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クリスチャンの方へ。私は以前から様々な友人から伝道を受けておりますが、どの友人も聖書の内容の根拠を、聖書の中に求めています。聖書の聖句を挙げ、それが聖書の中に書かれていることの根拠であると述べ、聖書の内容が真実であることを証明しています。例えば「イエスキリストを心に受け入れれば永遠のいのちを得る、ということが真実であるということは、聖書の中の第一ヨハネの5章11節~13節に書かれている」という具合です。
これらの証明は、もし聖書そのものが真実でなければ成り立たないものであり、聖書は真実であると信じていない多くの日本人にとって、そのような伝道はあまり心に響かないと思います。
そこで、聖書がいかに優れた書物であるか、いかに不思議な書物であるのかを述べ、聖書が真実であると証明しようとする人々もいます。しかし、ここでは聖書以外のevidenceを挙げ、それによって聖書そのものではなく「聖書の内容」は真実である、と証明していただきたいと思います。

例えば、私は以前友人の一人に「クリスチャンは恐竜と人間は共存していたと信じてるらしいけど、それなら今現在世界各地で発掘されている恐竜の化石はどうなるの?」と尋ねたことがあります。それに対し、友人は、私に人類と恐竜が共存していた証拠である「恐竜土偶」を見せてくれました。私はそれを見て、今まで半信半疑だった聖書の内容が本当だったのかもしれないと思うようになりました。このことからも、聖書以外の証拠は、ノンクリスチャンを伝道する際に効果的に用いることができるのではないでしょうか。
しかし、その恐竜土偶はクリスチャンによるねつ造でした。それは私を含む多くの人をがっかりさせ、よけいにキリスト教に対する信用を低下させたかもしれません。
しかし、私はほかにも聖書の内容を証明する、恐竜土偶のようななにかがあるのではないかと思います。ねつ造ではない真実の物的証拠などをお教えください。よろしくお願いいたします。

質問者からの補足コメント

  • ご回答ありがとうございます。
    ヨブ記の40章第15節の河馬という動物を恐竜であると解釈し、恐竜も神が創ったと考えたため、人間は恐竜と共存していたと推測していたようです。お教えいただきありがとうございます。
    もっともなご意見だと存じます。しかし、わたしのクリスチャンの友人たちもよく「証拠は数多くある」など、数多くあるという言葉を用い、具体例を提示しない場合がございます。
    もし、科学や進化論ではとても証明できない、まさに神が創ったとしか思えない絶妙の仕組みの具体例がございましたら、そのたくさんあるなかの数例をご提示いただければ嬉しいです。お時間のあるときで構いませんので、よろしくお願いいたします。

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/06/17 11:38

A 回答 (7件)

宗教の中には無実むこの人間を切り刻み殺して


現世の力を得ようとする集団も存在します。
魔女裁判はそういう悪魔教の一面の現れ・・・

そして悪魔教はもっとも古い宗教であり秘密集団
で続いてきた。一神教においては他宗は邪宗で
あり人間ではありません、動物なんですねー

この点、ユダヤもキリストもイスラムも同じです。
単に誰がメシアであるかの争いである。
その程度の違いで数千年に渡り大虐殺をして来た

のが3大宗教・・・それで神の僕とは笑わせる。
愛というのは宗教上の仲間意識の事であり明治
の造語、当時から世間的に良くない言葉であった。

3宗教とも歴史に行動を見れば悪魔教団である。
悪魔教団が最高位に在り3大宗教が僕、信者は
奴隷というのが真実の構造。

奴隷が少なくなれば増やし多すぎれば殺し合いを
起こす・・・宗教とは悪魔教団の道具に過ぎない。
聖書とは悪魔教団の計画書。

悪魔教団が完全な秘密宗教になったころ聖書は出来た。
現代は悪魔教の全盛期、どんな宗教も支配に届かない。
一神教へ入信は悪魔教の奴隷に成る事・・・

大喜びで大勢の人間を殺す道を進むだろう・・・
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私は理系の学部を卒業し、現在メーカーで技術職にあるものです。


