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 《ひらめき》とは そこで何が起こるコトか?

 1. 霊感・インスピレーションに限ったヒラメキについて 問います。

  1‐1. 直感であり 直観です。イメージのようなものを得ることだと見ますが 後者は どちらかと言えば 概念をともなってすでに思考にもつながっているのかも分かりません。

  1‐2. イメージだけの直感にしても しかるべき良い内容のものは やがて概念をやはりともなってそこから直観へと自己を渡しすでに世界観となるような広がりを得ることになるかも分かりません。

  1‐3. おそらくこのときひとは おのれの《もっともわたくしなる庭》にあって おのが《固有の時》の中にあそんでいるのではないか?――孤独であって孤独ではない。孤独関係という世界が開けた。

 2. これは――いま突飛なことへ思いが飛躍したままを言うのですが―― 量子相互作用なるユラギが 決してそれを認識しうることは出来ないところで起きているゆえなのか?
 (この問いは あそびです)。



 3. さてその昔 アブラハムなる男は 《父祖の土地を去って行け》というヒラメキを得て そのとおりに――どこへ向かうのかも分からずに――出かけたと言います。七十五歳にもなって。
 
  3‐1. それは この地上における人間の生は 謂わば――精神の遍歴とも見られるような――巡礼の旅であるということが示されたのだと捉えられています。定住の生活においても そうだという意味だそうです。

 4. そこで このとき起こったことは 次だと思われる。
 
  4‐1. ヒラメキは おのれに分からないところからやって来る。夜中に盗人が襲うかのごとく。

  4‐2. そのヒラメキを受け取りその中身を読み取って その指し示すところに従うのは 人間としてのおのれの成す意志行為である。

  4‐3. すなわちこの《ヒラメキを受け容れた》というのは――それを《非思考において信じた》と言ってもよいと思われるのだけれど―― 最後の段階には 人間の意志行為が伴なわれており これはじつはすでに経験思考にもとづく経験行為である。

  4‐4. ヒラメキを得て そこに《〈伝統〉を去り行く》という言葉による表現を得るなら すでに思考をおこなっており その思考の結果 取るか捨てるかの意志決定がおこなわれている。

  4‐5. この意志決定において《行く》か《行かない》か いづれをえらぶかは 人間の自由意志による自由な――あるいはおのれの心の恣にする自由な――行為である。と言えるか?



 5. あらためて 問いはこうです。

  5‐1. ヒラメキを得てその指し示すコトを 受け容れるか拒むか これは 人間の側の意志行為だと考えられるが 果たして そのどちらをえらぶかは 人間の自由意志のよくするところだと言えるか?

  5‐2. 言いかえると 《行く》をえらぶ場合も《行かない》と決める場合も すべて《わたし》の自由裁量に任せられているか?

  5‐3. 言いかえると ヒラメキの指し示す行為を人間がどう受け容れるかは むしろヒラメキの側においてすでに決まっている。という見方も出て来るのではないか?

  5‐4. あるいはその決まっていることは 人によってそれぞれである。だろうか?

  5‐5. いえいえ まだまだ舌足らずです。《わたし》が《行く》をえらぼうと思ったとしたら それは ただただわたしの自由意志による選択行為だとのみ言えるものか?

  5‐6. ヒラメキが帯びるところの・人に選択をうながすチカラのほうが 人間の自由意志による決定力よりも強い。のではないか?



 6. あらためて 問いはこうです。わたしの自由意志は ヒラメキのちからに勝てない。のではないか?

  6‐1.  あるいはつまり もともとわが自由意志なる心の声であるがゆえに ヒラメキが起きる。のだろうか?

  6-2. 直感と直観とを分けたところで イメージ・ヒラメキと思考・ヒラメキとを捉えましたが これをさらに オソレ(畏れ)・ヒラメキとコギト・ヒラメキというふうに言いかえると 分かりやすいかも知れません。コギト・ヒラメキには 自由度が残されている。オソレ・ヒラメキにはひとはあらがうスベはない。か?



 暑い中に思索をお願いするわけですが 思うぞんぶん飛躍をもたのしみつつご回答をお寄せください。

A 回答 (22件中21~22件)

ははは。

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こんにちは。




☆5‐1. ヒラメキを得てその指し示すコトを 受け容れるか拒むか これは 人間の側の意志行為だと考えられるが 果たして そのどちらをえらぶかは 人間の自由意志のよくするところだと言えるか?
◇ん~っ。
理性の声を聞くならば一つに決まっている、となるのかなぁ~、
と一瞬思ったのですが、
まず、ここで問題になるのが、
そのヒラメキを人間の理性が理解できるのか、理解できないまでもそれを納得できるのか、ですよね。
もし、理解できないまでも納得できるのならば、取るべき道は一つに決まっている、となるはず。

ただ、決まっているからといって、人間がその選択を実際にするか、というと、
これはまた別の話になるのでしょう。
この選択は確かに正しいのだけれども、
自分に不利益をもたらす、
と、
理性や悟性が計算の結果こうした結論をはじき出した場合、
それでもなお、人は正しいと思われる、感じられる方を選択をするのか。

