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 《ひらめき》とは そこで何が起こるコトか?

 1. 霊感・インスピレーションに限ったヒラメキについて 問います。

  1‐1. 直感であり 直観です。イメージのようなものを得ることだと見ますが 後者は どちらかと言えば 概念をともなってすでに思考にもつながっているのかも分かりません。

  1‐2. イメージだけの直感にしても しかるべき良い内容のものは やがて概念をやはりともなってそこから直観へと自己を渡しすでに世界観となるような広がりを得ることになるかも分かりません。

  1‐3. おそらくこのときひとは おのれの《もっともわたくしなる庭》にあって おのが《固有の時》の中にあそんでいるのではないか?――孤独であって孤独ではない。孤独関係という世界が開けた。

 2. これは――いま突飛なことへ思いが飛躍したままを言うのですが―― 量子相互作用なるユラギが 決してそれを認識しうることは出来ないところで起きているゆえなのか?
 (この問いは あそびです)。



 3. さてその昔 アブラハムなる男は 《父祖の土地を去って行け》というヒラメキを得て そのとおりに――どこへ向かうのかも分からずに――出かけたと言います。七十五歳にもなって。
 
  3‐1. それは この地上における人間の生は 謂わば――精神の遍歴とも見られるような――巡礼の旅であるということが示されたのだと捉えられています。定住の生活においても そうだという意味だそうです。

 4. そこで このとき起こったことは 次だと思われる。
 
  4‐1. ヒラメキは おのれに分からないところからやって来る。夜中に盗人が襲うかのごとく。

  4‐2. そのヒラメキを受け取りその中身を読み取って その指し示すところに従うのは 人間としてのおのれの成す意志行為である。

  4‐3. すなわちこの《ヒラメキを受け容れた》というのは――それを《非思考において信じた》と言ってもよいと思われるのだけれど―― 最後の段階には 人間の意志行為が伴なわれており これはじつはすでに経験思考にもとづく経験行為である。

  4‐4. ヒラメキを得て そこに《〈伝統〉を去り行く》という言葉による表現を得るなら すでに思考をおこなっており その思考の結果 取るか捨てるかの意志決定がおこなわれている。

  4‐5. この意志決定において《行く》か《行かない》か いづれをえらぶかは 人間の自由意志による自由な――あるいはおのれの心の恣にする自由な――行為である。と言えるか?



 5. あらためて 問いはこうです。

  5‐1. ヒラメキを得てその指し示すコトを 受け容れるか拒むか これは 人間の側の意志行為だと考えられるが 果たして そのどちらをえらぶかは 人間の自由意志のよくするところだと言えるか?

  5‐2. 言いかえると 《行く》をえらぶ場合も《行かない》と決める場合も すべて《わたし》の自由裁量に任せられているか?

  5‐3. 言いかえると ヒラメキの指し示す行為を人間がどう受け容れるかは むしろヒラメキの側においてすでに決まっている。という見方も出て来るのではないか?

  5‐4. あるいはその決まっていることは 人によってそれぞれである。だろうか?

  5‐5. いえいえ まだまだ舌足らずです。《わたし》が《行く》をえらぼうと思ったとしたら それは ただただわたしの自由意志による選択行為だとのみ言えるものか?

  5‐6. ヒラメキが帯びるところの・人に選択をうながすチカラのほうが 人間の自由意志による決定力よりも強い。のではないか?



 6. あらためて 問いはこうです。わたしの自由意志は ヒラメキのちからに勝てない。のではないか?

  6‐1.  あるいはつまり もともとわが自由意志なる心の声であるがゆえに ヒラメキが起きる。のだろうか?

  6-2. 直感と直観とを分けたところで イメージ・ヒラメキと思考・ヒラメキとを捉えましたが これをさらに オソレ(畏れ)・ヒラメキとコギト・ヒラメキというふうに言いかえると 分かりやすいかも知れません。コギト・ヒラメキには 自由度が残されている。オソレ・ヒラメキにはひとはあらがうスベはない。か?



