プロが教えるわが家の防犯対策術!

こんな光景をみかけました。

土手の上で、自転車に乗った年配の男性が、同じく自転車に乗った若い女性をつかまえて、説教を始めました。女性が車の走る左側を走っていたから危ないとのことで、注意をしたそうです。
女性は電話をするために、道に自転車を止めて会話をし始めたところを、呼びとめられていました。

しかし女性は謝らず反論しました。

彼女は「証拠は?」と聞きました。
男性は「対向車線側を走っていたのを対岸から橋を渡り、ここまできたのをずっと見ていたからだ」と主張します。確かに男性は、土手の一本道を彼女と行く方向が同じなのかそれとも、後を追っているのかわかりませんが、確かに女性の後ろを孫と思われる小学生くらいの男子と走っていました。

男性の言葉に驚いたようで女性は「そっちの方が問題だ」と言いました。私も一瞬監視かよ?と思いましたが…。

また「言い方というものがある」と言うことです。

もしかしたら男性の言う通り、彼女は橋の上で、交通ルールを守ってなかったかもしれません。しかし女性が「証拠は?」と聞いたのは間違ってないと思います。
この土手では、車が一台やっと通れる狭い土手の上で、車の対向車線になったり、ならなかったり(平行して走ったり)するようなところです。
右を走ったり左を走ったりしている人もいます。私も、今どっちを走っていた?と聞かれて咄嗟には答えられないようなところです(説明が難しいのですが)。

しかし、例えばレストランなどの公共の場で、iPhonの大きな音を平然と鳴らす人に注意するなどの、お互い同時に状況確認できる場合では、女性も素直に謝ることができたかもしれませんが、男性はいつ、どこでということには触れませんし、男性にとっては彼女の行為は全部同じに見えたのかもしれませんが…。主張する側としても、あれだけ主張できるような強い根拠は持てないような状況なのです。

また、人が電話中であることをまったく考慮しない頭ごなしの男性の態度は明らかに悪いと思います。あれでは感情的になるのも分かります。しかも傍で孫が見ているのにも関わらず、男性も下がらない。

「警察に行こう」と言う男性に対し、女性は「いいですよ、応じます」と毅然とした態度でしたが、男性は結局呼びませんでした(あれだけすごい剣幕だったのに…と少しおかしくなりましたが)

男性はこの場合自分の「正義」を振りかざしたくて、彼女を呼び止めたということもできます。

もし彼が危険なことだと教えるつもりが彼の「正義」だったとしても、多少強引というか、ぴたりと後をつけてきてまでやるのでしたら、逆に自己満足になってしまうと思うのです。

とはいえ、若者に注意できない大人の問題もあります。
またこれが少し怖そうな男性だったら同じことをできたのか…と思うのです。
もしかしたら、彼は女性や子ども、お年寄りなど弱い立場の人間を選んでやっているのかもしれません。

自分の信条とする「正義」を貫きたいのであれば、それは万人に行わなければならず、特定の人をつかまえてやるのはフェアではないと思うのは、考えすぎかなと思う反面、もしあそこで女性が別の人であり、素直な謝罪をしてしまったのなら、少々悔しいかなと。なぜならば、誰もが万人すべてに通すことができない信条を、安全圏の中、成功率の高い相手をターゲットとして自己矛盾が満たされるべくした行為が彼の「正義」なら、この男性の粘着的な行為も正当化されてしまうからです。

もしそれでも彼が「自分ならできる」というのなら、これだけマナー違反があふれている昨今、彼はものすごいエネルギーの持ち主ですし、ある意味ヒーローになれるかもしれません。

確かに女性の言う通り、言い方一つで人の気持ちは変わりますが、この男性は、やり方としては明らかに「北風と太陽」の北風の方なのでした…

このようなテーマはずっと考えていたことなので、他の方の考え方も知りたいと思い、質問しました。

A 回答 (13件中1~10件)

