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現在、自分で着物を着る(もしくは他人に着せる)技術を習う為に着付け教室に通う事が普通になっていますが、
そもそも「着付け教室」の類は、いつ頃生まれたのでしょうか。
どこの誰が、何のために始めた物なのでしょうか。

戦後に始まった事は間違いないのです。恐らくは高度経済成長期でしょう。
先日とあるブログで、
「高度経済成長期に、とある美容院の娘が、母親がお客様に着物を着せ付け、(本来は花柳界の人が、髪結いさんやお手伝いさんなど、他人に締めてもらうものだったはずの)お太鼓結びを締めてあげてるのを見て、『これだったら自分で着物を着る人が自力で締められる』と思って見よう見まねで人前で実演したのが最初だ。
その後、何故かガッチリと補正し、皺の一つも許さず、着付けの道具を多用するようになり、呉服屋と結託し柔らかものを買わせるようになったのが今の着付け教室である」
という主張を読み、
「それは本当かしら」と裏を取るために検索しましたが、いい情報は見つかりませんでした。

また、私が手元に持っている古本の分厚い着付けの本の頭には、「昭和39年、自分のところが最初だ」と書いてありましたが…正直言うと
「有名な大手ならどこでも『自分のところが元祖だ』と言うだろうなあ」と思うのであんまり信用してません。

どなたか教えて頂けないでしょうか。
もしくは、「日本の着付け教室の歴史」について、信頼に足る客観的な参考文献(ネットでも映像でも印刷物でも)をご存じありませんか?

何卒よろしくお願いいたします。

A 回答 (2件)

#1です。


【「東京オリンピックの際に、あんまりグチャグチャの着姿を見られたんじゃ外国人に恥ずかしいから、
国が指導した」という説も、以前聞いた事があります。どうなんでしょう、これ……】

これは、オリンピック(1964)のときに、コンパニオンを募集して、その教育として
当然に、なされたことです。
パーティも、レセプションもあるし、そこに、日本美人が登場するわけです。
着物姿に「ビューティフル!」としてです。
接遇の一つです、芸者イメージなんでしょうね。

もちろん、英語が出来ることは必需ですが、それ以外に、日本文化としての着物です。
着物が着られる’お嬢さん’から英語が出来るように仕込むより、
英語のできる、才媛・美人にたとえ即席でも。日本文化としてあれやこれやと叩き着込むほうがたやすい。
長島監督の奥さんはこのコンパニオンの出身で、当時とても話題になりました。


【「どんな美意識を追い求めた結果、
『皺一つ許さない』『とにかく直線的に』『中にプラスチックでも仕込んだかのように」
『体の凹凸を完全に埋める』というような着方を指導してしまったのか」ということです。
あの姿を「美しい」と思った人がいるからこそ指導する人がいて、多くの人がそれを受け入れた訳で、
誰か止める人はいなかったのか?あれが当時の美意識だったのか?だから流行ったのか?」というのが、とても気になるところです。
いくら凹凸が無い方が収まりがいいからって……人の体は、電柱でもドラム缶でもないのに。】

これは、すでにして、日常で’着物を着て動いている人’を見てないからです。
みるのは、写真になった着物美人しかない。
だから、着物着て掃除洗濯、子守、調理をしていた時代ではありえないすがたです。

着付け教室で習った着付けで家事育児は出来ない。
ならば、ダレが考えて、誰が、ソレを進めて、誰が納得してそれに従ったかを考えればわかること。

もちろん、今でも、家事をした人がお出かけするときには、気取った服装に着替えます。
洋服自体が違う、デザインも違う。

・・・が、しかし、
昔は、着物はデザインは全部一緒です。
違うのは、袖の袂の長さと、帯と、着物の素材です。

ココで問題なのは、’帯’です。
昔の普段の帯は、まぁ、浮世絵ではぞろりとした帯ばかりですが、あれはいわば、今で言うなら
最終流行、セレブファッションですが、明治、大正、昭和の戦前までなら、
あんな帯(浮世絵にあるような)は持っていてもそれは、余所行きです。