 暑い中に思索をお願いするわけですが 思うぞんぶん飛躍をもたのしみつつご回答をお寄せください。

A 回答 (22件中11~20件)

ここで言われているヒラメキとは、夢見や白昼夢と同等のものか、規模の小さなそれだと思われます。


アボリジニは今でも夢を非常に重視し、先祖や地霊、つまり信仰の対象からのメッセージと受け取ったりしているそうです。
文明化、理性化されていない世界、社会では、そのようなものに特殊な価値を与えて祀っているようです。
おそらく原始の時代にはどの民俗も似たようなことで啓示を重視して居たでしょう。それが、人間の習性、未知のものに対する怖れと興味が為すわざなのでしょう。
現代日本のような文明化した社会でも、夢は謎の多い現象です。人はなぜ夢をみるのか、夢とは何か、その半ば解体した思考と偏った像は何を意味しているのか、わかって居ません。その夢を象徴や啓示、或いは預言と捉えて分析する人もあるようです。近代では、ユングなどは熱烈に、理性的に夢を研究した一人です。

ブラジュロンヌの言うヒラメキには例えばどんなものがあるのか、具体的に言ってもらえれば、もう少しかわった答えも用意できるかもしれません。アブラハムの様な、具体的な内容です。

さて、そのヒラメキを実際の行為として踏襲するか否かですが、現代人ならばそれはそれとして踏襲しないでしょう。理性が働くからです。
一方、とあるアフリカの部族では、昨日の夢でお前に殴られた、だから仕返しをする、と言って本当に夢に出て来た人を殴ったりする習慣があるようです。かなり馬鹿げた話ですが、ヒラメキ?にそのまま従うという行為は、今でもあるのです。聖書では、啓示の通りにイサクを殺そうとしたアブラハムの話があったでしょうか。
当然、そのようなことは今の社会ではまかり通りません。実行すれば気狂い扱いでしょう。

同じように、ヒラメキというものもヒラメキに止めるべきことであり、ユングの様に理性的に説明出来得ない限りは、現代では通用しない、個人的な事柄のものとしておくべきと思われます。
もっと言えば、理性を信仰している現代には、ヒラメキや啓示、夢などは、力を失った古代のアークのごときものと言えます。

ところで、ユングの言う無意識からのメッセージと言う捉え方は、アボリジニのそれとそっくりです。現代人には見えない無意識の深淵があるのかもしれませんし、そういう世界観もまた認められるところではあります。ヒラメキにも、何か重要な意味が隠れている場合があるのかもしれませんし、もっと抽象的な像で、何か心の居場所となるような空間を、提供するものであるかもしれません。しかしその場合でも、そのままにヒラメキをうけとることは、原始的な習性になびくことと同じであると思います。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 そうですね。
 むろんヒラメキ全般について考えてもらってけっこうなのですが どうも てふ_てふさんと言い あ_ほなさんと言い どちらかと言えばあまり効用のない場合のヒラメキをあつかっておられる。

 まづそのような印象が先に来ますね。
 つまり この問いの焦点は 次のようなことがらにあると言えばあります。
 ☆☆ (趣旨説明欄) 5‐1. ヒラメキを得てその指し示すコトを 受け容れるか拒むか これは 人間の側の意志行為だと考えられるが 果たして そのどちらをえらぶかは 人間の自由意志のよくするところだと言えるか?
 ☆ すなわち どうでもよい内容のヒラメキならば 捨てればよいという意味合いがすでにあります。

 焦点はさらにこの自由意志が ヒラメキの指し示すことをこばむ場合 いやだと言う場合 それは どういう事態なのか? ここにあると言えばあります。
 ☆☆ (趣旨説明欄) 5‐6. ヒラメキが帯びるところの・人に選択をうながすチカラのほうが 人間の自由意志による決定力よりも強い。のではないか?
 ☆ こういったところに関心があったのは 事実です。




 さて てふ_てふさんとだいたい同じ趣旨で 次のような種類のヒラメキを取り上げておられる。
 ★ ここで言われているヒラメキとは、夢見や白昼夢と同等のものか、規模の小さなそれだと思われます。
 ☆ 基本としてはわたしは それらは よく検討して有効活用するか さもなければ捨てればよい。こういう考えなのですが ひととおりおつき合いしてまいります。



 ★ おそらく原始の時代にはどの民俗も似たようなことで啓示を重視して居たでしょう。それが、人間の習性、未知のものに対する怖れと興味が為すわざなのでしょう。
 ☆ この見方考え方について コメントをはさむならば:
 すなわち アブラハムが《行け》と言われて行った。という夢物語をここで取り上げたのは すでに触れたように《有効活用》があればよい。という意味です。