聖書を誤謬なき書物と信じるもので、それでいて科学を信じています。
私が聖書を信じる理由はたくさんありますが、その中で非常に大きなウエイトを占めるものを二つ挙げましょう。
一つ目は、あなたの要求と180°異なります。聖書は他の書物によらず、その正確性を証明できるのです。
それが「預言」です。
聖書には歴史的事件が起こる前に予兆的預言がなされ、それが成就されています。
このことをこじつけだと疑う人もいます。
だが、例えば、キリストに関する預言は旧約聖書に300箇所近くもあり、その全てが驚異的な正確さで成就しています。
これらの預言は、歴史的な前後関係や、実際に起こったこと、改竄の有無など詳細に調査されていて、捏造でないこと
が証明されています。
また、キリストについての有名ないくつかの預言だけでも、その場にいなければ絶対にわからないような詳細な正確さで、
数学的に偶然成就される可能性はゼロであることが証明されています。例を示しましょう。

(1)ダニエル書の預言
URLをあげて出典を書いておきます。一部抜粋します。http://www.sam.hi-ho.ne.jp/pisgah/myweb/scriptur …

以下引用
…………………………………………………………………………………………… 
それゆえ、知れ。悟れ。引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令が出てから、油そそがれた者、君主の来るまでが七週と六十二週。その苦しみの時代に再び広場とほりが建て直される。その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない。
(ダニエル9-25)

 イエス・キリスト── 私たちはこの呼び方をイエスのフルネームのように考えがちですが、実は『キリスト』というのは姓や名前ではありません。いわば職名(肩書き)で「油そそがれた者」という意味です。旧約聖書の中で、国を統治する王や神に仕える祭司たちは、その任務につくときに油をそそがれました。そこから、やがて世に来られる救い主のことを、人々は「油そそがれた者」(ヘブル語でメシア、ギリシャ語でキリスト)と読んで待望しました。ダニエル書9章は、この来るべき救い主・キリスト(油そそがれた者)の到来を予告する預言でした。

 ここで「週」と訳されている語「シャブア」は、数字の「7」を意味する言葉です。ちょうど英語で「12」を「ダース」と表現するように、ヘブル語では「7」を「シャブア」と呼びました。ですからこの預言は、ダニエル書が書かれた当時(BC6世紀)には全く荒れ果てていたエルサレムの都が、後の時代に再建されること、そしてその再建命令が出されて69シャブア(69×7)=483年後に、キリスト(油そそがれた者)がエルサレムに来る、ということを予告するものでした。

 イギリスのロバート・アンダーソン卿は、ダニエル書の研究の中でこの預言をくわしく説明しています。エルサレムの再建命令はペルシャのアルタシャスタ王(アルタクセルクセス一世)によって紀元前445年3月14日に出されています。ロンドン警視庁の総監であったアンダーソン卿はグリニッジ天文台長の協力を得て、当時の暦と現代の暦の違いや「うるう年」を考慮したきわめて厳密な計算を行ないました。その結果得られた日付はAD32年4月6日、およそ30歳で公生涯に入ったイエスの活動期の一日でした。

 しかし、この預言の「ふしぎさ」は、その日付よりもむしろその内容にあります。それはこの「油そそがれた者」の運命に関する予告です。
 どうしてこんなに大切な預言が、旧約聖書をよく読んでいたユダヤ人たちに意識されなかったのでしょうか。それは多分、「油そそがれた者が断たれる」という悲劇的な内容によるものでしょう。イエスの弟子たちも含めて多くのユダヤ人は、キリストがその偉大な力を発揮して国を治め、王として君臨するものだと考えていました。キリストが「断たれる」などということは想像もつかない「とんでもないこと」(マタイの福音書16章22節)でした。しかし、それは私たちの罪があがなわれるためにどうしても必要なことでした。同じ旧約聖書のイザヤ書も、このキリストが断たれることをくわしく予告していました。

まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。
だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
(イザヤ53-4,5)

