆にその内省対象である《わたし》=「自
>我」を内省を嫌うことで見向きすらしなくなると(私にはそう読めます)

 ★ ~~~
 ・・・書きたいことは
 自我も神様と同じく信じるものだけにある
 みたいなものということではないかと思います
 ~~~~~
 ☆ まさか。《わたしなるもの》が どうして《神》と同じものとして扱われましょうや?
 だから 日本語の自我は おかしいのです。
 何だか特別のものとして扱われているのではないでしょうか?
 その昔 輸入したときにただただ うまく摂取できなかっただけなのではないか?
>いいたいことのニュアンスが違います。分かりやすいから神様としましたが。鰯の頭でも構いません。
>神様を冒涜してしまったと仰られるなら訂正して謝罪します。そのようなつもりはありません。
>信じられることがあれば、それがなんであってもそこから出発できることを申し上げただけです


 もともと《わたし》が存在しています。けっして
 ★ ~~~
 最初がほとんどないかおぼろげである自我から出発するなら、
 その結果はないと想像するのは難くないと思うのです
 ~~~~~
 ☆ などということはあり得ません。《自我》派が そのように自我をはづすと もう何もないと思ってしまっているだけなのだと考えます。
 一億皆が催眠術にかかってしまった。だけのようです。
>一億と書かれてらっしゃるところなど、一般化が過ぎると思います。世の中の人はそんなに一様
>ではないと思います。一部の人は自我という建前(矯正された自我をこう表現するのはおかしくないと
>思うのですが)は建前と分かっていて、社会生活上ではそれしかないかのように生活しているのでは
>ないでしょうか?それが社会から最大評価されるものと期待され、それに応えることが実生活を悠々と
>過ごすための最大の糧になるので、仮面をかぶって生活していると思います。(もちろん忘れてしまっ
>て、何もないと思っている人もかなりいるとは思いますが)


 ★ ~~~
 個々人の資質というより、社会自体が他の社会や生存環境との生存競争による淘汰を
 かいくぐる為に、そうなったほうが優位だからということ、
 蜂が何匹もメスがいるのに女王蜂は一匹だけ、女王蜂が死んだら、別のはたらき蜂が女王蜂になる
 そういうシステムが生き残るためにベストなのだということです。
 ~~~~~
 ☆ これは 人間の世界では別なのであり したがって蜂の世界と同列に見ることは みづからによる人間の蔑視であり 自虐的な人間観でありましょう。
 ただ これまで経済が成長発展する過程では やむを得ずその問題を見て見ないふりをして来た。ということだと考えます。それだけのことだと考えます。
 その過程では たしかに得体の知れない《自我》をたずさえていたほうが 何かと便利だったのかも知れません。《わたし》と別の存在のようなものが何となくあたまの中にあると 先へ先へと急ぐときには 効果的であったのかも分かりません。

 ですから 次のお考えも このこれまでに国として社会としてたどって来た道にあっては 当てはまるのかも知れません。
 ★ ~~~
 #3で書きましたことは、現時点の日本という範囲で多くの方がとらわれているだろう勘違いについて書いたもので、一人一人の個々人について全てそうなのだというつもりはもうとうありませんし、
 ~~~~~
 ☆ ですからここからさらに一歩すすめていただいて 《自我》史観は あたかも人びとが馬車馬のごとくはたらきにはたらいていたときのものであり じつは 間違いであった。こういうふうに捉えていただくのがよいのかと考えます。
>そう思われるのは、現在の社会がリセッションの嵐の前で、それでも《自我》を維持して頑張ってる
>ことへの滑稽さを感じるためであって、高度経済成長の時には、思っていてもおくびにも出せない主張
>だったのではないでしょうか?この《自我》=「矯正された自我」を堅持することが、よりよかったこ
>ともありえたのです。そのときに《自我》史観が間違いだといってそれが理解されたなら、逆に衰退の
>憂き目を見ることがないとはいえないはずです。


