
漠然とした問いです。必ずしも焦点がさだまらないかも分かりませんが 問いとしてはむしろはっきりしているとも考えます。要るか要らないかですから。
哲学カテで問うているというのが ただひとつの前提でしょうか。
という出で立ちで 思うところを述べてみてくださいますか?
むろん なぜそう考えるかをお聞きしたい。
そうして主題を伸ばして行ければというコンタンです。
たとえば 『聖書』とそしてクリスチアニズム(特にはそのオシエ)との違いがすでにあります。
教会など坊主の関与する世界とそうではない世界との違いもあります。
あるいは あなたはこの書物をどう位置づけていますか? といった問いにもなるかと考えます。
よろしくどうぞ。
No.18ベストアンサー
- 回答日時:
バトルをちょっと眺めてみたよ。
あんたのもの言いは、そろばんではじいた様な以前の言い回しと違って、最近は心の潤いがある。
相手をいやす潤いでもある。
以前の瞬間湯沸かし器は、あんたの一人よがりだったが、当時そんな事を言えば沸騰どころか爆発していただろうな。
日蓮はあんたの反省でもあるのかもしれないな。
ご回答をありがとうございます。
そのままをありがたく受け留めていくのがよいのでしょう。
ただそれでは先行きに遅れた形で いやじつはこうこうであったとコトワリを入れなければならなくなる・そういうおそれがあるとすれば ひとこと 次のように言わば台所事情についてしるしておきます。
まだまだ 世の中の状態についての怒りはむしろ高まって来ているということです。
にゅうとらるという方が提起してわたしが自分の方式で引き継いだ主題として この《怒り》があります。あなたも参加しています。
○ 【Q:《〈怒り〉をめぐるにゅうとらるの定理》】
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8717498.html
○(趣旨説明欄) (あ) 《怒り》は その当の出来事に遭って まづとにもかくにも自分を元気づけるチカラの現われではないか。むしろ瞬間的な心的現象である。
☆ このように怒りは 根に持たない。《瞬間湯沸かし器》であり むしろそうでなくてはならない。そのあと:
○ ~~~~~~~~~~~~~~~
(い) そのとき怒り以外にともなわれる感情をあたかも鼓舞するかのように現われるチカラなのではないか。
すなわち 悲しみをかみしめるということにだって ある種の怒りのような元気づけのチカラが作用しているのではあるまいか。
~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ というようなそのあとの経過になると思われます。
怒りを根に持つ場合には 恨み辛みになる。世に言うルサンチマンなのでしょう。
心にもし潤いがあるとすれば この怒りのおかげでしょう。
No.19
- 回答日時:
またまた、こんばんは。
回答番号14,15のplapotaです。>>助ける相手を間違えています。
>>もっとまともに世の中を見つめてみなさい。
べねすとさんは、すばらしいではありませんか。哲学カテゴリに、またひとり名物キャラが加はりました。ガミガミ教、素粒子教、仮面ライダー教などと肩を竝べることのできる器です。名称はだれかが考へてくれます。あの教団、とひとくくりにせず、ひとりひとり見つめてゆけば、素敵な人がたくさんゐます。
>>いまちょうど 【Q:禁断の書物、書物の著者、どちらが危険ですか?】
>>という質問も挙がっています。
質問の意味がわかりかねるので、回答してゐません。べねすとさんとは、お話したいのですけれど。
>>ふざけて書いたのですか? それともマジですか?