自分の中の正しさは自分にとっては有効ですから、基本的にルールは守ります。


人に自分の意見を強引に押し付ける行為は、正しくないと思うので
「正しい」とされている内容であろうと、行為そのものに問題があることはやりません。

自分がやっていることが自分にとって正しいことなのか?
それは誰しも自分に問うしかないですよね。

相手を注意する目的で声をかけるとき、自分の気持ちが相手を裁きたい・責めたいという
方向を持っている時なら私は声をかけません。

相手を必要以上に責め立ててしまうのを間違いなくやってしまうし、
それは正義を武器として手にした相手への攻撃ですから。

交通ルールなどは、よほどの状況(危険すぎる行為)でない限り声をかけることはありません。
子供には、チャンスがあれば声をかけます。

「危ないよ」

その一言だけです。
本人は危ないのは知っていてやってますから、知っていてやることに咎められる。
悪いことをやれば咎められる。それをわかって欲しいだけですから。

自分に害を及ぼしてない限りは、相手の行為に踏み込みすぎない。

一見情が薄いように思えるかもしれませんが、深く踏み込む場合は相手に対して責任がある場合のみ。
後々面倒を見れる相手ではないと、そこまで立ち入ることは余計なおせっかいだと思われて終わりです。

正義を追求して、相手を謝らせて勝った気になる。
それこそが自己満足であるから、その気持ちの方向に進まないのがいいのですが
進んでしまうぐらいなら、相手を傷つけるに過ぎない行為には初めから踏み込まない。

相手を追い込んで力ずくで謝らせるような言動は、相手に反感以外は生み出さない。
反省や、その先の行動の変化に繋げることはできない。
私がやられたとしたら、そうすると思います。

力ずくで誰かをその場で謝らせることは、見えないところで悪事を働く方向が
その人の中で生まれる可能性が高い。

それも考えて、その人との関係性がそこですれ違うだけの縁でしたら
それに合わせた対応でやっていきます。


質問者様の「その場に居合わせた者」として、私がもしその状況に置かれたのならば
様子を見ているだけですね。
他者の問題に介入しすぎない。

しかしながら、男性が女性に掴みかかったりした場合は別です。
仲裁に入る必要性があるかどうかは、時と場合で判断します。
その人の問題の解決に、なんでもかんでも首を突っ込みすぎない。


北風と太陽の話しを出されてますが、もし自分が太陽として相手を照らし続けられる関係にあれば
例えば家族や親類や近しい友人関係や近所でよく顔を合わせる人達などでしたら
暖かい気持ちでゆっくりと見守りながら、それなりにやんわりと注意し続けるでしょうね。
危険な時以外ですけどね。

熱い気持ちをHOTに伝えるには、攻撃ではない。
冷たく感じるやり方ではない。
そんな感じで、私は考えています。

自分が今持っている気持ちが方向性がなんなのか。
それが誰しも、自分の行動の指針になると思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

まさに、まさに、私が言いたかったことを具体的に述べてくださいました。

>正義を武器として手にした相手への攻撃

そうです。それが行きすぎた正義になってしまわないか?という疑問でした。

よくネットなどでも話題になっているのですが、注意しない大人についての様々な意見で、その態度は有効かという疑問があります。

>相手を追い込んで力ずくで謝らせるような言動は、相手に反感以外は生み出さない。

「北風と太陽」の話が伝えたかったことだと思います。
「正義という怒り」は、一見正当なようにみえますが、自己満足というエゴを作り出します。よく「怒ると叱るは違う」と言われますが、私は「怒る」は自己満足や偽善、「叱る」は客観化しないとならない作業がありますが、いかに効果が違うか。

>力ずくで誰かをその場で謝らせることは、見えないところで悪事を働く方向

まったくそのとおりです。
正論をまとい、その場で自分に謝らせることが目的ですが、伝わるのはエゴの怒りです。相手もその場そのぎで謝ったとしても怒りには怒りをどこかで返すでしょう。その怒りが外部にむけば反社会的行為、内部にむけば自傷行為につながる可能性も生じます。