 言いかえると 何も《神のお告げや 指示命令》を持ち出さなくても話は成り立ちます。つまり 自分の心の中で日頃何かとその現在の生活について 考えるところがあった。このまま生きていてよいか? わたしのこの世に生きることとしてのツトメは何だろう? と考えていたところ ひとつの解決として 場を変えよう・いまの場を移り去ろうと思いついた。これでもいいわけです。

 けれども ふつう自然科学者によくあるようによきヒントを得るのは 思索とは別のところでヒラメキとしてであるという事実もあります。それと同じように考えて不都合はない。こういう扱い方になっています。

 (アブラハムは 人生のツトメを考えていたところ その直接の答えではなく まづともかく場所を移動せよというヒラメキを得た。これは ヒラメキでしょう。こういうふうに捉えられます)。




 ★ その夢を象徴や啓示、或いは預言と捉えて分析する人もあるようです。
 ☆ 夢一般の問題ではないのです。直感あるいは直観(これは すでに考えとして世界観にまでいたるような内容を秘めている)とふつうに言われるようなヒラメキを取り上げ しかもそれを有効活用する場合を焦点としています。

 《預言と捉え》たなら それをどのように実際の生活や社会に活用するか。ここに集中します。そもそも夢=預言とは何か? という問いは 二の次です。有効活用がある場合(ありうる場合)を問うています。




 ★ アブラハムの様な、具体的な内容です。
 ☆ そのほかにも例を挙げよということですか。

 《サウロよ サウロ。なぜわたしを迫害するのか?》という声を のちにパウロと改名する男は ダマスコへ向かって街道を行くところで聞きました。それまで ユダヤイズムのキリスト派信徒たちへの弾圧に熱心であったこの男が その声を 突然聞いたという事態でした。その後かれにとっては有効活用が出来ました。




 ★ さて、そのヒラメキを実際の行為として踏襲するか否かですが、現代人ならばそれはそれとして踏襲しないでしょう。理性が働くからです。
 ☆ これは 納得が行きません。ひとつに 《どうでもよいもので 捨てるものがある》。ひとつに そんなことを言ったら 益川さんだったか小林さんだったかのアイディアは 風呂の中でヒラメキとして得たとかいう話までもを全面否定することになりますよ。《理性がはたらいて》そのヒラメキにしたがって理論づけたのですから。




 ★ 聖書では、啓示の通りにイサクを殺そうとしたアブラハムの話があったでしょうか。
 ☆ これは 神にいけにえとしてささげるためにころすという場合です。その必要がなかったという場合です。


 ほかにもいろいろ書いてありますが その志向性として 次の質問趣旨を無視しているのではないか? と考えられますが いかがでしょうか。 
 ☆☆ (趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~
  1. 霊感・インスピレーションに限ったヒラメキについて 問います。

  1‐1. 直感であり 直観です。イメージのようなものを得ることだと見ますが 後者は どちらかと言えば 概念をともなってすでに思考にもつながっているのかも分かりません。

  1‐2. イメージだけの直感にしても しかるべき良い内容のものは やがて概念をやはりともなってそこから直観へと自己を渡しすでに世界観となるような広がりを得ることになるかも分かりません。

  1‐3. おそらくこのときひとは おのれの《もっともわたくしなる〔ものの〕庭》にあって おのが《固有の時》の中にあそんでいるのではないか?――孤独であって孤独ではない。孤独関係という世界が開けた。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

お礼日時:2014/07/31 07:47

こんばんは ブラジュロンヌさん



>☆ このとき肝心なのは 《霊感が自分に通用するの》なら 《他人にも通用する》ように 運休することが合理的で妥当なことだという情況把握をしっかりとすればよい。そういう説明をもって説得すればよい。

予想どうりのご回答です。

私の感覚では 運休と云う行為により 世界は別のベクトルに進んだと思うのです。その場しのぎはできたと思います。
でも 個々の人々の生命に対する認識が変わらない限り 別の時空間で同じことが起こると思います。
もちろん 「そう感じるから」という 無根拠な感覚です。

まさに 霊感は迷宮なのです。考えても駄目です。
後に 歴史のように 結論だけが得られるのです。
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この回答へのお礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~
 私の感覚では 運休と云う行為により 世界は別のベクトルに進んだと思うのです。その場しのぎはできたと思います。
 でも 個々の人々の生命に対する認識が変わらない限り 別の時空間で同じことが起こると思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは 違うと思います。つまり 《その場しのぎ》が出来ればじゅうぶんです。ヒラメキの効用はあったのです。

