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ニーチェを読んでいる者です。
『ツァラトゥストラ』と『反クリスト』を読んで気になったことがあるので質問です。

『ツァラトゥストラ』においては、「超人が大地の意義であれ」とか「超人のために破滅する者を愛する」と、超人以外は滅びてしまえみたいな論調で書かれています。
ところが『反クリスト』を読むと、「超人たちは思いやりをもって凡人を扱え」「凡人をばかにするな」ということも書いてありました。

私は、ニーチェは「すべての人間が超人たりえ、超人以外は滅びる社会」を志向しているのかと思っていたのですが、「凡人」を肯定しているあたり、そうでもなさそうです。
ニーチェにとって「凡人」とは、「超人」でも「おしまいの人間」でもない「いてもいい存在」なのでしょうか?
彼は、「超人」がノーブレス・オブリージュで多数の凡人を統治する社会を目指していたのでしょうか?

A 回答 (6件)

こんばんは。


わかる範囲ですが、よろしければ参考にしてください。
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(1)凡人について

「反キリスト者」は手元にないので、「凡人」の意味がわかりかねますが、ツァラトゥストラの序説では、終末の人間とは、「自分自身の幸せを見出し、自己満足を保とうとする。隣人の温もりを求め、虫レベルまで零落した人間であり、最も長く生きる。虫として“われわれは幸福を考案した”と信じ、あるがままの状態にとどまる。」と表現されています。(長くなるので引用しませんが、本を読み直してみてください)
*「凡人」と「終末の人間」の違いは、吟味できていません。

(2)超人について
ツァラトゥストラ第一部では、「神の死」と「超人」について書かれています。
超人に関連する箇所を、ピックアップしました。

第一部
16(隣人愛について)-4・5
わたしはきみたちに隣人愛(最も近い者への愛)を勧めるだろうか?それよりもむしろ、わたしはきみたちに隣人(最も近い者)からの逃避と「最も遠い者への愛」を勧めるのだ!
隣人(最も近い者)への愛より、最も遠い者、来るべき者への愛のほうが、より高い愛である。人間たちへの愛よりも、もろもろの事柄や幽霊への愛のほうが、わたしにとっていっそう高い愛なのだ。

(訳註)
*最も遠い者への愛・・・第四部13「高等な人間について」2-4、3-2、6-5・6参照
*幽霊・・・新しい思想や概念はその最初の考案者によって恐るべきものとして現れる(ここでは、超人思想が含意されている)

第四部(高等な人間について)
2-4さあ!さあ!そなたら、高等な人間たちよ!今や初めて、人間の未来という山が陣痛している。神は死んだ。今やわれわれは欲するのだ──超人が生きんことを。
3-2わたしは超人に深い関心を寄せている。わたしの第一にして唯一の関心事は、ほかならぬこの超人であって、──人間ではない。隣人(最も近い者)でもなく、最も貧しい者でもなく、最も悩んでいるものでもなく、最も善なる者でもないのだ。
6-5少ないものへ、長いものへ、遠いものへ、わたしの思いとわたしの憧憬は向かっているのだ。そなたたちの小さな、多くの、短い悲惨なんか、わたしに何のかかわりがあろう!
6-6わたしの見るところでは、そなたたちはまだ充分悩んではいないのだ!というのは、そなたたちは自身に悩んでいるのであって、いまだ人間に悩んだことはないからだ。

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「神の死」により、イデアが真の世界であるという世界観から、真の存在は大地にあり、万物が流転する「生成と没落」の世界観に変わる。前者は信仰すればよいが、後者は自ら創造していかなければならない。

(1)凡人(2)超人を比較すると、終末の人間(凡人?)は隣人愛にとどまり、超人は遠人愛(最も遠い者へ愛)を指向すると解釈できる。

この二つを咀嚼すると、人間は大地を創造していくものであり、過去の凝縮がこの瞬間にあり、この瞬間が未来を生成するという必然。生成と没落は、自己保存に留まるのではなく、より高きものへと指向する意思である。

