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死ぬことで、自分が無になる恐怖はあります。そこで、宗教では天国へ行くとか生まれ変わるとかの話になりますが、それって繰り返し行われるならば終わりがないですよね?いつまで続くのか?

無も怖いですが、終わりがないのも怖いです。

この気持ちはどうすれば克服もしくは受け止められますか?

A 回答 (4件)

人生とは何か、幸福とは何か


自分は何者か、死の恐怖をどうすればなくせるか。

これらは答えのない問題です。
無理に答えを探そうとするとなおいっそう
悩み苦しむことになります。

死が怖いという気持ちをただ眺めているだけでいいです。
その気持ちを抑えようとか大きくしようとかしなくていいです。
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この回答へのお礼

気持ちを楽にですね。難しいですが挑戦してみます。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2012/03/07 19:29

輪廻再生は宇宙のすべての必然です。

避け用がありませんし、輪廻遮断したという人はいません。さらにそれを書いた書物もありません。

でもよく考えてください。輪廻を絶ちたい、生まれ変わって同じ人生を歩みたくない、と言っている人はみんながみんな不幸でろくでもない惨めな人生を歩んでいるのです。楽しかったと思っている人はまた同じ人生を歩みたいといいます。

あなたは面白くない人生ではありませんか?
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この回答へのお礼

まさにそのとおりです。
考え方をまず改めなくてはいけませんね。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2012/03/07 19:32

「私の前世は○○で、とても現世には馴染めない」と二つの記憶に悩んでいるのでなければ、輪廻転生については深く考え無くても良いと思います。


前世がどうだったか解らない以上、今、生きているということは、もしかしたら前世は今よりも過酷なもので、生き直すチャンスを与えられたという喜ぶべきことなのかも知れないのですから。

貴方には、前世の記憶がおありなのですか?
ご質問を拝見する限り、そうは思えないのですけれど…
幾重にも重なる輪廻の記憶を持たないのなら、実質、貴方はずっと貴方の一生を一代で生きているということになります。
だから、輪廻に思いを馳せて苦しむことはないと思います。

貴方が前世の記憶を持たないのなら、仮に貴方が誰かの生まれ変わりだったとしても、前世は現世に何も影響してはいないということになりますよね。
記憶を引き継がないのなら、“魂とは体を生かし動かすエネルギーのようなもの”
―― そう言えると思いませんか。

私は前世の記憶めいたものを何も持たないので、輪廻転生について本気で怖がることなく済んでいます。
ふざけているのではありませんが、本当に輪廻転生があるのなら、動物だけではなく、極端な話、ネアンデルタール人や宇宙人の生まれ変わりという人もいたりして…などと、想像したことはあります。
しかし、そんな風に前世の記憶が引き継がれていたら、今の世界にも現世の体にも馴染めなくて、大変苦労するものでしょう。ですから、輪廻があるにしろ無いにしろ、殆どの人の記憶が一代限りと言うことは、理にかなっているなと思います。

前世が現生人類よりもずっと知能が低い生物だったとしても、逆に、高等な地球外生物、例えば宇宙人だったとしても、そのときの記憶は失われているのなら、何も悩むことはないですよね。
…一つの体に二つのアイデンティティーを持っていたらゾッとしますけれど、常に今の肉体に一人分、一代限りの記憶があるのみならば、前世も来世も、どうってことないと思います。

今、貴方には前世の記憶がないのなら、転生したとしても、来世の貴方には現世の貴方の記憶はない、そうは思いませんか?
魂は本当にあるとして、魂は転生するとして、同じように物事を考え同じように喜怒哀楽をし、同じように死んで行くとしても、それは多次元宇宙、パラレルワールドに貴方が何人も存在するということと変わりはないと思います。
つまりは、別の次元にいる貴方を貴方は見ることは出来ないし、会話することも、すれ違うこともない、貴方は貴方に干渉は出来ない…そういうことではありませんか。
私でありながら関わることの出来ない、夢の中の自分よりも遠い存在。
こちらから何も出来ないのなら、前世も来世も関係なく、今生を何よりも大切に思い本気で生きる、現世では、それしか出来ることはないと思います。
魂は転生しようがしまいが、現世一代限りのものとして、納得できるように今を生きる、それで良いのだと。

