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 ・ coincidentia oppositorum
 ・ coincidence( unity ) of opposites
 ・ 対立物の一致(合一・統一)

 これは 有るは無いであり 無いは有るだと言い 善は悪であり 悪は善であるというような内容を持つ命題だと思いますが それは 所謂る《神のもとにおいて成り立つ》かも知れないとしても 実際に経験現実と成りましょうか? これが 問いです。

 この命題は 調べてみますと すでに古代ギリシャの哲学に現われており インドや道教などにも見られると言います。
 中で 次のような情報をこの質問のたたき台を述べるためのたたき台とします。

 ▲(ヰキぺ:ニコラウス・クザーヌス) ~~~
 ( a ) クザーヌスによれば神の本質は、あらゆる対立の統一=反対者の一致である。

 ( b ) 無限の中では極大と極小(神と被造物)が一致する。

 ( c ) すべての被造物は神の映しであり、それぞれの独自な個性を持ちながらも、相互に調和している。

 ( d ) 中でも人間は自覚的に神を映し出す優れた存在であり、認識の最終段階においては神との合一が可能であるという。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ ( d )については すでに【Q:ひとは カミの似像である】で問い求めました。《フラクタル構造》を成すのではないかという回答を得て これを一つの結論としました。
 ただし
 ▲ 認識の最終段階においては神との合一が可能であるという。
 ☆ とは わたくしは 捉えていません。人と神とのあいだには へだたりがあると見ています。

 ( c )の前半すなわち《すべての被造物は神の映しであり、それぞれの独自な個性を持ちながらも》については ( d )と同じようであり そのとおりだと見ます。ただし 後半の
 ▲ それぞれの独自な個性を持ちながらも、相互に調和している。
 ☆ については 疑問を持ちます。《相互に調和している》のは 神の目から見てであろうと考えますが いまさきほど述べたように《神と人とのあいだには へだたりがある》と見ますので その《調和している状態》を人が見ることはむつかしい。こう考えます。

 ですから すでに 《対立物の一致》は 人間にとっては 見ることが出来ないであろうというここでの問いになっています。すなわち
 ( b )も《極大と極小(神と被造物)が一致する》のは
 ▲ 無限の中では
 ☆ ということであり すなわち《神の目から見て》なのだと捉えます。すなわち( a )につながります。


   *

 たとえば

 (α) 坂道は 上りと下りとが互いに対立するかのごとくあるが 道として一致している。

 といった説明には従えません。気持ちや能力が上がるのと下がるのとを例に取れば その対立状態にあることをないがしろにすることは出来ません。

 (β) 有ると無い あるいは生と死 あるいは善と悪とは 神のもとで互いに違いがない。

 と言ってもその《神のもとで》という条件は 人間にはただその想像においてしか分からない。つまり 現実においては 対立しつづけている。

    *

 あるいは いわゆる弁証法過程として この命題を肯定する場合があります。すなわち

 (γ) 対立物の統一なる命題を解く鍵は 時間過程にある。自然の事象をも含めて 人間の社会と歴史は その時間的な行為とその錯綜関係として成る。ゆえに時間が解決する。(縁起共生?)

 これは 一般に

 (γ‐1)  矛盾する対立物が互いに闘争することをつうじて 新たなより高い次元においてそれぞれが変わった状態となり互いに調和を見い出すということだ。

 とすると そういう場合には その中間の過程やそこにおける闘争が 人間にとっての人生であり現実だということになります。果たしてそうか? それ以外に 《和》はないのか?

 またもしその

 (γ‐2) 《中間の闘争過程》は やがて社会における所謂る格差の問題が適宜に根本的に解決されたなら 対立物の統一がその限りで完全に成った状態が出現する。

 といった《いまの闘争の勝利の暁には》というかたちの《統一》理論には 与し得ません。《神の目から見て / 無限のもとで》という条件よりもわるいと考えます。それは 《人間が――つまり ヒトが生物として――変わる》と言っているのであり そのことだけを言っていればまだしも それが必ずや未来には社会全体として実現するといった展望を立てるのは お呼びでありません。仮りにそのことがほんとうだとしても 実際にその芽が出て来て兆しが現われたときに言い始めても遅くはないと考えます。