 《個々の人々の生命に対する認識が変わらない限り》というのは 《別の時空間で》と捉えられているとおり 別の問題です。

 《生命観や人間観》が変わるかどうかは いまのヒラメキ論とは別です。

 あるいは 別としない場合というのは そのまさに生命理論や人間の境地についてヒラメキがあればよいという問題です。



 ★ まさに 霊感は迷宮なのです。考えても駄目です。
 ☆ 直前のあ_ほなさんとのやり取りでも出て来ましたが 要らないものは捨てればよいのです。どうでもよい内容のヒラメキは 要りません。


 ★★ (回答No.10) ブラジュロンヌさんがおっしゃるヒラメキは 十分に役に立っているので安心してください。
 ☆ これは ウソだったのですか?

お礼日時:2014/07/31 07:55

ひらめきは二つあり、一つは瞬間的に思いつくこと


もう一つは、理解することで知ること。

知り得たから、必ずしも行動に移すとは限らないのが
人間の選択意思であること。

複雑な論理的構造を持たないひらめきは、二者択一などの
場合が多く、えてして実行に移されやすい物が多い。

複雑な論理構造を持つ、新たなる理解としての知を得るのは
それまでの的確な知識の積み重ねと整合性を持つ物であり
それをどの場面でどのように使用するかの判断は
自身の選択に多いに委ねられている。

後者は、学術にも多く見られる。
例えば数学で有名なフェルマーが問題だけ出して相手を翻弄して
楽しむ場合などで、自分のひらめきをどう使うかは本人の意思である。

例えば憲法九条を、構造まで解析し抑止力が2種類あり
その法則性を展開し、明確にした物を日常で使えるレベルまで
説明でき、誰しもが容易に判断できるレベルまで咀嚼した物を
その質問の意図の怪しさが見え隠れしていると判断し
あえて上げないのも、また私の意思であると自分で言える。

そのような複雑なひらめきが、自己の中で生成されて行く様子が
みて取れただけでも、今の自分は良しとしてどう使うかは
ゆくゆく考えるものと言えるからである。

自己統一性で、ひらめきは変化するので
今以上から先のことは、どうひらめいて行くのか
自分でも不明であるので、またいつか変化が起きたら話をするかもしれません。

数ヶ月先か、数年後か。
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この回答へのお礼

 かんと‐i さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 ひらめきは二つあり、

  一つは瞬間的に思いつくこと
  もう一つは、理解することで知ること。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ええ。オソレ(畏れ)・ヒラメキとコギト(われ考える)・ヒラメキとです。


 ★ 知り得たから、必ずしも行動に移すとは限らないのが / 人間の選択意思であること。
 ☆ ええ。そういう問題を扱おうとしています。
 
 ただし 少し角度が違うかも知れないのは 《その知り得たこと》が あくまでここではヒラメキからのものだったという前提を置いていることです。

 言いかえると ヒラメキの持つ促しのチカラは かなり大きいのではないか。といった観点をめぐってです。(もっとも それでも――やましさ反応をともなってでも・つまりそれにさからってでも―― そのヒラメキから得た知識や指示をこばむことは出来る。というひとつの見方に帰着して来てはいます)。




 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 複雑な論理構造を持つ、新たなる理解としての知を得るのは
 それまでの的確な知識の積み重ねと整合性を持つ物であり
 それをどの場面でどのように使用するかの判断は
 自身の選択に多いに委ねられている。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 特に前半はそのおっしゃるとおりだと思うのですが こうなるとすでにヒラメキの場面から遠ざかってしまうのではないでしょうか?

 ここではヒラメキの持つ射程と言いますかそのチカラにしぼって考えようとはしています。




 つまり同じく
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 例えば憲法九条を、構造まで解析し抑止力が2種類あり
 その法則性を展開し、明確にした物を日常で使えるレベルまで
 説明でき、誰しもが容易に判断できるレベルまで咀嚼した物を
 その質問の意図の怪しさが見え隠れしていると判断し
 あえて上げないのも、また私の意思であると自分で言える。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ という問題は その発想じたいがヒラメキから得たものであったとしても 問題じたいはすでにヒラメキから ふつうの思考や意志判断の領域に移って来ているのではないでしょうか?
 (それはそれで 大きな主題であり問題であるのですが)。



