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小学校の遠足、覚えてますか?、ことに鮮明な思い出になっているのは何でしょう?…

A 回答 (17件中1~10件)

こんにちは。



今月の誕生日を迎えると63歳になるオジサンです。

私の小学1年と2年生の遠足は小学校から徒歩で30分程度で行ける、隣町にある山林に遠足でしたから、大した思い出はないですが、仲良し友達と弁当を広げて食べてた時に若い女の先生の「キャー!」という大きな悲鳴に驚き何事が起こったのか駆け寄ったところ、先生の近くで「蛇がくねくねと蛇行しながら彷徨いてました」から、友達と一緒になって足元に落ちてた折れ枝を棒代わりにして蛇を叩きながら追い払い、先生から蛇を遠ざけて先生を守ったつもりのワンパク小僧だったことが印象に残ってます。

翌年の、小学3年生の遠足は電車に乗って隣県にある標高340m程の山に遠足でしたから「お小遣い30円」が許されて嬉しかったです。

私は、物心付いた幼い頃から親に連れられ東京タワー近くにある先祖代々の墓参りに電車に揺られて、毎年の春と秋のお彼岸と夏のお盆には欠かさずに親に連れられ出掛けてましたので、電車に乗ること自体は嬉しい気持ちはなかったですが、友達と一緒に電車に乗ることは初めてだったので楽しい思い出でした。

そして、山麓にある地元では有名な神社で「○○山の七不思議」という話を宮司さんから聞かされた後に、山頂まで登ることになりましたが、元気一杯な小学3年生の子供にとっては標高300m少々の山は物足りなく思いながら山頂に到着しました。

その後、弁当を食べてから、山頂のお土産屋さんで30円のお小遣いから、家族用に10円の羊羮1本と直ぐ上の姉に10円の万華鏡を買い、弟のお土産には10円の望遠鏡と考えて買ったつもりでしたが、そこは小学3年生のワンパク盛りの子供でしたから、弟のお土産に買ったつもりの望遠鏡で完成間もなかった頃の東京タワー(333m)と同じような高さだった山頂からの景色を望遠鏡で見てみたい衝動に駆られてしまい望遠鏡を袋から空けて使ってしまい弟には申し訳ない気持ちが今でも、ほろ苦い思い出として記憶されてます。

ちなみに、この年の春に現在の天皇陛下が皇太子殿下で正田美智子様(現在の皇后様)との「御成婚」があり、この御成婚パレードのテレビ中継が視たかったようで私の父親も当時としては無理したと思う5万5千円のテレビを購入しましたが、この年の秋に歴史的被害記録を残した「伊勢湾台風」もあったので、小学3年生の遠足が特に思い出が強いのかも知れません。
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この回答へのお礼

こんにちは~、ご回答有難うございます。

 うわ~、お昼のお弁当の時に、引率の若い女の先生の近くでくねくねと蛇行していたヘビ、ああ
イヤだ。そんなヘビをお友達と一緒になって折れ枝を棒代わりにして撃退なさった。おお、これぞ
騎士道の極み、男の本懐、素敵な思い出ですね。

 標高が340mほどの山で七不思議といえば栃木県の大平山がよく知られていますが、ちがうかな。
山に遠足でしたからお小遣い30円、へぇ~、それでもご家族用に10円の羊羮、お姉さまに万華鏡、
弟さまには望遠鏡、そんなに買えたんですね。

 でも、山頂からの景色があまりにも雄大だったので、つい我慢できなくて、弟さまのためにお買
いになった望遠鏡を袋から出しておしまいになった、そのお気持ちよく分かります。なのに、弟さ
まには申し訳ない気持ちが今でもほろ苦く…と、なんてお優しいtpg0さまなのでしょう、なんだか、
その細やかな弟思いのお気持ちにジ~ンとなってしまいました。