普段は、もっと、軽い、そして安い、ペランとした木綿帯だし、半幅(浴衣の帯のような)が主流です。
もちろん、補正なんかはするわけないです。

余所行きの帯は、正絹丸帯と言って、重たく、どっしりとして、裏表同じ表生地だけで出来ている。
コレを、巻くと・・・・そう、でこぼこがなくなるぐらいに、胴体部分がフラットになる。

戦後の安い名古屋帯で、丸帯’風景’としての胴体を作ろうと思うと、’盛り土’しないと出来ないのです。

呉服屋が本物だけど、リーズナブルにするために、節約帯を考えて、さらに、丸帯のような風情をもとめて、
着付けを知らない’お嬢さん’に教えるなら、あのようになるのです。

根底には、上等なものを使っての着物姿は、基本的にアナタが思われるシルエットになるのが必然だから。

ソレと、シワ一つない・・・というのは、着物をシワを作るまで着こなして生活する人がもう、
周囲にない。
腕を振り回しての家事をしないからこその、旨にも、背中にもヒダをとって、ぴっちりの着付けが正しいとおもう。

それでいて、’衣紋抜き’なる、商品までつけるのが当然ののように、呉服屋で言われるのは
妙に花柳界ファッションを引きずっているから。
素人はそこまでは衣紋は抜かない。
現に、盲腸のように、繰越はスタンダードはたったの5分(2cm)です、基本の仕立ては。

つまりは、後ろ首から、2cm後ろにずれるのが女性の着物の着付け。
ソレを無理やりひっぱって、下げる。
ソレがための、’衣紋抜き’になる。

花柳界での着物は元から、5分・2cmの繰越を最初から、1寸5分以上に仕立てます。
コレに類似させるために引っ張る。

見慣れてかっこいいを踏襲するわけです。
素人で着慣れて、生活する人は、磯野ふねさんぐらいです。

これだって、戦後に、着物を残したというより、着物で生活して、そのまま、自分の普段着として
今なら、Gパンを残しているのに等しいだけのこと。

余所行きは全部、お芋に交換ですから。


【乏しい知識で予想するならば、1960年代~1970年代の洋服や建築や美術って、単純でハッキリしたデザインで、キッチリカッチリした形で……ちょっと無機質というイメージがあるので、
あるいは着物姿でそれを再現しようとしたら、ああなったのかなあ……と考えられます。】

確かに、洋服類似のデザインとして当時、着物が妙なファッションになってしまった時代があります。
ラメが入った織りだったり、袖の袂を、ツバメの羽のようにしたりです。
ただ、このときの面白いのは、襟元を抜きません。
洋服の襟が抜けてないからでしょう。

そして、塩月弥栄子が「冠婚葬祭入門」を書いてベストセラーになった、何より、表千家という看板がある。
着物がまた
妙に格式に縛られるように’決められた’と言って問題ないぐらいです。
表千家として、茶道ではこのようにしています・・・という話が、基本、着物はこうでなくちゃいけない。
それ以外は間違っているという、いわば’装道’のように庶民が呉服屋さんが洗脳するに丁度だった。

もちろん、本物の’装道’というものはあります。
コレは公家、大名格として作法の一つです。
コレを一般庶民に準じろ、ソレが正当という・・・・、誰もついていけませんので、
結局の’現状’です。

だって、ソレまでは着物生活庶民は絹物の一枚も持ってないし、もちろん、戦後は必要もないし、
第一、やれ、紋が一つだ3つだなど言うほど、紋付を基本持ってない。

羽織を着るような人、絹物・紋付を着るような人は、庶民じゃないから。

あと、余分ですが、着物が衰退するのは、’履物’のせいもある。
草履は雨に弱いし、台が固いですから、ひざが悪いと歩ける代物ではないです。
靴はクッションがあるのに、草履はない。
下駄は論外です。
2枚歯の下駄で歩くには’修行’がいる。

