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 昔、釈尊は衆生を導くに当たって取った方法は対機説法と云うものだったようです。そしてそこには“方便”も取り入れられました。
 理で説いても通用しなかったからなのでしょう。

 現代はその当時から比べて“衆生”の頭の知識も増えて、また発達もしたようで方便に不足、不満を持つ人も多いのではないでしょうか。

 そんな現代人に明治から大正にかけて活動されたあるお坊さんは方便の方法を取らず、例えをもって我々にわかりやすく悟りの境地を示してくれています。

 以下に悟りの世界の境地を例えをもって表していると思われる文章を載せてみます。

 「阿弥(あみ)に安立(あんりゅう)せる心情平和の霊福、歓喜と云はんか安寧(あんねい)と云はんか、暫(しばら)く喩えを以て其の状をのぶれば、即ち機能致一の状態なり。譬(たと)えば天の如し仰げばいよいよ高きが故に、猶(なほ)し春日の如し暖和にして能(よ)く化育するが故に。

 秋月の如し清涼にして煩悩の熱を除くが故に。猶、大海の如し廣蕩(こうとう)として無辺の故に。山王の如し八風の為に動揺せざるが故に。雪山の如し情操皎潔の故に。浩氣(こうき)の如し新鮮なる活氣與へらるるが故に。

 猶、大地の如し愛憎なく公平の故に。帝王の如し神聖の命令性の故に。判官の如し情操を判して正義ならしむるが故に。浄水の如し心情の弊垢(へいく)を洗除するが故に。火王の如し一切の垢質を焼滅するが故に。蓮華の如し世間の汚泥に染まざるが故に。

 大乗の如し一切を重擔(じゅうたん)として生死を出ずるが故に。虚空の如し世界に依属(えぞく)せざるが故に。猶、雷電の如し未覚を覺(かく)するが故に。梵天王の如し善法に最上の故に。獅子王の如し畏(おそ)るる所なきが故に。

 象王の如し普(あまね)く調伏するが故に。大地の如し一切の功徳生ずるが故に。大宮殿の如し心安住する故に。城廓の如し六賊に害せられざるが故に。」


 以上です。全体としては漠然としてではありますが、なるほどと思います。でも部分としてはよく分からないところもあって、皆さんの解説など伺えればと思うのですが。

 機能致一の状態とか、神聖の命令性とか、未覚を覺するとか・・・・・

A 回答 (10件)

 No.7です。




 四諦八正道は ただ《ただしいということは ただしいということだ》とだけ言っているのではないでしょうか?

 そのほかには からっぽではないでしょうか?
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この回答へのお礼

 地球上に現れた生命を皮肉めいた、あるいはひねた言い方で表現すれば、苦しむために生まれたと言いたくなります。
 そう思うくらい生物は生きることに必死です。つかの間の安心は苦の狭間にあるようで。

 当時、人間は現代人よりもはるかに生きることに必死だったことでしょう。危険をいつも身近に感じていたのではないでしょうか。

 でも釈尊は恵まれた環境に居たようで、だからこそ、それでも満たされぬ心に“なぜなんだ”と疑問を持ったのだと思います。
 そうした心の“疑問・迷い”から、解放されるための“理・ことわり”を悟り、布教したのであって、実社会の生き方を求める“人”ではなかった分けですから、そのことを釈尊に求めても仕方ありません。

 仏教的社会に生きる我々は、心の仕組みを釈尊から教わりました。活用するのは我々自身の役目でしょう。
 そう思うと、ブラジュロンヌさんの回答を見ていると、悟り人は万能でなければならない、とでも言いたげに受け取れてしまいます。

 教師は教師としての役割があり生徒は生徒としての役目があるようなもの。
 
 教師に生徒が、それならば先生がトイレの掃除をすればいい、と云って先生にトイレの掃除をさせた時、それを見る生徒はどう感じるのでしょうか・・・

 反応は生徒の“機”によりますが。

 ありがとうございました。

 

お礼日時:2014/02/01 20:06

悟りの世界を体験するという意味は、『自我意識』が『自分の感情や考えを湧き上がらせている者』と出会うと言う意味です。



自分自身の命を働かせている”意識”と出会う事です。具体的に表現するなら『高いところにいる事を知らせている”感覚や狭いところにいる”感覚”や”『身の毛もよだつ』と言う体験では『身の毛をよだたせている者』と言う意味です。

