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浄土真宗にお詳しい方にお尋ね致します
どうかよろしくお願い致します

先祖のお墓を探しておりまして、弔っていただいた浄土真宗のお寺がわかりました
(一族の没年は明治20年から昭和16年までです)
お寺の過去台帳に全員の俗名と法名が載っておりますが
そちらにはお墓はなく、納骨もなく、預骨の台帳にも載っていないそうです
古くからある公営の墓地も探しましたが埋葬の記録はありません

調べてみますと浄土真宗ではお墓や遺骨は重要ではないということがわかりました
まだお墓は探してはいるのですが、亡くなった後に弔っていただき法名もいただき
火葬にして遺骨をお寺にお任せしたという可能性が高いのでしょうか
あるいはお寺で弔っていただいてその後はすべてお任せして合祀合葬されたと
考えたほうがいいのでしょうか

A 回答 (5件)

浄土真宗の学校で勉強しています。


家は寺です。

みなさんのおっしゃるように、地域によって違います。
村ごとに習慣が違うのも珍しくないので、菩提寺がわかったのなら、その村の葬送の習慣を調べてはいかがでしょうか?
お寺だけでなく、地域の主だった家の方にお尋ねになるのもいいと思います。
役場や郷土資料館をたずねて、そこの方から地区のしかるべき人を紹介してもらうと、スムーズにいくのではないかと思います。

また、例えばお寺が区画整理や災害で引っ越したり、墓地の整理が行われたりして、お墓がなくなったことも考えられます。
お墓を移動させたりする時は、事前に所有者や縁者を探してお知らせしたり、一定期間告知を出したりするのですが、それでも連絡がとれない時は、持ち主の許可なく撤去せざるをえません。
もちろん、中身はしかるべく処理しますが。

また、ご先祖以外の親戚がそのお寺から離れたところに住んでおられたり、元々の本家があったりした町にお墓があって、弔いは居住地のお寺にお願いして、葬るのは別の地域ということもありえますね。

古い公営墓地でも、時代によって微妙に墓域がずれることもありますから、その際に持ち主がわからなければ合葬されてしまったということもあるかもしれませんね。
記録がないということなので、違うかもしれませんが。


さて、#4の方は教義を曲解されているようです。

確かに浄土真宗は、ただ念仏すれば極楽往生できるっておしえてます。
念仏=南無阿弥陀仏というのは、悩み苦しむ人を救いたいと決心した阿弥陀如来を信じますってことです。
口先だけで、その場しのぎに「ナムナム」って言えば悪事はリセット、オールオッケーってことではありません。

開祖親鸞上人の後継者、室町時代に活躍した蓮如上人は、 「ただ声に出して南無阿弥陀仏とばかり称うれば、極楽に往生すべきように思いはんべり。それは大に覚束なきことなり」とおっしゃっています。
「南無阿弥陀仏」と唱えたら何やってもいいって思ってる人ばっかで困っちゃうよな~ってことです。

鎌倉時代以前の仏教は、教典を読めて(学問ができるのは特権階級)、戒律を守り修業する男性のためのものでした。
文字が読めず、生活に余裕がない一般庶民、そして女性や漁師などは極楽に行くことが(ほぼ)できなかったのです。
それっておかしいんじゃないの?
信じる心よりもどんだけたくさん修業したかによって決まっちゃうわけ?
み仏は悩み苦しむ人全てを救おうと決心して努力したのに、そりゃありえんやろ。といったのが親鸞上人なんですね。
だから真宗では、仏弟子になると戒名(受「戒」したらもらえる)ではなく、法名を名乗ります。

教えの特徴としてよくあげられる「悪人正機説」の悪人も、人殺しや盗みをした人という意味ではなく、仏の視点から見たら、煩悩(自分視点の希望)だらけの我々は、皆等しく罪人だってことです。

晩年の親鸞上人でさえ、「浄土真宗に帰すれども真実の心はありがたし 虚仮不実のわが身にて清浄の心もさらになし」
浄土真宗を信じてはきたが、清い心になれたわけでなく、あいかわらず自分本位で恥知らずな悪人のまんまです。
というようなことをおっしゃってます。
このあとに、だからこそ、この哀れな私でも救ってやるぞという、阿弥陀さまの心(他力)にすがるしかないのだなあってわかったよ。と続きます。

