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撃墜したことあるのはわかりますが、実際東京が焼け野原になりましたよね。
どうでした?

A 回答 (4件)

実際の空襲の様子からいうと回答2のとおりだといおもいます。



下町が焼野原になったりしたのは、絨毯爆弾という形で、大量の爆弾を夜間に住宅地に無差別的に投下したことによるものだというのは有名な話です。そのため、防御策として、夜間は、明かりが外にもれないようにするなどの対策がとられました。まあ、すこしでも光がもれればそれまでなので、むだといえばむだですが、努力としては、B29が襲来したら、あかりをけして、防空壕に入るが定番の対処法でした。
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朝鮮戦争では開戦からわずか半年で240機以上被撃墜、それ以上が修理不能となり、爆撃任務からはずされています。



MiG-15レベルのジェット戦闘機にとっては、撃墜困難でもなかったようです。

また、太平洋戦線に投入された3900機のうち、720機が喪失となっており、この18パーセントという数字は決して小さくはありません。低高度爆撃に切り換えたあとは、日本軍の戦闘機以外に高射砲による損害もそれなりにだしています。
またどこもかしこも焼け野原になったのは、ひとつの目標に多数の機体を同時に投入し、日本側が対応しきれなくなる飽和攻撃をおこなった、という事実もあります。

東京・名古屋・大阪には、英米独にはまるで比べられないものの、来るか来ないか、どのくらいか、程度はわかる電波探知機が設置されていたので、末期は別として、B29にとって日本爆撃はそう「気楽な任務」ではなかったようです。
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B29は当時の水準では非常に優秀な爆撃機ですが、圧倒的に優勢だったわけではない事も明らかになってきています。


特に「高度一万メートルからの空襲」というのはあまり成果を挙げていません。
具体的には1944年11月24日に中島飛行機武蔵製作所への空襲では111機中、目標を爆撃出来たのはわずか2機、同27日の空襲に至っては81機で目標を爆撃出来たのはゼロという惨憺たる結果に終わっています。
三菱名古屋工場空襲など戦果を挙げた例もありますが、米軍側でも全体として成果不十分と評価されています。
これらは当時の航法性能では目標を正確に把握する事が難しい事に加え、日本本土上空のジェット気流に阻まれた結果です。
このため米軍は作戦方針を切り替え高高度からの空襲を諦めて、夜間に低高度で侵入し都市部を無差別爆撃するようになります。
これに対し日本側は戦力不足と地理的な早期警戒網の問題にため対処の術がありませんでした。
例えばドイツの場合、占領地であるオランダやベルギー上空から爆撃機の編隊の同行を把握して迎撃出来ましたが、日本の場合は重要都市の多くが太平洋側にあり、敵編隊を把握してから迎撃に挙がっても間に合わない事態が多発しました。
つまり問題だったのは「航空機の性能」と言った枝葉末節の問題では無く、もっと根本的なところにあるのです。
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nandekounaru さん、こんばんわ。



撃墜し難い爆撃機だったことは有名です。何せ高度1万メートルで速度は500km/Hですから、日本の戦闘機はやっと追いつく位でした。ターボチャージャーの開発が進まなかったのです。
それでも日本の航空隊は撃墜方法を編み出して攻撃しました。その結果、生産数の約2割の機体を撃墜を含む約4割の機体を撃破しましたが、大勢を覆すほどの効果はありませんでした。また、原爆投下ということもあり、B29戦略爆撃機の投入は日本は敗戦する一つのきっかけになったと思います。
詳細は下記のURLを参照ください。


http://ja.wikipedia.org/wiki/B29
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