赤ん坊が『何も学ぶ以前から』不安や安心する事や恐怖感でさえ熟知している事は、脳内にそのようなシステムが『備えられて、生まれているからです。』

そのシステムの実行者が『命そのものの働き』です。使い古された言葉で表現するなら『仏性』や『神』と言う事になります。

一切衆生悉有仏性、と言う意味は、命あるものは全て『命の働きを備えて生きている。』と言う意味もあります。その機能は桜なら、その種の桜として、匂いも色も咲く時期も、散る時期も全て知っていて機能させています。

昆虫でも動物でも同じです。この世に生を受けた時『既に全てを知っていて行動している事実が裏付けています。』

科学的な証拠です。


人間の心が二重構造になっていると言う科学的なデータを示して置きます。ウイキペデアからです。

『”ロジャースペリー 分離脳』
ノーベル賞受賞者
受賞年:1981年
受賞部門:ノーベル生理学・医学賞
受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究
ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。”』

この場合での右脳の役割と左脳の役割を脳卒中の為に『体験的に体感した脳科学者の動画を載せて置きます。

URL:
もし出ないようでしたら、ジルボルト、テーラ脳卒中と検索して下さい。

こういった脳の機能分化の有様を、二重構造と書きましたが、この機能分化によっての交替制によって正常な生活が送れている人達を『健常者』と言います。

この機能分化の完成によって、人間が苦しむ場合を仏教では『業』キリスト教では『原罪』と表現しています。つまり『心が苦しくなる、或いは意識地獄の状態になって苦しい想いが続く』と言う意味です。業とか原罪という意味は『意識地獄になってしまって』生き難い想いが続くという意味です。

こう云った不安や恐怖から『魂が救われる場合を』禅などでは、見性して成仏すると表現しますが、『自分の脳内での争いが解消する事を意味します。』その姿が『涅槃』を示しています。心の中が限りない静寂に包まれている事を意味します。

見性する事を『生死の問題が解決する。』と言う意味が此処にあります、自分の生死とかと、自分の幸福とかは、別段の意味を成さないとする『心の革命とも言うべき体験』です、自分の執着する心が『自分の苦しみを作り出していた事』を体得する経験です。

それ以後、自分自身の死によっても覆る事がない『絶対の安心』を確保出来ます。

キリスト教に於いても同じような経過を辿っています。『神と和解する。』です。

内的な事柄は同じです。この女史の体験は『宗教体験』を語っていると言う側面もあります。脳梁を通じて『右脳と左脳』の仲違いが解けるという意味があります。
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この回答へのお礼

 私にとっては全く別世界の内容です。
 脳科学者の動画はまだ見ていません。 

 ですが、見たくなるような回答です。
 科学的に解明しようという、あるいはtumaritou1さんの思いとしては解明した、悟りの世界ですね。

 新鮮な感覚です。
 ありがとうございました。

 

お礼日時:2014/02/01 12:40

>阿弥(あみ)に安立(あんりゅう)せる心情



この御文の冒頭における言葉が上人の心を表していると思います。
以下の言葉は、この信心の内容を語っているように感じられます。

山崎上人は20才で出家し、20代前半で学行共に修められ、深い信心に至った方のようです。
幾度か、yy8さんより上人の言葉を読ませていただいておりますが
その文章は、多分に仏教経典的な表現の形式を取っているように見受けられます。
信心における自内証の内容の表現が、多くの言葉をもって表されていることには、一種の豊かさを感じられるものですが、その反面といっては失礼かもしれないが
煩瑣に感じられる面もあるように思います。

解釈のしようかとは思いますが・・
あらゆる表現を用いて説明しようとする、その手法、その態度から浮かび上がってくるのは
伝えようとするものが言語を絶したものである、といった印象です。
冒頭の「阿弥(あみ)に安立(あんりゅう)せる心情」という一言を、そのまま受け止めるだけでいいのではないか、といった思いがします。
なぜなら
そこに付けられた多くの言葉をすべて咀嚼したからといって、同じ信心が生まれ、定まるものではないと思うからです。
これだけは・・というものは冒頭に記されている
その一言を噛み締めることが何よりも大切なことのように思います。

信心とは悟りなのでしょう。
けれども、そこには深さの違いがあるように思います。
「安立(あんりゅう)せる心情」という「安心立命」に至ることは、簡単なようで、実際には大変なことに違いない
多くの時間を費やしてこそ得られるもの、といった気がします。
盲信でない確かな信心に至ることは、なかなか困難であり、簡単そうに見えて実は簡単ではない・・のでしょう。