 ひととおり今回の主題ないし論点について たぶん互いの了解を得るまでに到ったのではないかとさえ 勇み足で思います。さあ どうなんでしょう。
>すみません。互いの了解を得ようとは思いません。それは土台無理です。
>《自我》の矯正でさえ、百人いれば百人のやり方があり、言葉を介して理解できるほど、社会の捉え方
>は各人ほとんど違うものです。違うものの性質のみを記号となる言語でやりとりしても、社会の捉え方
>が異なっている限り、合意に至っていてもやっぱり人によって違うものなのだと思います
>私が思っていることに、何がしら感じることがあれば幸いだと思います。ここは質問回答のサイトです>が、少なくとも哲学のカテだけはそのような回答しかえられないものだと思いますし、私の回答も
>そのようなものと思ってください。
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この回答へのお礼

 ★ ~~~~~~~~
  ☆  ~~~~~~~~~~~
   ○ 自我が仮りにあると思っている人の場合 それは じつは 《わたし》なのであるということ。それ以外にありえないということ

   これです。
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ここの部分は同意されていると理解しました。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ でしょ! だから――おっと えいちあーれすさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。―― だから すでに互いに了解が出来ていると思ったのです。

 ★ ~~~ 
 ただ表現として私の「自我」があなたの《わたし》で
 私の内省された後の「矯正された自我」があなたの《自我》に相当していると思います
 ~~~~~
 ☆ いえいえ。わたしに《自我》という言葉はありません。人がそのように使っているであろう内容として説明に用いているだけです。そして
 ★ 矯正された自我
 ☆ が分かりません。はじめて聞きます。このあと分かるようになります。

 ★ ~~~~~
 ですから、〔* ぶらじゅろんぬ( br )の用いる〕《自我》=〔* えいちあーれす( hr )さんの用いる〕「矯正された自我」にとらわれすぎて
 《わたし》( br )=「自我」( hr )を喪失しているアマテラス公民圏を嘆いておられるのだと。
 スサノオ市民圏は、逆にその内省対象である《わたし》( br )=「自我」( hr )を内省を嫌うことで見向きすらしなくなると(私にはそう読めます)
 ~~~~~~~
 ☆ でしたら こうでしょうか?

 1. 人が自己到来するその《われ もしくは わたし》は 生まれたときからの自然本性としての《わたし》と そしてその自己をさらに実際に社会的な存在として形成したあとの《自然本性プラス社会性なる存在としてのわたし》があるはずだということでしょうか?

 2. 質問者の考えでは 《社会性(もしくは 社会的な関係性)》は もともと潜在的にだとしても 自然本性としてのわたしにそなわっていると見ます。つまり どこまでも行っても わたしはわたしである です。《おのれ・自己・自分》ということはあっても なんでわざわざ《自我》と言わなければならないのか 解せません。

 3. つまりわざわざ《自我》という用語を持ち出してこれを《確立》したと言ったときには 自然本性としてのわたしを喪失することがある って言うんでしょ? 特にアマテラス族は。だったら けっきょく《自我》というような余分なものをわたしに付け足したのではないですか? 要りませんし おそらく《押しの強いキャラクター》になっただけなのでは?

 4. 内省をおこたって わたしの社会性あるいはつまり人と人とのつながりと捉えられる関係性 これが 稀薄であったり そもそも形成されていなかったりするのは まづい。こういうことですよね? 《自我》という言葉などは使わずにきちんと表現できるように 日本語でも 成っているのではありませんか? 

 5. つまり《自我》などという用語は カッコウをつけるためにあるだけであり むしろ余分なものであって 余分が昂じると 押しの強い・つまりいわゆる我の強い・ただただ声だけが大きい単なる資本主義的人間が出来るだけではありませんか?




 ★ 〔* 自我なら自我として〕信じられることがあれば、それがなんであってもそこから出発できることを申し上げただけです
 ☆ 神の冒涜うんぬんは 思ってもいませんでしたし いまも考えていませんが なんで《わたし》のことが《信じる》対象になるのか? これが分かりません。
 たぶん こうでしょうか? つまりは わたしは自分に自信があるか? と問うとき そのみづからについての自信なり発言や行動についての確信なりを強めるために 《信じられるものとして自我》を持ち出す。でしょうか?
 自信や確信は あくまで 《わたし》の自乗ないしその連乗で済むことです。

  1(=わたし)=1 :(わたしはわたしである)

  1x1=1 :(わたしがわたしする)

  1x1x1x・・・x1=1 :(わたしは わたしの冪をつくって生きる)

 このように数として一であるわたしは どこまで行っても 一でありわたしであり 変わりません。社会関係性がより大きく開発されて行くだけです。そこにわざわざ自我を滑り込ませるのは 小説家くらいでしょう。