私のことをそんな人間だと考へてゐたのですか。残念です。私がふざけるのは、朝起きてから、夜寝るまでの間だけです。
ご回答をありがとうございます。
まぁ 手に負えません。
負けてくやしい はないちもんめ
勝ってうれしい はないちもんめ
あの子が欲しい――あの子ぢゃ分からん
この子が欲しい――この子ぢゃ分からん
・・・・
道草教ですかね。ユージューフダン教の主流か支流か。
No.17
- 回答日時:
二度もお礼をいただきまして、ありがとうございます。
べねすとです。私は自分の信仰が自己満足であり、それを補強するために教団の存続を願っているだけです。存続するには信者がいりますし、貨幣経済の日本で職員の飲み食いや遊興費には金が必要です。少々ですが、恩恵に預かっている身としては、他宗教、特に仏教と完全に別な宗教の経典なんて、不要です。
>この信仰を 出来っこないのに売り物にしている
私は別に他人が救われようが、地獄に落ちようが、どうでも良いです。「自己満足」と書いたのは、そのためなら他人がどうなっても良いという意味です。人間、自分の幸福が一番です。
技術書や接客マニュアルでもないのですから、可能、不可能は関係ありません。小説の推薦文に「これは面白い」と書いてあっても悪ではありません。それに騙されて買って、金を失っても仕方ありません。宗教の「信仰」も一緒で、「救われる」とあって、「救われる」ならといって金を出す。強制はしてませんし、強引に奪ってもいません。ただ、出さなければ・・・と忠告してるだけです。決断するのは、《わたし》の《固有のとき》です。誰も邪魔しません。
それで、不幸になった、一家離散した、と言われても困ります。
私も聖書が他の哲学書、既に信者や教団がいない宗教の経典であったら、必要だと言います。あるいはアメリカ陰謀論やロクッフェラー陰謀論といった取る足らない説なら、必要だと言うでしょう。実際、教団内でギリシャ神話や北欧神話の話をしても、誰も責めません。
しかし、世界で最多の信者数を誇る二宗教の経典となれば、不要です。
それと、イスラムはアラブ民族の宗教と違います。イスラムはキリスト教と同じ、人類すべてを救う宗教です。アラブ人のみの宗教なら、インドネシア人はアラブ人となってしまいます。
>わたしのようにバカ丸出しになればよいのです。精神のストリップをこばまずに。
無理です。わたしは聖書で禁じられている行為の多くに魅力を感じ、実際に行ってもいます。やめる気もありません。だから、今の信仰がちょうど良いです。
こんばんは。ご回答をありがとうございます。
★ 宗教の「信仰」も一緒で、「救われる」とあって、「救われる」ならといって金を出す。強制はしてませんし、強引に奪ってもいません。ただ、出さなければ・・・と忠告してるだけです。決断するのは、《わたし》の《固有のとき》です。誰も邪魔しません。
☆ まぁ そうです。そのとおりです。だから シュウキョウは 勝手にふるまっているのだから 結社の自由が認められている限り 手が出せない。ということになっています。
哲学は ちがいます。ここはマチガイであるとはっきり言います。哲学にしたがう人間ならば その判断としての結論に 行動としても実行するという暗黙の了解があります。
この了解に従わないシュウキョウ団体であるかどうかにかかわりなく 哲学として言うべきことを言って行きます。そういう問題です。
もっと早く簡単に言えば そのようなシュウキョウ者には ヤマシサがあるはずです。良心にとがめをおぼえているはずです。そこまでです 哲学の果たし得る役目は。それでかまいません。
★ しかし、世界で最多の信者数を誇る二宗教の経典となれば、不要です。
☆ ぢゃあ そのいわゆるキリスト教の教会員であなたと同じように考える人たちは 同じことを ブディズムの経典についてつまり不要だと言うでしょう。これは 哲学のあゆむ道ではありません。はないちもんめを 両者でやっているようなもんです。シュウキョウごっこです。おあそびです。
★ アラブ人のみの宗教なら、インドネシア人はアラブ人となってしまいます。