    *

 この対立物の一致なる命題は 西田幾太郎にも影響をあたえたようで 

 (δ) 絶対矛盾的自己同一

 という表現として打ち出されたそうです。
 このとき ここでは 形而上学として分かるなどとすら言わないで 次のようにたたき台を立てて問います。

 (ε) いやいや 有るは有る 無いは無いだ。善はそれとして善であるが 悪は飽くまで悪であり 主観としてだが心の思いや判断としての善なる要素が欠けている。それらの対立する二項は 互いに相容れないのが 現実である。

 とです。この問いを自由に大胆におしすすめていただければ さいわいに存じます。よろしくどうぞ。
 

A 回答 (14件中11~14件)

訂正です。





 残りの 行=意思 と 認識=記憶 の関係ですが

対象に対する立体的な理解というのは、視点の移動が不可欠ですから

視点の移動=行=意思、立体的な理解=知解 となるかと思います。



残りの 行=意思 と 認識=記憶 の関係ですが

対象に対する立体的な認識というのは、視点の移動が不可欠ですから

視点の移動=行=意思=実行、立体的な認識=認識=記憶 となるかと思います。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 細かいことを言えばですが:

 例によってフラクタル構造がハタラクと言うべきでしょうね。

 つまり
 ★ 視点の移動=行=意思=実行、
 ☆ この《視点の移動》もしくは視点の《探求やその設定》のときに ものごとの認識ないし知解が 不可欠だと思われること。

 ★ 立体的な認識=認識=記憶
 ☆ 記憶は 認識もしくは知解したものを 整序するハタラキであると思われること。

 間違っていたら また訂正してください。

 たとえば 身と心をめぐるわが心としての精神があります。これが その言わば原点としてなら 記憶です。
 この精神が精神する。そのように記憶の倉庫から その今必要な知識や情報を引き出して来る。これが 知解である。
 記憶としての精神が精神するとき 知解作業が起こる。これら精神と《精神が精神する》とが相合わさって わが存在をとうとぶ。そういう意味での愛。したがって 存在の持続およびほかの存在との共生 これを図る。この任務をになうのが 意志である。


 日本の学校教育は ものごとを知ることに重きを置いています。
 知っておぼえているということ。覚えていても その整序がどうなっているか。ただ暗記していればよいという場合さえ見られます。昔は それ一色でした。
 何をどう使うか。何のためにその記憶ないし知識を活かすか? これは 自然科学の分野をのぞけば 暗澹たるありさまではないでしょうか? つまり 意志の問題でしょうし 記憶は 整序立てておぼえるものであり秩序立った情報を用意するものだということも なおさりになっていはしまいか?

 知行合一には 何のためという志向性の問題があるように思います。
 ヒラメキは インスピレーションとして神につながるか(つまり 信仰の問題であるか) もしくは偶然の問題として受けとめられるでしょうか。

お礼日時:2012/03/02 17:45

お礼ありがとうございます。




>6. ひとは身と心とから成るが 心の領域について 三位一体の似像を捉える。
 自然本性は 記憶と知解とそして意志とから成る。三つの行為能力ないし能力行為。

改めて読むと、これは興味深い。

これはbragelonneさんが着想したものなんですか?もし文献があれば教えてください。

奇遇にも、この着想と「知行一致」に関するarakanさんの質問がかかわってくるんですね。

あるお坊さまの言うことには、腑に落ちれば行動はついてくるらしく

私はそれが「知行一致」だと思ったわけです。

この質問と対応させれば

知=知解、行=意思 となります。

また、お坊さまの言うことには、(正しく?)認識すればおのずから智慧はいずると

私の「ひらめきのしくみ」という質問とかかわってきます。

ここで言えば

認識=記憶、智慧=知解 です。

残りの 行=意思 と 認識=記憶 の関係ですが

対象に対する立体的な理解というのは、視点の移動が不可欠ですから

視点の移動=行=意思、立体的な理解=知解 となるかと思います。

ひとまず、こんなところで。
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この回答へのお礼

 なるほど。いくつかの質問が 同じひとつの問い求めにおいてつながっていますね。

 もぐさん ご回答をありがとうございます。


 なるほどと受け留めましたので いまは それにとどめたいと思います。

 なおここでわたしが述べている三位一体論は 基本的にアウグスティヌスによる理論にもとづくものです。

 ○ アウグスティヌス:『三位一体論』 中澤宣夫訳 1975

 これは今では 定価が一万円を超えてしまいました。検索では 次のような研究論文があるようです。わたしもまだ読んでいません。

 ○ 中川秀恭:アウグスティヌスの『三位一体論』について (再論)
  http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstrea …


 子の父と 父の子と 両者から発出する聖霊 これら三つの位格(ペルソナ)を 人間における記憶と知解と意志とにあてはめるのは アウグスティヌスの議論です。
 これを 光における光源と発耀と明・暖とにたとえるのは――犬養道子が 同じように《水》の水源と流れとその水による生活の潤いとに喩えていたのを真似て―― わたしが考えたものです。そして 個人や社会におけるそのフラクタル構造――つまり わたしの場合は 相似形としてだったのですが――へとすすめたのも わたしの勝手な解釈です。



 知行一致とそしてヒラメキの問題 これらについて さらに問い求めが成されて行くことでしょう。
 ここで触れられたことに反応するとすれば それは 《記憶》のハタラキが案外見逃すべきではないと考えられることです。
 自己秩序の作用であり 法の淵源であります。人間の自然本性の中軸である意志つまり自由意志も 存在の中核としての記憶(自己秩序)にもとづくものだというかたちです。むろんこれらを知解しなければ 何も明らかにならないというそのハタラキもあります。

 さてこの問いは ここからどうすすんで行くでしょうか?

お礼日時:2012/03/02 17:25

お早うございます。



絶対的自己統一矛盾
要するに、人間の衣食住等の物質的欲望が満たされないで、感情が不安定になることだと思います。どう人々の物欲・欲求を満たし、感情を安定させるかということですよね。
それは、人間の文明の発展と時間による進化により、将来可能になるであろう。

情報や輸送手段の整っていなかった過去に於いては小さな共同体が沢山あったので可能だった。しかし、現在のように世界中何処でも情報、交通が盛んな時代に於いては、もはや小さな共同体は崩壊し大きなピラミッド型の組織へと変貌した。そこに於いては、もはや、1%だけの裕福な人達に支配された世の中に変わってしまった。
(1)つは、市場の規模の拡大による競争の激化による分業の大規模化である。沢山のお金と人材等の集約が必要である。
(2)つは、集約的な工場の出現により集約出来ない生産現場との収益の違いによる賃金の格差である。
(3)つは、優良な地下資源が有るところと無いところでの格差である。
(4)つは、気侯や立地場所、あるいは十分な設備・整備がなされているかによるものである。
(5)つは、それに見合った労働者がいるかということである。

人は、これらを解消し生活を安定させるために、家族、地域、国家といった共同体を造ってきた。また、その補完として宗教を取り入れた。しかし、上述の理由により、もはや、宗教は争いの火種となっている。

さて、これらを解決するには、人間の物欲等の欲求と感情をどう満たすかということである。

我々が当面しなければならない課題は、
(1)宗教対立の回避である
(2)貧しい人に教育をし自給率を上げさせ、足りなければ食料援助をすることである。
(3)文明の発展を速めることである。教育の充実である。
(4)人生を楽しむことがいいことだという意識改革である。
(5)貧困者を何がしかの労働、イベントに参加させることによるお金の支給である。

これらが、人間の感情の新たな手助けになるかもしれない。私は、人の欲求が満たされ正しく生きる喜びが感じられれば絶対的自己統一の矛盾も解消できるかと思います。それは、まさに生きているという実感です。
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この回答へのお礼

 てふてふさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 まづお伝えしたいと思うことは 前二者のご回答でのやり取りを参照していただきたい。これです。頑張って書きましたし そのお応えの中身が 質問の全体として問い求めの基本となっていますから。

 ★ 私は、人の欲求が満たされ正しく生きる喜びが感じられれば絶対的自己統一の矛盾も解消できるかと思います。それは、まさに生きているという実感です。
 ☆ なるほど。つまり なるほどというのは てふてふさんの場合は すでに《対立物どうしの対立》じたいは それはそれとしてあるのだという前提に立って お答えを寄せてもらっている。こうだと思われます。
 《時間過程における解決》に近いかとは思われますが 具体的に人びとの知恵と努力とで 相当程度については解決できるはずだということ。そのゴールがいま見えているはずだということ。ゆえに いま対立しあっている二項は その統一がいまわれわれの視野にはおさまっているのだと。
 対立ということを声高に言って 危機をあおるなかれと。