 次のご説明は ちょっと考え直させられるようです。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 そのような複雑なひらめきが、自己の中で生成されて行く様子が
 みて取れただけでも、今の自分は良しとしてどう使うかは
 ゆくゆく考えるものと言えるからである。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ なるほど。発想はヒラメキであった。そしてそのヒラメキ案件が 問題に対する回答の仕方の場面に移ってもなおまだ そのヒラメキ発想をどう活用するかの点で からまっている。――ということでしょうかね。それは あり得るでしょうね。




 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
 自己統一性で、ひらめきは変化するので
 今以上から先のことは、どうひらめいて行くのか
 自分でも不明であるので、またいつか変化が起きたら話をするかもしれません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そういう現実問題と言いますか いろんなさまざまな要素が絡み合っている事態や情況についての考えは 基本としてヒラメキに限る。ただただ思考を延々と繰り広げていても ダメなときがある。・・・

 いわばヒラメキの継続性という主題をも取り上げておられましょうか。
 あまり考えたことはなかった問題ですが。(わたしなら 一たんヒラメキは切り上げるかも知れません)。

 あぁ。ということは 冒頭に二つ目のヒラメキとして:
 ★ もう一つは、理解することで知ること。
 ☆ というようにコギト・ヒラメキを挙げておられたのは 持続するヒラメキといった観点があったのでしょうか。

 そうですね。わたしは 断続的であってかまわない。という派ではありますが。

お礼日時:2014/07/31 10:34

お礼ありがとうございます。



瞬間的なひらめきも存在しますし
それが畏れであるなら、やるやらないの限定付きでしょうか?

私は「何をやる」「どれをやる」も存在しますし
「やらない」は、深めると別のことをやっているに
過ぎないと理解してます。

それは、質問では無いので割愛します。


断続的なひらめきですが、それもあると思います。
私も以前は、瞬間と断続しか持ってませんでした。

今回たまたま面白いなと思ったのは、意識的に思考しなくても
意識上に思考が上がってきて、それが見事な説明になっていること。
その上がってきた物を確認するのに思考は使いましたけどね。

なるほど、そこが繋がって論理として矛盾無く形成される訳ねって感じで。

抽象化されて、それが深い理解がないと現実化
つまり行動に及ぶ物では無く、机上の空論と化すではないですか。

抽象化から法則性のあるポイントが見つけられ
それをいかに活用できるか、ミクロからマクロまで
つまりは、個人から世界全体に至るまで
どの大きさでも使える繋がりのある理解が出てきた訳で
こんな長い一繋がりは始めてでしたので、私としては「ほ~~~」と思いました。

長い長い連続的な複数を有する理論構築が出てきて
少しずつ理解が深まっていくスピードが、以前では全く考えられないほどです。

それが通常のごく自然なひらめきとして有する人がどれだけいるのか
永らく名が残る人にどれだけ存在したかもわかりません。

頭の中では、どんな形で処理されているのかは記録が無いからですね。

感じるのは、演算処理のような形の後、意識上にあがる感覚と
その情報がパンチされてカタカタ出て来るほどに遅いということです(笑)
パンチと違うのは、繰り返し上がってくることと
情報が徐々に増えていき、全体像に繋がるところでした。

自己統一を目指して歩を進めているので
統一性が高まると、処理速度は上がると思うのですが。

自分を理解するのが、世の中をそして外の現象を理解することに繋がると
それが、人間が本来持っている力を引き出せるようになることであり
その時に人はどのような成長を遂げるのか。

私の興味は、そこでありますから
ひらめきに関しては、今のところ「変化するもの」ですね。
大きくは、2種類は2種類ですけどね。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 自分を理解するのが、世の中をそして外の現象を理解することに繋がると
 それが、人間が本来持っている力を引き出せるようになることであり
 その時に人はどのような成長を遂げるのか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この主題に注目しました。

 いまひとつの課題である《継続するコギトをもたらすようなヒラメキ》については もう少しご議論の熟すのを俟ちたいように思います。
 つまり
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 抽象化から法則性のあるポイントが見つけられ
 それをいかに活用できるか、ミクロからマクロまで
 つまりは、個人から世界全体に至るまで
 どの大きさでも使える繋がりのある理解が出てきた訳で
 ・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ とおっしゃるのは まだわたしには思考の継続であるようには思います。言いかえると ヒラメキはやはりその思考過程の節々に断続的に起こることはあってもという捉え方です。
 