☆ この議論に参戦するとすれば それでもアラブ人の――個人にとっての信仰でありうるという可能性をのこしておきますが それでも――シュウキョウであって 必ずしもインドネシア人やフィリピン人のものではない要素があると言いたい。
つまりそれは クルアーンがアラビア語で書かれており・つまり 預言者ムハンマドはアッラーフの言葉をアラビア語で伝えており このことは どのほかの言語であってもよいということにはならない。と言われているかぎりで アラブ人のシュウキョウであると言えると思うのですが どうでしょう。
★ だから、今の信仰がちょうど良いです。
☆ ですから 《信仰》にかんしては 何一つ批判がましいことを言ってはいません。
問題は シュウキョウです。信仰に関係しないかたちの人びとの集まりであると言って じっさいにもそうするならば問題はありません。そういう批判です。
ぢゃあ 少々個人的なことにも首を突っ込んで話をすすめますが:
★ 私は自分の信仰が自己満足であり、それを補強するために教団の存続を願っているだけです。
☆ これで何も問題はないと言いましたが げんみつに言えば よくありません。と哲学は言います。
《教団やその存続によって補強する》ようなものは 《信仰――わが固有のとき――》ではありません。それは 自由ではないからです。固有の時よりほかのものごとに依存しているというような時も自由も そんなものはマヤカシだからです。
信仰は 非思考の庭です。わが心にこの思考〔やほかの行動〕にあらざる場が・庭が成っているという状態であり その動態です。
外から誰もそこに入って行くことが出来ないと同時に 自分のことであってもその庭から外へ――信仰の問題としては――外に出かけることもあり得ないことだからです。非思考なのですから。《神》とはそういうものです。ですから シュウキョウが指し示している信仰は マヤカシです。
これが 哲学の示し得るこたえです。
No.16
- 回答日時:
No.9です。
御礼をいただきまして、ありがとうございます。
私は自分の信仰、信仰に伴う行為は、自分が助かるために行う、自己満足と考えています。
こんなことを言ったら、家族や他の信者から殺されるでしょうが、所詮は宗教なんて精神科で処方される安定剤、あるいはアルコール依存症患者の酒ぐらいの価値しかない、でしょう。精神が安定しない、あるいは自分に自信がないから、何かにすがる。それが酒なのか、薬物なのか、信仰なのか、その程度だと思っています。依存症患者は嘔吐しても、酒だと思えば地面を舐めずり、薬物患者は急死する量を服用する。本人がそれで、救われている、と考えるなら大して違いはありません。
私が日蓮宗なのも家族がそうであったから、自分で選んだ信仰ですらありません。そして、辞めないのも信心という安心感が欲しいだけです。しかし、それでも私は救われています。なかったら、死ぬ恐怖や将来の不安で押し潰されていたでしょう。日蓮聖人の教え(と称するもの)で、何とか依存症にならず、生きています。
本題ですが、私の信仰心は恥ずかしながらユダヤ人、キリスト教徒、ムスリムの方に比べて、弱いです。『聖書』を読み、大変に魅力を感じた事もあります。しかし、それで家族や人生観を捨てれるほど、私は強くがありません。そして、信者数が減り、団体の運営が難しくなり、休止となっても、酒へ逃げずに、内なる信仰のでみで生きれる強さは持ちません。だから、『聖書』なるものは日本人に不要ですし、それによって強固な信仰心を持つ人が増えるのも反対です。
自己矛盾?、百害?、たわ言?、精神錯乱?、大変に結構です。bragelonneさんにとって無意味であろうが、私は日蓮の教えによって救われ、心を惑わす邪な書物を無視できます。なくなれば、アルコールか、薬物しか残っていません。そのために、他人が不幸になろうと、その状態を信心で幸福だと勘違いさせれば良いだけです。私のように。
べねすとさん あらためまして こんにちは。ご回答をありがとうございます。
さて いつものようにわたしは直球を投げてまいります。
★ 私は自分の信仰、信仰に伴う行為は、自分が助かるために行う、自己満足と考えています。
