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仏教のお釈迦様の教えでは、嫌われることは良くないと言われているのでしょうか?
また、嫌われないように、周りに不快を与えないように、努力することから逃げていることは、良くない生き方でしょうか?

私は、仕事場で嫌われています。思い当たることは幾つか有ります。
会話に参加しようとしない、声が小さい、人とあまり関わりたくないので、お礼を簡潔に言う、行動時間をずらす等をする、おどおどして見える、心を開けない等です。
雑談をほぼ話しません。
努力し直すようにすれば、変われるかもしれませんが、勇気が無くできておりません。
変われない理由は、嫌いな人が多い、嫌われて傷ついた自分がかわいそうに思う、プライドや相手への怒りなどがあると思います。
心の中では、嫌われても仕方ないと思う反面、自分の陰口を言っているのが耳にはいると、不愉快になります。

ですが、生き方としてお釈迦様が良くないと言われていなければ、このままでいれば勇気を出して傷つかなくてすみます。
以前、変わろうとしてもうまくいかず、会社の人に、おどおどするなと言われたことがあったり、周りへの怒りがあったりと、過去を気にしている部分もあります。

こんな過ごし方に疑問を持ちつつ、悩んでいます。

A 回答 (11件中1~10件)

性格は変わらないという意見がありますが、変わるという意見のほうが圧倒的に多いです。



『心が変われば、態度が変わる。
態度が変われば、行動が変わる。
行動が変われば、習慣が変わる。
習慣が変われば、人格が変わる。
人格が変われば、運命が変わる。
運命が変われば、人生が変わる』

啓蒙的なテーマにおいてさまざまなところで見かけるこの考え方、これは、もともとヒンズー教の教えだそうです。(たとえば認知行動療法の原理はこれだと思います。)
最後の「人生が変わる」を経てさらに高次の段階で冒頭の「心が変われば」に戻り、このローテーションを繰り返すのだというのは私の思いですが、自分が変わりたい!と思う人も、人は変われないと考える人も、「心が変われば」から「人生が変わる」地点へと端的に飛ぶから、いやそんなの不可能だと思うのではないでしょうか。
その過程の態度や行動や習慣があってのことですが、人は自分が身に付けたそれらを手放すことに違和感を感じるから変わりづらいのだそうですが、この段階を経るように、小さなレベルのことから何かを変えていけばよいのではないでしょうか。

悪い習慣(人生)も、気が付いたらそうなっていたものです。
それには必ず原因があります。その原因を一度考えてみてはいかがでしょうか。

人は集団に属する欲求である「群居」という本能があるそうですし、実際、誰もが一人では生きることができないため、孤独につながる「嫌われる」感情は持たれたくないというのもまた仕方ないことです。また人は「自我」や「個性」を認めてほしいという社会的な欲求もありますので、嫌われることを恐れるというのは当然のことです。

それでも多くの人が嫌われてもいいではないかと言いますが、たった一人からも嫌われたくないというのが、本音でありそれが人情なのだと思います。とはいえ、すべての人に好かれている人などいませんし、もしいたとしたら、その人は自分を好きだと言ってくれる人のための自分でいることが条件ということになります。つまり「自分がまったく存在しない」状態です。

嫌われるリスクを恐れて不特定多数に迎合していく代わりに孤立を免れますが、代わりに自分を失っていくのなら、私は後者を選びますし、そうしてきました(当然つらい目にもあいました)。

日本人は集団で行動することに傾き、集団が決めるものに従い、従わせるという集団心理、同調圧力があります。いいように言えば「和」や「協調性」という言葉ですが、個性化を阻むのならそれは悪いことです。日本人の幼さや依存性もここからきていると思います)。
特に組織化された会社などはこの集団心理が露骨にでます。そのため、誰もが会社では「いかに自分を消すか」と必要以上に腐心しています。

とはいえ、私も嫌われていることを人一倍恐れている一人ですが、今はあまり気にならなくなりました。なぜならば考え方を変えたからです。
それは自分を大切にしていなかったという気づきから始まりました。
嫌われることを恐れて自分を完全に失えば、一人の人間の自我や自己、自由や権利が奪われたも同じです。それはもともとなかったということになります。それは誰かに嫌われる以上につらいことだと気づいたからです。

自分を偽っている「お仕着せ」のような自分ですと、人からは嫌われないかもしれないが、その分確実に自分で自分を嫌っていきます。自分も「人のうち」ですから、「その人」からも嫌われているということになります。自分で自分を嫌うのは、人から嫌われることよりも危険です。

また、嫌われるのを恐れるがあまり、主張すべきところでできず、本音で話すべきところで言えなかった自分が残ります。その感情は抑圧され、悔しさだけが残ります。そしてそういう自分が増えれば増えるほど、本当の自分というものから離れていきます。これも私の経験からです。

どう考えてもあなたが悪くないのなら、今いる場所や周りの環境が悪いのかもしれません。
同様、自分がどこに行っても嫌われるのなら、世界や時代が合わなかっただけかもしれません。
でも、自分が正しいと思ったことを主張するだけはやめないでください。それはあなたの権利ですから、権利を駆使しないと必ず後悔します。好悪の問題以前のことです。
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嫌われてもよいですよ。