女性は男性に「上から目線」であることを指摘していたのですが、「上から目線で言ってるんだ」と返していましたが(笑)

>男性が女性に掴みかかったりした場合は別です。

そうです。だから私も見ていました。他人事主義が増えれば犯罪が助長されます。私なら多少危険でも助けに入るかも…やっぱり見逃せないんです。

>それは誰しも自分に問うしかないですよね。

問う。これにつきます。
男性はもしかしたら主観的、感情的な正義をふりかざした結果なのではないかと考えたのです。

そしてこれは、親子、教師と生徒などの教育にも通じることだと思います。

お礼日時:2013/08/28 21:14

お礼、ありがとうございます。



>よくネットなどでも話題になっているのですが、注意しない大人についての様々な意見で、その態度は有効かという疑問があります。

態度の有効性は、ネットなどで文字にした場合、質問者の考える印象を書いて
回答者が読んだときの印象で想像を働かせた意見です。
印象からの想像で戦うなら、その人が生きるのは戦い続ける世界ですね。

それぞれの意見で、それぞれが押し付けあうなら正義の鉄槌食らってみよになりますね。
やってるのは、注意している男性と同じことですね。

注意したほうがいいと思う人は注意して、必要ないと思う人はそれなりの考えを持ってあるのだから
それはそれで、個人の選択だと思います。

ただその選択の際、注意しなかった後ろめたさがあるようなら、注意したほうが良かったんでしょうね。
やった事ややらなかった事に対して、後ろめたさや言い訳が出るような人生を送りたいか。
それだけの問題に思えます。

私は、自分に嘘をついてごまかしの人生を送ることは避ける。
と決めているに過ぎない。

注意するなら、注意の仕方にも気遣う必要がある。
それは、誰とでのかかわりでも同じですね。

善か悪か、是か非かで裁こうとする姿勢自体が揉め事の原因かと。
些細なことは許して罪を問わないが、行動の変容はそれぞれが考えればいいかと。

人とのかかわり合い方は、その人の意見を尊重するところから。
責任もってかかわりあえる深さのかかわり方を、それぞれが考える必要は感じますね。
一つ一つがどうのこうのではなく、結局はその人の生き方の反映で行動に出ますから。

ちょっとした行動でも、相手のバックボーンは人生のスタンスですから配慮のある行動をとるのみ。
障害多き人生を送る人は、その必要があってのこと。
手助けを求められたら、基本は断らない。
HOTな心とクールな頭で付き合っていく。

自分の生き方に責任持てるなら、誰しもそれでいいのかなと思っています。
自分を欺かないだけは、私にとって大切にしているところです。
他の人の生き方は、その人が決めるので深入りしない。

何よりは、楽しい人生が一番です(^^)
他者をコントロールしたくなると不幸になりますからね。
常に自らの深い気持ちに問い続けること。

考え方を知りたいと言うことでしたので補足でしたが、このあたりまでにしておきます。
参考になれば幸いです。
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この回答へのお礼

あなたのような大人な方が、世間にたくさん増えれば、もう少しよい世の中になるのではないかと思います。

>HOTな心とクールな頭で付き合っていく。

これってかっこいいです!