 反論するつもりはありません。じっさいそういうふうにして努力して行くよりほかに道はないと考えます。
 ただし 現状をどう見るかという点で もっときびしく見つめようとも言おうと思います。
 たとえば
 ★ ~~~~
 我々が当面しなければならない課題は、

 (1)宗教対立の回避である
 ~~~~~~
 ☆ このひとつの課題を取ってみても 世界の根幹をゆるがすような問題です。あるいは 《宗教とは何か? そしてそれは 個人の信仰とはどう違うのか?》 このような主題ひとつを取ってみても 人びとの見方は一致していません。この哲学カテでも いつまでも――わたしから言わせれば――勘違いが絶えません。《宗教を信じる》といった勘違いから始まって いくつもあります。

 そもそも宗教というのなら そのような世界観をめぐる人びとのあいだの勘違いやすれ違いを きちんと明らかにして 相互理解を図る これが おそらくいちばんのつとめなのではないでしょうか? けれど実際の宗教者は そんなことにはおかまいなしにいるか・もしくは 自宗の存続のためにそういう気配りをするようになっているだけであって 一向に自分たちの内部の課題には無頓着です。そのヒエラルキアにおける権限関係によって 個人の信教の自由を左右するほどの実態があるのではないか? などの問題です。




 てふてふさんのこの問いへの取り組み方は まづ問題のあり方を
 ★ 絶対的自己統一矛盾
 ☆ と捉えての上だと見ます。西田幾太郎の《絶対矛盾的自己同一》とは微妙に違って したがって《自己同一》において《絶対矛盾》が生起しているというのではなく・必ずしもそうではなく 《自己同一における自己統一は成る。成るはずだと見た上で そこにも確かに矛盾はある。起きる。そしてこれに対処しよう》という出で立ちであるように見受けられます。形而上学的な後ろ向きと実践的な前向きとの違いでしょうか。
 言いかえれば・そして言ってみれば その《矛盾》というものをすでにおのれの中にあるものとして――絶対的なものとしてあるのだとして――すでに引き受けよ。こう初めに言っているように思われます。この意志行為からの一歩によるのでなければ 何にもならないであろうとさえ。

 わたしはそれは 人間の意志行為として 正統なことだと考えます。
 そのあと 経済・教育・文化のあり方を問うていくのだと。
 万機公論に決すべし。であると。みなで話し合い 知恵を出し合っていくしかないのだと。
 ★ ~~~ 
 これらが、人間の感情の新たな手助けになるかもしれない。
 私は、人の欲求が満たされ正しく生きる喜びが感じられれば絶対的自己統一の矛盾も解消できるかと思います。
 それは、まさに生きているという実感です。
 ~~~~~

 ☆ おそらくこの《生きているという実感》は 初めの一歩すなわち《意志行為において すべての問題をわが身に引き受けるということ。負える荷だけでよいから これをわが身に引き受けるということ》 ここから来るとわたしも思います。なぜなら そのときすでに《欲求》の問題は 雲散霧消していましょうから。
 感覚を手掛かりにしてすすむこと これも 大事だと考えます。

 果たして みなさんは どうでしょう?

お礼日時:2012/03/02 16:51

 論理を保持したまま論理の限界を超えるために,ぼくが用いる考え方は,顕在相と潜在相の二相が表裏一体としてあるとするものです。

弁証法的思弁へのちょっとした表現の工夫ですが。

 生成消滅する現象において,無から有が生まれるかにみえる生成は,潜在層の「有」が顕在相の「有」へ相転移することであると言えます。このとき同時に顕在無は潜在無へと転じます。また,有が無となるかに見える消滅も同様です。

 互いに相転移する者どうしは,相補的な(そして相互に隠覆し合うようような)関係にあり,これは対立関係にあるのではなく,協調関係にあると言えます。

 そして,対立者の一致というのは,論理破綻することなく,次のように言えます。

 顕在相の有(対象1)と顕在相の無(対象2)が対立者です。
─────────────────────────────
 潜在層の無(対象1)と潜在相の有(対象2)が協調者です。