 つまりは どうもこのような余分なものだが 世の中を渡って行くには 自己満足をもたらすけっこう効果的な飾りである。といったところでしょうか?
 ★ 一部の人は自我という建前(矯正された自我をこう表現するのはおかしくないと思うのですが)は建前と分かっていて、社会生活上ではそれしかないかのように生活しているのではないでしょうか?
 ☆ であるようなのですから。

 ★ それが社会から最大評価されるものと期待され、それに応えることが実生活を悠々と過ごすための最大の糧になるので、仮面をかぶって生活していると思います。(もちろん忘れてしまって、何もないと思っている人もかなりいるとは思いますが)
 ☆ これで 証明できました。《自我は 余分なものである》と。見栄っ張りだけが飛びついて行っているのに過ぎないと。



 ★ ~~~~~~~~~~~~
  ☆ ~~~~~~~~~~~~~~~
   ですからここからさらに一歩すすめていただいて 《自我》史観は あたかも人びとが馬車馬のごとくはたらきにはたらいていたときのものであり じつは 間違いであった。こういうふうに捉えていただくのがよいのかと考えます。
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  そう思われるのは、現在の社会がリセッションの嵐の前で、それでも《自我》を維持して頑張ってる
ことへの滑稽さを感じるためであって、高度経済成長の時には、思っていてもおくびにも出せない主張
だったのではないでしょうか?
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ いいえ。ばかばかしいと思っていました。口にも出しました。そうすると たいていは――わたしがまだ二十歳代だったからだと思いますが――取り合わないのですが たまにきちんと答える人は こう言いました。《衣食足って礼節を知るというぢゃないか。いまは経済を向上させないことには話にならない》と。
 衣食足ったあと おそらくその当時とくらべて礼節はよりわるくなりました。(一般論ですが)。

 ★ この《自我》=「矯正された自我」を堅持することが、よりよかったこともありえたのです。そのときに《自我》史観が間違いだといってそれが理解されたなら、逆に衰退の憂き目を見ることがないとはいえないはずです。
 ☆ でもけっきょく今になって より人間的な資本主義を望むという声が上がって来ています。経済を人間的な・自然を大切にするいとなみにしようと。

 どれもこれも 《自我》などという翻訳をしたからいけないのです。


 まんざら
 ★ 互いの了解を得ようとは思いません。それは土台無理です。
 ☆ でもないでしょう? どうでしょう?

お礼日時:2012/02/02 07:45

大変長いお答えありがとうございます


あまりにもご疑問の中身、もしくは中身の表現が多岐にわたって展開されますので、
お礼で書かれていること回答すべきなのか?全部に回答すべきなのか、よく分かりません。

誤解なさっているかもしれないことを、一つ申し上げておきたいのですが、
#3で書きましたことは、現時点の日本という範囲で多くの方がとらわれているだろう勘違いについて書いたもので、一人一人の個々人について全てそうなのだというつもりはもうとうありませんし、
おそらく質問者様自身は私の書いた二つのカテゴリーのどちらにも属さないと考えます

あと、私の質問に関して近しいご疑問について二つばかり書きます

繰り返すのは、個々人の資質というより、社会自体が他の社会や生存環境との生存競争による淘汰を
かいくぐる為に、そうなったほうが優位だからということ、
蜂が何匹もメスがいるのに女王蜂は一匹だけ、女王蜂が死んだら、別のはたらき蜂が女王蜂になる
そういうシステムが生き残るためにベストなのだということです。たまにはそうならない蜂の群れも
あろうかと思いますが、そのような群れは生き残れなかっただけです
でも現状だと、この分離自体が逆に淘汰されてしまう原因になってしまうかもしれません

自我などもともとないと思ってしまうのは
内省をする前に、自我が確立できていない/自分の自我に疑問をもっている、状態から内省するためです
内省とは、何かをしようとする/してきた後に省みるもので、
元がない状態からそれを切り分けようとすればわずかにあった自我も微塵と化してしまうでしょう
必ずしも自我だと確信がもてなくても、妄信であっても自我を確立/仮定して
その後に精査/内省することで自我が磨けて、意味のある内察が可能となるのではないでしょうか?