>他者をコントロールしたくなると不幸になりますからね。

本当にそうですね。これは「人の人生を生きている」ということになりますね。とにかく人が気になって仕方がない人がたくさんいる。するとコントロールするつもりが、振り回されてしまっている。それにも気がつかない。可哀そうだと思います。

>常に自らの深い気持ちに問い続けること。

私は真実を問い続けることは変わらないでしょう。不器用なのでしょう、合理的には生きられません。

お礼日時:2013/08/31 16:01

 哲学かどうかはさて置き、この問題はいくつかの論点と議論が組み合わさっていると思うので整理してみます。



 1. おっさんがマナーとして100%ただしいと仮定してわざわざ追っかけて指摘する行為に対する正当性。
 2. おっさんの指摘の仕方や事実確認仕方等に対する女性の言い分に関する正当性。
 3. 第三者がこの場合とやかく言えるかどうかということに対する正当性。
 4. 一般論としておっさんの立場、女性の立場をふくめて社会としてどうあるべきかということに対する回答。

 これ以外にもあるでしょうが、一応この4つに分類して見ましょう。もちろん本質的には総合的な解釈が求められることや、事実誤認等やおっさんの態度によっては恐喝にもみえるような態度だったりする別のケースもあるでしょがわからないのでこの場合はまあ想像可能な範囲でおこったと仮定します。

 1. 「追っかけて注意する」程度にもよりますが、家まで何キロも追っかけたわけでもないでしょうし、追っかけられて恐怖を感じたような女性の認識もなかったわけですからちょっとおせっかいな程度でしょう。携帯電話等のマナーは特別な事情がなければ明らかに禁止すべきという事情があるにせよ、一方で自転車の場合道路整備自体が進んでいないこともあってルールはあるにせよ少し曖昧な部分があるということは考慮すべき点でしょう。歩道を走るとかだって最近は問題になりつつありますが黙認されていますよね。ただ、これだってもしかしたらおっさんがルールをきちんとまもってたのに、ルールを守らない人によって車が横に飛び出てきて迷惑を受けたのかもしれませんし、あるいは過去にそれによって身内がケガしたとか事情があるのかもしれませんね。いずれにせよ、おっさんの指摘がルールとして間違っていないならどんな事情があるにせよ指摘すること自体に文句をいうのは逆ギレでしかないでしょう。他人がそうしているとか、自分だけ文句をいうということはスピード違反とかと同様に関係ないです。

2. 女性がおっさんが執拗に追っかけて恐怖を感じたとか、腕を引っ張られて暴力を受けたというならわかりますが、少し怒鳴られたぐらいでぐだぐだいうのならそれはまあ電話中に想定外に怒鳴られてイラっとしたときに咄嗟に反論してしまっただけに聞こえます。まあ、女性を悪く言うのもアレですが本心はどうであれ、まあ少し「済みません、気をつけます」とかいっとけばいいんです。事実かどうかってのはまあ本当に裁判とかになれば立証する側が示す必要があるでしょうが、まあこの場合屁理屈にも聞こえます。おっさんだって、よっぽど変な人でなければわざわざ特定の女性を追っかけて怒鳴るぐらいなんだからそれなりに根拠がなければやらないでしょう。そう言う意味では、おっさんの行為はみっともないとは思いますが、女性も素直にひとこと謝れば良かった気もします。それでもしつこく行ってくるとかついてくるとか暴言をはくというならおっさんが変な人だったとはおもいますけど。

3. 指摘するしないということを「ヒーローになれる」とか理性を持って考えてやる人はあまりいないような気がします。痴漢とかならともかく、どちらかというと自分の目についた点だったりあるいはそれによって間接的に被害を受けてイラっとしたから注意したとかそう言うのだともいますよ。理性をもって指摘したんだとすれば、急に怒鳴ったりはしないでしょうから、まあ年寄りが少し頑固になったイメージ程度の話だと思います。第三者の立場からすれば状況を完全に把握していない以上どちらがただしいとか正しくないとか判断することはできないんじゃないかと思います。それこそ、自分が女性の立場だったら「自転車も最近は人にぶつかって慰謝料億単位で請求されたりもしているんで注意したほうが自分も気を付けよう。」ぐらいの認識でしょう。逆におっさんの立場だったらまあ引けに引けなくなって逆に面倒なことになることもあるんで、他人に注意するってのは難しいのかなあ、ぐらいの認識でいいんじゃないかとおもいますけどね。言い方がが偉そうとかいうのはまあ、もしかしておっさんが後ろにいてたまたま間接的にでも迷惑を受けたかもしれないとかもあるので多少口がきつくなっているのはまあ状況を見ないとわからない以上しょうがないでしょうし、まああとは性格的なものでしょうしね。