周囲に迷惑かける人はよろしくないが、ただなんとなく嫌われる人というのはある種の個性です。

嫌われても構わないのですが、それが(=嫌われるのが)つらいなら、職場を変えることを考えましょう。

対人関係の少ない職場がお勧めです。

酪農や林業などは、動物や植物を相手にする時間が長く、言葉を話さない動物や植物に囲まれている時間が多い分だけ、嫌われる、陰口をたたかれる可能性が減るでしょう。

対人関係がストレスになる人は、対人関係の少ない職場・居場所に移動することです。
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 人の性格の根本は変えられないと思いますが、表面的には多少変えられます。



 smiさんの“変わりたい”との思いと“変わりたくない”との思いの混合は欠点を直したい欲求と、今の自分を愛おしむ気持ちの表れで、自身を能く見つめる性格の人である事が分かります。

 この自身を愛おしむ気持ちを持ちつつ、やりやすいことから“変える”努力を試み続けることが肝心です。
 結果を急がない。願望は気長に。
 そんな生き方をしてほしいとお釈迦様は思い、そして見守ってくれるはずです。

 無理をすることはありませんが、諦めてもいけません。
 継続が力と成ります。
 
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こんばんは、smi6011さん。





「転ばぬ先の杖」
「石橋を叩いて渡る」

「備えあれば憂いなし」




そりゃあわたしの不用意で不愉快なのは嫌だから、
雨が降ると言われれば傘を用意するし試験の前日は徹夜するし、
それに繰り返し不愉快なのは嫌だから、次からは気を付けるけれど、


転んで血や涙を流すのが嫌だからといって、
杖を無限大に用意するのは不可能だし、
どれだけ杖があっても一生転ばないわけでもないし、
そもそも大量の杖を用意するために生きているのではない。

どれだけ注意して己を浄化したり飾り立てたりしても
誰からも嫌われずに生きるのは無理。自分とは別の人ばかりだから。
あなたが「嫌われている」と言いつつ「怒りを感じる」と言っている通り。
指摘されたら反省して改善し、自分にとって最高の自分をすればよく、
人に好かれるために生きているのではない。


目的と手段を区別されたし。


適度に杖を用意して、それで転んだ時は絆創膏を貼ったらいいし、
急所を突かれる以外は、たいていのことは掠り傷で、
ひどくても縫合したりギプスで固定したりして休めば癒えます。


でも誰かと一緒に何かを成功させるのは気持ちがいいですよ。
だから合唱や球技などは人と呼吸が合うように練習するのだと思います。



あなたが満足できるように、あなたがあなたをしたらよろしい。

 
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こんにちは(╹◡╹)


お釈迦さんも多くの人に嫌われてたと思いますので、気になさならいのが一番かと

神様も多くの人間に嫌われています(まあお釈迦さんの立場では、そんなのいないとなるのかもしれませんが)

神などいないという人には、存在さえ否定されてますし、自分の人生が上手くいかない人にも嫌われています

どんな高みに言っても絶対誰かには嫌われます


また質問者さんを嫌っている人間に「変われ」と言っても絶対に変わりませんし、逆に相手に合わせて変わる必要も無い気もします

人間は皆自分勝手で人には「変われ」といいますが、自分が「変われ」と言われると怒り反発します

物凄い仕事に支障が出るとかはまずい気がしますが、陰口程度なら気になさらないのが良いと思います
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自分のことを好きになってくれる伴侶はまだ居ないのでしょうか。

そのような人がいたら、そのような気持ちにならなくなります。読んでいて気になるのは仕事はコミュニケーションが上手くやれないと良い結果もでないのです。

私が管理職のときには貴方のような人は見ていると分るので声をかけて、みんなと打ち解けるように周りの者に言って聞かせました。人にはいろいろな性格があるので努力しても直せないものがあります。会社側から見るとしっかりと仕事をしてもらいたいので放置していてはいけないのです。上司が信頼できる人間ならは相談してみることです。

むずかしいならば職場を変わることも必要です。鬱病になったら大変です。会社の中で何人もの鬱病患者を見てきました。なかなか治らない難病です。気をつけてください。
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お釈迦様は“嫌われる事は良くない”とは言ってないように思うのですが。



sum さんの質問文からはご自身の気持ちが良く表現されていて、自身を見つめる心の「正しさ」が伝わってきます。

これは長所なので大事にしてください。
明日(金曜日)に私の感想を、少し述べられるかもしれません。

自分を長い目で見てあげて下さい。
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ケチな奴ほど、他人の事をケチと責めるものだ。


自らを正しうしていれば、それでも悪く言う奴は、
自ら「自分は悪い奴だ」と名乗っている事だ。
言葉のうわべに拘泥せず、その奥の、その人に
その言葉を吐かしめた心情、その心情を育んだ
環境にまで耳を傾けよ。
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自分のために、自分は何をしてあげられるか。


だと思います。

それは素直に自分の心に従えば、いいんだと思います。
本当はやった方がいい事は、自分が知っています。

「やりたくない」が足を引っ張るなら
まずはそこから手をつけてくれと言っているのです。


お釈迦様は、どこがどのようになっていて、問題はどこにあるか
どこに進めばいいかを示すことで、自分で自分を救う事を説いていると思います。
何が良くないかと言うより、なにをやったらいいかという事です。

自分が自分にやってあげることで、自分が救われること。
それが人の幸せに繋がるからです。
本人も周りにとっても。
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N1の回答者はこのカテゴリーで有名な説教オジジだ。


彼は人気がある。
手伝ってやるとすると、「自分自身の心の声に耳を傾けよ」これをアートマンと言ってるんだよ。
そしてお釈迦様の哲学では、無我である自らには心すらないと教えているのだよ。
彼はそう言う主張だ。
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