 もっとくわしい説明を聞いて納得するに至るかも分かりませんが。



 そこで 言ってみれば《固有時における〈わたし〉》といったテーマです。すなわち:
 ☆☆ (趣旨説明欄) 1‐3. おそらくこのときひとは おのれの《もっともわたくしなる〔ものの〕庭》にあって おのが《固有の時》の中にあそんでいるのではないか?――孤独であって孤独ではない。孤独関係という世界が開けた。
 ☆ これは 舌足らずだったと思います。

 こうなります。:

  ひとは孤独である。と思う。独り生まれて来て 独りで生き
 そして死んでゆく。

  この孤独に沈んだように身をおいてみると やがてそこから
 やや浮かび上がって来るかのように この孤独は 人と人との
 あいだなる孤独の関係なのだと知る。

  そこに・つまり社会にある自分という自覚に おのれの《も
 っともわたくしなるもの》に行き着き あたかもそこにおのれ
 の《庭》を見出したかに思う。

  ここからただちに いつもヒラメキが得られるわけではない。
 そうではなくて この庭におのれがあそぶとき 固有の時を持
 ったと思うのではないだろうか。

  そうしておそらく 良きヒラメキが得られるならそれは こ
 の庭にあってではないであろうか。


 こういう捉え方についても じつは主題として持ってはいました。きちんと説明し得ておらず また焦点としても伝え得ていないと思いますが。

 かんと‐i さんは 別の表現で捉えておられます。ふたたびですが:
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 自分を理解するのが、世の中をそして外の現象を理解することに繋がると
 それが、人間が本来持っている力を引き出せるようになることであり
 その時に人はどのような成長を遂げるのか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 要するに《本来持っているチカラ》という場合には 《われに還る》ときであり《わたしがわたしである》庭にあってのことではないか。というこちら側の解釈になります。

 その時成長を遂げるには そこで得られるヒラメキが大いに役立ってくるのではないか。とも考えます。一丁目一番地みたいな庭でしょうか。



 ★ 私の興味は、そこでありますから / ひらめきに関しては、今のところ「変化するもの」ですね。
 ☆ 《関係しあった内容のヒラメキが 断続的にだとしても つづいて得られる》ような経験でしょうか?

 ヒラメキ A から A1へ そして A2へと《変化する》ということでしょうか?

 しょうじきに言えば わたしはあまりそういう経験はないですね。ひとつのヒラメキは その一個として言わば完結している。というように体験して来ています。

 むかしのヒラメキと同じような内容の別のヒラメキを持ったという場合が あるか?
 いまのところ 分かりません。
 
 どうですかね。いまのところは思考の発展過程ではないかというようにわたしには見えています。みなさんにも ご見解をつのりましょうか。
  

お礼日時:2014/07/31 12:19

お礼ありがとうございます。



> ☆ とおっしゃるのは まだわたしには思考の継続であるようには思います。言いかえると ヒラメキはやはりその思考過程の節々に断続的に起こることはあってもという捉え方です。

思考しないで湧き上がってくる物を眺めているのは
個人的には思考と言えないと判断しています。

今までは断続の短い完結が、超ロング型に移行したような。
それが、常なのかそうでも無いのか。
継続的観察を要しますね。

ただ、理解のひらめき回数は上がっていますね。
繋がりがあれば長く出て、短く完結する物は終わるとは思いますが。

影響し合う物が、どこまで続くかです。
私の必要性に関係するのかもしれません。

あらゆることは、想定できますが
あるがまま観察して、結果はそれにより絞られてくると思います。

ひらめき結果は、またいつか。
では、失礼します。
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この回答へのお礼

 つづいてのご回答をありがとうございます。


 そうですね。もし:
 ★ 影響し合う物が、どこまで続くかです。 / 私の必要性に関係するのかもしれません。
 ☆ ここに注目するとしますと わたしの推測では その主題に関係するかも知れないのではないか。

 主題の性格として いろんな角度から眺めてその問題点ないし答えの核心部分を捉えるという場合 そのようにさまざまな視点ごとの回答が出て来るかも知れないかなと。


 ただわたしは そのつどのヒラメキは 一回ごとにやはり完結しているのではないかとは感じています。



 ★ 思考しないで湧き上がってくる物を眺めているのは / 個人的には思考と言えないと判断しています。
 ☆ という捉え方であるようですが そのまま同じことをわたしは《思考しないでいる状態》で区切られている・隔てられていると見ると思います。主題の内容はつながっているとしてもです。ヒラメキは そのつど一回ごとに起きるものだと。


 