4. 「おっさんが正義をかざすなら誰にでも均等に注意すべきでヤンキーとかヤクザに注意しないのは弱いものいじめ」という意見はまああってるような合ってないような気もします。おっさんが逆に刺されたり殴られたりする可能性を考えて自分の身を守るために言わないという選択は別におっさんとしてあながち間違っているとは思いませんよ。これがもし、国家としての警察とかの場合はマズイわけでおっさん一個人が出来る範囲で注意したりすることってのは、周りがどう思おうが正論なら別にいいんでないかと思います。例えば、小学生が万引きしてて注意するおばさんがいたとしても、逆に高齢者があるいはヤンキーが万引きしていたらその場で注意しにいかないというのは自分の立場を考えているわけでもあるから、出来る範囲でやったといえばそれまででしょうね。「注意する行為」ってのは本来なら相手の立場を思って注意してあげる行為でもあるわけで、まあ逆に言えば注意されなかった人ってのはその人のことは別にどうでも良いとおもっているとも言えるわけですよ。そう考えると、ヤンキーとか自分に危害を加えそうな人にまで面倒見る気はないけどね、というふうに考えたらまあ注意を受けるってのもあながち悪いことでもないんではないかという考え方だってできます。おっさんが、「どんな人間でも自転車のマナーは直さねばならない」と強く思うほど世の中に対して正義感あふれているならともかく、まあ出来る範囲ならいいでしょう。逆に、鬱憤ばらしのような可能性もありますけどね。

 以前住んでた場所で夜警察官が自転車の防犯登録を確認するためにイチイチ通る自転車を止めてました。友人の自転車は県外からもってきたものだったんで毎回紹介に30分ぐらいかかってた観たいなんですし、何回もとおるので警察官も「前も通ったっけ?」とかいってましたけど毎回30分ぐらいまたされました。逆に、警察官が自分達にかまってる間に通る自転車は人手も足りないので、素通りでしたし、中にはそのまま走り去ってく人だっていましたけどそれでも警察官は知らん顔でしたよ?それこそなんの目的でやってて実際にそれでどのくらい成果が上がってたのかを教えて欲しいぐらいでしたけどね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

まとめてくださって、分かりやすくなりました。

ですがやはり、謝れば済むという問題でもないんですよ。もしかして女性だからと思ってます?(違ってたらすみません)

女性も、怒鳴られることに対して何かトラウマを負っているのかもしれません。だからこだわりがあったのかもとも思うんです。

>指摘するしないということを「ヒーローになれる」とか理性を持って考えてやる人はあまりいないような気がします。

そうですね。これは私の表現が大袈裟だったですね。

>「注意する行為」ってのは本来なら相手の立場を思って注意してあげる行為でもある

私もそう思います。ただ相手が身近な人ではないというときに、このような問題が生じると思います。

昔は「子どもは社会で育てる」という考えがあって、他人の子もきちんと叱れましたし、その親もそれを認めていました。そういう意味では、子どもや若者の明らかなマナー違反に誰も何も注意しないのは恐ろしい時代だと感じてます。

問われるのは動機ではないかと思うのです。「本当に相手のために思うのならリスクを考えない」というときに、真に相手のためになるのではないか。

ということを考えさせられます。

あと、こういうしょぼい仕事ばかりしてる警察ほど偉そうなんですねー。

お礼日時:2013/08/31 12:33

 単刀直入、簡潔明快に申し上げれば宜しいのでしょうか? そうご希望のように見えます。

そのようにしてみましょう。

 観察が主観と客観の分離ができていないなど、稚拙です。それもあって、問いの立て方が幼稚です(根本は問いを立てるプロセスを司る思考にあるが、割愛)。そのくせ、正邪などについて妄執に満ちています。

 つまり、愚かなわりにしかいことが大きすぎます。自惚れで呆けないようにし、誇大妄想もしないことです。

 こういう感じで宜しいですね? 以上です。
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>先の回答で、それはどの部分でしょうか。



>先に指摘しただの、質問者はわかってないことをおっしゃりたいようですが、説明不足なのでご自身しかわかってないように感じますが?