縮緬にしても、絹物一般にしても、雨にぬれないような生活が出来る人が着用した。
電車も、車もないような時代にです。
そういう人の着付けと持ち物としての着物、生活スタイルが’着付け教室’の基本概念だから。
庶民がセレブファッションを形だけ習っているようなものです。

アメリカ文明としての’まっすぐ’とはちがいます。
アメリカ文明を妙にとりいれたときの着付け・着物はもっと、ボーイッシュ?な感じでしたから、着物ファッションは。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。遅くなって申し訳ありません。

「東京オリンピックの際に誕生した」というのはそういう意味だったのですね。
私はてっきり、せんだっての北京五輪の時だったか、地元の人がパジャマで外出する習慣があるのを、
「外国人に見られたらみっともないから辞めろ」と国が指導したとか、そのような「一般市民」への指導かと思っておりました(実際、日本でも東京五輪の際は市民にマナーの指導をしたという話を聞いたことがあります)。
長嶋監督の奥さんについても検索してみたところ、確かにそういう経歴があったそうです。それが縁になって結婚されたとか。

『冠婚葬祭入門』についても、以前家の物置にあったような(確かカッパ・ブックスでした)記憶がありますが、いつの間にかなくなってました。
一度目を通してみましたが、
「女の家紋は実家のをそのまま付けててもいい」
「ダンスパーティに行くときは、お太鼓よりはリボン結びのほうが便利、ブローチなんかを付けてても素敵」と、お茶の家元が書いたにしちゃ柔軟だなあとおもった記憶があります
(というかダンスパーティに着物、という発想自体がない……第一、私のような世代の者には、若いのが踊りに行くとなると、男女関係なくDJの音楽に合わせて『クラブ』ではしゃぐイメージが……はい、行ったことないです。親がうるさいもんで。ちなみに、いまどきそういう場所に着物を激しく着崩して行く人はいるっちゃいるようです。)

「装道」については、youtubeの動画を見る限り、着付けも含めた礼法を教えるカルチャースクールのように見受けしました。
自己啓発スクールの側面もあるようで……
その創立者が、「衣紋道」(お公家さん・お大名の着付や礼法)を一般に広める目的で着付け教室を始めたという話も、うろ覚えながら聞きかじったことがあります。



着付教室で教える着方は、お公家さんやお大名や芸者さん花魁さん花嫁さんの着方。
セレブだから、盛装だから、日常には生活できない(出来なくても平気)。

そんな着方をなぜ、一般庶民がしたがったか……
(着物が着たいだけなら、その時代ならまだ親や祖父母に聞きゃそれで済んだ可能性が高かったのに)

それは、
「戦時中でいったん着物を着る習慣が途絶えた状態で、着物の着方をあまり知らない人が、着物を着たいという需要が出て(お茶やお花や踊りのお稽古などの影響もあって)」

「その時最初に教える人が参考にしたのが、チラッと見聞きしたことのある『セレブ』の着方や『盛装』で(もしくはそれを髪結いさんが着付けてる光景で)」

「戦後、一般人でも暮らしに余裕が出来て、お金が出来て、そういう『セレブ』の真似がしたくなった、
普段着の着方なんて貧乏臭いから、アメリカっぽくなくてダサいからしたくなかった
(もしくは、やろうと思えばいつでも親に聞けると思って逆に後回しにしてそのまま聞きそびれた)」

……ということなのでしょうか。
(※実は、私がよく読む件の着物ブログの記事に、似たようなことが、かなり皮肉たっぷりに書いてあるのです。そうでもなきゃ推察出来ませんでした)


昔のお金持ちが占めていた丸帯は豪華すぎて、グルグル巻きにするとドラム缶になってしまう……というのは盲点でした。
教えていただきありがとうございます。
確かに古着屋さんで、丸帯が2000円均一で売っていました。使わないから買わないけど……万が一必要でも借りられるし……きっと……

