プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

例えば、
今日は交通事故により日本で10人死にました。
シリアでは100人が戦死しました。
夕食の魚は生物学的に見れば遠い従兄弟のような存在です。
夜空を見れば無数の星が死んだり生まれたりしています。この時には人類が知らない無数の命がそれこそ天文学的な数で無くなっていると思います。

しかし、多くの人は、星の瞬きを美しいと言い眺めます。
どういう神経をしているのでしょうか?

また、私自身も、多くの知らない人が死んでいるのに、この程度しか心が痛くありません。
人が他者を思いやるというのは所詮このレベルの痛みなのでしょうかね?

A 回答 (13件中1~10件)

個人のレベルでならば、いくらでも大きな思いやりを発揮することができるでしょう。

偉大な先人の例はおびただしくあります。
集団のレベルではいかがでしょうか。この問題は集団(他者)への問の形式を取っていることから、集団の問題として整理してみます。群(集団)にとって一番大切なことは「群の存続(非破壊)」であり、「思いやりの最大化」ではないと言えそうです。群を大きな危険にさらさないという範囲で思いやりを実行すべしということになりそうです。

他者との間で結合力をもった原子の集団と言うモデルでこの問題をシミュレートしてみます。ごく近接した隣人とのみ結合力を使う集団(金属モデル)と、グループの一部のメンバー(篤志家)が他のグループの知人と強く結合している集団(ゴムモデル)とを採り上げます。それらの変形の様式と破断強さを比較するわけです。
金属では外力による変形でそのごく一部の領域のみ(億×億分の一程度)が原子配列の乱れ(ひずみエネルギー大きい 特に苦しい)を生じて、他の領域はほとんど全く苦しみません。外力の分担は平均的には同じです。変形が増すにつれて原子配列の乱れた領域(苦しむ領域)が広がり、やがて破断する頃になっても万分の一程度の原子のみが大きく苦しむのみです。この変形の様式の利点は、「集団全体の苦しみ(ひずみエネルギーの総和)が最小」であることです。
ゴムモデルでは、結合部が外力では不動なのでグループ内が変形し、外力が去れば元の形に戻ります。材料全体のグループが一部(篤志家)を除いてどの部分も外力に応じて変形します。この変形様式の利点は、材料のほぼどの部分もひずみ(苦しみ)を等しく分担することです。
集団としての両モデルの「強さ(バネ定数と破断強さ)」を比較します。微小な力には金属がはるかに大きなバネ定数を持ち強いといえます。全ての原子が互いの結合に寄与しているからでしょう。大きな力に対しても金属が強い。原子配列の乱れた領域(応力の集中部)を、原子集団内部で移動・拡大させて譲り合うことで全体として外力をかなり均等に受け持つことになるからでしょう。苦しみの領域を譲り合うことがなければ全体としての強度は1/100程に低下します。ゴムでは苦しむ部分がごく一部の篤志家に限定されているので全体としての強度分担能力(破断強さ)ははっきりと小さなものになるのです。篤志家をいくら増員しても金属には及ばないのです。
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 大まかに二つ理由があるんじゃないかな~と思います。



一つは残酷で悲惨なシーンを見たくない。

二つ目は精神的、物理的に余裕が無い。

と思われます。

 例えば前者は無意識に苦痛や苦しみを感じないように防御してるという感じ
後者は例えば「シリアで銃撃戦が始まってます」とニュースで流れても、「シリアまで行く金ないし、戦っても所詮拳銃には敵わない」というような無理難題であることからその問題を無意識に放棄しているのだろうと思います。
 ご自身見たいなタイプの人は多いですがこの手のタイプは『自分に身近に感じる存在に対して痛みを感じる事がなんとか可能』という位なのかな~?という感じがします。
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>天文学的的な単位で生命が死んでいるように思います。



そうであれば、また、天文学的な単位で生命が生まれているはずです。
何が問題か、よく分かりません。
心を痛めて、何か改善するのでしょうか?
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「土木工事をしよう、というのに、ミミズを一匹一匹供養した」というのを、聞いた事があります。

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植物以外の動物は、生命を食べなければ生きていけません。


それを本当に苦痛に思うなら、あなたは、自らの生命を消滅させるべきです。
そうすれば、自分のために他の生命を殺すことはありません。
少なくとも、あなたは、ベジタリアンになるべきです。
あなたが現在ベジタリアンでないならば、あなたは偽善者です。

生命は、生まれたときから、死に向かって行進する運命です。
それが早いか遅いかだけの違いです。
個々の命の生死は、大きな問題ではありません。
それよりも、地球全体の生命を考えてみましょう。

全ての生命は、命を次の世代につないでいます。
受精卵が分裂を始めたときに、生命が宿ったと言いますが、その前の未受精卵は生きていないのでしょうか?
精子は生きていないのでしょうか?
そんなことは、ないでしょう。
生命は卵子や精子の中に、最初から宿っているのです。
あらゆる生命は、前の世代の生命を受け継いで生きています。
そして、今の世代は、次の世代に生命を引き継ぐために生きてます。
個々の生命が死んでも、地球全体の生命をつなぎさえすれば、その使命を全うしたのです。
つまり我々は、地球全体で、一つの生命なのです。