自我があると思っても、無いと思っても結果として出てくるものは現実の自身の環境変化によってのみ
評価が下されるわけですので、極論すれば結果がゼロだったら自我はない、何が有意義であれば自我が
あるというだけだろうと思います。

最初がほとんどないかおぼろげである自我から出発するなら、
その結果はないと想像するのは難くないと思うのです

書きましたが、結果がある人でも、自我は仮定かもしれませんし、その意味では自我はないのかもしれません。
しかしそれで自我は無いと結論付けると、そもそも内省すること自体もあってもなくてもいいのですし、そういったことを考察すること自体も意味がありません。

ここで自我はないのかもとお嘆きになるのも、自我があって欲しいという裏返しではないでしょうか?
そうでなければ質問もする必要もないし、そのことを考察することも無駄なことになります

若干、明確な回答になっていませんが、書きたいことは
自我も神様と同じく信じるものだけにある
みたいなものということではないかと思います

その他の質問されたいことが、長いお礼の文章には別の質問も含めてあるのだと思うのですが、
あまり私が思い至らない話もあるようですので、ご勘弁いただけたらと思います
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この回答へのお礼

 ていねいにご返答いただきありがとうざいました。

 そうですね。
 いちばんの問題は こうだと思います。

 ○ 自我が仮りにあると思っている人の場合 それは じつは 《わたし》なのであるということ。それ以外にありえないということ

 これです。すべて《わたし》どうしの意志疎通で社会は動いています。自我の原語の《 das Ich ( the I )》は 《わたしなるもの》です。多少 抽象化したということではないでしょうか? 抽象化したということは 一般化して捉え得るかたちになりましょうから。
 でも《わたしは 誰々です。( Ich heisse so-und-so. / I am so-and-so. )》というときの《わたし》なのですから 自我はないと言っても ちゃんと個々に人間存在はあります。思惟し判断する主体です。むろん 内省もおこないます。
 《わたし》が内に省みるのであり 《自我》が内省するわけではありません。
 《わたし》が 行動を起こすのであり 《自我》がそうするのではありません。
 行動を起こし判断をくだすのも 自我ではなく わたしであり わたしの意志です。

 このように言っているのみです。



 ★ ~~~
 ・・・書きたいことは
 自我も神様と同じく信じるものだけにある
 みたいなものということではないかと思います
 ~~~~~
 ☆ まさか。《わたしなるもの》が どうして《神》と同じものとして扱われましょうや?
 だから 日本語の自我は おかしいのです。
 何だか特別のものとして扱われているのではないでしょうか?
 その昔 輸入したときにただただ うまく摂取できなかっただけなのではないか?




 もともと《わたし》が存在しています。けっして
 ★ ~~~
 最初がほとんどないかおぼろげである自我から出発するなら、
 その結果はないと想像するのは難くないと思うのです
 ~~~~~
 ☆ などということはあり得ません。《自我》派が そのように自我をはづすと もう何もないと思ってしまっているだけなのだと考えます。
 一億皆が催眠術にかかってしまった。だけのようです。



 ★ ~~~
 個々人の資質というより、社会自体が他の社会や生存環境との生存競争による淘汰を
 かいくぐる為に、そうなったほうが優位だからということ、
 蜂が何匹もメスがいるのに女王蜂は一匹だけ、女王蜂が死んだら、別のはたらき蜂が女王蜂になる
 そういうシステムが生き残るためにベストなのだということです。
 ~~~~~
 ☆ これは 人間の世界では別なのであり したがって蜂の世界と同列に見ることは みづからによる人間の蔑視であり 自虐的な人間観でありましょう。
 ただ これまで経済が成長発展する過程では やむを得ずその問題を見て見ないふりをして来た。ということだと考えます。それだけのことだと考えます。
 その過程では たしかに得体の知れない《自我》をたずさえていたほうが 何かと便利だったのかも知れません。《わたし》と別の存在のようなものが何となくあたまの中にあると 先へ先へと急ぐときには 効果的であったのかも分かりません。

 ですから 次のお考えも このこれまでに国として社会としてたどって来た道にあっては 当てはまるのかも知れません。
 ★ ~~~
 #3で書きましたことは、現時点の日本という範囲で多くの方がとらわれているだろう勘違いについて書いたもので、一人一人の個々人について全てそうなのだというつもりはもうとうありませんし、
 ~~~~~
 ☆ ですからここからさらに一歩すすめていただいて 《自我》史観は あたかも人びとが馬車馬のごとくはたらきにはたらいていたときのものであり じつは 間違いであった。こういうふうに捉えていただくのがよいのかと考えます。


