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歴史の年表を見ていて、ふと疑問に思ったのですが、例えば、鎌倉時代のお坊さんの名前は、「法然」、「親鸞」、「一遍」、「日蓮」、「栄西」、「道元」など2文字です。氏名というのがはっきりしません。

その前後の時代の文学に関係する人では、平安時代の「紫式部」とか「清少納言」、そして室町時代の徒然草の「吉田兼好」、……氏名とおぼしきものがしっかりとついています。「吉田兼好」なんて、現代でも通用しそうな名前なのですが、一般の平民に苗字が許されたのは、明治になってからだと聞いています。

質問なのですが、

(1) お坊さんの名前は、何故2文字なのでしょうか?何か理由があるですか?それとも2文字とは限らないのですか?

(2) 紫式部や清少納言は、平民ではなかったかも知れませんが、吉田兼好も平民ではなかったということですか?吉田兼好はどんな身分だったのでしょうか?

(3) 「聖徳太子」というのは、現在でいう「氏名」なのでしょうか?「氏名」でないとすると、官職の名称なのですか?本当の氏名は別にあったのですか?

A 回答 (8件)

1.


法然さんの正式名称は「法然房源空」ですね。法然というのは屋号みたいなものですわね。それでも分かりづらければある種の名字と思って頂ければと思います。名字と違うのは、基本的にそれぞれ違うということです。
一休さんも正式名称は「一休宗純」です。それぞれ名前がちょいちょい違うのは、宗派によってルールが違うからです。このへんはちとややこしい。
一方、法然さんは通称で黒谷上人という呼び方があるので、おそらく当時の庶民には「黒谷上人」のほうが通じたのではないかと思います。他にも円光大師やら慧光菩薩やらとやたらと呼び名があって非常にややこしいです。どれも全部同じ法然さんを指す言葉ですが、場面場面において使う尊称が違うのですね。どういった場面でどれを使うのかについては、浄土宗のお坊さんに聞いてください。
#1さんもおっしゃる「武蔵坊弁慶」はこの場合のルールに従うなら「武蔵」となりますが、2015年の日本においては「武蔵」といえば一般的には宮本武蔵をイメージする人が多いでしょうから、「弁慶」のほうが通じるのですね。法然さんを「源空」としたら分からなくなる人が多くなるでしょう。この辺りは「どの名前が慣例となっているか」になると思います。

2.
平安時代に名前が残っている人は、残らず全員貴族か僧侶です。万葉集には平民の歌も残されていますが、どれも「平民の歌」として「詠み人知らず」つまり名前が残っていません。
そもそも当時は文字が読み書きというのが貴族か僧侶じゃないとできない知的エリートの証だったのです。だいたい、200年以上前の江戸時代に平民が女性に至るまで読み書きできた日本というのは世界史の中でも極めて異彩で、例えばアメリカでも、朝鮮戦争のときはお給料を受け取るサインに「〆」をする兵隊が多かったそうです。なぜサインをしないのかというと、文字が書けないから。たった60年前かそこいらです。半世紀前でも、アメリカでさえ田舎出身の青年だったら文字が読めない人が少なくなかったのです。
現代でも、アフガニスタンの女性の識字率は18%です。お隣のパキスタンでは、マララさんという女の子が「女だけど学校に行きたい」といっただけでなんと殺されかけました。日本では、江戸時代に女性向けのゴシップ雑誌みたいなのがありました。当時は、ヨーロッパでも庶民の女性が読み書きできたというのは珍しかったと思います。
吉田兼好は、お父さんが神職だったそうなので、神社関係者だったと思いますが、出自にまつわる資料がほとんど残っていないのであまりよくわかっていないようですね。「代々続く神社の家柄」と聞くと平民ではないことはなんとなくわかりますでしょ。

3.
「尊称」ですね。ものすごい絶賛しまくりの尊称です。「聖なる存在で、徳を持ったお方」という意味合いですね。じゃあ本名は?それがわからない。「厩戸皇子」という人だったといわれているけれど、これだって「厩舎で生まれた王子様」という意味合いで名前ではありません。だから実は実態がよくわからない人なのです。
あまりに実態がよくわからないので、最近は「そもそも実在してたのか」という根本的な疑問が湧いていて、教科書からも消えるかもしれないといわれてるそうですな。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

質問とは別の視点からも、大変勉強になりました。

『「代々続く神社の家柄」と聞くと平民ではないことはなんとなくわかりますでしょ。』……2014を思い返し、「なんとなく」ではなく、よくわかりました。(*^_^*)