 今上天皇の正田美智子さまとの御成婚の際にはテレビが飛ぶように売れたのだそうですね。でも、
子供の遠足のお小遣いが30円の時代ですよねぇ。ためしに1959年、つまり昭和34年の消費者物価
を調べてみました。かけそば35円、お米10kgが870円、お豆腐15円、清酒1升が505円、はがき5円、
国鉄の初乗り料金が10円、うわ~安い。そんな時代に、当時はまだ黒白だったテレビが5万5千円も
した高価なものだったとは驚きました。お父さまならずとも、全国民がこぞって、この時ばかりはと
無理をしたのでしょうね。伊勢湾台風はその年のことだったのですね。東京の下町のわが家(実家)
も被害が出たと聞いています。

お礼日時:2013/08/05 18:12

こんばんは、#8です。



厳密には遠足とは言えないものですが、1つ思い出しました。

小学4年の春休み。もうすぐ5年生になる直前のことです。

ちょうど自分たちのクラスの担任の先生が、
遠くの小学校に異動すると3学期の終業式の時に知りました。

異動先はちょうど県の端にあたるところで、
距離にして約100キロくらい離れたところでした。

そこで、春休みにクラスのみんなで引っ越した先生に会いに行こうということになり、
子供達だけで電車で片道2時間かけて会いに行きました。
今住んでいる首都圏だと、東京から熱海くらいの距離になります。

地方の子供なので、普段全く電車を使う機会もなく、遠出をしても車が普通の地域です。
ほとんどの子供が電車に乗り慣れておらず、私も生まれて初めての電車の旅です。
もう子供たちには大冒険です。

初めて切符を買い、初めて改札を通り、初めて電車に乗る。
切符を落とさないように、ずっと手で握っていたのを憶えていますね。

そして職場も変わり、引越しの片付けで忙しいはずなのに、
いきなり30人からの子供が押しかけても嫌な顔1つせず、
笑顔で迎えてくれた先生の顔は今でも忘れません。

何をするというわけでもなく、お昼ご飯をみんなで食べて、
駅前の大型デパートを案内してもらっただけでしたが、楽しかった思い出しかありませんね。

その先生とはそれっきりになりましたが、
35年も前のことなので、還暦を迎えられたくらいかなと思います。
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この回答へのお礼

こんばんは~、重ねてのご回答 嬉しいです。

 クラスの担任だった先生が、距離にして約100キロも離れた別の小学校に転任された。とても優
しかった先生だから、春休みを利用して先生に会いに行こうということになった。でも、みんな子供
なのだし、普段全く電車に乗り慣れいなかったから、初めての電車の旅はまさに大冒険。

 でも、着任直後とてなにかとお忙しいはずなのに、先生はいきなり現われた30人もの教え子たち
をとても優しく笑顔で迎えてくださった。お昼ご飯をみんなで食べて、駅前の大型デパートを案内し
てもらって…、うわ~、よかった~。

 それはそれは楽しかったことでしょう。迎えてくださった先生の笑顔、先生だってとても嬉しかっ
たことでしょう。あの壺井 栄さんの『二十四の瞳』にも似て、子供たちの純粋さと暖かい師弟愛に胸
を打たれました。本当にいい思い出になりましたね。

お礼日時:2013/08/06 20:21

ANo10です。



嬉しい気持ちになってしまう丁重で温かいお礼を頂戴いたし誠にありがとうございます。

まさしく、思い出の山とは「栃木県の大平山(標高341m)」です。

私の住まいは、茨城県の最西端に位置する古河市ですから地元の山といえば筑波山(標高876m)ですが、距離的には大平山のほうが遥かに近いですから、今でも桜の開花時期になると大平山には度々花見に出掛けてますので「身近な栃木県大平山をご存知であることに感激」してます。

なお、東京の下町で思い出した遠足の思い出ですが、私は幼稚園まで浅草寺の北側になる浅草猿若町(現在の浅草6丁目)で生まれ育ちましたので、小学4年生の遠足が東京見物で浅草雷門に立ち寄った時は幼い頃の思い出が蘇り懐かしい気持ちでした。