死よりも怖いことは、何も希望を見い出せなくなること、生きながらにして感情が無くなる(誰とも感情を通わせ合えることが出来なくなる)ことだと思います。
しかし、感情が無くなるのだとしても、眠るように亡くなるのなら、きっと死は怖くはないのでしょう。

病で苦しみながら、事故で大怪我を負って痛みに苦しみながら死ぬのなら、確かに死とは怖いことでしょう。回復する希望が全くなく、激痛でのたうちまわるほどならば、命が削られて行くことを最後の最後まで味わうのなら、とてつもなく怖いことだと思います。
仮定の話として、そうなったときは、限界まで行き着いたときは、尊厳死を選択したいと御家族に普段から希望を言っておくと良いと思います。眠るように亡くなる、それが本人の希望だと解っているのなら、御家族も大切な家族を失う悲しみ、罪悪感から救われますので、お互いの為です。


中々希望通りには行かないものだとは思いますが、生きるということは、生を全うするとは、どういう死に方を選択出来るのか、そこに尽きるのではないかと思います。
独りぼっちで、誰からも忘れられて死ぬのなら怖いことですけれども、精一杯、人生を生きて、惜しまれながらも眠るように死ねるのなら、死ぬことは悲しいことではあっても、怖いことではないと思います。
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この回答へのお礼

前世の記憶は私もありません。
確かに生まれ変わる前提で今その記憶がないならば、おっしゃるとおり次も今のことを知らずにいきていけるのでしょうが、なかなかそうは今の私では考えられないです。
でも、そこをなおさないかぎり、ダメなのでしょうね。
死に方への考えも含め、もっと自分の考えを見直していこうと思います。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2012/03/07 19:38

未だ閉じていなかったので、回答します。

こういう問題は答えが出ないと普通の場合に思いがちですが、時期が来た場合には、すっと疑問が解けてゆく問題と思います。

と言う事で何がしかのヒントになればと思い、書いてみます。

死を怖いと思う心の裏側には「人生そのものに対する、畏れや疑問が、隠されています。」こういう問題は、本当は宗教に属する問題ですが、今の宗教には答える人が存在していない気がします。

人間の心の問題の内「人生そのものに対する疑問」に付いての答えは、実は宗教文化が発展してきた「原動力となって」今も発展を続けていると感じている者です。

死に対する答えは、一切快苦からの解脱を意味します。自分自身の性を見る事によって解消出来る問題ですので、その線で書いてみます。

自分の性と言う場合の答えは「自分自身を働かせている意識」ですが是は、頭で分ったとしても歯が立たない事の範疇に入る事柄ですが、理入と言う道理に従うなら、理窟から入る事も可能と思いますので、「見性」と言う人間の心理面での説明をします。

人間の心、と思っている心は、左脳に存在する言葉を持つ論理脳の機能です。この心の機能は、言葉に代表される様に、物事を計算して論理的に組み立てる事から成り立っています。

処が人生には論理だけでは成り立たない事の方が、多くなっています。或は矛盾した問題も降り掛かってきます。論理だけでは「明日の事を読み解く事が出来ません」この意味は「不確定要素が一つでも在るなら、論理が成り立たないからです。」

処が、大抵の場合では、明日の事を心配しないでいられる事も沢山ありますが、その事に関係しています。人間が上手く生きている理由は「自我意識を助けている働きが存在するためです。」

如何いう存在か、詳しく説明してくれている動画が在りますので、参考の為に載せてみます。

URL:

この右脳の意識が「命そのものを働かせている意識です。」人間を人間たらしめている者です。是は脳の機能の説明をする事によって、理窟では理解することが出来ますので、只読み進めて置いて下さい。

補足的にもう少し説明をしておきます。この意識は、学ぶ事無く全てが備わっている働きです。生まれる前から働いています。生命として芽生えた瞬間から働き始めている意識です。

生まれてからも働き続けています。この働きを大別するなら、三つに分ける事が出来ます、ですが「生命活動に関する事ですので、その境目はありませんが、便宜上説明するために分けているだけです。」

一つは植物的な働きです。この意味は生命維持装置として、人間の身体の機能全般を、司っていると言うほどの意味です。身体としての生命を維持する装置として働いていると言う意味です