☆ 信仰は――良心・信教の自由さらには表現の自由なる公理は持ち出すまでもなく―― 《わたし》のしかも《固有のとき》です。
この《とき》は 世界のすべてに開かれていますが――決して蛸壺のごとく閉じられていることはなく《心の明け》は じつは全開なのですが―― ほかの人がそのトキの中に入ってくることは出来ません。その《わたし》なる人に 開かれているからには 誰でも声をかけ話をすることは出来ますが その人の《固有のとき》に入って行くことは出来ません。
ですから 早い話は シュウキョウが この信仰を 出来っこないのに売り物にしているところが 狂気であり 人間の意志行為としてまったくの無効なことだと言っています。
結社としての自己表現の自由が このシュウキョウにかんしては じつは認めてはいけない。という問題であると考えます。
このシュウキョウを別とすれば 信仰は いっさい自由です。自己満足であろうがなんであろうが 無条件に自由です。つまりは 他人に迷惑をかけないのなら まったく自由です。何の問題もありません。自己弁護する必要もさらさらありません。と考えます。
★ 所詮は宗教なんて精神科で処方される安定剤、あるいはアルコール依存症患者の酒ぐらいの価値しかない、でしょう。
☆ これは シュウキョウです。
ただし その薬代・治療費は 《信仰》ということをいっさい言わないでシュウキョウ団体は取って欲しい。ブディズムならそれとしての勉強会であり そこで仲間となって共に励まし合って生活していくのだという趣旨だけにとどめて欲しい。そのための《税金》であると。
そのあと読み継いで行って だいたい同じような反応になると思います。
★ 他人が不幸になろうと、その状態を信心で幸福だと勘違いさせれば良いだけです。私のように。
☆ これが 日蓮の秘策です。それを受け継いだ組織の作戦です。
《アベノミックスをすすめるしか道はない》という見解と主張は いちおう民主主義の社会にあって互いの自由な思想と行動のもとにおこなわれています。政策が失敗するかどうか それは〔変な恰好ですが〕措いておいて その思想や政治行動に 問題はありません。
ところが 信仰は 《わが固有のとき》です。そのトキの中に手を突っ込もうとし土足で上がって行こうとするシュウキョウがある。なぜかと訊くと それが人のすくわれる《ただひとつの道》であるからだと。たとえ そのいま勝手に押しつけているので嫌われたりケンカになったりしたとしても その道しか人間にはないということであれば 首に縄をつけても引っ張って行くことがただしいのだよという説明です。
ところが そういう《秘策》は けっこう世の中にあるわけです。
《アルケーの神こそが 真実の神であり アルケーの神以外に神はない》という《凝り固まり教》は 見られています。
その昔 人びとは 血筋の濃い者どうしでまとまって生きていました。よそ者は あたかも人間ぢゃないと思われていた。そのよそ者に 自分たちの中の美女をさらわれたなら その集団どうしの全面戦争でした。
すなわち神は その民族の・そしてわが民族だけの神でした。その生き証人は 現代においても韓国人や北朝鮮なる国として見られています。さすが戦争はまぁしませんが あること無いこと自分たちの有利になることは言い相手に不利なことは言いからかす。これも全面戦争です。――そして このような生活態度は いまでは きちがいです。
ユダヤ民族だけの・またアラブ民族だけの〔と言っても 両者は互いに同じセム族ではありますが ですから確かにおっしゃるように啓典を同じくしており ともにアブラハムの子孫でもあり おそらく神もじつは同じであろうと考えられるのですが それでも〕それぞれの神を唯一のものとして 他を排除します。いまでは 気がちがっています。
日蓮も この路線を――ほかに見渡すと あまりいなかったので――よしとして採用したのでしょう。そして 時代に応じてそれなりに効果はあったのでしょう。そして 現代です。戦後の復興期や高度成長期には 大いに《活躍》がありました。
けっきょくいまでも その余韻がのこっているのでしょう。