実は上述のダニエル書の預言はアンダーソン卿の解説は今では古典的と評価されています。
イエスの死はAD33年であったということが今は一番信じられています。そこで、この預言を再計算した学者が何人もいますが、やはり非常に正確な預言であるというのが証明されています。(エルサレムの再建令の日付がアンダーソンの研究と多少違うらしく、それを修正するとAD33年のイエスのエルサレム入城の日とほぼ完全に一致するようです)

上記のHPには天文、科学の面からの聖書の正確性についての記述もあるので参考に見てみるといいでしょう。
次は聖書の正確性です。

福音書の起源と正確さ
 福音書は、まだ、キリストを目撃したひとが、大勢生きているときに書き始められてことがすでに確認されています。たとえば、使徒行伝を読むと、パウロの物語が唐突に終了してしまいます。これは、パウロが、ローマに自宅軟禁されていて、処刑されたことを示唆しています。処刑の場面が記述されていないことを考えると、使徒行伝はパウロの処刑以前に書かれはじめたことが推定されます。さらに、使徒行伝というのは2部構成になっており、その第一部がルカによる福音書です。ということは、ルカが引用しているマルコによる福音書はそれより起源が古いことがわかります。仮に、各書物間の年代差が1年だとしても、マルコの福音書は死後20数年以内に書かれたことになります。実際はもっと早いでしょう。この時代に、存在もしない架空の人物をでっちあげたら、そのことに反対する歴史文書や、社会運動の記録が必ず残るはずです。
考古学の常識では、その伝記の主人公の目撃世代から一世代の間はファンタジーが入り込むすきはないと言われています。もし入り込んでも、外部の文献や状況証拠で簡単に検証ができるのです。
たとえば、マホメットに関して、コーランではマホメットが奇跡を起こしたという話は一つも書かれていません。マホメットの死後、200年以上たって書かれた「ハーディス」(言行録)で初めて奇跡物語がかかれて、その後増えていきます。

福音書以外の文献
ユダヤ人、ヨセフスの書いた書物と、ユダヤ教の聖典「タルムード」に書かれている内容は新約聖書と完全に一致し、外部文献からも新約聖書の正確さは保証されます。
さらに驚くことに、「タルムード」にはイエスが奇跡を起こしたことが否定されていません。ユダヤ教はイエスを激しく迫害し、最後に殺してしまいますが、イエスの
奇跡は否定できなかったのです

むろん、この時代には「奇跡」を簡単に信じたのではないかと反論されるかもしれませんが、そうではありません。旧約聖書には奇跡がたくさん書かれているように見えますが、
年代を整理すると実は奇跡物語は長い旧約聖書の中でほんの短い期間だけに限られており、それ以外の年代では聖書が認める奇跡は起こらなかったということがわかるのです。
ユダヤ教は、厳格な一神教なので、奇跡を起こせるのは神だけで、よほどのことがない限り認めないのです。

イエスの起こした奇跡はそこかしこに断片として散らばっています。
たとえば、イスラエルの寒村、「ベタニヤ」ですが、ここは新約聖書でイエスが死者,ラザロを復活させた場所として知られています。
現地の人はここを「ベタニヤ」とは呼びません。「El-Lazariyeh」, "the place of Lazarus." ラザロの場所と呼びます。
ここはアラブ系住民が大多数を占める場所で、キリスト教が優勢な地域ではないのです。むしろキリスト教に忘れ去られた土地です。当時からそうです。
しかし、この土地の呼び名は突如、「ベタニヤ」から「ラザロの場所」に変わりました。このことはローマの書物で正確に確認され、
すくなくともAD300年にはそうなったことがわかっています。おそらくイエスの時期までさかのぼるでしょう。

このような場所は地中海各地にあり、たとえばダマスカスは現地では「ザ・ビジョン」という意味の言葉で呼ばれます。
ここもキリスト教住民はほとんどいないのですが、突如として現地の人がそう呼び始めたのです。
ここは聖書にかかれている、パウロの回心の場所です。パウロが天上からの強烈な光で視力=visionを失った場所です。