>誰かひとりの他人と関わればそれは社会です。目の前のあることもそれ自体が社会の一つです。

>しかしあなたの中で社会全体と個人が切り離されているわけですね。
>それについて私がある意味、社会問題としているわけですが「見境がつかなくなっている」というご指摘は間違っています。

>これについても「誰が」「何について」「なぜ」怒っているのかの説明をお願いします。

 分かりますか、ご自身の粘着振りが。回答者様の中には、最初からこういうことを恐れている旨、言ってくださった方がおられましたね。

 その通り、「大したことではないですよ」→「正義ガー!」になってますからね。しかも単純な繰り返しパターンに早くも陥っています。

 理性を失っている方に対して可能な説明はありません。落ちいて来れば説明の必要もなくなります。何かすごいことに気が付いた、なんてのは幻想です。固執すると魔境へ行くだけです。しばらくは何か興味のある別の事でもしたほうがいいでしょう。
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この回答へのお礼

補足質問に答えていただけないようで残念です。また、私は私の質問をコピペしろなどとは言ってません。

私の質問が粘着という捉え方のようですが(私も質問欄で件の男性に使ったところですが)このような回答で返すということは答える気がないもしくは答えられないということで、ご自分でも何を言っているのか分かってらっしゃらないのですね。

私の意見が正しいと思えば、それこそ自己満足に徹してればよいものを、世間に問えばいろいろな意見がきますから理性をもたなければ、このようなところで問うこともなかったでしょう。

私が件の男性に対して批判的であることに対して感情的になっておられるのでしょうか。
もしそうだとしたら、あなたも男性と同じ経験(このような行きすぎた行為をしたりもしくはそれに対して反論されたり)をされたのでしょうか。

>固執する

中傷的回答を繰り返すご回答者の行為こそ「固執」なのではないでしょうか。

最初の回答は回答にはなってません。それをもちだすあなたも同じということになりますね。

哲学カテにこられるのなら、他人のことより、ご自分の方をもう少し客観視する必要があると思いますよ。
ですが、ここではこれ以上お答えしていただかなくても結構です。

お礼日時:2013/08/28 21:15

 No.7です。

お応えをいただきました。

 ★(No.7お礼欄) ~~~~~~~~~~~~
  >その《左側通行》のどこがマチガイなのか 伝わって来ていないと思うのです。

 そのとおりです。そのため女性が「証拠は?」と言ったのはよかったと思うのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ たしかに その男性の発言内容からして 《交通マナー あるいは ひいては社会正義》の問題だと質問者は捉えられた。そこまでは ありうるかと――ひるがえって考えるに――思います。


 問題は ただし その女性は じつは交通法規の違反をしたわけではありません。狭い土手道を多少はぜいたくに道の真ん中で堂々と自転車を走らせていただけですから。つまり 問題は 男性による《交通法規違反ですよ》という語りかけは マチガイだということにあります。


 もし女性がそのことを知っていながら触れることなく 男性の〔まちがった〕論理に合わせて応答したとすれば それは どういうことか? じっさいその《通行マナーが成っていませんよ》といった男性の論理に合わせて《証拠は?》と受けて応えた。とすると これは 何を意味するか?

 
 前回ひとつの解釈例を示しましたが それを引き継ぐとするなら 女性は 男性からの変則的なナンパにひとまづ応じてやろうと思って じっさいにもそうした。――ということではないのでしょうか?