そして、仲見世通りのお土産屋さんで雷オコシなど土産品を物色してたら、お土産屋さんのオジサンから「○○くん!と親しげに声を掛けられて」このオジサンはオイラの幼稚園児の頃から知ってるオジサンなのかな?と勘違いしてたら、胸の名札を見て名前を呼んでただけと分かり、ちょっとショックでしたが、生まれ故郷の浅草に茨城の田舎町から遥々とバスに揺られて行くとは思いもしなかったことで、これも良き思い出の1つになってます。

しかし、小学4年生の遠足はお小遣い額が幾らだったのかまでは思い出せませんので、小学3年生の大平山遠足が如何に印象深かったかですね。

ちなみに、生まれ故郷の浅草からは、今では東京スカイツリーが間近に見えますが、栃木県の「大平山からも東京スカイツリーは天候が良ければ見えます」ので、東京スカイツリーの634mの高さは凄いと思っているこの頃です。

以上、遠い昔の懐かしい遠足の思い出を蘇らせて頂きましてありがとうございました。
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この回答へのお礼

おやおや、重ねてのご回答嬉しいです。

 やっぱり大平山だったのですね。大平山と言えば、春は桜、そして梅雨の頃ともなるとあじさい
がとても美しいところ…とか聞いております。

 浅草猿若町(現在の浅草6丁目)、浅草寺や浅草神社の裏手を通る言問い通りのすぐ北側、そ
の昔は大規模な芝居町だったのだとか、いえ、たったこれだけしか知りませんが。でも、tpg0さま
はこんな小粋な街にお生まれになったんですね。東京見物の遠足の時にはさぞかし嬉しく誇りに
もお感じになったことでしょう。

 古河市から遥々とバスに揺られて行った生まれ故郷の浅草、なんとそこで親しげに名前を呼
ばれた…、なんだか忘れられない思い出のひとつでしょうね。でも、幼稚園にお通いだっという
ことですから、今もって浅草界隈のことなどはかなりはっきり覚えていらっしゃることでしょう。ひ
ょっとしたら、葵丸進だとか三定、釜飯の春などといったお食事処にもご記憶があるのではと懐
かしく思いました。

 つい先ごろも、わたし浅草を歩いてみました。お店もずいぶん変わりましたが、スカイツリーの
おかげと言うか、浅草はとても賑わっていました。わたしこそ、懐かしい下町のことを話題にでき
まして嬉しうございました。

お礼日時:2013/08/05 22:02

 覚えているというか、思い出すことが出来ました。



 山に登ったのですが、ルートなどは覚えていませんが、保育所の参観で近くの山を登ったときに、思い出すことが出来ました。
 今子供が居るので、連れて行くほどに思い出させてくれているのでありがたいです。

 ただ、そのまま残っている場所は無いですね。それが残念ですが。


 遠足ではないですが、ずっと思い出せない場所がありましたが、学童行事で歩いた個所こそが、その思いでの場所だったのです。夢にも出てきた場所ですからね。亡き父との想い出の場所の一つで、非常に嬉しかったですね。

 でも、この山登り以外あまり覚えていないな。
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この回答へのお礼

ご回答有難うございます。

 同じ場所でも子供の頃と大人になった今とでは、どこだってすっかり変わってしまっているもの
です。でも、思い出せてよかったです。いまはお亡くなりになってしまったお父さまとの思い出が
ある場所ならなおのこと、ずっと思い出せなかったその場所が「あっ、そうだ、ここだったんだ」
と突然思い出せた、さぞかし嬉しかったことでしょう。とても感動的なご回答、有難うございました。

お礼日時:2013/08/05 21:07

覚えています。



お菓子を1人300円まで買っていいルールだったので、前の日に友達とスーパーに行って、1時間くらい悩みに悩んで買ったお菓子を、結局、到着してから友達と全部鳩と鯉にあげちゃったこと(笑)。