(3)他の考古学文献との比較
このように、死後間もない時期に、記録が残され、しかも複数の証言が存在するという人物は、実は歴史上そう多くはいません。たとえば、アレキサンダー大王の記録などは、死後500年近く経ったものしか現存していません。それでも、歴史家は、アレキサンダーの存在を疑う人はありませんし、その業績についても大筋でほぼ正確だと考えられています。
その中には、奇跡物語、復活の物語、そして500人以上の目撃証言、そしてそのことを保証する誓約、その誓約を自分の命をもって証明した(殉教した)弟子たちの物語が含まれます。
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例えば、植物と昆虫の関係。

蝶や蜜蜂などは、花の蜜を食べてます。花はその虫たちを利用して、受粉。双方がお互いの生存を助けている仕組み。

渡り鳥が、自力で飛ぶだけでなく、気流を利用して、最小のエネルギーで目的地に到着すること。その渡りを始めるタイミング。目的地まで目印もないのに、迷子にならない方向感覚。本能だけでは説明しにくいでしょう。
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創世記1章1節から読んでください。


そして周りを見てください、自然や人は神様が創造された
絶妙な仕組みの証拠なのです。が、それだけでは人間は
神様を信じることはできません。
聖書は神様そのものですが、それも証拠というもの自体はありません。
何故なら、神様は見えない存在だからです。
なのでどんな学者達が聖書を証明しようとしてもできないのは当然です。
コヘレトの言葉3章11節には「神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない」と書いてあります。

クリスチャンになるのは、私たちが神様を信じるのではなくて
神様が私たちを選ぶからです。
選ばれた人が神様をある日突然、又はじわじわと感じるようになり、
そして信じることができるようになるのです。
残念ながら聖書の御言葉だけを取り出して、こうだから神様はいるんです、と言っても信じる人は少ないでしょう。
神様に選ばれる時があり、その「時」に様々な経験を通して
神を見るのです。
人間は、目に見えるもので信じる人がたくさんいますが、
目に見えない「真実」は信じられないほどたくさんあるのです。
ですから、証拠という目に見えるものを探すのは
難しいかもしれません。
だから証拠は聖書、としか言えないと思います。

そうですね、エルサレムへ行けば聖書でイエス様が仰ったり、
人間が良い伝えたものがたくさんあるでしょう。
紀元前2000年以上前の事から書かれているので
信じられるかはわかりません。
でも書かれている地図や、地域を見るとかなり正確に
書かれていると思います。地図は聖書の後ろにあります。
アブラハムや、モーセ、ダビデにイエス様の行動した地域は
エルサレム周辺です。

神様は三位一体、父、子、精霊の3つを合わせて神と言います。
どれも目で確認はできませんし、私たちを動かすのは聖霊の神様です。
神様の不思議な導きによって私たちはこの世に命を与えられます。
質問者様が、時が来て自然に神様を信じることができる日を
心から待ち望みます。

聖書が、一番私たち人間に伝えたいこと
「信仰と希望と愛」はいつまでも残る。その中で最も大いなるものは「愛」です。
ちなみにコリントへの手紙一13章にあります。
4節~に有名な個所がありますが、
その中の「愛」というところを自分の名前に変えて読んでみてください。キリストの愛とはこういうことなのです。
神様はどこまでも真実な方です。
でも聖霊によらなければ「イエスを信じる」とは言えない。
とも書いてあります。
いくら証拠を見せても信じる事はできないのではないでしょうか?
ローマへの信徒への手紙二3章9節~「正しい者は一人もいない」
というように人間には神様のように正しい方は一人もいないので、
信じる事ができるようにさせる方はただ、主なる神だけという事です。
ここで祈ることがとても重要だという事がわかります。

