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無明ならば、大それたことと理解しないまま大それたことができる。
無明ならば、危険だと理解しないまま危険なことができる。
無明ならば、損を益、益を損と誤解するため、周りのものに儲けさせることができる。
無明ならば、大胆に消費や投資をし、経済効果を高めることができる。

結局、社会というのは無明の者が、わが身を無自覚ではあるが削って回している。
滅亡を目の前にし滅亡と自覚しないまま、繁栄を妄想し突っ込んでいく者に勝てるわけがない。
為政者にしても、無明の者を利用することはできるが無明の者をコントロールすることはできない。

どうでしょう?

A 回答 (5件)

「滅亡を目の前にし滅亡と自覚しないまま、繁栄を妄想し突っ込んでいく者に勝てるわけがない」と仰っていますけど、んなこたないです。

確かにバカの暴走を食い止めたり、コントロールする事は出来ませんけど、意図的に暴走を加速させてやり、ちょっとしたミスを致命傷にまで引き上げて、早目に破滅させてやる事は可能です。

社会には色んなタイプの人間が居て然るべきです。秩序や理性を重んじる者だけだと社会は停滞するし、暴走するバカばかりだと社会は崩壊するし、何でも卒なくこなせる器用な者だけではつまらない社会になってしまいます。

私が問題に思うのは、暴走するバカ以外の勢力は、非力・無力な羊の群れに過ぎず、対抗勢力の体を成していないという所です。理性なるもので自他共に雁字搦めに縛り上げたり、中途半端に先を見て日和見主義に陥ったりして、結局役たたずに成り果てる者の、何と多い事か。

それぞれのタイプが、それぞれの持ち味を発揮して、せめぎ合いの中から何かを見出す事が肝心なのであって、悪いのは無明の者だけとは限りません。無明の者と戦えない、戦おうとしない者の側にも、問題はあると思います。

質問のタイトルは「この世界の支配者は無明の者」となっていますが、これには同意出来ません。何故なら、無明の者は支配者ではなく破壊者であり、彼らに支配権を与えない様に切磋琢磨の努力をするのが、他のタイプの人間の義務だと思うからです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2012/06/14 20:45

「無明」というのが、当人が無明に在るのか、他人から見て


その人が無明に見える(当人は分かっていない=「明」だと
思っている)のか、によって逆の意味になる。
「無明の者を利用する」というのも、文脈にあるような“分かっ
ていない人”であれば、確かに言葉は届かないかも知れない
(自律的に変らせる事はできない)かも知れないが、お金や
地位といった“馬車馬の目の前のニンジン”によって他律的
に操る事は可能だ。

そもそも、有限的な存在性そのものが、絶対確定化によって
無限不確定性(=無)に発散するものを、階層現象的表面性
において経験的に把握する(いい加減に捉える)事により
生じるものであり、いわば「無とは分からない事が有である」
と言える時、「明(有ると信じる事)」自体が無明なのだ。
自我仮説(時間の流れ)の相補として時空仮説(空間的広がり)
が生じる時、自己の必要としての環境の自覚化において、
無明(他我の合一)こそが愛に至る(助け合いとしての生=
最大充足)。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2012/06/14 20:44

原発事故と再稼働の話ですか?



もんじゅの知恵だね。

>どうでしょう?

 愚かさにもホドというものがある。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>原発事故と再稼働の話ですか?

いいえ。日常生活で感じたことです。

>もんじゅの知恵だね。

高速増殖炉のもんじゅにかけているのでしょうか?

お礼日時:2012/06/10 22:13

 こんにちは。



 無明には 部分的な経験知は持っているが明知(さとり)ではないという意味と いわゆる煩悩なる欲望という意味とふたつありましょうか。あるいは 分かれているのではなく 一体なのでしょうか。

 という定義はともかく もし欲望や知恵ないし知識にも 程度が問題になるとしたら 悪貨と良貨とがあると見得るかも知れません。

 そこで単純に 

  ○ 悪貨は良貨を駆逐するというのが 世間のナラワシである。

 という結論をみちびきたいと思います。

  ・ 勤勉とガリ勉とがある。
  ・ 少しはゆづる者とまったくゆづらない者とがいる。
  
 というような見方です。言いかえると
 ★ 無明ならば、大それたことと理解しないまま大それたことができる。
 ☆ うんぬんとつづくその《無明》は ガリ勉の場合ではないかと見ます。(ガリ勉は 《物象化》という論点にもなっていると思います)。

 もしこうならば 世の中は 勤勉とガリ勉とが相い俟って その行為関係をかたちづくっており 全体としては いわゆる《自然史過程》として推移する。と見られます。
 それぞれの《人為》をつつむその歴史過程です。

 ときには モノの片向き・片寄り(クリナメン)によってあらたなページが開かれるかも分かりません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

もう少しわかりやすくお願いします。

お礼日時:2012/06/10 22:15

無明という言葉を自然現象に置き換えることはできないでしょうか。

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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>無明という言葉を自然現象に置き換えることはできないでしょうか。

うーーーーん;;

お礼日時:2012/06/10 22:17

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