友達がバスで司会進行役を放棄して眠ったこと。

帰り道、先生としりとりして延々と歩いたこと。

どこに行ったかより、出来事のほうが印象に残っています(^^;
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この回答へのお礼

ご回答有難うございます。

 アハハ、楽しい~…。限られた300円の範囲で知恵を絞って買い揃えたお菓子、あ~あ、鯉とハト
が食べちゃった、バスで司会進行役を勤めるはずだったお友達が、ありゃりゃ、眠ってしまったこと。
ツラいな~。でも、帰り道、先生としりとりして延々と歩いたこと…、ああ、これはいい思い出。そうで
すよね、行き先よりも、何があったか…のほうが思い出として鮮明に思い出されます。

お礼日時:2013/08/05 20:59

こんばんは、はじめまして。



小学6年生の日帰り修学旅行でのことです。行きのバスの車中で、目の前に現れた建物を見て、興奮して独り騒ぐ男子児童がいました。(もちろん私です:爆笑!)てっきり目的地の「お城」だと思い込んだのですが、実際は県庁の本庁舎でした。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1% …

ちなみに「目的地のお城」はこちらです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1% …

場所は、すぐ近くなんですが、間違えたことに気づくまで、少し時間がかかりましたね。とにかく周りの反応が冷ややかなこと、といったら・・・(苦笑+汗;)

目的地のお城は、エレベーター有りのコンクリート造りの内装で、すっかり興ざめしたのを憶えています。(笑)

他にも、大規模な港、電波塔、大型百貨店など、他県の田舎者の小僧には目新しいものばかりでした。

あれから40年の今、その懐かしの土地に住んでいます。lin(_ _)imo
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この回答へのお礼

ご回答有難うございます。

 あははは、あららら、やっちゃいましたね~。でも、愛知県庁ってお城みたいだし、第一かなり
立派ですよね。あれじゃ間違えますよ。あら、名古屋城ってエレベーターまであるんですか、そ
れは知りませんでした。

 名古屋は、夏は暑く冬は寒いみたいですけれど、わたし、名古屋って好きな街です。現役時
代には出張で名古屋の近郊都市に出向くたびに、名古屋支店の方たちと美味しいものを頂い
たり、夜遅くまで遊び回ったりしていたものでした。


 

お礼日時:2013/08/05 20:52

 小学校6年間の遠足で、鮮明な思い出に残っているのは


「病気で、行くことが出来なかった遠足」です。
 私は、小学校に入学して間もない頃に、麻疹(はしか)にかかり、GW明けから、約10日間くらい、出席停止を余儀なくされました。そのため、この間に行われた、初めての遠足に、行くことが出来ませんでした。
 行くことが出来なかったということで、かえって鮮明な思い出に残っています。
 
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この回答へのお礼

ご回答有難うございます。

 それは残念でしたね。じつはわたしも同じようなことになってしまったお友達を知っています。
日本脳炎だったか赤痢だったのか病名までは覚えていませんが、その友達の家族の方が病
気になってしまい、往診して診察したわたしの父が、これは重大な伝染病だと分かって、それ
からが大騒ぎ。友達の一家はしばらくの間、家から出られなくなっちゃって、とうとう遠足にも行
けなかった。でも、そのお友達の子、その後に書いた卒業作文の中に、やはり、行くことが出来
なかって、かえって鮮明な思い出になっています…といったことを書いていました。