自己満足の隣人愛に留まるのではなく、未来志向の遠人愛をもつ人間を理想としたのではないか。今を生きるにとどまらず、未来に生きる(永遠への憧憬)という解釈。第三部(回復しつつある者)を合わせて解釈していくと、遠人愛は、大きい者も小さい者も愛し肯定しているのではないか。

ニーチェは、当時の堕落した宗教、衆愚政治に幻滅しており、「小さい諸徳、小賢しさ、自己満足、“最大多数の最大幸福”を超克せよ」と、第四部(高等な人間について)では書かれている。《ルサンチマン的民主主義や平等思想》には否定的な態度。

>ニーチェにとって「凡人」とは、「超人」でも「おしまいの人間」でもない「いてもいい存在」なのでしょうか?

「運命愛」。存在しているもので、ないほうがよいとか必要でないといえるものなど一つとしてない、このことを理解するには、勇気が必要であるというのがニーチェの思想。全ての運命を連鎖ととらえ、ツァラウストラの第三部(回復しつつある者)でも、小さい者も永遠に回帰すると表現しているので、「いなくていい存在」とは言ってない。

>彼は、「超人」がノーブレス・オブリージュで多数の凡人を統治する社会を目指していたのでしょうか?

統治や社会変革、望ましい社会のあり方というよりも、「あなたは、どのように生きるか?」という問いを、個々の人間に預けていると解釈しています。「人間の生き方」と言ってもいいかもしれない。
ちなみに、私自身は、ニーチェの思想に共感しながらも、信者ではありません。
理解しにくい部分もあります。

「ツァラウストラ」は、独特な比喩があるので、(重要箇所は)訳註と合わせながら解読していかないと、誤読する可能性があります。例えば、「人間たちへの愛よりも、もろもろの事柄や幽霊への愛のほうが──」という文章をモロに受けとめると変なことに。比喩の象徴を知らなければ、理解不能。

不足や誤読があるかもしれないので、詳しい方に、追加・修正してもらってください。参考になる部分があれば、幸いです。
長々と失礼しました。
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> ハルカリナッソスのディオニシオス


Hyperanthroposというギリシャ語の初出。ディオニシオスの概念です。
超級ヒーロー=メシア思想。
Nietzsche: Philosopher, Psychologist, Antichrist. Princeton 1950 (新版1982ダルムシュタット  S. 359より)
ttp://books.google.de/books?id=8GnVzonQTQQC&pg=PA6&lpg=PA6&dq=hyperanthropos+Dionysios+Halikarnassos&source=bl&ots=dGWrMPoI6g&sig=GfHchKyHJi4B8iYv3tQgNpIe9PE&hl=de&sa=X&ei=C3LQUZ6aBoXltQanoYCIDg&ved=0CEkQ6AEwBDgK#v=onepage&q=hyperanthropos%20Dionysios%20Halikarnassos&f=false

ツァラトゥストラ第4幕2および3がたとえばその根拠です。
メシアとしての超人という観点です。新教的といっているのは、
聖書の読み方が変わり、メシアは、
人間の意思=超人についての叙述と読み替えることを意味します。

(カトリック的には神と意思が理性を通じて関係づけられています。)

ツァラトゥストラ抜粋
第4幕 2 神を前にしてだと!なんとはない。此の唯一神は、死んでしまったのだ。
人は、神をしてより高みに至ると うそぶく 
汝らの・・・
汝らの災厄の危難(神が死ぬという出来事)が、だ!

考えてもみよ!神が死んでからこの方、
復活の再臨こそが、起きている。煌々と輝る
日輪のもと、たちあがる。神を通じてのみ高みにあった
人間が、いまこそ、
あるじとなるのである。
この進言をよりどころとしたのか?
わが兄弟よ!驚愕を隠しきれず、脈拍で気も遠くなるのか?深淵の咆哮が此処に・・・
汝らは、ケルベロスの怒号を耳にしたのか?
はじまりだ!登りゆけ!神を忘れられず、高みを登り詰められずにいる
兄弟たちよ!山脈の地殻振動とともに、
人類未来の山峰が、
いまや そそり立っている。神の死、それは同時に
我々の意思の始まり・・・
超人を、
生を!