ユージューフダン教に対して 一発で決めてやる教のようなものとして――そうしていれば 不安は少なくともウワベからは消えます―― なお勢力を保っている部分があるのでしょう。
結論:《この神しかない》印のバス路線は その乗り合い自動車に乗っていていいかどうかを考えるという問題ではないでしょう。
わが固有の時を そうやって初めから閉じているのです。バスを何台も動かして自分たちの中でウワベではよほど活発で元気に動き回っているという・しかも蛸壺の中にあります。
バスの中の居心地の問題ではないでしょう。路線がすでに おのれの時間を――つまり自由を――閉ざし・ときには破壊してさえいるのではないでしょうか。日本列島ごと沈んでしまえとしか思っていない韓国人は そのようにして気が違っています。くるっています。人間でなくなっています。最初のボタンの掛け方が問題です。
日蓮の路線は そういうものだと思います。よ。まぐろだったかが 死ぬまで泳ぎ回りつづけていなければ生きていけないのと同じようです。
わたしのようにバカ丸出しになればよいのです。精神のストリップをこばまずに。
No.15
- 回答日時:
こんばんは。
回答番号14の《ユージューフダン教》plapotaです。「お礼」拝見しました。>>日蓮宗系でも過激な部類に属する団体が折伏するのに
>>聖書に拠る人びとはしづらいから聖書は要らないという論議なのですよ。
私が質問者であれば、回答番号9をベストアンサーにします。宗教といふものは、えてして偽善のにほひがつきまとひますが、この回答にはそのやうないかがはしい香りは一切ありません。「日蓮宗系でも過激な部類に属する団体」についての内部発言で、これほど正直で本音に満ちた投稿を、このサイトでいままでに見たことがありません。この文章は、多くの人たちに読まれるべきです。
そもそもOKWaveは助け合ひが根本精神です。
>>こんなのは他の日本人には無いことで、大変に困ります。
>>このまま、クリスチャンやムスリムの考えが広まれば、
>>団体の運営も難しくなります。
とおつしゃるのですから、困つてゐる人を助けるのは当然ではありませんか。
>>アニミズムのような心的現象であり そういう傾向ですね。
はい、そのとほりです。今回は日本人と聖書との関連質問でしたので、ちよつと理由付けに使用しただけで、さほど大きな意味はありません。
いちばん言ひたいのは、日本人にかぎらず、『聖書』は危険な書物である、といふことです。読み手次第で、どんなことにも使へます。
危険だからこそ、魅力があります。酒や女性も同じです。毒にも薬にもならないものは、おもしろくありません。
こんばんは。ご回答をありがとうございます。
★ 私が質問者であれば、回答番号9をベストアンサーにします。
☆ ダメ!! 時効が来たから 過去の殺人について包み隠さず白状したっていう《正直》のたぐいでしょう。ダメですよ。
★ ・・・とおつしゃるのですから、困つてゐる人を助けるのは当然ではありませんか。
☆ 過去にいかに多くの〔身体が弱いゆえにも含めて〕社会的によわい境遇に甘んじなければならなかったゆえに 押しつけ折伏に つい屈しなければならなかった人びとが しかもその生活費のかなりの部分を会員ゆえの費用に当てなければならず 毎夜泣き続けていたことか。
困っている人を自分たちの組織の興隆のために否応なく無慈悲にも利活用して来たという過去の《犯罪行為》です。
助ける相手を間違えています。もっとまともに世の中を見つめてみなさい。
★ いちばん言ひたいのは、日本人にかぎらず、『聖書』は危険な書物である、といふことです。読み手次第で、どんなことにも使へます。
☆ 賛同し得ません。そんなことを言えば 世の中に出て来る本なり雑誌なりの出版物のすべては 《読み手次第で 危険なものである》でしょう。
いまちょうど 【Q:禁断の書物、書物の著者、どちらが危険ですか?】という質問も挙がっています。
★ 危険だからこそ、魅力があります。酒や女性も同じです。毒にも薬にもならないものは、おもしろくありません。
☆ 《ユージューフダン教》の教祖さまから そういった話を聞くことになるとは思いもよりませんでした。
また ふざけて書いたのですか? それともマジですか?