酷な様ですが、次の世代に命をつなぎさえすれば、今の世代の生死は全く問題ではありません。
いずれ死ぬべき運命である単一の世代の生き死にを、あれこれ悩むのは、不毛です。
それよりも、人間が増えすぎることによって、特定の種を絶滅に追い込んでいる事こそ問題にすべきです。
それを防ぐためには、多少の人間を間引いた方が、地球全体の生命の為になります。
人類は、地球の生命を根こそぎにする危険性を秘めています。
人類は、地球生命体の、癌細胞なのです。
癌細胞が増えすぎると、本体を死に至らしめます。
個別の癌細胞が死んだかどうかが、そんなに大きな問題でしょうか。

あなたは、自分が死ぬのが怖いので、他人の死にも敏感になっているだけです。
私から見ると、それは、偽善としか言いようがありません。

ちなみに、星の瞬きは、星の光が空気の揺らぎによって、光の到達が妨げられただけです。
無数の星が死んだり生まれたりしているのかも知れませんが、自分の生きている間にそれが起こるのは、天文学的に小さな確率です。
もしあったとしても、観測できないほど、遠くの出来事です。

この回答への補足

訂正:星の瞬き→星の煌めき
光の揺らぎの意味ではなく、大小マゼラン雲の様な非常に活発な銀河系の美しさという意味で使わせていただいております。また、ブラックホールからのX線を観測する限り、天文学的に小さくはなく、天文学的的な単位で生命が死んでいるように思います。

補足日時:2012/10/03 02:12
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一人の人の命の終焉を、誠心誠意、我が身に重ねようとしても、完全には分かる術はない。



もし。。。
そう、もし、分かったとするなら
。。。それは、私が死ぬ時なのかも知れない

いや、それでも分からないだろう。。。

なぜなら、その人と私とは、決して同じ道を歩んではいない、それぞれの人生。。。

共感。。。そう、悲しんだり、痛みを感じることはたやすいこと。。。
(知的)共有。。。そう、(交換可能な)知識として理解することはたやすいこと。。。

しかしながら、決して越えることのできない境界。。。非同一性、交換不可能性。。。

いくら思いやることができても、無意識のうちに「違う」と叫んでいることだろう。。。
そう。。。それぞれの生命。。。それぞれの人生だから。。。

星の瞬きは、多くの生命を滅ぼすと共に、多くの生命を生み出し、育んでいることだろう。。。
遠い従兄弟のような魚を食し、いつかは滅びるこの身は、百億粒の灰となり、
いつの日か遠い従兄弟のような魚の餌に紛れ込み、その体の一部になることだろう。。。

痛ましい交通事故がくり返される背景にて、地道な努力がくり返される。。。
無意味な戦争がくり返される背景にて、地道な反戦運動がくり返される。。。

私の心臓の鼓動が止まるまでに、私の思いを封じ込めた言葉たちは、
いったいどれだけの人々の心に届くのだろうか。。。

。。。また、心臓の鼓動がトクンと跳ねた
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思いやりの度合いを何で測るのか


心の痛みで測るなら「その程度」となるけれど
その物差しでいいの?
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身近にいれば思い出もありますし恩義などもあって悲しくなったりしますが、分からない人が亡くなったら、ニュースで見るような感覚しか抱けないでしょう。

確かに誰かと情は生まれても、それが永遠にとはないはずです。
もし、もう関わらないのだと分かってしまえば「そうですか」と終わるしかありません。
人によりますが、終わるのだと分かってしまったら期待もしずらくなります。
これ以上どうにもできないのに、1人であがいても仕方ないのです。
一時期嬉しくても、相手の記憶に残ってるとは限らない。私が何か言ったところでどうにもできないのに、期待は始めからできません。その時の喜びや悲しみを永遠に分かち合えたら、素敵ですね。
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その通りです。


しゃかやいえすは千年に一人の奇跡です。人間は幸か不幸か他の動物とは違う、社会的な生き物です。それに覚醒した人間はかくも少ない人数でした。無理もありません。百万年前まではやはり人間も一匹のエゴイスチックなけだものだったのですし。
大昔は家族で一人前、歴史時代に入って国単位で生き残りをかけ、そして今は世界が一体となった人類の運命共同体です。ますます思いやりは重要な感覚になっています。多くの科学的なツールがそれを補助するようになってはいますが、でもその歴史は高々1世紀、まだまだ人間の意識が必要に追いつきません。
アフリカソマリアの餓死者の痛みその他を真に自分のものとして世界が自分の体の痛みと感じられるほどに人類のこころの進化が追いつくまでに、その人類自身がけだもの的な利己主義が原因で社会を崩壊させてしまうことになるのかどうか。21世紀の分かれ目だと思います。
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他人の痛みを自分のように感じる精神疾患があります。


しかしそれは単なる異常ではなく、正しい自己の社会生命
性(自分一人では生きられない=世界中の人々の営為に
依存している=助け合いとしての社会)の認識による、
完全な他己化(愛による社会行動=自律的生=生存自体
による充足=最大充足)の可能性を示唆しています。

ただし現代社会は、そうした自己存在の本質性に根ざした
自律的生ではなく、お金や出世、虚栄心といった“馬車馬
の目の前のニンジン”や、詰め込み教育のバラバラの知識
=歯車化による、他律的生(生物なのにイヤイヤ生きる=
お金をもらうために仕方なく働く)における自己チュー化が
進行していて、上記の可能性に逆行していますが。
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