dポイントプレゼントキャンペーン実施中!

そら、周りの人を信じて生きる方が理想かもしれませんが、
正直今の世の中結構むちゃくちゃだと思います。
借りた物返さなかったり、平気で裏切ったり…。
「まずは疑ってかかれ」と、子どもに教えるのは間違いでしょうか?
何故親は、子どもには信じる事を教えたがる人が多いのでしょうか?

※特に、疑ってかかれと教えるのも間違いじゃないと思われる人がいたら
  話を聞いてみたいです。

A 回答 (16件中1~10件)

間違いではないと思いますが、言葉の使い方として「簡単に信じるんじゃないよ」と伝えたほうが良いでしょう。



言葉は違っても意味はほぼ同じです。
だけど「聞こえかた(言葉の響き)」が違うので、教えるとしたらこちらの方が良いのではないでしょうか。

命令口調で「やれよ」と言われるより「~お願いね」と、言い方で受け取り方は違います。

戦争の為に訓練されてるのとは違いますから、普通に聞いてもおかしくない言葉を使いましょう。
    • good
    • 0

30代女性。


教え方がヘタだと思います。自分で誰かに教えた経験がないんですね。

具体的に想像したらすぐわかりますよ。

親「疑ってかかれ」
子「わかりました。では疑ったとしてどういう相手なら信用したらいいですか」
親「。。。」

うまく伝わりますかね?
対人関係で疑ってかかれっていうのは能力がなくてもできます。
本当に必要なのは信頼できる相手を選ぶ能力です。
その能力は長い年月をかけて教えないといけない。
「疑ってかかれ」は言うだけです。1秒でいいです。
それは教えてるとは言わない。
TVのサギのニュースを見せることを教えるとは言わないです。

あなたが「疑ってかからなくては」と親に教えられたから身につけたの?
違うのですよね。
「何を信用したらいいか」という基準があり、
それから外れていることを知っている、あるいは
TVなどで疑うべき事例をいくつか学んだからでは?
(ひょっとしたらあなたに信頼できる人を
見抜く能力がなく疑うことしか知らないのかもしれませんが、
この文章からはわかりません。)

>何故親は、子どもには信じる事を教えたがる人が多いのでしょうか
そのほうが難しいし時間がかかるので何度も長く教えないといけないんですよ。
だから信じ方を教える人が多く見えるのでしょう。

教え方の順序は「本質」→「技法」の順がセオリーです。
技法だけ教えていると本質が身についているかわからなくなりますよ。

まあ、幼児がどんなものか想像するのは難しいので、
「後輩などに教える」体験などで身につけてみてください。
こうやって文章で言われたことがすぐ実践できるものでもないし、
外れる事例もたくさんあるでしょうから。
    • good
    • 2

こんにちは。


お子様の年齢にも因りますが。

まずは信じる心から成長させなくては。
親さえ疑うようになればどうなさるおつもりで?

信じることができたうえで、危険回避のために
何をどう疑うのか?を導けばよいのでは?
    • good
    • 1

何でもかんでも疑ってかかっていたら生きる上でロスが多すぎるでしょう。

レストランで出される食事に毒持ってある可能性疑ってたら自宅で食材育てるしかありません。

「何でも信じなさい」と言って聞かせる親はいないと思いますし「甘い話には裏がある」「タダより高いものは無い」みたいなことは世間でよく言われ、親も教えることだと思います。

騙される人って結局、自分と相手の損得を考えずに「相手が良い人だから」とか善悪に頼って考えようとする人だと思います。

要は「相手にだけ得になって自分に損になる可能性」の判断が付けば、最初から全て疑ってかかる必要はありませんし、むしろ相手に何の得も無いことをいちいち疑ってたら何もできません。(レストランの店員は私に毒を盛っても何の得にもなりません)

「基本的には相手を信じるスタンス」+「誰かの得と自分の損の可能性を把握できる」というのが一番ロスが少なくいいバランス、ということになると思います。

なお「疑ってかかれ」というのは「善悪」基準の物差しですので、「何でも信じろ」と同様で紙一重、疑ってかかった人間がいかにも信用できることを言った途端、ころっとだまされる人間になりやすい様が致しますので、個人的にはあまり良くない様に思います。
    • good
    • 0