山崎上人が得られた悟りの境地について云々・・という資格を私は持ち合せていませんが

「阿弥(あみ)に安立(あんりゅう)せる心情」という一心

学行ともに成った人の言葉であり、その心であることには違いないと思います。
信心を表す一言
それだけで十分であり、その言葉の解釈は、個々の信仰者の信心の深さに応じてなされると思います。
また、それら一様でない解釈は、個々の悟りの深さを表しているものとも言えそうです。
私なりの拙い感想を敢えて言わせていただくのならば・・
安心立命の一心という迷いなき心は、如来の大悲への参入を果たされた結果はないか・・と思います。
また、自らが大慈悲心を発するという顕徳の成仏の境地は、上人の残された業績に顕わされていると思います。
山崎上人という人は、そうした稀有な御方であったと思います。
御縁を大切になさってください。
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この回答へのお礼

 ありがとうございます。
 これからも学んでいきたいと思います。

 今回は回答者さん達から、投げかけた疑問への回答がいただけなくて残念でした。
 しかし、aboutさんの読みの深さには教えられます。
 私はまだまだ。アメンボ脳だから・・・
 

お礼日時:2014/02/01 10:50

 ★ (No.3補足欄) ~~~~~~~~~~


 達観はこの娑婆の世界に身を置いていてもその境地になれそうですが、悟りの世界は俗世間を捨てて山に籠らなければこの世界は体験できないようです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ですから そのさとりを開いたあと どうするのでしょう?

 達観のばあいと同じように ふつうに仕事をし社会生活を人並みにおくるということではないのですか?


 ★ 俗世間を捨てて山に籠る
 ☆ とか 《わたし心を去る》とか その中身やそれによって得られる境地は何であるかは けっきょく分からないまま 百年・二百年とつづいて来ているのではないのですか?

 さとりとは何か? と言ったら 判子を押すように 無私のことだとこたえ続けて来ているのではないですか?

 無意味だと思わないでしょうか?
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この回答へのお礼

 情的にも理的にもとびぬけてすぐれていたと思われる釈尊は、“四諦”と“八正道”という教えを我々に残しました。そして今日までそれが真理として教え継がれてきていることを思えば、釈尊は大きな仕事をされたと思います。

 でもこの教えは、理=ことわり、なのであって実生活に於いて完璧に行えると云うものではありませんね。
 だからと云って捨てるべきものではないと云うことは、誰もが承知していることでしょう。

 また、この教えは“当たり前な事”のようですが、こうした思いに至るのは修行して悟りの世界に入られたからこそと思っています。

 教祖釈尊の弟子たちの“教え”はその弟子たちの物で、これらについては多少ですが疑問を持ったり不足を感じたりして、だから不勉強になってますが、そんなところからブラジュロンヌさんの“思い”はなんとなく分かります。

 今は山崎弁栄というお坊さんから学んでいます。

 ありがとうございました。
 お礼が遅くなって申し訳ありませんでした。
 

 

 
 

 

お礼日時:2014/02/01 10:41

こんばんは



世の中の全ての事象を 欲に囚われることなく 静かな落ち着いた気持ちで「あるがまま」に認識しなさい 全てが自然に整然とした秩序で成り立っています
それにより 貴方が人間として生まれたことに感謝するでしょう この世界に 何物も無駄がないことに気が付けば この世界の全てを愛さずにはいられない

補足
貴方が 美しい世界のために 例えば お日様の下で無心に心の汚れを掃く(無我夢中に好きな事をする)ならば それを観た他の人間も同じことをしてくれるでしょう 同時に 世界の汚れも掃くこととなるでしょう
と 私ならこう捉えます
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この回答へのお礼

 いただいた回答のような境地にはなかなかなれません。
 一応、達観の境地の内容かと受け止めましたが。

 ありがとうございました。
 また、お礼の遅れたことをお詫びします。

お礼日時:2014/02/01 09:18

東京から大阪まで行こうと思います。



飛行機がいいですか?

車がいいですか?

電車がいいですか?

歩きがいいですか?




追加(無視していいです)

心が行くのがいいですか?