 あるいはつまり じつはその男性と女性とは 互いにすでに以前から知り合いまたは話をしていないが顔見知りであったのではないかというところまで考えられて来ます。

 ★★(趣旨説明欄) 男性の言葉に驚いたようで女性は「そっちの方が問題だ」と言いました。私も一瞬監視かよ?と思いましたが…。
 ☆ 女性も負けていません。そして 質問者さんが《一瞬 監視かよ?》と感じたところを わたしは たとえばナンパではないかと一瞬思ったという或る意味で野次馬の見方です。


 かくして
 ★★ 「警察に行こう」と言う男性に対し、女性は「いいですよ、応じます」と毅然とした態度でしたが、男性は結局呼びませんでした(あれだけすごい剣幕だったのに…と少しおかしくなりましたが)
 ☆ ・・・。
 
 たぶん ここからは ふたりの当事者本人にそれぞれ 言い分や事情説明を聞いてみるよりほかに ことの真相を知るよしもないのかも知れない。こう思ったのですが みなさんにおかれましても どうでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

ナンパではないと思います(笑)

第三者が当事者に話を聞いても、双方の言い分は変わりないと思われ、その言い分や行為について「正義の押しつけとは何か?」と考えるのがここでの主旨です。

お礼日時:2013/08/28 15:31

 こんにちは。




 すでに指摘がありますが 問題がどこで起きてそれを《年配の男性》が取り上げようとしているのか これが分かりません。まづこう申し上げねばならないのではないでしょうか。

 ★★(趣旨説明欄) 女性が車の走る左側を走っていた〔から危ないとのことで、注意をしたそうです〕。
 ☆ とのことですが その《左側通行》のどこがマチガイなのか 伝わって来ていないと思うのです。

 ★★(同上) 彼女は橋の上で、交通ルールを守ってなかったかもしれません。
 ☆ ということですが 左側通行は マチガイではありません。

 しかもその《橋の上》を別とすれば
 ★★ この土手では、車が一台やっと通れる狭い土手の上で、車の対向車線になったり、ならなかったり(平行して走ったり)するようなところです。
 ☆ ということであるならば クルマの通っていないとき 土手道の真ん中を走っていたとしても 何ら問題はないと考えられます。クルマが来たら 端に寄ればよいだけではないのですか?


 男性による《注意》には 何の意味もない。こう考えます。
 質問者に対しても そこでは《正義》という問題が まだ何も発生していない。こう考え お伝えします。

 意味があるとしたら せいぜい少し凝ったナンパを始めている・・・くらいのことではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>その《左側通行》のどこがマチガイなのか 伝わって来ていないと思うのです。

そのとおりです。そのため女性が「証拠は?」と言ったのはよかったと思うのです。そこで流されたり、やっかいだからと謝っていれば、男性は自分の悪いところを分からずじまいだったでしょう。そのために助長されてしまった男性にとっての正義は何のための正義なのか?という疑問があるのです。

>質問者に対しても 《正義》という問題が まだ何も発生していない。

これを正義とするのは少々大げさだったでしょうか?

しかし正義漢というタイプにとっての正義とは、小さな不正も見逃せず、しつこく教え諭し、謝罪してくれる相手を見つければいいのか?などと思ったのです。
個人的に「服従させたい気持ち」を、法やルールという絶対的なものを用いれば、反論を与える余地もありません。
その場その場で、社会を代表として注意する人もいれば、個人的な何かのために、正義たるものを持ちだす人もいるのでしたら、彼自身もマナー(この場合伝え方)を守らないでは、彼の言い分も彼自身の行為に相殺されてしまうのでないかと考えます。

お礼日時:2013/08/28 12:43

 やはりね、ということですね。

先に言ったことは、どんぴしゃでした。

>えっとこれって、「見捨て」ですよね。または長いものには巻かれろ主義。

 そう思えてしまう。日常のことだ、と申し上げましたのにね。

>これこそ困っている人間がいて、自分以外の人間がいればいる数だけ加担または助けようとする気持ちは反比例するという社会心理そのものですが、これは犯罪の見逃し、または冗長する要因です。