お礼日時:2013/08/05 20:41

『わし…、この写真…見えるんや。

ほれ、この真ん中で笑うとるのが、亡くなったばあちゃん(養母)や。』

今はもう、心の中にだけある写真が、鮮明に残っています。



小学校四年生の時…

大好きなおばあちゃん(後の養母)に会いに、

大好きな茶色い電車(重たいモーター音のする古い形のやつです)に乗って、

大好きな先生や友達といっしょに行った…

【稲毛海岸・潮干狩り遠足】が、忘れられません。


両親が忙しかったため、おとなりのおばあちゃんが、母親がわりになった私…

ばあちゃんは、私が小学校一年生の時に、千葉へ引っ越してしまいました。

以降夏休み中、おばあちゃんの家にお世話になって…



そこへ、「千葉へ潮干狩り」という遠足の話しが…

潮干狩り名人のおばあちゃんが、同行を認められて…
稲毛駅で待っていました。


「潮干狩り名人」は、クラスメイトからも認められて…

あちこちから「おばあちゃ~ん!教えて~」と人気者に…

私も、ちょっぴり自慢でした。


クラスメイトとの、お菓子の交換や、帰りの電車の中で、みんなでやった「ハンカチ取り」など…

笑顔の記憶が蘇ります。

楽しかったなあ…


翌年、私は自ら望んで、ばあちゃんの養子になりました。


以来、44年の歳月が流れましたが、出会いに恵まれた素敵な人生をおくっています。

老人ホームから自宅外泊に向かうさいに、老人ホームの玄関で転んで骨折してしまい亡くなったばあちゃんへの、「目を離してごめんなさい」の気持ちと、

「私に【平らな気持ち】をくれた愛情をありがとう」の気持ちを胸に…

職場で担当する【二十の瞳】といっしょに、童謡を歌う日々をおくっている私です。


【介護業界の大石先生】をめざします。

その気持ちの原点は…、

私の心を平らにしてくれたばあちゃんと、いっしょに行ったこの遠足だったような気がします。
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この回答へのお礼

こんにちは~、ご回答有難うございます。

 大好きだったおばあちゃん(後の養母さま)のお話、ずっと以前、何年も前にご回答の中でうかが
ったことをまだしっかり覚えてます。でも、おばあちゃんが潮干狩りの名人でいらっしゃったことは今
初めて知りました。しかも、名人ぶりを認められて遠足に同行を認められ、みんなから「教えて~」
と声がかかって、百さまもそれはそれは誇らしげだったことでしょう。

 クラスメイトとの、お菓子の交換や、帰りの電車の中で、みんなでやった「ハンカチ取り」など笑顔の
記憶が蘇ります。楽しかったなあ…とお書きの百さま、なんだかわたしもほのぼのとした気持ちにな
りました。

 翌年、私は自ら望んで、おばあちゃんの養子になりました。ええ、それでなんですね、校歌の質問
の時にお答え頂いたご回答の、そこに書かれた校歌の学校に、なぜ進学されたのかが。ゆったりと
大きく、そして平らけく、人を愛し大切になさる百さま、その原点を知ってとても感動を覚えました。

お礼日時:2013/08/05 20:24

オーストラリアに住んでいた頃、ぶどう畑とチーズ工場に遠足で行きました。


ぶどう畑では、ぶどう狩りと、絞りたてのグレープ・ジュースを飲みました。先生たちは、ワインを飲んでました。私も、今だったらオーストラリア・ワイン飲みたかったな(^_^;)
でも何と言っても印象に残っているのはチーズ工場内で、試食したナチュラル・チーズの数々。。ビックリするほど美味しかったです。30センチくらいの大きなチーズの塊に、スーッと入れるとスライスチーズ状に切れる不思議な道具を使いました。それまでチーズが苦手だったのに、無類のチーズ好きになりました。オーストラリアは牛乳等、乳製品がとにかく美味しかったですね。。日本に帰国して、牛乳が薄くて不味くてビックリして、給食の時吐き出しそうになりました。オーストラリアの濃厚な牛乳を水代わりに飲んで育ったせいか、風邪にも花粉症にも縁の無い丈夫な体に育ちました。
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この回答へのお礼

こんにちは~、ご回答有難うございます。

 素敵なご体験ですね。そう、たしかにオーストラリアは牛乳やチーズなど乳製品も、そして
ワインもとても美味しいですよね。

 ぶどう畑でぶどうを摘んで、生産工程を見学して、絞りたてのグレープ・ジュースをたっぷ
り召し上がって、先生方は遠足の引率中だというのにワイン、あ、いいんだ~。それとチー
ズ工場内で試食なさったナチュラル・チーズの数々、ああ羨ましい。そりゃ間違いなくチーズ
がお好きになりますよ。