自分がどれだけ身勝手かということを自覚せよ。
そんな者すら救おうという仏の心を信じ、喜べ。
その心に沿うように、よく生きよというのが、浄土真宗のキモじゃないかと思っています。
(上の3行はわたしの解釈です)

この回答への補足

とても丁寧にご回答くださりほんとうにありがとうございます。
浄土真宗の教えのほうは後ほどゆっくり読み勉強させていただきますね。
私事で恐縮なのですがここ数日忙しないため私の先祖の部分を先に補足させていただきます。

弔っていただいた浄土真宗のお寺では過去台帳に記載があってお墓はなく、当時は納骨堂もなかったということなのでこちらではありませんとの回答でした。預骨台帳にも載っていないということでした。当初はお墓がないという可能性をまったく考えてもいませんでしたので(最後に亡くなった曾祖母が昭和16年でしたし)お墓がないという場合もあるというご説明をもしかしたらいただいていたのかもしれませんがそうだとしましたら耳には入っておりませんでした。このところはちょうど浄土真宗ではお忙しい時期ということでしたので来月にまたお尋ねしてみたいと思っております。

役場にも何度も問い合わせてはおりますが平成に入って市営墓地の調査を行ったとのことですがよくよく調べてもらいますと戦前の記録はほとんど残っていないとのことでした。その地区の市営墓地には戦前からもものが多数ありますので歩いて探そうとも思ったのですが役所の記録では該当するものがないということです。説明が矛盾するようですが市営墓地にはない可能性が高いように思います。またこちらは管理手数料なども取っておらず古いお墓でも取り壊したり合祀したりもしていないということでした。郷土資料館のようなものがないかも探しましたがありませんで、博物館のようなところにも尋ねました。役場でもそちらでもお詳しい方をご紹介くださいとお願いしましたがわからないとのことでした。

その先祖の本家(父と兄)は一応郷土史に載っておりまして羽振りがよかったのですがそちらの子息に聞いてもまったく同様の内容でお墓がないということだけを聞いているということでした。そちらの先祖も同じお寺で弔っていただいたようですが後になってそのお寺にお墓を作ったそうです。どの代からのものかは分からないということでした。さらにその本家の本家が北海道の別に地域ですのでそちらを調べてみるか悩んでいるところです。それ以外に別の地域にお墓のある可能性も考えてはいたのですが北海道という土地柄を考えてもあるならばその先祖の生まれ亡くなったその土地、もしくは本家の本家の土地のように感じています。

火葬に関しましては全国的には明治中期で2割、昭和初期で5割程度だったとどちらかに書いてありましたがその土地の繁盛を考えますと火葬になった可能性は他所よりはるかに高いのではと感じています。散骨や風葬、鳥葬、水葬などといった可能性もあるとは思います。地域などで異なることは十分承知しておりますが実際にどんな例があったというのが具体的に分からないので悩んでいます。

なお戦前の生まれた方ですが幼少のころとおっしゃっていましたから戦前になるか微妙なところなのですがそのお寺の境内が遊び場だったそうです。そのときにお寺の地下だか倉庫だかが骨だらけだったのを見たと聞きました。ですのでお寺に遺骨をお任せしたというような可能性があるのかもと想像しています。来年にでも直接伺って話を聞きたいと思っております。

私にとってはこのご先祖は父方の祖母の家系です。そのほかに父方の祖父の家系や母方のほうはすべて古いお墓がありまして、この浄土真宗のお寺で弔っていただいたこの一族だけが不明なのです。今一度お墓がない場合を踏まえてひとつひとつ考え再度お尋ねしていきたいと思っておりますがどのような地域の情報でも助かりますのでお知らせいただけますと幸いです。長々と説明下手で理解しにくい箇所もあるとは思いますがご指導いただけますと助かります。

補足日時:2012/11/29 18:30
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>浄土真宗は他宗とことなる世界観があることをつい知ったばかりです。