 対象1が単独に相転移しますと,顕在相の無(対象1)と顕在相の無(対象2)が同一者として顕在することになります。無性において識別不可能でありこれらは同一です。相対者から絶対者に転じると言えます。

>これは 有るは無いであり 無いは有るだと言い 善は悪であり 悪は善であるというような内容を持つ命題だと思いますが それは 所謂る《神のもとにおいて成り立つ》かも知れないとしても 実際に経験現実と成りましょうか? これが 問いです。

 神を持ち出すまでもなく,実際に経験事実として成るでしょう。

>(ε) いやいや 有るは有る 無いは無いだ。善はそれとして善であるが 悪は飽くまで悪であり 主観としてだが心の思いや判断としての善なる要素が欠けている。それらの対立する二項は 互いに相容れないのが 現実である。

 その通りですね。そして,肯定的主張と否定的主張があるのも現実です。どこまでも相容れぬとしても,調和のへの道が閉ざされているわけではありませんね。
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この回答へのお礼

 あともなどすさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。(回答No.1のもぐさんへの補足欄でのお応えより先に 書き込みます。あまりお待たせしないほうがよいと思ってです)。

 ★ 肯定的主張と否定的主張があるのも現実です。どこまでも相容れぬとしても,調和のへの道が閉ざされているわけではありませんね。
 ☆ と結論づけておられるとまづ受け取ります。つまりは たたき台の見方としての対立する二項の状態は 安易にその一致を言えるわけではないが それでも
 ★ どこまでも相容れぬとしても,調和への道が閉ざされているわけではありませんね。
 ☆ という方向を捉えておられる。

 具体的に見てまいりたいと思いますが その前に 趣旨説明を書いたあとに気づいたこととして 次があります。そのことに先に触れさせてください。西田幾太郎の

  (δ) 絶対矛盾的自己同一

 これについて それは《自己同一》と言っていることにふと目が行きました。つまり 《一致・合一》というのは 《自己》の内部における《対立物》のことを言っているのかと思ったのです。内部で互いに闘争していてもいいのですが 外部どうしが対立し闘っているのとは ちょっと違うのではないかとも思ったのです。
 そしてそれなら まづ一般にまた基本的に成り立つと思われます。自己組織化というようなことさえ言われますが そのように個々の要素はそれぞれ大きくひとつの《自己》のもとにあり その《自己秩序》のもとにあると考えるからです。


 さて あともさんのお考えですが たぶんそれはまづ 内部における対立と外部どうしの対立と その両方を扱われていると思います。

 ★ 生成消滅する現象において,無から有が生まれるかにみえる生成は,潜在層の「有」が顕在相の「有」へ相転移することであると言えます。このとき同時に顕在無は潜在無へと転じます。また,有が無となるかに見える消滅も同様です。
 ☆ さて どうでしょう? 
 まづ根から芽が生じ やがて太い幹にも成り枝葉を繁らせる。これは 《自己》の内部で――必ずしも対立していたわけではありませんが―― 潜在するチカラがはたらいたと見られます。
 自己の内部で 今度は卑近な話になりますが このケーキを食べようかやめとこうかという対立する考えがあるとき これはおそらく それらを一段高いところから自己のもとにおさめて判断する意志によって どちらかが決められます。
 相手にウソをつこうか どうしようかと迷うとき これも 同じく全体としての意志による決定が それとしての対立物の統一を果たします。
 例示がすべてを網羅しているかどうかあやしいようですが それでも一般に 同じひとつの《自己》の内部における二項対立は あまり問題にならない。のではないかとも考えられます。《自己経営》の範囲内におさまるものごとは 葛藤や問題がつづくとしても いちおうその《自己》の判断にまかせられるという意味において。

 そうしますと

  ○ 潜在有が 顕在有となるというときには その以前の状態において顕在有であったものというのは あらたな顕在有となったものと 同じ自己であるのかないのか。

 これが問われて来ます。《対象1 / 対象2》と記されていますが いま簡単に《 A / B 》と言うことにしますと そして A ≠ B なのだとしますと どうでしょう?

  ○ A なる潜在有が 顕在化して有となった。これは それ以前の B なるものの顕在有とは別のものではないか? それとも B と見えていたものも じつは A と同じものだったということなのか?

