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幕府は、大名同士の付き合いを制限していたのですか。
制限していたとすれば、具体的にどのような法令?で、どのようなことを制限したのですか。
この法を監視する役職は何ですか。
違反して咎められた大名家はありましたか。

江戸時代、大名の婚姻は、家格がそんなに差がない家同士で行われたはずです。
すると、婚姻圏は大きいと言えず、大名家同士、いっぱい親戚関係になります。
しかし、この時代、付き合いを疎かにはできませんから、大名家同士の行き来は頻繁だったのではないでしょうか。
それをどこまで管理できたのかという疑問です。
よろしくお願いします。

A 回答 (15件中11~15件)

違反して咎められた(改易)大名家はありません。



大名「家」同士の付き合いは当然ありました。

しかし、大名家「当主」同士が直接会談などはありませんでした。

豊臣政権化では大名同士の交流も茶の湯も行われていましたが、徳川政権下では無くなります。


情報交換は頻繁に行われておりましたが、それらは通常、藩邸の「外」の寄り合いで行われており、逆に他藩邸を直接訪問し会談を開いた事例を幕末以外に私は知りません。

ですので、そういった意味での付き合いはむしろ頻繁にあり、そういった付き合いの中での大名文化の贈答品として、大名道具や輿入れ時の嫁入り道具なども非常に予算を食いました。

家格に沿った費用が掛かるので、上杉鷹山は様々の予算と共に削った末、結果、運動費が足りず、公儀から普請手伝いを命じられたとされています。


制限されているのは密議・謀議に繋がる行動です。

つまり、疑われる事を避ける為に、私的な付き合いの為に他家の藩邸や国許を大名本人が訪れると言う事が無かった訳です。

逆に親族であれば、養子元から実父の介護に江戸藩邸を訪れた実例はあります。

しかし大名を集めての茶会等は行われた記録が見当たりません。

更に婚姻時に輿入れ先に当主(親である大名)本人が訪れた記録も見つかりませんでした。

私の探し方が温いのかも知れませんが。


井伊直孝は幕府宿老で大老職の始まりともいわれ、将軍家から絶対の信頼を受けた人物です。

つまり井伊直孝の発言が、公儀の発言とも取れる訳です。

逆に島津と縁組をした場合はどうでしょう?(島津の支藩なら別ですが)

それに婚姻や縁組に纏わる付き合いは在って当然です。

だから、何処と縁組するかが重要な訳です。

田沼意次も失脚した途端に、養子に出した息子が離縁されて戻って来たりしますので、下手な付き合いなら逆にしない方が当然なのです。


ちなみに将軍などの上位の家格の饗応をするとなると、それ相応の儀式の決まり毎があるので、予算が堪らなく掛かります。

抜け道にしたとすれば、正式な訪問ではなくなり、饗応の責務を逃れる事が出来ますからそうしたのです。

庶民の感覚では理解し難い行動ですので、それを嗤ったのものですが、理由はありました。



幕府にとって大名家が統制を離れ勝手な行動を取るのは、好ましくありませんでした。

それにそれぞれの藩主も代替わりと共に、外の藩主との直接の交流が無くなります。

話し相手は何時も家臣です。

支藩と言っても一度分家してしまえば、用も無く藩主があちこち移動する事は出来ません。

供揃えも装備も格式が求められますし、家臣団としても出歩かれるのは迷惑です。

そうした中での付き合いがあるだけです。


つまり総論。

「縁組」上の付き合い

「寄り合い」での付き合い

これに基づく行事・祭典・慶事等の贈答等が在り

大名個人間での交際は、江戸城内と肉親間(親孝行)以外では無い

となり、付き合いそのものが制限されていた事が判ります。

豊臣政権化では、城外での大名同士の交流もありましたので、大きな変化と言えるでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>大名「家」同士の付き合いは当然ありました。

以前に、そもそも大名「家」同士が付き合う事が、「禁忌」なのです、という回答を頂いたことがあって疑問に思っていましたが、今回のご回答で真意がよく分かりました。

>しかし、大名家「当主」同士が直接会談などはありませんでした

>制限されているのは密議・謀議に繋がる行動です。つまり、疑われる事を避ける為に、私的な付き合いの為に他家の藩邸や国許を大名本人が訪れると言う事が無かった訳です。

将に質問の核心はここです。
大名本人どうしが、直接会って話をしたという事例をネットで探したのですが、見つかりませんでした。

しかし、手元にある『小川恭一翁柳営談』には、但馬出石の仙石家の『仙石家側日記』という史料を基にして次のように書いてあります。

大意をまとめてみます。
安政7年10月、仙石讃岐守(但馬出石城3万石)は、森伊豆守(美作三日月陣屋1万5千石)が上屋敷山亭に柳間同席大名4人を招待した宴に招かれています。4人は昼食後庭内を“巡見”し、暮時には夜食の饗応にあずかっています。