浄土真宗では生前の善悪の業は全く無視して
「門徒は全員死んだら直ぐに極楽浄土に転生する」
という教義になっています(西も東も)。

と言うことで墓は単なる目印。位牌も法名(戒名)を書いた単なる札と
言う扱いです。直ぐに転生するので霊魂はありません。という立場を教団は取ります。
極楽浄土に転生しているので他宗派のように故人の追善供養は行いません。
(法事は阿弥陀如来に対する報恩のお参りと故人をしのぶ会です。)

尚、私も門徒ですが浄土真宗の教義の解釈には一部反対の立場です。
生前の業を無視して全員極楽往生などありえません。
南無阿弥陀仏と唱えても如来に対して「信」のない人は極楽往生しません。
(極楽往生しない門徒もあるはずなので中有や霊魂の存在もあると個人的には考えます)

真宗教団の教義が正しいのなら例えば銃を突きつけて「南無阿弥陀仏」と
強制的に念仏を唱えさせてこの人を殺したら殺された人は全員極楽往生して
殺人者は人を殺せば殺すほど良いことをしたと言うことになってしまいます。

それに真宗僧侶が病気や怪我になって死にそうになったら
治療せずに早く死ねると喜ばなければ教義にはうそが入っていると言うことです。
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先に回答されているように宗派や地域で異なります。



私の先祖は越前(福井県)出身の門徒ですが現代ではよく見られる
「OO家(先祖)代々の墓」ではなく30センチ程度の小さい個人ごとの墓石が
残っています。一般は四角い石柱ですが僧籍に有った先祖は丸い円柱です。

戦後の新しい墓は他家も含めてみんな「OO家(先祖)代々の墓」になっています。
(墓石の下に複数の先祖の骨が入った骨壷が有ります)

この回答への補足

ご回答をありがとうございます

そうですよね、きっと地域によってもかなり異なるんですよね

宗派については分かりませんが江戸時代の古いお墓ですと
一人一人の墓石があることは聞いております
実は私の直系では曹洞宗なのですがその区画の中に普通の墓石のほかに
小さな墓石がいくつかありました
そのときは水子のものと思ったのですが古い墓石だったと分かりました
その中にひとつだけ浄土真宗の法名の書かれた直方体の墓石があります
(四角い石柱なのですが奥行きが薄めです)

話がそれてしまいまして申し訳ありません
浄土真宗ですと○○家~ではなく墓石の前面には必ず「南無阿弥陀仏」
あるいは「倶会一処」と刻むとも聞きました
戦前もそうだったのかはまだ調べてはいませんが地域によって違うんでしょうね

それにしましても過去台帳には載っていて法名も授かっているのに
それだけの情報しかありませんのではたしてお墓や納骨があったのか
とても悩ましいです

本家にも尋ねましたが同様に古い先祖はお墓がないということでした
さらに本家の本家の地域も調べてみたいとは思っております
参考になりました ありがとうございます

補足日時:2012/11/23 16:09
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この回答へのお礼

他にご回答くださる方のために誤解がないように記入させていただきます。

この質問ではお墓がないと思われる場合のしきたりをお尋ねしております。
お墓石の形ではなく、戦前にどのように扱われたのかを知りたいのです。

浄土真宗は他宗とことなる世界観があることをつい知ったばかりです。
情報をお持ちの方はどうか教えてください、よろしくお願い致します。

お礼日時:2012/11/23 23:37

浄土真宗お西です。


当地も戦前は墓地が無かったですね。
村のはずれの林の中に火葬場があって、そこで薪を積んで火葬してました。
その火葬場も、あちこち転々としていたようです。
そういう火葬場跡から火の玉が出るという怖い言い伝えを子供のころ聞かされました。
ただ、のどぼとけは小さな骨壺に納め、大谷本廟へ納骨していたようです。

この回答への補足

ご回答をありがとうございます

当方は北海道の東本願寺派のお寺だそうです
当時はわかれておりませんでしたのでお東ということになるのでしょう
戦前でもにぎわっておりまして火葬場も何箇所かあり昼夜問わず
火を絶やさなかったという役場の方からの情報がありました