 ひととおり今回の主題ないし論点について たぶん互いの了解を得るまでに到ったのではないかとさえ 勇み足で思います。さあ どうなんでしょう。

お礼日時:2012/02/01 20:51

おはようございます。



三銃士のブラジュノンヌさん。何を怒っているのですか?西洋と東洋の違いは、人間の心が何処にあるかという考え方の違いでしょう。
西洋では、進化論を信じていないので、心は脳にあるのです。(フロイト、ユング)
東洋では、人間は微生物から進化してきたものだと考えるので、心は脳と神経の集中した場所にあると考えるのですよ。まあ、背骨も含むでしょうか?(情報伝達物質)
歴史の浅い西洋では、心(精神)は理解できないのです。だから、話が合わないのです。東洋では、脳以外の場所も言っていますよ。脳が働かなくても(睡眠状態でも)生命活動は維持される。特に、背骨はさらに東洋的なことを言っている。
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この回答へのお礼

 お早うございます てふてふさん。ご回答をありがとうございます。

 ★ 三銃士のブラジュノンヌさん。何を怒っているのですか?
 ☆ あぁ 怒っているように見えましたか。そうですね。怒っていますね。怒りを通り越して来ている・つまりは むしろ突き抜けて来ていると思っていましたが 表情から見えますか? これはしたり。まぁ そうなんでしょうねぇ。

 ★ 西洋と東洋の違いは、人間の心が何処にあるかという考え方の違いでしょう。
 ☆ そうですね。そのあとのご説明は ていねいにたどろうとしているお気遣いは感じましたが もうひとつ説得されませんでした。

 たぶん 身と心との問題 これを特には脳や神経組織について解明しようとするその方法は どうなんでしょう あまり説得的であるようには感じられないのですが どうでしょう?

 ★ 歴史の浅い西洋では、心(精神)は理解できないのです。だから、話が合わないのです。
 ☆ とおっしゃっていますが たとえば具体的な例で考えるとよいかと思います。

 ○ 人は人に対して狼である。( Homo homini lupus. )
 ○ 万人の万人に対する戦い。( bellum omni contra omnes. )

 ☆ といった命題について 日本人はなじむか? このような《自然状態》は 人は誰も一人や二人の力ではそこに秩序をもたらすことは出来ない。リワ゛イアサンと名づけるのが妥当なごとく国家に絶対権力を付与し そのもとで秩序をみちびくしかないのだと。この考え方もしくは心は われわれになじみますか?


 たぶん 西洋人だって こころはあるでしょう。人間なら誰しも ひとしく 心はありましょう。
 たぶん その自己表現の仕方が異なっているのでしょう。

 その違いについては互いに互いの方式を理解しなければならない。
 そのあと もし余地があるのなら 互いに話し合って 妥当性がよりよくそなわった考え方を――部分的には互いに――採り入れて行けばよい。


 ★ 歴史の浅い西洋では、心(精神)は理解できないのです。だから、話が合わないのです。
 ☆ そうなのかも知れませんが だからと言って まさかそれによってわれらが魂は去勢されてしまったというんぢゃないでしょうね?
 話が合わないというコミュニケーションの不通について語っておられるのですが まさかそれによって われわれは 心を腐らせているということでしょうか?

 われらが心がかれらには理解できないとしたら たしかに話が合わなくなっていましょうが それでも おしえることは出来ませんか? 心が分かるように説明してあげることは出来ませんか? だってそこでわれらが心を腐らせていても 何も始まらないではないですか?
 心の表現においては先輩であるわれらが 率先して 相互理解への道を切り拓いて行かなければならないのではありませんか? 別に義務でも何でもなく そのようにすることのほうが たのしいではないですか? 互いにとっても よいことが出て来るでしょう。


 ★ 西洋と東洋の違いは、人間の心が何処にあるかという考え方の違いでしょう。
 ☆ 考え方やまたその自己表現の仕方に違いはありましょうが でも 人間存在として互いに同じでしょうし そして心も――潜在性としては――やはり同じだと見てもよろしいでしょう。なら 次の一手は なにか?
 どうでしょう てふてふさん。