もし子供にまず人を疑ってかかれと教えて、子供がその通りに成長する、先生の言うことも、友達の言うことも何も信用しない、そんな子供に育ったら私は嫌です。


だから子供にそんなことは教えたくないです。

でも、人を信じろ、なんて理想論を押し付ける気もないし、子育てして10年ですが、あらたまってそんなことを子供に教えたことないです。
教えるとしたら、こういう人は危ないから気をつけなさいとか、疑ってかかるほうの状況を説明することが多いですよね。こういう人は信用していいよ、なんて親が教えたところでそれがあっている保証は確かにありませんから。

でも、人を信用せずなんでも疑ってかかる人は、相手からも信用されません。
結果的に、誰からも愛されないさびしい人間に育ってしまうと思います。

子供がまっすぐ育つのって、まず親に愛されるという親の愛をなんの根拠もなく無償で信用できるところからはじまるのでは?
だから、親に愛されなかった子供は人を信じる気持ちに自信がもてなかったり、自分の存在価値に自信がもてなかったりして育ってしまう子も多い。
そんな子が自分に自信をもって明るくそだつのだとすれば、それは親以外の誰かから、その変わりの愛情をたっぷりうけとって、愛されていることを信じられてそうなったりする場合も多いと思います。

人を信用できない人には友達だってできないし人と愛し合うこともできない。
うまく生きていけたとしても、さびしい人生だろうなと思います。
    • good
    • 0

疑ってかかれというのは孤立や孤独に追い込まれていきます。


ですから1レベル下の警戒、「用心してかかれ」でいいんじゃないですかね。
まあ人間は結局失敗しないと成長しません。
どっちみち何を教えても無邪気に走り回りますから、大失敗して大後悔して、やっと注意しよう、とか用心しよう、とか考えるようになるんですが。
問題は過保護も度が過ぎて失敗させないとか成功しかさせないとかいうアホな親が増えたことですかね。
    • good
    • 0

そんなのケースバイケースに決まってる。



信じるべき人間を疑うのも、疑うべき人間を信じるのもどっちもバカ!どっちも失敗する。

何事もしっかり判断できる人間を育てるのが先決。
    • good
    • 0

私見ですが、間違いだと思います。



理由は、人に安易に騙されたり、騙されたことで持ち崩してしまわないために必要なのは、疑う心ではないと思うからです。
安易に騙されないためには用心深さが必要ですが、用心深さと疑ってかかることは別。
言い換えれば、石橋を叩いて渡ることと、石橋を作った人間を疑ってかかることは別。
疑うでも信じるでもなく、自分の力で確かめる事が肝要であると私は思います。

また、信じることは覚悟することでもあります。
つまり、騙された場合も想定し、それでも構わないと心に決めることだと思います。
私は幼い頃両親に「お金を貸す時はあげたものと思いなさい」と教わりました。私は子供ながらに「気持ちのいい考え方だな」と思いました。
それが信じる(=覚悟する)ということであって、ハナから疑ってかかるなら、「絶対誰にも貸さない」が正解だと思います。

まず疑うように教えたら、世の中の全てを疑う卑屈でケチな人間になってしまうと思います。
    • good
    • 0

「人を見たら泥棒と思え」


悪い教えでは無いと思います。
幼い頃に父親に言われました
私の子供にも同じ様に言い聞かせました。
だからと言って私は人を信じられない大人に育ったとは思いませんし私の子供も同様です。
先ず疑えと言うより
対人に関わらず、何事にも用心と言う心づもりを持つ様に教えれば良いと思います。
    • good
    • 0

人は その人なりの価値観をもつべきだと思います。



だから、他人をまず疑うこと、が大切だと思われるなら、それをちゃんと子供に教えることに 反対しません。

でも、人はひとりぼっちで生きていけません。弱ったとき、困ったとき、誰かに頼ることが必要です。
普通の社会生活を過ごす上でも、人とうまく関係を築くことは 必要です。

まず他人を疑え、という価値からは、社会で生活をするために必要なこと(信頼、友情、信用など)があまりにもはぐくまない感じがします。

人は疑え、という教えは、「うまい話はまずは疑え」というふうに、状況や局面を限定することが、前提ではないでしょうか。
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!