着物に関しては、綿入れだったり、何枚も重ねて着たりしたから皺もよらなかった、
ピッチリ動けないように着つけても周りの人がなんでもしてくれるから困らなかった、
雨の中外に出る時も車や駕籠があったから濡れる心配はなかった……というのも、その通りですね。
確かにそりゃ、庶民には真似できない……

ただ、ただですよ。
着ている本人はさぞかし肩が凝ったことじゃないですかね。時々は筋を伸ばしたくなったりしたでしょうに……
それに幕末ごろの写真を見ると、かなり裕福であろう女性が結構しわくちゃの着姿で写っているんですけど、それとこれとは違う話なのでしょうか。
写真を撮るなんて、一生一度の記念でしょうから、あれでもちょっと身八ツ口ぐらい突っ込んでたとは思うんですよ、普段よりは。

そして、絹物も羽織も紋付も縁がない一般庶民は、冠婚葬祭の時には一体どんな素材のどんな格好で体裁を整えていたのか、ちょっと想像がつかないのも事実です。なかなか資料も少ないですしね
(不幸の時に白装束着ていた写真ぐらいしか見たことがないです。あと、農村では長着が盛装だったとか……)


戦後の着物におけるアメリカの影響、よくわかりました。
あの後ネットの記事で、昔の雑誌に出ていたという、「着物で洋服のスーツのような鋭角的なラインを見せるための着付」というのを読みました。なんかウエストをめっちゃ絞って、背中の弛みを物凄い方法で処理してました。
ただ、襟の開き方は着る人や絵を描く人によってまちまちに見えます。
中原淳一さんの絵なんか見ると、妙にカッチリとなんか折り紙でも折ったかのようなラインの着物のイラストですけど(顔もやたらバタ臭い)、あんな感じなんでしょうか。
思い出してみれば、宇野千代さんの着物の本にも、
「おはしょりなんていらない」「靴にも似合う着物姿を」「帯揚げを出さない」
「蛍光灯の下では淡い色が映えるからお勧め」とか色々書いてたのを読んだことが……

って、こんだけ色々読みかじっておいて、なぜ気付かないのでしょうか、私は……

ラメ入りウール、そういえば持ってました。というか、この冬そればっかり着てます。
(数年前に古着屋さんで買ったものですが、最近生地のラメ糸部分だけがやたら劣化してポロポロ落ちていることに気付き、こりゃただの地味な着物に成り果てるのも時間の問題だなぁ、と少しだけ心配です。
買った時から既に裾の縫い糸が弱りかけてて、今は当て布付けちゃってます)
ツバメみたいな袖は、どなたか落語家さんが着ているという噂を聞いたことがあります。
漫画やゲームに登場する着物っぽい衣装にもよくある袖の形なので、少し憧れています。

後、終わった話に戻ってしまいますが、私の数少ない柔らか物の中で、紋綸子かなんかの妙に凝った布の地味な小紋で、裏が紅絹であることからかなりの年代物でもあろうに、シミも虫食いもカビも生地の弱りも全く見当たらない、信じられないぐらい状態の良いのが一枚あるんですが……そんな美品、古着屋さんでなんと500円。
「なんかあるんじゃないか……?」と今になって疑ってしまいますが、私の身に特に物騒な事が起きたわけでもなし、いい縁だと思って大事にすることにします。

本当に、着物の話一つだけで、昭和~平成がどれほどに激動の時代かと再確認してしまいます。
目が回りそう。

お礼日時:2013/02/18 17:49

アナタが引いてきた、美容院の娘さんが・・・という話は、そういうこともあるかもしれないが、ウソでしょう。



もともと、花嫁の着付けとしてはきちんとプロがいました。
それも、タブン、最初は花柳界からの、派生でしょう。

ただ、そちらとは別口での話だとおもいます、あなたの言われる、「教室」は。

普通の女性が、教養として、躾のようなものとして「着物の着付け」だから。

こんなものを教室で習うのは昔なら、ありえません。

なぜなら、今の人が、「ワンピース教室」とか、「ブラジャー教室」なんか「洋服教室」としてありえないのと同じに、
朝起きて、寝るまで着物で生活しているから、何も習わなくても、きられるからです。