No.14
- 回答日時:
『聖書』が日本人に必要かどうか、私個人では何ともいへません。
基本的には回答番号8に賛成ですが、回答番号10の反論も愉快ですし、回答番号7も冷静な見方で、回答番号9は切実な課題で、それぞれに説得力があります。必要性の問題よりも、日本でキリスト教が(たとへば韓国のやうに)一般化しなかったことに私は関心があります。大きな必要性がないから一般化しなかつた、とも言ふことができるのかもしれません。そして、一般化しなかつたことは、日本人にとつて、ある意味、幸ひであると思つてゐます。
これは私の独断ですが、日本人は、対象物を自己と同一化する傾向が強い、と感じてゐます。たとへば、下記の私の質問、回答番号5のNakay702さんの御意見。
http://okwave.jp/qa/q8817917.html
この傾向は書物に対してもあてはまるかもしれません。物語の主人公を、自分と同一視する。聖書の主人公は、いふまでもなく、神です。つまり聖書を読んで、みづからを神と同一視してしまふ危険性がある、といふことです。
回答番号8のNemurinekoNyaさんがこれまで何度も指摘なさつてゐますが、聖書は「善」と「悪」を区別します。ただしここで注意すべきは、その区別が可能なのは、神のみである、といふ点です。創世記3章22節にあるとほり、人間が「善悪」を知るやうになつたのは、罪の結果です。本来の姿ではありません。
特に恐ろしいのは、他の人たちを「善人」と「悪人」とに仕分けすることです。聖書では、人が人を裁いてはならない、と何度も警告されてゐます。たとへば、以下のことば。
「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。」
(新共同訳聖書 ルカ6章37節)
しかし、みづからを神と同一視してしまふと、この警告が目に入らなくなります。神ならば人を裁くことができるからです。自分と自分の好みの人たちのグループを「善人」とみなし、自分の嫌ひな人たちのグループを「悪人」と決めつけます。みづからの定めた「正義」がその基準です。これこそが戦争にはしる人間の思考です。
もし、日本人が聖書を今よりもはるかに多く受け入れてゐたとしたら、このやうな危険が強まると思ひます。聖書そのものに問題があるわけではありませんが、やはり何事も相性はあります。
*** *** *** *** ***
この点で、私の尊敬する人たちが、このサイトに何人かゐます。どの質問に対しても常に、ちよつとした悪口を書いてゐる回答者です。あなたは病気です、とか、心療内科でみてもらひなさい、とか、そんな発言をしてゐます。これほどまでに、他の人たちを自分勝手な善悪で区別しない高潔な人間がゐるでせうか。あらゆる人を平等に扱つてゐます。性格的にまつたくウラオモテがありません。ウラだけだ!
善人と悪人とに区別をしないので、争ひがおきません。みづから戦ひを挑んでも、多くの人から評判を落としてゐるため、援軍などありませんから、勝ち目がありません。ですから、戦ふことができません。これほど完璧な平和があるでせうか。
私はかういふ人たちから、多くを学んでゐます。
こんばんは。ご回答をありがとうございます。
★ 回答番号9は切実な課題で、・・・説得力があります。
☆ そういうことを言うから――とすでに馴れ馴れしく反応しますが――相手は つけ上がるのです。
◆(回答No.9) 日蓮宗系でも過激な部類に属する団体
☆ が折伏するのに 聖書に拠る人びとは しづらいから 聖書は要らないという論議なのですよ。
このような自己矛盾をはらんだ組織宗教に市民権をあたえるような発言は つつしむべきだと考えます。
ただただ独りよがりで 宗教をやっているという運動です。
(ですから そのためにわたしは質問を挙げました)。
どうでしょう 違いますか?