いつか必ず、質問者様が神様を信じる事ができる日は来ると信じます。
お祈りしています。祈りは一番大切な神様との交わりです。
そしてとても美しく、尊いものです。
祈りはイエス・キリストの名を「通して」でないと届きません。
なので祈りの最後には、「尊き救い主、イエス・キリストの御名を通してお捧げします。アーメン」と締めくくるのです。
そしていろんな形で「祈り」は必ず神様に聞き届けられます。
必ずしも願った通りの形ではないのです。
時には悪い事柄を通して願いが叶うこともあります。
御心ならばイエス様の愛を信じる日が来ることでしょう。

「何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある」
コヘレトの言葉3章1節~
是非ここも読まれてくださいね。

主の祝福と恵みが豊かにありますように。。。
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そもそも、聖書はクリスチャンのものでありません。



キリスト教ができるずっと、ずっと以前の古代から人の口から口へと伝わってきた
神についての伝承話です。
むろん、ユダヤ教の物でも、イスラム教のものでもありません。

それぞれが宗教団体に関係なく、一個の個人として、
神とはどういうものかを正しく伝えてきた人と、伝えられなった人、
両方が混在しているのが聖書です。

人の伝言というのは、
自分勝手な嘘や噂話を付け加え、話を捻じ曲げて伝える人と、
誠実に心をこめて伝える人、
いずれかがいますが、
聖書の中にはその両方の傾向を持った人が混在しています。

あなたの心の中に嘘や噂話を好む心があれば、聖書を読んでいても
それとよく似た話を好み、それを信じる。

あなたの心の中に真実を好む心があれば、聖書を読んでも、
誰が真実を話し、誰がそうではないのかが分かります。

だから、ダニエル記にそのことが伝えられています。

誰かがこの本を読んでくれと言っても、ある人にはこの本は封印されている。
読んでも分からない、と。

なぜ、イエスがこの本をユダヤ教徒たちが読んでも分からないだろうと言ったのか?
それは彼ら宗教団体が嘘をいうのを好むからです。

クリスチャンもしかり、イエスを神だと信じるのがキリスト教なら、
もはやそれはイエス自身が言ってる事を否定していることになります。

確かにイエスは真実を言っています。
でも、クリスチャンはイエスの言葉を信じているわけじゃない。
イエスではない別の誰かを信じ、別の誰かの言葉を好む集団なのです。
イエス自身の言葉など彼らは必要としていないし、理解もしていない。

だから、どの言葉も彼らには同じ真実に見える。
本当は何も見えていない盲人であり、何も聞こえていない聾(ツンボ)です。
だから、イエスは言いました。
わたしの言葉を信じる人は、わたしだけではなく、神を信じる。
わたしを通して神とは何かを知るだろう、と。

つまり、彼は自分が神だとは一言も言っていないのです。
むしろ、自分は神じゃないとまで言っています。ちゃんと、それも聖書に書いてありますしね。
なのに、クリスチャンはイエスを神だと信じて疑わない。
話を捻じ曲げてしまえば、本人が否定しても、勝手に話は独り歩きする。

それがクリスチャンが嘘つきで、聖書には正しい事「も」書かれているという証拠です
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おじさんです。


なかなかいい質問ですね。
宣教する方たちは聖書に書かれていることを説明することが多いですね。
そういう場合に私は、「聖書の内容を説明されなくてもいいです」と答えます。
その理由は、聖書の中身よりも、自分の生きてきた数10年間の経験の積み重ねが私自身の教義になっているからです。
私は、家が代々浄土宗、大学はプロテスタント、そして今は地元神社の総代をしています。
そこで感じることは、どの宗教の教えも基本は同じだということです。
人間が生まれ育ち、様々な苦難を乗り越えて生きていくための教えです。
私の場合は、釈迦もキリストも必要ありません。
といっても、それを必要としている人々もいるので否定はしません。
私の場合は、自分の経験と先人の経験を重ね合わせたものを教義にして生きています。
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恐竜と人間の共存は、聖書には記されてませんよ。



自然について調べてみてはいかがでしょう。いろいろな点で、神=創造者によるものとしか考えられない絶妙の仕組みが数多くあります。
この回答への補足あり
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