特別なとき(花嫁・結婚式)のときだけ、特別な帯を、特別な着物を着るから、プロを頼むだけのこと。


で、「教室」ですが。
コレね、技術の習得が目的ではなく、「免状」がほしいからはやったのです。

発案者は、タブン、当時の表千家の宗家のお姉さんです。
「お嬢さんの躾一般について、マナーとして」というような本をいっぱい書いた。
塩月弥栄子?という。

当時、女性の基礎教養として、お茶と、お花、洋裁、和裁、編み物(機械編み)などを習うのがはやった。
女性の習い事のブームです。
昭和25年ぐらいからでしょうか?
ソレの最後が「着付け教室」です。
一番、人気がなくなるのが早かったのが、和裁です。
戦後は、もう、洋服生活だから。
そして、最後まで残っているのが、「着付け」
まぁ、簡単だし(だって、昔の人なら、全員着物なんですから、当たり前です)。
いまは、着付けから、お茶の流れになって、逆流しているのではないでしょうか?

洋裁も、女性の内職として有用性が高かったので、人気がありました。
サザエさんのマンガにも、サザエさんがお仕立てして内職するような話が。

ツルシと誂え・アツラエとして洋服も差別化が残っていた。
ツルシ=既製品=安物。
誂え=オーダー=上等、高級という認識です。

着物の畳紙にも「お誂え」とかいてあるでしょう?
反物でかって、縫って仕立てる、コレが普通。

それ以外は、古着です、今のたんす屋さんの2番手3番手ぐらいのようなのが、庶民の行き先です。
新品として、最初から、出来合いの着物はありません、昔はね。

お花と、お茶は多少とも、余裕のある階層のたしなみとしてやってる。
そのうちに、’お茶’の先生が気がついたのでしょう、生徒が着物が自分で着られない人が増えてると、戦後に。
着物の所作が、マナーがなってない、着物常識を知らないとね。

だから、最初から、着物教室常識=お茶常識=大名格ということでの呉服屋さんの策謀として始まってきてしまう。

習って、それぞれの、「免状」をもらって箔をつけるのです。
「お茶とお花の師範です。 着付けも免状をもってます」とね。

ただ、ブラジャーのつけ方を習ったからって、偉いですか?
ソレぐらいに、着物が遠い世界になったからこそ、勝手にアレコレ’再構築’してしまって、より絶滅してしまった今です。

昔の女性にとっての着物は財産だった。
ソレがゆえに、最後まで’貯金’代わりに残して、最後に、食料難で戦後に残ったものまで、
全部、お芋と交換されたのです。
・・・で、まだ平和なときには、キレイな着物を持っていた人たちの、きれいな着物を着るような生活をしていた’着物’が
全部【農家】に行きました。

オークションやってると、すごいですよ、今でも、そういう、地方の農家の蔵から、ごみの山のように着物が出てくる。

ただ、はっきり言って、農家の人も最初は欲しかった着物も、自分たちには必要ないもの、そして、着られない、
似合わないとわかってきたと思う。

着物を着られれるひとの手元には着物がなくなり、
着物を欲しがったが、必要なく、着られない人の手元に山のように集まる。
着物を着られるような時代になったとき、すでにして、着物を着ないので着物もないし、教えられない’親’

そういう時代に、大名格として、着物を着て教えるというスタンスの、お茶の先生が
着物にうるさくアレコレ言う、何も知らない娘が着付けも習う。

コレに、古くからの呉服屋が乗る。

呉服屋の目論見が外れたのは、戦後の民主主義で、来ているもので判断することの意味を失念したのです。
もともと、いいものをもう、庶民は知らない。
ならばと、化繊の時代の幕開けですから、ソレらしいものを、安く・・・ではなくソレらしい値段で、まがい物も
多い。
絹の質は重さではかった、よって、無駄にノリをまいて、’増量’したりもする。

そういうようなものが、もう、着物はいいやとお客に思わせる。
だって、洋服で事足りるのですから。

「教室」問題は、学歴主義ともかさなります。
4年生大学を出ると嫁の貰い手がないということで、行っても短大。
専門学校なんかないです、あるのは、美容・理容ぐらいでしょうか?