★ 必要性の問題よりも、日本でキリスト教が(たとへば韓国のやうに)一般化しなかったことに私は関心があります。
☆ ええ。そうですね。一般にあっても ひとつの重要な課題となっていると思います。
★ 日本人は、対象物を自己と同一化する傾向が強い、と感じてゐます。
☆ そうでしょうか。それは 言うなれば アニミズムのような心的現象であり そういう傾向ですね。
長い議論は出来ませんので そのような《対象ないし相手の人との同一化》が見られる場合とともに そうではない傾向も見られる。とは思います。
それは こうです。儒教・道教・仏教・キリシタン・西欧思想などなどに興味も関心をも示すと同時に一定の距離を置く。つまりあるいは 不即不離の位置関係を保つという場合。これも見られるように思われます。
あるいはつまり それぞれのオシエや思想は 少しづつ元の内容から違って来ていますね。土着の思想で仕立て直した衣裳を着ている。
というような事由で 一概には賛成することは出来ません。
★ たとへば、下記の私の質問、回答番号5のNakay702さんの御意見。
◆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「人間と動物の同一視」、大いにあり得ると思います。
我々人間、誰でもegocentric particular(ラッセル、「自己中心的特殊規定」)のようなものがありますよね。つまり、人間の身体の言語分節の仕方で動物のそれを考えるという、対動物の、人間共通の「自己中心的特殊規定」がごく自然にあり得ると思います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ これは 必ずしも当てはまるとも思えないのですが。
★ この傾向は書物に対してもあてはまるかもしれません。物語の主人公を、自分と同一視する。聖書の主人公は、いふまでもなく、神です。つまり聖書を読んで、みづからを神と同一視してしまふ危険性がある、といふことです。
☆ これは 何か勘違いなさっているのではないでしょうか。これだけでは納得の行く受け取りにまで到らないのですが。神と自己とを同一視するなら 超然として生きているのではないのでしょうか?
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
特に恐ろしいのは、他の人たちを「善人」と「悪人」とに仕分けすることです。聖書では、人が人を裁いてはならない、と何度も警告されてゐます。たとへば、以下のことば。
「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。」
(新共同訳聖書 ルカ6章37節)
~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 《対象との自己同一化》なら このオシエにも同一化して 守るのではないのですか?
★ ~~~~~~~~~~~~~~
しかし、みづからを神と同一視してしまふと、この警告が目に入らなくなります。神ならば人を裁くことができるからです。自分と自分の好みの人たちのグループを「善人」とみなし、自分の嫌ひな人たちのグループを「悪人」と決めつけます。みづからの定めた「正義」がその基準です。これこそが戦争にはしる人間の思考です。
~~~~~~~~~~~~~~~
☆ いやいや 分かりません。神と自己とを同一化するというのでしょう? だったら よいことばかり考えおこなうようになるのではないのですか?
つまり 《この警告が目に入らなくなる》のは 神や聖書の記事に自己同一化することもない。からではないのですか?
★ 善人と悪人とに区別をしないので、争ひがおきません。
☆ とおっしゃいますが 《区別をしない》と言えるのは 《区別がある》と認めている場合ですよ。
わたしなどは 区別を見ていないのです。善人と悪人という言葉があることは知っていますが その言葉を実際にそれぞれの人に当てはめることはしません。(もう少し詳しく言うなら 相手がこちらを無視する態度に出たと確認する。といった事態の認識はするわけです。善悪に関係なく)。
評判を落とした状態にあって 完璧な平和がある。ということなのですね。さっぱり分かりません。
No.13
- 回答日時:
それは個々の日本人が判断すべきことであって、一般論でのべたら差別思想になるでしょう。
そうなりますかねぇ。ううーん。
こんにちは。ご回答をありがとうございます。
たとえばまづ 回答No.6を承けて次のように事情をしるしました。:
☆☆(No.6お礼欄) ~~~~~~~~~~~
或るわたしの質問で
◆ 私たちは日本人であり、東洋人であり、キリスト教の神なんか不要です。どうして聖書を知らなければお話にならないのか?