注目すべき点が二つあります。
一つは、4人のうちの2人は、帰路が同方向であるので一緒に帰っています。近い方の大名は、途中暫時休息(トイレ)という気のきいた計らいで遠方になる人を自邸に案内していることです。
二つめは、一人(豊後臼杵城5万石)が急に出席できなくなり、代わりに加藤大蔵少輔が参加しています。加藤はちょっと遅刻しています。

この事例は私的な付き合いだと思いますから、事前に公儀に届けていたのかもしれませんが、そこのところは書いてありません。

さらに、『小川恭一翁柳営談』には、次の記述があります。
江戸で上屋敷を出て登城・寺社・他家訪問のときには、その行程に小休止として昼食・雪隠の手配を頼みおいた各家がありました。
史料によれば大名・旗本のすべては、外出時の昼食を予定してある家に前もって「湯漬所望」を申し入れて、当人は座敷に上り、供の人々にも身分に応じて給食しております。
ふだんから相互に便宜をはかっているので気楽でしょう。(以上抜き書き)

この事例は、公的な行事だと思いますから、決められたコースを通る限り、その都度事前に公儀に届ける必要はないかもしれません。

お礼日時:2014/03/18 20:44

>大名同士の付き合いを制限していたのですか。


単なる交際は制限していません。
武家諸法度の目的は軍事同盟の阻止です。
下記サイトを御覧下さい

大江戸経済学 趣味と贅沢と市場経済 - インターネット
www.h6.dion.ne.jp/~tanaka42/zeitaku-2.html
レポートの中に下記のようなことが書かれています。
江戸屋敷関係費用の最大の支出先は、幕府や他の大名との交際費だった。これは現在の企業が情報収集活動や営業活動に使う費用ともいえるものだった。この情報収集や営業活動の目的は、思いがけない天下普請や役務を命じらられないための”根回し”のための費用もむくんでいた。、あた、数年に一度の割合で確実に命じられる天下普請などの御手伝大名を大名どうしで調整して決める場合もあった。
 また加賀前田家、筑後黒田家、薩摩島津家など主として外様大名の大藩の場合、御手伝普請担当の子会社ともいうべき2ないし3の支藩を設け、天下普請の時の万が一の事態の累が本藩に及ばない工夫をすることもいわば常識だった。「忠臣蔵」の浅野本家と赤穂支藩の場合はその好例だが、なぜかそのことを今まで指摘したものはほとんどない。 どうしても御手伝を避けたければ、幕府の担当役人に”しかるべき”運動をすることはことより、他の大名家の諒解を予め取っておく必要があった。この場合、大名家側の相談と幕府の担当者などとの事前調整=談合によって、天下普請を担当する大名が決まるシステムだったと考えられる。この辺りの事情は、現在の公共工事にからむゼネコンの談合を想像すれば間違いはないだろう。 建設談合の場合でも「利益の薄い工事や赤字工事が発注されると関係者が事前調整を行って、その工事で”泣く”業者を決め、”泣いた”分は後日の工事で補填するケースがある」との新聞報道が盛んにされている。つまり、幕府やほかの大名家との交際の上手下手は、大名家の運命を左右するほどの重要なものだった。

近世大名家の政治秩序
repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/135509/...
親類大名の役割が記載されています。

近世大名庭園の造形に見る農本主義の影響
www.hues.kyushu-u.ac.jp/education/student/pdf/2008/2HE07076Y...
レポートの中に以下のような説明がされています。
白幡洋三郎がその著書「大名庭園ー江戸の饗宴」の中で、大名庭園が、私的な慰楽でkを目指したものではなく、公的な儀礼空間としてもつくられた装置であり、対将軍家並びに他の大名家との「儀礼」と「交際」のための、そしてまた、藩主の家臣に対する供応のための場を実現するための機能を大名庭園の注目すべき構成要素としてあげている。

東京新聞:尾張徳川家の至宝 江戸東京博物館 開館20周年記念特別展
www.tokyo-np.co.jp/event/bi/owari-tokugawa/txt/130130.html
尾張徳川家第22代当主で徳川美術館の館長である徳川 義崇(とくがわ よしたか)氏の談話の中に以下のことが書かれています。
大名というのも職業の一つだと思う。現代でたとえると株式会社尾張徳川家が尾張 という土地を管理している。この社長がお殿様。そういった社長さんが各地にいて、お 付き合いがある。その中で、ちょっとゴルフぐらいできなきゃとか。同じイメージで大名 同士のお付き合いで生まれたのが大名文化。