一つは人間の行動に関して働いている事です。オリンピック等での「自我意識に圧迫が掛かった時等に」
自我意識に替わって自在に働く働きと言う意味です。或は、口を開く場合でも、字を書く場合でも働いている働きと言う意味です。もし仮に「自我意識が身体と心を支配して字を書く場合では書けい、口を開く場合では吃音と言う現象になるからです。

或は眠る場合では「自我意識のみで眠りに入る事を」しようとする場合では、眠り付く事さえ出来ません。「無意識の人格の力を借りる事が出来ない現象を」不眠症と言っています。

右脳の意識は「無意識の中に封印された形で存在しています。」普通の場合では気が付き難くなっています。健常者と言う場合では「心に違和感が無くて」右脳の意識と上手く同調出来いている人の事を総称してそう読んでいます。

もう一つの働きは「自我意識との心に関してです。」交替制を取っていますので、「無意識の自分に切り替わった時には」自我意識は休む事が出来ています。この場合に「心は充分休まっている事を意味します。」


この反対に「無意識の自分に切り替われなくなる場合があります。」そういう場合を「意識地獄」=「一切皆苦」と言っています。「意識した内容が全て苦しみになっている」と言う意味です。この意識した内容が、先に挙げた三つの機能別な症状群となっています。

つまり身体の機能としての働きと同調出来ない場合を「自律神経失調症や、過敏性腸症候群や、難治性の原因不明とされている心身症と言う事です。


行動面の機能としての働きと、自我意識が同調出来難くなった場合を「神経症」と言っています。この場合の特徴は「心の奥底からの情報のやり取りが、不調に終わる事によって、恐怖症や強迫観念に支配される事になります。」

この現象を「貴方の場合では、死に対する恐怖と感じています。」


心に対する機能面での働きと、自我意識が同調出来難くなる場合を「心を病む」と言っています。この現象は「心に対する健康面を疑いを持って見つめている事」を意味します。

これ等の障害の解除の方法が「見性」と云う事になります。恐怖症で、生き難い想いで過ごす場合では、自我意識と「命の働きが争っている事」を意味します。

自我意識が受ける圧迫感とは「実のところ」自我意識に救いの手が伸びている事を「遮っているからです。」此れが、心の矛盾の正体です。

右脳からの情報を「受け取ろうとしない事によって、更なる強い情報に変換して送られてくる情報です」

高所恐怖症にしてもしかり、閉所恐怖症にしてもしかりです。強迫観念にしてもしかりです。

身の回りにおける環境の情報は全て真実の情報です。その真実を伝える情報の受取りを拒否する事によって、「頭の中で捻じ曲げられた世界が出来上がります」そうしてその捻じ曲げられた世界(妄想)を真実の世界と勘違いして「身体も心も反応しています。」

その世界観から意識に挙がった事柄を「症状」として医師に訴えています。

恐怖症が治った姿を書いてみます。今までは、現実にはない事柄「死の恐怖」を味わっていましたが。死に付いての考え方が変化しています。

「死」を思う時には「怖いと云う事は、事実としては存在しています。」ですが、何れ死は受け入れなければいけない事として、別段気にならなくなっています。心境的には、死を拒む心が無くなっていますので、意識には上がって来なくなっています。

その理由は「湧き上がる感情は」全て一過性のものとして、殊更湧き上がった感情に支配される事が無くなったためです。

もっと強い言葉で言うなら「湧き上がる雑念に、一々振回されない、人間性が出来た事」を意味します。

恐怖症であれ強迫観念であれ、湧き上がる自分の心を、加工をしなくなった時点が「治った時です。」

今までは「湧き上がる感情」の受取りを拒否していたために、「\湧き上がる感情の否定に回っていた事が分ります。


良い事も悪い事も「分け隔てする事無く」普通に受取っておくなら、頭の中で妄想としての否定に次ぐ否定をする事が無くなっています。

森田療法や禅の中に、貴方が求めている事柄がが詰まっています。
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この回答へのお礼

私が考えていた以上に難しい問題ですね。
そこまで分解して考えてみたことはありませんでした。
ご回答自体が難しいので、消化するのが難しいですが、すすめられたものを含め、勉強して解決していこうかと思います。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2012/03/07 19:43

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