のどぼとけは仏さまの形をしていると聞きますので
そういった意味合いもあるのかもしれませんね
大谷本廟への納骨となりますと現在でも選択肢のひとつなのでしょうか
当時はみなさんそのようになっていたのかもしれませんね

以前のお話はとても参考になりました
またなにか思いだされたことがありましたらどうかご指導くださいね

補足日時:2012/11/23 15:55
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この回答へのお礼

改めまして、ご回答をありがとうございます。

いただいた情報を元にいくつか調べてみました。
まず火葬なのですが明治中期で2割、昭和初期で5割程度という情報がありました。あくまで全国平均ですが、これは地域での差が大きいと思います。

骨壷へ骨を収めるのを収骨というらしいのですが、関西では部分収骨といって咽喉仏など一部の骨を拾いほかは斎場で供養してもらうそうです。関東では全収骨といって拾えるものをすべて骨壷に入れるそうです。これは浄土真宗にかぎらずごく一般的なことのようです。西日本、東日本といった区別のようにも思いますがどこで別れているのかは分かっていません。

浄土真宗でのお弔いでお墓だけでなく骨壷もなかった可能性を含めましてもう少し情報を求めてみたいと思います。

お礼日時:2012/12/06 11:49

地域と派で違うようです。



母の実家の地域(岐阜県南部で大谷派)だと、火葬後、歯だけを小さな容器に入れ、骨はそこで撒いてしまうそうです。出、歯を仏壇に納め、何回忌だったかに京都の本願寺に歯を納めてそれで終わりです。ですから、そもそも、墓を作らなかったそうですが、最近は他の宗派に合わせ、集落の墓地に墓を作るようになったそうです。

ところが、東京では、普通に火葬後には骨壺に収めて墓地に埋葬しています。当家の菩提寺は大正末に浅草から烏山の寺町に移転したのですが、先年、墓地が一杯になり、墓石が割れてしまったのを契機に改築した際に古い骨は土に還しましたが、明治、大正期の骨壺もありました(ですから、骨壺も浅草から移転したのでしょうね)。このように、同じ真宗大谷派でも違うのだと思います。

この回答への補足

さっそくのご回答をありがとうございます
すぐに拝見したのですが、不勉強なのですぐにお返事することができませんでした
大変失礼いたしました

地域と派で違いもありますよね
私の先祖は北海道の東本願寺派のお寺だそうです
当時はわかれておりませんでしたのでお東ということになるのでしょう
地域柄でしょうか、お墓というのは少ないようです

歯だけ器に入れるということもあるのですね
時間軸でも、戦前と現在でも、違いはあるのでしょうね

詳しくないので名称に誤りがありましたらお許しいただきたいのですが
大谷本廟、大谷祖廟に分骨ですとか
法名をいただくにも本山からいただくような選択肢もあるそうですね

実は私は曹洞宗なのですが無縁の方だけでなく弔い上げや
骨壷が入り切らなくなると麻の布などに纏められると聞いております

いろいろな方法がわかりましてとてもありがたく感じております
情報を参考にさせていただきもう少し調べてみたいと思います

補足日時:2012/11/23 15:47
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この回答へのお礼

改めまして、ご回答をありがとうございます。

いただいた情報を元にいくつか調べてみました。
まず火葬なのですが明治中期で2割、昭和初期で5割程度という情報がありました。あくまで全国平均ですが、これは地域での差が大きいと思います。

骨壷へ骨を収めるのを収骨というらしいのですが、関西では部分収骨といって咽喉仏など一部の骨を拾いほかは斎場で供養してもらうそうです。関東では全収骨といって拾えるものをすべて骨壷に入れるそうです。これは浄土真宗にかぎらずごく一般的なことのようです。西日本、東日本といった区別のようにも思いますがどこで別れているのかは分かっていません。

浄土真宗でのお弔いでお墓だけでなく骨壷もなかった可能性を含めましてもう少し情報を求めてみたいと思います。

お礼日時:2012/12/06 11:48

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