 まぁ 大きく広いそして長期の観点から捉えるなら 連続しているということかも知れないですかね。
 保留としても そう問題はないと思います。

 またどうぞ。ありがとうございました。

お礼日時:2014/07/31 15:00

こんにちは ブラジェロンヌさん



>☆ これは 違うと思います。つまり 《その場しのぎ》が出来ればじゅうぶんです。ヒラメキの効用はあったのです。

たぶん 私が答えた内容が伝わっていません。

生命に対する認識 すなわち 自由意志によって その人の感情が変わらない限り その人の災難は同じように 同じ時間に別の空間で起こるということです。
だから その場しのぎであり 災難が別の場所でその人に起こるので 状況は変わらないという意味です。

>☆ 直前のあ_ほなさんとのやり取りでも出て来ましたが 要らないものは捨てればよいのです。どうでもよい内容のヒラメキは 要りません。

まあ 自分だけは災難から逃れているので 捨てる必要はないと思います。
霊感は他言無用ということでしょう。余計なお世話でした。

結論として 論理的内容がない他人の霊感は捨てた方がよいということですか?
お伽噺の宗教本は捨てろですか?
世界中の教祖も他言無用だったら 平和だったのでしょうか?
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。こんばんは。



 ( a )★ その人の災難は同じように 同じ時間に別の空間で起こるということです。
 ( b )★ だから その場しのぎであり 災難が別の場所でその人に起こるので 状況は変わらないという意味です。
 ☆ ( a )と( b )とは 両立し得ません。
 ( a )なら 別の人の・その人に固有の時におけるヒラメキが 問題となります。その場しのぎのためにです。

 ( b )なら 別の時間においてでしょうから その同じ人の別のヒラメキが 問題となります。それだけの話になるのではありませんか?



 ★ まあ 自分だけは災難から逃れているので 捨てる必要はないと思います。
 ☆ てふ_てふさん 論理が入り乱れていますよ。

 《災難から逃れているの》なら 要らないヒラメキではなく活用したことになります。捨てる・捨てないの前に すでに活かされています。役に立っています。

 
 ★ 霊感は他言無用ということでしょう。余計なお世話でした。
 ☆ いや。何にも決めていません。要るか要らないか。役に立て得るかどうか。自分のヒラメキにしろ他人のヒラメキにしろ そのように判断して決めればよいだけです。


 ★ 結論として 論理的内容がない他人の霊感は捨てた方がよいということですか?
 ☆ 有効活用し得るかどうかです。論理がなくても 活かすことができる場合もあります。


 ★ お伽噺の宗教本は捨てろですか?
 ☆ (あ) シュウキョウは 基本がオシエです。
 (い) オシエは それとして倫理でありその規範であり 一般に哲学の範疇に入ります。したがって哲学として 扱い考え処理すればよいでしょう。

 (う) 問題は そのオシエを信じなさいと言って来る場合です。考える対象をどうして信じることが出来るのか? 無理難題を要求しています。つまり そのシュウキョウ人は 阿呆です。考えるは思考 信じるは非思考です。
 (え) そのように言ってやることが肝心です。

 (お) 信じると言えば 昔からつまり生まれたときから わが非思考の庭には とうといいのちのチカラとしてブッダターがやどっている。これを わたしは信じている。と言ってやってください。
 (か) 信じることは 組織や集団でやることではない。とも言ってやってください。それでは せいのっという掛け声とともに一斉にみんなそろって これこれの神を信じましょう・・・などというバカがいたら あざけりわらってやるしかないと思います。

 (き) ヒラメキや物語が有効であるかどうかは それがおとぎ話であるかどうかでは決まりません。世の中のちょっとしたことにも 神からのメールが潜んでいるかも知れないからです。ごきぶりか何かの動作にも 神のちからが あらわれているかも知れません。
 (く) 要るか要らないかで 捨てるかどうかを判断してください。捨てたあとに 必要だと思いなおしたら 拾えるものなら拾い上げればよいでしょう。

 (け) すべては 臨機応変に!