  ○ もし A と B とが別のものであるなら 同じ一つのものの相転移であるのではなく そうではなく別々のものの顕在と潜在との交替である。

 となります。そしてそれは 対立物の一致ではないはずです。よね?


 ★ ~~~~~~~~~

  顕在相の有(対象1)と顕在相の無(対象2)が対立者です。
  ─────────────────────────────
  潜在層の無(対象1)と潜在相の有(対象2)が協調者です。

 対象1が単独に相転移しますと,顕在相の無(対象1)と顕在相の無(対象2)が同一者として顕在することになります。無性において識別不可能でありこれらは同一です。相対者から絶対者に転じると言えます。
 ~~~~~~~~~
 ☆ これについてつまり:

  ○ A が潜在化して 顕在相では無となったし B は もともと潜在化しており 顕在相で無である。そのとき A も B も 顕在相では 無である。と言っているだけですよね? 
 つまり
 ★ 同一者として顕在することになる
 ☆ かどうかは A と B とが もともと同じ一つの《自己》のものにあるという場合に限られて来ます。

 ★ 無性において〔* つまり 顕在相では 無であることにおいて A も B も〕 識別不可能でありこれらは同一です。
 ☆ というのは どちらも潜在しているから その潜在性において同一であるのであって ものが同一であるかどうかは まだ分かりません。ですよね?




 ★ 互いに相転移する者どうしは,相補的な(そして相互に隠覆し合うようような)関係にあり,これは対立関係にあるのではなく,協調関係にあると言えます。
 ☆ ここで 次のような例として考えます。

 ○ 《相転移する者》を 人間とし たとえば《やさしさ》と《にくしみ》とが互いに相転移すると見ます。つまり 同じ人間どうしが 相向かい合っている場合です。

 この場合 どうでしょう? つまり 二つの――互いに対立しうる――ものを 実際の存在としては A ≠ B だと仮定し 《自己同一》ではないとした場合です。人間という存在なら 互いに意志の自由において社会的に独立していると言えるでしょうからその意味で A ≠ B です。

 1. 人間 A と 人間 B とは 《相互補完する(そして 相互に隠覆し合うような)関係にある》と言えるか? そういう場合があるか? ――これは ふつう言えましょうね。ふつうにそういう場合はあるでしょうね。互いに助け合うことがあります。

 2. よって
 ★ これは対立関係にあるのではなく,協調関係にあると言えます。

 3. のですが そうなのですが これは そういう場合があるというだけでもあります。つまりは やさしさが 憎しみに相転移することがあり得ますから その意味で対立関係に成り得ます。潜在していたものが 顕在してくることがあり得ます。

 4. そのときこの二項対立は つねに一致へと・つまりは協調関係へと必ず成ると言えるか?

 こういう問いになってます。


 もっと言えば じつはこのとき:

 5. このときには A なら A という一人のひとの《自己同一》の中でじつは この《やさしさ》と《にくしみ》との内部の葛藤にかんしてなら 調和を得ることが出来るかも知れません。《わたし》という全体としての存在そして中んづくその《意志》においては 憎しみを超えて 相手の B の《わたし》としての存在をそれとして――何も具体的には出来なくとも――受け容れていることは出来る。

 6. そのとき A なる《わたし》には B に対する気遣いや心配こそあれ すでに心は晴れあがっています。すがすがしき心で B を見守っていることでしょう。

 7. でも・それでも B だけだとしても そこには《対立》が起きています。そして おそらく A なる人物の努力も人徳も かなしいかな 及ばず それはふつう一般に《けんか状態にある》という対立関係のこととなります。


 ★ ~~~~~~~~
  >(ε) いやいや 有るは有る 無いは無いだ。善はそれとして善であるが 悪は飽くまで悪であり 主観としてだが心の思いや判断としての善なる要素が欠けている。それらの対立する二項は 互いに相容れないのが 現実である。

 その通りですね。そして,肯定的主張と否定的主張があるのも現実です。どこまでも相容れぬとしても,調和のへの道が閉ざされているわけではありませんね。
 ~~~~~~~~~
 ☆ とおっしゃったこと この同じ方向を質問者も向いていますし 見ようとしていますが まだその具体的な道が見えて来ない。残念ながら こう思うのですが 果たしていかがでしょう?

お礼日時:2012/03/02 14:53

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