☆ という回答の中の文章をもらったからです。ですから あまりにも意外だったので いちどみなさんに聞いてみようと。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ といった出来事がすでに起きてしまっている。
というところか出発しても
★ それは個々の日本人が判断すべきことであって、一般論でのべたら差別思想になるでしょう。
☆ という判断を堅持され またそう判断したかたちで対処される。ということでしょうか?
と考えると わたしの見方では なぜ要らないのか・また要るのか これを考えておくなら ひとつの正式な対処策になるのではないか。と思ったのでした。どうでしょうかねぇ。
No.12
- 回答日時:
あんたのお礼から考えたが、ヨーロッパにとっても外来から押し寄せた文明の脅威としてのローマで、明治日本と変わらないのではないか。
彼ら西欧は、奴隷となったが、日本は独立を守る為戦って、太平洋戦争での敗戦という形で武力抗争を清算した。
敗者の栄光はある。
私は赦されざる裏切り者黒き明星で、旧人類に滅びの宴をもたらす。
ジラーチちゃま。
ご回答をありがとうございます。
そうですね。もちろん 昔からの――ユダヤイズムの入って来ていない昔からの――習俗もまだまだ残っているようです。
クリスチャンの聖人がたくさんいて 毎日が誰々聖人の日となっているそうです。(これは スペインなどがそうだと思います)。
その日に生まれた人は その聖人が守護聖人となります。何のことはない 守護霊みたいなものです。つまり クリスチアニズム以前の昔からの精霊信仰(アニミズム)がかたちを変えてのこっている。らしいです。
日本人は ブディズムに対しても一定の距離を保っているとすれば 見上げたものです。
No.10
- 回答日時:
西洋を研究する教科書として必要性がある。
明治以降、西洋を学ぶにあたって欠かせない事だが、当時差別された過去からあんたはそんな歴史検証をしたいのだろう。
学問としていまだ哲学は、輸入ブローカーが先生としてのさばっているが、あざ笑う私と違って、あんたは正々堂々勝負を挑めるだろう。
眠り猫からうわさされた反論をいつか聞きたいところだか、あのオカマこそ輸入ブローカーだ。
ご回答をありがとうございます。
★ 西洋を研究する教科書として必要性がある。
☆ ええ。西欧人にとって外来ものなのですけれど 真剣にまなんだようです。
★ 学問としていまだ哲学は、輸入ブローカーが先生としてのさばっているが
☆ これも ええ ですね。かなり消化して来ているのですけれど 最後の――あるいは最後から二 三番目の段階での――詰めが甘いと思いますね。だからどうなんだ? と問い詰めるところが自分たちに欠けているように思います。
たぶん いいかえれば 自分の腑に落ちていないことを知識として得ている。ような。
★ 眠り猫からうわさされた反論
☆ これは 何のこってすかいな?
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人はパンのみによって生くるに...
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再 ご教授願います。WEBのバイ...
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自然は跳躍せず
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僕は宗教とは全く関係ない人間...
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りんごは禁断の果実?
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キリスト教信者の聖書に対する...
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少し専門的ですがメンデルスゾ...
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エホバの証人の正しい点・間違...
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聖書に飲酒しても酔ってはいけ...
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聖霊はHoly Ghost? Holy Spirit?
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映画「エミリーローズ」の中の...
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聖書のレポート(2000~3000)...
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街で信者に声をかけられ聖書を...
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修道院に入るには処女でなくて...
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日本ではいつから神でなく自ら...
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先日、エホバの証人の人が来ま...
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聖書の中の言葉を探しています。
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聖書の内容を聖書以外のevidenc...
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聖書とはどういうものかおしえ...
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【宗教】【イエスキリストはマ...
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キリスト教の「いいところ」っ...
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アダムとイブが食べた「禁断の...
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ゼレンスキーは、悪魔崇拝者で...
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