(ヘルヴェティウス的一神教理解参照)神や霊というのは必要なく、
「超人」がいきづくという内容がテーマです。

政治的「反カトリック結集」の呼び掛けが、フランス革命普遍論的文脈(教会財産没収・僧職弾圧)と重なります。

> 芥川龍之介はまったく関係ありません。
あと補足要求ですが、弱いのは誰?
キリスト者です・・・ たとえば、彼を弱い者の代表=敗残者として挙げるとすれば、関連性はあるかもしれません。

?「悪」については、以前からアウグスティヌスや
?スコラ哲学者たちが議論していたように思いますが……。
端的にと書いています。ご注意ください。
彼らの定義は「端的」ではなく定義として、挙げられるべきものではありません。
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超人主義というのは、すでに紀元前1世紀より存在します(ハルカリナッソスのディオニシオス)。



広義の「超人主義者」は、反カトリックの立場をとる一般人全体のことをさし、人間自体を全体として「下民=普遍善」として取り扱う、ルター派新教的倹約主義およびその信奉者のこと。聖書の個人的解釈を揶揄して使うことが多いようです。

(現在的には「凡人」=根拠はないが、ブータンにいけば最高の人間・アップストアを利用すれば、最高の人間
=ユーザであると感じてしまう「思い込み貧乏人」)

通説として、狭義の超人主義は、現在の形に整えられたきっかけを、
クロード・アドリン・ヘルベティウスに求めます。

そういう意味で、「フランス万歳」「マルクス万歳」と言い表しました。
(フランス人がドイツ語を読もうとするきっかけとなりますが、
右派マルクス主義/左派ヘーゲル主義的ニーチェ解釈=
ブルジョア左派的理解を含む信奉者たちのこと)

フランス革命時の焚書によってヘルベティウスの原文は、完璧には、保存されていないようですが、
彼は、
異端マルクス主義プレハーノフ/初期コミューン主義者バビュッフ/
ジャンジャックルソーの種本にあたる書「エスプリについて」という本を書いた人です。

シナリオ的形相=Hyleとして枠組みが与えられているのは、
神と霊への信仰は、人間が自己の不遇を認め無能を覆い隠すためのものであり、

自然および自燃の法を詳解解脱するきっかけを遠のけた最大の悪である。

そして、宗教は、質疑を模した「操作」により、
個人への支配をもくろむ濁であり、

僧職は、政治的法体系を掘り崩す乱れた職分である。

キリスト教的精神は、法の精神を殺し、

さらには実社会における政治的権威・民間財産をかすめ取る

魔民の徒党であるとするものです。

この徒党の精神は、男女平等を含む政治的正義を阻害する原因であると主張した人です。

悪なるものを端的に定義した最初の人物としても著名です。

「悪とは、僧族(チャリチャリ坊僧族)のインタレストである」
と断言しています。

脱税で私腹を肥やし、良民より私財をかすめ取る徒党というのは

何か聞き覚えがあるような気もします。

友愛・互恵を持ち出す自称政経哲学者のことです。
無神論・人間平等主義の祖。

芥川龍之介はまったく関係ありません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

nananissethe3rd様の文章は晦渋で、私にとって分かりにくいものがあります。

> 芥川龍之介はまったく関係ありません。
では、あなたの説明された「超人主義」は、ニーチェの「超人」とどのような関わりを持っているのでしょうか?
ニーチェの「超人」思想が「超人主義」の系譜にあることを証明できなければ、この説明は意味がないと思いますが……。