お礼日時:2012/02/01 11:24

上下心を一にして、さかんに経綸を行うべし。

(五箇条の御誓文)


爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ
修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ德器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開
キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無
窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス
又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン(教育勅語)
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この回答へのお礼

 悠久の大義さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ますますお名前のとおりになってまいりました。

 そうですね。
 ☆☆(趣旨説明欄) ( a-7 ) アマテラシテ天皇との関係が――想像上だとしても―― しっくり行く感じがしない。
 ☆ この項目を問うておられます。つまりは その逆で 《しっくり行く感じがするはずだ》とおっしゃっていましょうか?

 まづわたしとしましては――とのっけから 物言いをつけますが――
 ▼ 一 広ク会議ヲ興シ 万機公論ニ決スヘシ( 五箇条の御誓文)
 ☆ がいいと思いますが それは とうぜん同じお考えでしょうか?
 言論の場が開かれていて 自由な発言が迎え入れられるかたちでなくてはいけないでしょう。

 ▼ 上下心を一にして、さかんに経綸を行うべし。
 ☆ この場合の《上下》は ただ単に集団志向において組織上 権限の階層秩序があるという事実にもとづくのみにおいて捉えるならば その上下がともに《心を一にして》と言っているととればよいのかも知れないですね。チームワークとして。


 教育勅語について たぶん
 ▲ 爾(なんぢ)臣民
 ☆ はもう古いでしょうね。国民主権ですから。

 ▲ 父母ニ孝ニ 兄弟ニ友ニ 夫婦相和シ 朋友相信シ
 ☆ の儒教道徳も それほどこだわらずにおきますと――ちなみに 引用文には濁点は打たれていません(念のためおぎないます)―― さらにあるいは
 ▲ 恭儉 己レヲ持シ 博愛 衆ニ及ホシ 學ヲ修メ 業ヲ習ヒ 以テ 智能ヲ啓發シ 德器ヲ成就シ 進〔ミ〕テ公益ヲ廣メ 世務ヲ開キ
 ☆ ここまでもいいでしょうね。だいたい普遍的な ふつうの勤勉だと思われます。

 次はどうでしょう?
 ▲ 常ニ 國憲ヲ重〔ン〕シ 國法ニ遵ヒ
 ☆ 間違いではないでしょうが 法律はつねに改正がなされるというもう一方の実情も 大事だと思います。

 ▲ 一旦 緩急アレハ 義勇 公ニ奉シ 
 ☆ これは 《緩急あらば》の間違いだと指摘されたところですね。已然形と未然形とのちがい。
 《義勇》はいいとして 《公に奉じる》場合には その大義名分がいかなるものであるかによって スサノヲ市民は判断しましょう。《公》ゆえに何が何でも奉じるというわけには行かないでしょう。

 ▲ 以テ 天壤無窮ノ 皇運ヲ 扶翼スヘシ
 ☆ さあ どうでしょう?
 ♪ 君が代は 千代に八千代に さざれ石の巌と成りて 苔の生すまで
 ☆ というわけでしょうが このうたも もとはと言えば 個人から個人へ贈られたもので 特別に《公》の意味を帯びていたわけではないようです。(アマテラス公民としての個人だったとしても たぶん そうでしょう)。
 ▲ 皇運
 ☆ はふるいでしょうね どう考えても。しかもスサノヲ市民らも アマテラス公民と 同じ血筋なのですから――つまり両者は 姉と弟なのですから―― 皇運と言えば スサノヲ市民らの運勢も含められてはいるでしょうが さあ どうでしょうね? もしつつしみやかな人でしたら 人びとのしあわせと言うでしょうね。

 ▲ 是ノ如キハ 獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス 又以テ 爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン
 ☆ 《祖先の遺風》は アマテラス帝国がイヅモ共和国に服属の要求をして来たとき 殺し合いをやめて要求を飲んだその《くにゆづり》 その精神なのでしょうね。
 ということは ここで《朕》は おそらく《忠良の臣民》に対して その昔の借りがあるということでしょうね。くにゆづりという負い目を負っている。はずです。女性宮家の問題どころではないように考えますが 果たしていかがでしょう?

お礼日時:2012/01/31 22:18

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