多分しない。
我が身は可愛いですから。
何だか分からない内なる声とともに心中するような真似はしないはず。
ソクラテスやイエスのような選択はしない、と思います。



☆5‐2. 言いかえると 《行く》をえらぶ場合も《行かない》と決める場合も すべて《わたし》の自由裁量に任せられているか?
◇上で述べた意味において、自由裁量に任されている、といえるのかと思います。


☆5‐3. 言いかえると ヒラメキの指し示す行為を人間がどう受け容れるかは むしろヒラメキの側においてすでに決まっている。という見方も出て来るのではないか?
◇したがって、NOです。
取るべき選択は知っているけれど、それを選択するかどうかまでは、決まっていない。


☆5‐5. いえいえ まだまだ舌足らずです。《わたし》が《行く》をえらぼうと思ったとしたら それは ただただわたしの自由意志による選択行為だとのみ言えるものか?
◇《自由意志》の選択かと尋ねられると、「んっ~」となってしまいます。
その判断には、既に、様々な制限や制約が加わっていますので。
数ある選択肢の中から選ぶことができるという意味で「自由」というのならば、
また、選択の際に、他者からの強制がないという意味でならば、
まぁ、自由意志の選択となるのでしょうが。



☆わたしの自由意志は ヒラメキのちからに勝てない。のではないか?
◇上で述べた意味で自由意志というのならば、
自由意志は、ヒラメキのチカラに勝つことができるのではなかろうかと。
《やましさ》、《後ろめたさ》は感じるでしょうけれども。


☆あるいはつまり もともとわが自由意志なる心の声であるがゆえに ヒラメキが起きる。のだろうか?
◇これもNOです。
わたしの考えでは、
ヒラメキの方が自由意志よりも自由度は大きい、
です。


☆6-2. 直感と直観とを分けたところで イメージ・ヒラメキと思考・ヒラメキとを捉えましたが これをさらに オソレ(畏れ)・ヒラメキとコギト・ヒラメキというふうに言いかえると 分かりやすいかも知れません。コギト・ヒラメキには 自由度が残されている。オソレ・ヒラメキにはひとはあらがうスベはない。か?
◇抗うことができる。
抗う自由も我々にはある、と考えます。
抗うことはイケナイことなのかもしれませんが・・・。



こんなところですかね。
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この回答へのお礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。


 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 この選択は確かに正しいのだけれども、
 自分に不利益をもたらす、
 と、
 理性や悟性が計算の結果こうした結論をはじき出した場合、
 それでもなお、人は正しいと思われる、感じられる方を選択をするのか。

 多分しない。
 我が身は可愛いですから。
 何だか分からない内なる声とともに心中するような真似はしないはず。
 ソクラテスやイエスのような選択はしない、と思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 自由意志の自由度は つよい。勝てる。 
 あるいはつまり 人間にとって合理性は 強く大きな物差しとなってあたまの中に埋め込まれている。
 ――こういうことでしょうか?

 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  自由意志は、ヒラメキのチカラに勝つことができるのではなかろうかと。
 《やましさ》、《後ろめたさ》は感じるでしょうけれども。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 すなわち
 ◇ わたしの考えでは、 / ヒラメキの方が自由意志よりも自由度は大きい、/ です。
 ☆ けれども あとに起きる意志の自由な選択行為のほうに 現実の振る舞いについての決定権がある。ですね。


 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   ・・・オソレ・ヒラメキにはひとはあらがうスベはない。か?

  ◇ 抗うことができる。
  抗う自由も我々にはある、と考えます。
  抗うことはイケナイことなのかもしれませんが・・・。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ですね。


 ちなみにもうひとつ。
 もしコギト・ヒラメキが 数学や物理学やのあたらしい理論の発見であった場合 それの選択には自由度があるので それが主観においてただしいと思ってもそれをこばむ・捨てるという選択はありですか?

 外からの社会的な圧力が何もない場合 よきヒラメキを捨てるという選択はありますか?
 捨てる必要などは何もない〔ゆえに 捨てない〕となりますか?


 片や 《行け》というヒラメキに従うのをこばみ 片や 科学的発見なるヒラメキは拒まない。この違いは 何ですか?
 
 前者をこばむのは
 ◇ この選択は確かに正しいのだけれども、自分に不利益をもたらす、
 ☆ と見るゆえでしょうか。

 ということは こうなりますか? 
 《外からの社会的圧力》と言いましたが これに対するにけっきょく自然科学における真理(主観真実の共同)についてのヒラメキは 人をして勇気を出さしめることがあるが そうではなく社会科学的なヒラメキについては 一般にその圧力に対抗するには人びとは億劫であると。

 それとも 社会科学としてのヒラメキは 主観共同化が 普遍的には成り難い。でしょうか? マルクスが真理をになったとは言い難い。

お礼日時:2014/07/28 15:22

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