徳川家斉が寵臣の水野忠邦の屋敷を訪問したことを揶揄する川柳があります。
沢瀉のなかを葵が通りぬけ
将軍が家臣の家に遊びに行くのは如何にも体裁が悪ので、御三家水戸家の下屋敷を尋ねる際に水野の屋敷を通り抜けるのだと口実を付けたのを江戸っ子がからかった川柳です。
沢瀉:水野の家紋 葵:将軍家の家紋
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

的確な解説でとてもよく解りました。
ご紹介のサイトはどれも疑問の解決に直結するもので、素人の私でもすぐ理解できました。

>近世大名家の政治秩序 親類大名の役割が記載されています。

なんと! こんなケースがあるのですね。
この論文には、「蜂須賀蓬庵の婿である譜代大名井伊直孝が親類大名として蜂須賀家の家中統制に発言力を持つとともに、蜂須賀家の対幕府交渉において指南的な役割を果たしていた」とあります。

>近世大名庭園の造形に見る農本主義の影響

なるほど! 大名庭園から大名どうしの付き合いを知ることもできるのですね。
まったく思いもつかなかったです。

私は疑問が解消してすっきりしましたが、それでもこれらの付き合いは「必ず公儀を通して行われた」という反論もあるかも知れませんので、もう少し締め切らずに開けておきます。

お礼日時:2014/03/17 21:30

ithiです。





一、新儀ヲ企テ徒党ヲ結ビ誓約ヲ成スノ儀、制禁ノ事。
訳:謀反を企て、仲間を集め、誓約を交わすようなことは禁止とする。(wikiから)


まことにその通りです。婚姻を口実にするという考えですね。だから、許可制にして規制し、、私婚を禁じたのです。
ほかの冠婚葬祭の儀礼についてもそのように考えられるので、あえて幕府に伺いを出したとかという話もあるようです。
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございます。

私婚の禁止は、武家諸法度に「国主・城主・一万石以上ナラビニ近習・物頭ハ、私ニ婚姻ヲ結ブベカラザル事」と明記されています。

>ほかの冠婚葬祭の儀礼についてもそのように考えられるので、あえて幕府に伺いを出したとかという話もあるようです。

江戸中期以降の事例を知りたいですね。
「話もあるようです」とのことですが、何か思い出していただけませんか。
ここが知りたい疑問の核心なのです。

お礼日時:2014/03/17 20:19

kouki-koureisyaさん、こんばんわ。



江戸時代の初期は徳川家に敵対するであろう大名がたくさんいたので、婚姻などで誼を通じて同盟を結ばれては一大事だったので、届け出制にして制限しました。

具体的にどのような法令?で、どのようなことを制限したのですか。
武家諸法度です。

この法を監視する役職は何ですか。
大目付という役職がありました。3000石高の旗本の役職です。

江戸時代、大名の婚姻は、家格がそんなに差がない家同士で行われたはずです。

大広間詰の外様大名の場合、甚だしいところでは清華という家格のお公家からも輿入れしました。


この時代、付き合いを疎かにはできませんから、大名家同士の行き来は頻繁だったのではないでしょうか。
たぶん、3代前くらいの当主のところからしか交際していないと思います。それ以上になるとかなり頻繁に贈答を繰り返し、ただでさえ莫大な交際費がさらにかさんでしまいます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

武家諸法度は、一応読んでから質問したのですが、交際を禁止すると解釈できる項目を見つけることができませんでした。
次の項目を拡大解釈するのでしょうか。

一、新儀ヲ企テ徒党ヲ結ビ誓約ヲ成スノ儀、制禁ノ事。
訳:謀反を企て、仲間を集め、誓約を交わすようなことは禁止とする。(wikiから)

お礼日時:2014/03/16 21:01

・役職は大目付



・武家諸法度

・別に交際を制限していたわけではない
 但し、疑いをもたれるような行為を避けるというのが必要な作法

・婚姻や養子縁組は、幕府に届け出て許可を得れば問題無い
 問題なのは、許可を得ずに勝手に行う事
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>別に交際を制限していたわけではない
>但し、疑いをもたれるような行為を避けるというのが必要な作法

確かにそうだと思います。
このことを確認したかったのです。

お礼日時:2014/03/16 20:46

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