箔をつけるための「教室」として、着付けはお茶派閥?が考え出した+αですね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。遅くなり申し訳ありません。

なるほど、「お茶」「お花」「お琴」「踊り」などの「お稽古事」と同列に「着付け」が扱われ、
そしてこれらの「着物を着てやるお稽古」と結びついたのが、今の「着付け教室」と「呉服屋さん」のビジネスだった、ということなのですね。
その影には、
「戦争でみんながお洒落やお稽古事どころじゃなく、その手の伝承が途絶えてしまった」
「なんでもアメリカ風にしたがって、洋服が普及した」
「皆が急に裕福になった」
「曲がりなりにも民主主義が広がって身分制度が崩れ、『着ている物で判断する』という風潮が薄れた」
「女も教養を付けたいという風潮がありながらも、勉強して進学するという所までは思い切れなかった」、
という時代的な事情があったのですね。
本当に、戦争が無かったら、あってももっと日本に余裕があったら、勝っていたら、一体どうなっていたのでしょうか……想像がつきません(学校と祖父母の話でしか知りません、戦争の事は)。

考えてみたら、同じ「和のお稽古」でも、武道や謡など、「袴」を着て行うものには、あんまりそういうビジネスは結びつきませんよね。
「和服を着たときの所作を身につけないといけない道」ということに変わりは無くても、
動けないといけないし、(特に武道は)家でざんざか洗濯できないとやってられませんものね。

(私が先に引いた話は、
「元々着付けは、髪結いさんが、独りでは着られないような大掛かりな「衣装」を
芸者さん・花魁さん・役者さん・花嫁さんなどの『他人に着せる』ための技術で、
素人には教えない、教えてはいけないものだった(だって素人さんが出来たら商売にならないし)、
そこを勘違いした素人が『自分で着る方法』と混同して教えたのがそもそもの全ての間違いの基だった」
という論旨でした。
ちなみにこの話はさらに続き、しかも同じ事を何度も繰り返し、明らかに悪意を感じる文調で書くので、
マトモに聞いたら三日三晩じゃ足りないのではないかと思うほどでした……あんなに言われなくても分かるって!

また、これは全く別の人ですが、戦後の学校教育のマニュアル主義の弊害を挙げる見解も聞いた事があり、
これも「んな関係あるか!」と突っ込んだ覚えがあります。
でも確かに、「個性尊重」の何のと言われても、なんだかんだ結局マニュアル主義ではあったなあ……と、
1990~2000年代に義務教育を受けた者としては頷くのでした。

そして、質問では省略しましたが、
「東京オリンピックの際に、あんまりグチャグチャの着姿を見られたんじゃ外国人に恥ずかしいから、
国が指導した」という説も、以前聞いた事があります。どうなんでしょう、これ……)








まあ、そんな世代論・下手すりゃ陰謀論まがいの話のほかに、もうひとつ気になることがあるのです。

「どんな美意識を追い求めた結果、
『皺一つ許さない』『とにかく直線的に』『中にプラスチックでも仕込んだかのように」
『体の凹凸を完全に埋める』というような着方を指導してしまったのか」ということです。
あの姿を「美しい」と思った人がいるからこそ指導する人がいて、多くの人がそれを受け入れた訳で、
誰か止める人はいなかったのか?あれが当時の美意識だったのか?だから流行ったのか?」というのが、とても気になるところです。
いくら凹凸が無い方が収まりがいいからって……人の体は、電柱でもドラム缶でもないのに。

乏しい知識で予想するならば、1960年代~1970年代の洋服や建築や美術って、単純でハッキリしたデザインで、キッチリカッチリした形で……ちょっと無機質というイメージがあるので、
あるいは着物姿でそれを再現しようとしたら、ああなったのかなあ……と考えられます。

お礼日時:2012/12/28 18:42

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