 わたしの場合は、ある時小学校の社会の見学で訪れた乳製品の工場で、大きなステンレ
スの貯蔵タンクの蛇口からタラタラと流れ出る甘い甘い練乳をみんなして、渡されたグラスに
一杯ずつ注いで飲んだことがありました。あれが、きっとわたしの人生で一番ゴージャスな体
験だったかもしれません。

お礼日時:2013/08/05 16:36

こんばんは


40代のおっさんです。

バス遠足ですけど、鮮明に覚えていることがあります。

小学校4年の時にバスに乗って行った遠足で、初めて
お土産のためにお小遣いを持って行きました。
おそらく1000円だったと思いますが、当時の小学生には大金です。

でもあろうことか、私はお土産を買うために寄った
温泉ホテルのゲームコーナーでほとんど使ってしまいました。
まだインベーダーゲームすらこの世に出る前の時代ですから、大したゲームはないですが
ゲームなんてしたことがない子供にはもう夢の世界でした。

で、肝心なお土産はお煎餅を一袋だけ。
帰ってから、母親にメチャクチャ怒られたのは言うまでもありません。


あとは、こちらもバス遠足ですが、小学6年の時。
この時は、隣県の広島にある原爆資料館に行きました。

今はもう展示物が入れ替わってしまったので、当時のおどろおどろしさは減っているそうですが
当時はインパクトは絶大でした。

階段を昇って2階の展示室の入り口を見た瞬間、体が凍りつきました。
事実とはいえ、熱により皮膚が溶け指先からピザのチーズのようにたれている蝋人形の群れ。
子供にはショックでした。

そして出口に置いてあった最後の展示物は、当時の銀行の入り口にあった石の階段。
これもただの階段ではなかったんですよね。
あまりの強烈な熱線のために、この階段で座っていた人の影が
印画紙のように後ろに焼きついてしまった階段でした。
階段を見ると、薄っすらですが、人の形に黒くなっているところが見えました。
これは今では、保存のために展示されていないらしいです。

で、こういう体験をした少年は、帰宅してもショックを引きずり、
夕食のカレーライスにはまったく手を付けられず、夜も全く眠れませんでしたね・・・。

ただ、今では、人間なら絶対に見るべきところだとは思っています。
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この回答へのお礼

こんにちは~、ご回答有難うございます。

 只今40代でいらっしゃるhiro0079さまが小学校の4年生だったといえば、昭和49年代から
50年代のはじめ頃になるのでしょうか、あれっ、違ったかな。でも、その頃に1,000円といえば、
たしかに子供にとってはかなりまとまったお金だったことでしょう。

 それなのに、温泉ホテルのゲームコーナーでほとんど使ってしまいました…って、あ~あ。そ
の頃ってインベーダーはまだ無かったんでしたっけ。でも、モグラ叩きだとか、レーシングカー
だとか、ボール投げゲームだとか、面白そうなゲームってたくさんありましたよね。あれはハマ
ります。で、その結果が、お煎餅一袋だけのお土産、でも、いいじゃありませんか、楽しかった
んだもの。

 広島の原爆資料館はわたしも見学しました。恐かった。でも、おもわず目をそむけ身が震え
るのを無理やりこらえて、これはSF映画なんかじゃない、これは実際にあった現実そのもの
なんだと、勇気を奮い起こして一つ一つ見て回ったものでした。凄惨な写真、ご飯が入ったま
ま瞬間の高熱で焦げて溶けてしまった弁当箱、溶けてくっついてしまった幾つもの硬貨、そし
て、あの住友銀行広島支店の石段に焼き付けられてしまった人の影。あの資料館は全国民に、
そしてアメリカ人にも世界の人に見てもらいたいと思いました。

お礼日時:2013/08/05 16:17

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