> ハルカリナッソスのディオニシオス
彼はローマ時代の歴史家であったと思いますが、彼が「超人主義」を唱えたのですか?
あるいは、彼が「超人主義が紀元前1世紀頃より存在した」と書物に書き残しているのでしょうか。

> クロード・アドリン・ヘルベティウス
エルヴェシウスが超人主義を整えたというお話は初めて伺いました。

> そういう意味で、「フランス万歳」「マルクス万歳」と言い表しました。
「そういう意味で」がどういう意味なのか文章から読み取れませんが……。

> 悪なるものを端的に定義した最初の人物としても著名です。
「悪」については、以前からアウグスティヌスやスコラ哲学者たちが議論していたように思いますが……。

お礼日時:2013/07/01 02:02

 これをお読みになるとすれば、質問者様はおそらく芥川龍之介の『侏儒の言葉』および『続侏儒の言葉』をお読みのはずです。

答は全てその中に記されています。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

不勉強ながら芥川龍之介はほとんど読んでいないのですが、急ぎ足で「侏儒の言葉」を読んでみても、該当する箇所を発見することができませんでした。
どこを指しておられるのでしょうか?

お礼日時:2013/07/01 01:59

問題になるのは、



現状として

「フランス語のほうが言葉としてかっこいいが、ドイツは哲学である。ドイツ語で書かれたものは体系的であるはずである」と
いう迷信が、一般的に浸透しているということです。

つまり、「パンセ」に支離滅裂なことが書かれてあったとしても、哲学的危難・批難は起こらないが、

ドイツ語文上に「つじつまの合わない」ことがあらわれると

1想像でつじつまが合っているのだと補完する(マルクス/アドルノ系) か
2つじつまが合わないと批判する

か のどちらかに意見が分かれるという日本独自の現象です。

大学で第2害国語がフランス語であったのに、ニーチェを読んで「100%」理解できたと主張するようなものです。

この点に関し
問題は、哲カテの痴呆ルールが、「フランス万歳」「マルクス万歳」であることで、

(唯物論=形式的無神論/インテリ=大学教育的左派こそ正しいと言い換えることもできますが・・・)

批判的哲学/反一神教哲学を受け入れる素養を失っているということが根本的に大きな要素なのでしょう。

新約聖書は理路整然として論理的であると主張するキリスト教者は存在しません。

傾向として、文章を切り刻んで、「自分はこう思う」という意見 委細 を再構成しているだけなのが、
「教徒さん」たちの現状であるという事実を踏まえましょう。

彼の書いた文章全体として

「ニーチェ教」としてまとめると
論理的につじつまが合っているが、文脈によるという判断のほうが現実に即しているといえます。

つまり、ニーチェ教徒の立場を
理解し再構成できるか、
客観的な立場から、言語としてのみ評価するかで、テクスチャ評価のための「回答の仕方」自体も変わってきます。
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この回答へのお礼

哲学カテゴリの現状についてご説明いただいたのでしょうか。

> 問題は、哲カテの痴呆ルールが、「フランス万歳」「マルクス万歳」であることで、
哲学カテゴリにそんな風潮があるとは思えませんが……。

> 理解し再構成できるか、
> 客観的な立場から、言語としてのみ評価するか
つまり、「ニーチェ教的ドグマに沿った回答」と、「ニーチェの言葉に沿った回答」とがあるのですね。
私は後者を知りたいので、後者をお願い致します。

お礼日時:2013/06/30 20:23

私の解釈では、『自分の頭で考えず、周りに振り回されるものは凡人』です。

良いか悪いかの話ではないと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

> 自分の頭で考えず、周りに振り回されるものは凡人
これってニーチェのいう「おしまいの人間」にかなり近いのではないでしょうか?
恐らくですが、こんな人間をニーチェは認めないと思われます。
つまり、

> 良いか悪いかの話ではないと思います
ニーチェは「自分の頭で考えず、周りに振り回されるもの」については「悪い」「大地のために滅びるべきだ」というのではないでしょうか。

お礼日時:2013/06/30 20:20

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