 そして、大上段に振りかぶる。

>その周囲がいなければどうすりゃいいんですか。相手がもっと弱い立場の人ならば。

 自分が被害を受けるときは、ごく普通のオプションです。それも分からなくなっている。

>同じ場面でもあなたにとってはまったく関係ないのないことですが、私にとっては考えさせられることなのです。

 そうだと先に申したわけです。目の前のよくあることと、社会全体のことと見境がつかなくなっている、とね。

 だから言ったんですよ、怒っていると。だから、判断基準がおかしくなっているわけです。分かりますね?

 これ以上、私に噛みつかないようにされたほうがいいでしょう。いや、誰に対しても、でしょうね。

この回答への補足

>だから言ったんですよ、怒っていると。

これについても
「誰が」「何について」「なぜ」怒っているのかの説明をお願いします。

補足日時:2013/08/28 12:23
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。


>そう思えてしまう。日常のことだ、と申し上げましたのにね。

>そうだと先に申したわけです。

先の回答で、それはどの部分でしょうか。

先に指摘しただの、質問者はわかってないことをおっしゃりたいようですが、説明不足なのでご自身しかわかってないように感じますが?

>目の前のよくあることと、社会全体のことと見境がつかなくなっている

誰かひとりの他人と関わればそれは社会です。目の前のあることもそれ自体が社会の一つです。

しかしあなたの中で社会全体と個人が切り離されているわけですね。
それについて私がある意味、社会問題としているわけですが「見境がつかなくなっている」というご指摘は間違っています。

お礼日時:2013/08/28 12:21

自転車は車道の左側を走るものだし、女性は何もひとさまに迷惑はかけていないように思えます。

男性がいちゃもんをつけるにはその意味がなく不条理です。法律違反ではまったくなく、ましてとても警察沙汰にまではならないだろうと…。でも女性は一応そのクレームにまじに応じているようですので私の文章理解力が足りないのでしょう。

要は見知らぬ他人のマナー違反を諭すことは正義かどうか、常識的にどこまで追求するべきか?というご質問でしょうか。

一般的に、周囲が迷惑する大きな危険が内在している時、明らかにそれを知らずに危険を冒していて、不特定多数に危険が及びそうな時にはためらいなく注意しようと思います。それ以外の、自分だけの自業自得的なマナー違反は「大きなお世話」と叩かれそうで(子供を含め)私は何も言いません。首記の貴例は(よくわかりませんが)あきらかに偏執的ないいがかり的というかいらぬ行為だと考えます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>見知らぬ他人のマナー違反を諭すことは正義かどうか

その通りです。その方法が違えば正義も正義ではなくなるのではないか?ということです。

(彼はそう思った)違反に対する注意という正義も、おっしゃるように偏執的ないいがかりというようになってしまう場合について、です。

お礼日時:2013/08/28 12:06

正義とあなたが仮定とするのなら、仮定範疇の遊び思考の仲間入りはしません。


正義は、私を含めて理解できる人間はいないと言っていいでしょう。まず、先立つものが必要ですから。
正義と感じているものは、欲です。欲が正義だと、そそのかしているのです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

これまた「仮定範疇」とは難しい言葉がでてきました。

>先立つもの

とは具体的に何でしょうか。少々気になります。

>正義と感じているものは、欲です。

私が思うのは、正義は確かに「欲」そのものから発していますが、もう少し純化された欲かなと思うのです。欲望とは何かと考えないで走らせる欲というか、考える行為を経れば、それが善でも悪でも、「考える」という義を経れば、多少理性に近くなり、主観的には彼にとっての「正義」なのかなと考えます。

お礼日時:2013/08/28 00:30

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