 ★ 世界中の教祖も他言無用だったら 平和だったのでしょうか?
 ☆ (こ) 前段の諸項で触れたとおり シュウキョウというシュウキョウは 阿呆という土台の上に建てられています。神が分かっていない。

 (さ) 観念の神を後生大事に信じ込んでいる。神についても信じるについても 自分の人間としての物差しで判断し切ることが出来て すべてをあやつれるとでも思っています。

 (し) ローマ法王などは 神のこの地上における代理人であると考えられています。どこをどうクリックしたら そんなページが出て来るのか????? 代理人だから 無謬性を帯びているとさえ言います。《まちがえることがありえない》のだそうです。ガリレオのひとりや二人を腐らせてもどうってことないと思っている。阿呆の極致です。

 (す) 《教祖》は 人間ではありません。人間への支配欲によってみづからが支配され 金儲けのために日夜いそしんでいる動物です。

 (せ) でもそれでも 人間として生まれて来ているのでしょうから 何とか人間としての目をひらかせてやらねばなりません。その前には ほろびなさいと言ってやるとよいでしょう。ふるい人がほろびて やっとあたらしい人に生まれ変わることが出来るものだからです。

 (そ) だけれど だまされるのは だまされるほうがわるい。すくなくとも二度目からは。

 (た) シュウキョウは 百害あって一利なしです。どうでしょう?

お礼日時:2014/07/31 17:48

幻影についてだよ。


読んだかどうか、憶えているかどうか判らんがね。
借金取りは命までは取らない。
何故なら死は究極の夜逃げだ。
生かしたまま取り立てる。
したがって君たちの将来に予想される生活の危機は幻だ。

滅びるってのは、こんな死の予感だよ。
死について自分で解決していないんだよ。
あんたも今でもそうだよ。
だから無理心中に巻き込まれると言ったんだ。
君を憐れんで慈悲を表そう。
幻の死に踊るな。
幻影だ。
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この回答へのお礼

 一理あるなぁ。

 ご回答をありがとうございます。


 ★ 死について自分で解決していないんだよ。 / あんたも今でもそうだよ。
 ★ 幻の死に踊るな。 / 幻影だ。
 ☆ これらのあたり。


 確かに《死》について《解決》はしていないよなぁ。特にこだわることがなくなっている。また その意識があらわれるなら よく使う。思いや振る舞いにあたって よく用いる。

 《まぼろしの死》に人びとは《踊っている》ことがあるように思う。

 それならむしろ死におびえているほうが 実存としてふさわしい。


 ただ 死の意識は まぼろしではないよ。現実だよ。

 《生活の危機》もあるだろうけれど 自分が突然消えるということの意識。これは まぼろしではないと思う。

 そして 誰も自分で最終的に解決したという者はいないと思う。


 だけれど 《無理心中》やそれ《に巻き込まれる》というのは むしろまぼろしに近い。

 その意味は 現実にそういうことが起こるかも知れないけれど それは 意識がまぼろしでない分だけ 現実的なのであって しょせん意識の問題である。意識だけの問題。意識までの問題。だと思う。

 こんな感じになったけれど。・・・

お礼日時:2014/07/31 22:52

17のお礼について、親切でも厳しい事を言ってやろう。


君はやはり死を自らが解決していない。
自称弥勒菩薩から言っておこう。
そんなんじゃ仏陀を名乗るな。
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この回答へのお礼

 不死身になれってこと?

 必要あるかなぁ。


 ブッダを名乗るのは さとりをすでに――むしろ誰もが生まれつき自然の本性にあって――得ているという意味。


 ご回答をありがとう。

お礼日時:2014/07/31 23:00

ちょっとはげましとくよ。


どっかで斜め読みしたんだが、あんたは独身で子供もいないんだってね。
そして、いつ御迎えが来てもおかしくない年齢だ。
いやそんなあんたが、自分自身の人生を楽しんでいるのは、円熟そのものだろうさ。
でもそれが「生きる屍」と同じ滅びゆくものなのだよ。
哲学者として死に挑戦してみろ。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ 哲学者として死に挑戦してみろ。
 ☆ だから もう挑戦し終わっています。

 どのように? 

 《死に行く身と心とは すでにふるきわれとして死んだ》かたちにおいて。

お礼日時:2014/07/31 23:24

18のお礼読んだよ。


おじいちゃん。
あんたは年下の俺の弟子か。
実在する妖精の捕まえ方を伝授した直弟子はもはや皆殺しだ。
やはり滅びの宴だ。
私に判る事が、いまだにあんたにも判っていない。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ 私に判る事が、いまだにあんたにも判っていない。
 ☆ それは何だろう? と考えるのだから 確かに分かっていない。



 ★ やはり滅びの宴だ。
 ☆ ですから 《ほろび》は あくまで《ふるきわれの死》として起きる事件です。


 師匠にさえならなければ 弟子でも何でもいいよ。ただし 自由を留保している。

お礼日時:2014/07/31 23:27

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