この回答への補足

 正直、回答が何を言おうとしているのかいまだに分からないでいます。
 目的地までの過程が重要だと言おうとしているのでしょうか。

 ありがとうございました。

補足日時:2014/02/01 09:23
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この回答へのお礼

 一番早いのは飛行機。
 次に早いのは電車。
 車はマイペース。
 徒歩は気楽。

 私は気楽がいい。

 心は肉体と共に(凡人だから。悟ってないから。)

お礼日時:2014/01/27 00:18

よく読みなさい。

都会には無い昔なら普通にあったものを示しているのです。
普通に有るもの。これが真。わからないでしょう。
ここにある、これ大切。そこにある、それ大切。
いらぬ考えがその人の邪魔をする。悟りが必要となるのです。
******を見つけなさい。
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この回答へのお礼

 なにも、悟りの境地に達しなくても、実生活で十分に実体験できる事柄であるのだと、おっしゃってくださったんだと思いました。

 言われてみればそのようにも思います。

 ありがとうございました。

お礼日時:2014/01/27 00:11

 ★ (No.2お礼欄) ブラジュロンヌのさんが使う“悟り”は、私なら“達観”と表現したいです。


 ☆ だとすると その《達観》を得た人びとが出来る社会生活および社会活動すらを 《悟り》を得た人がやらない・出来ないということでしょうか?


 出来るというのであれば では ほかに何が出来るのか? これを明らかにして さとりと達観との違いをわたしたちに分からせる必要があるでしょう。

 言葉で言うのではなく 何がじっさいに出来るのか? です。




 つまりもっと はっきり言います。何もない。何も出来ない。ただ言葉でぐぢゃぐぢゃ言っているだけ。ということではないのですか? という問いかけにもなっています。

この回答への補足

 こうしてパソコンに向かうまでに結構、いろいろと考えてしまいました。
 でもなかなか考えがまとまらず、ふと思いついた一点を述べてみようと思います。

 ぶらじゅろんぬさんは悟りと達観の違いを説明せよと云っていますが、それについて。

 達観はこの娑婆の世界に身を置いていてもその境地になれそうですが、悟りの世界は俗世間を捨てて山に籠らなければこの世界は体験できないようです。

 この人生に疑問を持ち迷いのない世界を求める人は皆んな山に籠りました。そして籠るだけではなく修行をしていますね。
 そんなことをしないと入れない境地が悟りの世界なんでしょう。

 こんな点は達観と悟りの違いを表わす一つの見かたかと思いますが。

 

 
 

補足日時:2014/01/25 02:06
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
たぶん“悟り”と云うことへの受け止め方に違いがあるんだろうと思います。
今日の夜に補足欄で感想を述べられるかと思います。
でも弱い頭なので上手く表現出来るか自信がありません。

お礼日時:2014/01/24 16:29

 こんにちは。



 さとりというのは その境地に到ったひとが 何をするか どういう思想を残すかの問題です。

 さとりを得たあとの問題です。

 その姿勢がなければ 何の意味もありません。



 二千五百年 さとり印の判子をつくって 人びとはこれを押しつづけて来ました。アホらしいとまだ思わない人びとが おおぜいいるようです。
 
 目覚めないことが 目覚めた(ブッダ)ことだとでも思い込んでいるようです。




 たとえばこの質疑応答の場 哲学カテ。わたしは 六・七年の経験ですけれど その種のさとり論は まるで変っていません。中身のすっからかんのままです。たいていは 無私の問題らしい。

 さとりとは 無私だと言いたいためにおのが我を大切にしているようなのです。


 仕事をし社会生活を送ることが さとりなのです。
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この回答へのお礼

ブラジュロンヌのさんが使う“悟り”は、私なら“達観”と表現したいです。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/01/24 12:55

>例えをもって我々にわかりやすく悟りの境地を示してくれています。


>全体としては漠然としてではありますが、なるほどと思います。

 なら、いいんじゃないの。

 このカテのレベルでは、あなたが、一番よく理解していると思うぞ。

 残念ながら宗教カテとか仏教カテが無いからね。

 ところで、いつ、誰の、なんの文章なの?
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この回答へのお礼

このお坊さんは世間にはまだあまり知られていません。
明治から大正にかけて活動された浄土宗系の方です。

山崎弁栄(べんねい)と言い検索するとホームページが見られます。
この方の意志を継ぐ教団のものです。

教団と言う特有の性向がこの教団にも少々感じられるので、わたしは入っていませんがこのお坊さんが残された書籍「光明体系」から学んでいます。
その中の一冊から写しました。

ありがとうございました。

お礼日時:2014/01/24 12:50

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