「そもそも実在してたのか」……このことは、読んだ記憶があります。しかし、「十七条憲法」を制定した人なのでしょ。その人が実在したか、というのは本当におもしろですね。まさに歴史のミステリィなのでしょうか。それに、「厩舎で生まれた王子様」ということは、日本のイエス・キリストみたいですね。(*^_^*)

「法然」が屋号、あるいは名字みたいなものなのですね。全く印象が変わりました。

お礼日時:2015/01/07 07:02

まず氏と苗字はべつものです。



律令制では平民というか一般の公民も氏を名乗るようになります。

平安時代や鎌倉時代ごろから氏とは別に苗字を名乗るようになります。
吉田兼好(貴族です)は氏は卜部、苗字が吉田です。兼好が名。

清少納言は、氏の清原と親族の官職の少納言からとった通称です。
紫式部は、もとは藤式部といって、氏の藤原と親族の式部省の官職からとったそうです。
「紫」は源氏物語の紫の上からとったともされてます。

庶民が苗字を公に名乗るのを禁止されていたのは江戸時代だけです。

聖徳太子は、尊称としての聖徳と皇太子であったことから(実際に皇太子であったかは置いておいて、史書で皇太子としていることから)呼んだようです。
ただ、日本書紀や古事記には「聖徳太子」という名は見えず、後世につけられました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

名前にも、「氏」と「苗字」と「名」があったということなのですね。

「庶民が苗字を公に名乗るのを禁止されていたのは江戸時代だけです。」……ということは、庶民も、「熊さん」、「ハチ公」とはいいながら、苗字があったのですね。

お礼日時:2015/01/07 07:06

誰も書いてないけど、式部や少納言は役職名なので、名前というのとはちょっと違いますよ。



清少納言は「清原さん一族の少納言の家の人」の略のようなもので、名前といえば名前だけど愛称(あだ名)の様なもの。(wiki読んだら少納言の由来が不明らしいのね)
紫式部にいたっては「式部(=父)の家の人で、紫のゆかりの物語(=源氏物語)を書いた人」という、もう完璧な愛称(あだ名)。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

清少納言は「清原さん一族の少納言の家の人」なのですか。私は、「清少」「納言」だと思っていました。笑ってしまいますね。

考えてみると、「式部や少納言は役職名」というのが素直ですよね。

「紫のゆかりの物語(=源氏物語)」ということは、「紫」には、「高貴な」というような意味が含まれるのですかねぇ。

お礼日時:2015/01/07 07:06

1 当然坊さんなのだから「出家」しているわけです なので公式に苗字は名乗らず


  寺や師匠から与えられた「号」を名乗るわけです
 真田昌幸も出家して「干雪」と号しました
 武田晴信も出家して「信玄」です 分かりやすく武田信玄と言われますが 正式には「法正院岐山信玄」と言うのが出家後の武田信玄の正式な名前です
この様に 出家すると号を名乗るため 苗字は使わなくなるのです

吉田兼好は出家して兼好法師となっていますね
紫式部なんかは出家してません そもそもこの名前は後世に付けられた名前で正式な彼女の名前は分かっていません(平安時代は女性の身分が低く せいぜい名前が残ってるのは貴族の娘か皇后クラスの女性ぐらいです)

3 聖徳太子と言うのは厩戸皇子の別の呼び方です
  彼は色々功績を残したので別称が付けられました
 ただ 最近では厩戸皇子=聖徳太子だったと言う事自体あやしくなっています
 聖徳太子は後世に作られた架空の人物の可能性もあります
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

「紫式部」というのは、「後世に付けられた名前」なのですか?よくはわかりませんが、私は、その名前を付けた人に拍手喝采をしたいですね。

お礼日時:2015/01/07 07:03

・源義経の家来の弁慶は、確か「武蔵坊弁慶」といいましたよね。

坊さんにも「氏名」があるのですかねぇ。

弁慶は 比叡山延暦寺の僧兵でした。
武蔵坊という宿坊で修行していたので、

(比叡山延暦寺の)武蔵坊 の 弁慶(戒名)です ( ^^) _旦~~

zzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzz
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございました。

武蔵坊というのは、「屋号」みたいなものですかねぇ。

お礼日時:2015/01/07 07:07

1。

(1) お坊さんの名前は、何故2文字なのでしょうか?何か理由があるですか?それとも2文字とは限らないのですか?

 今の習慣では戸籍上の名前を一字、お坊さんとしての名前を一字で下記のように2字が多いようです。昔は僧になる時二字つけて貰ったようです。中国に2文字が多いから真似たのでしょう。
 http://hasunoha.jp/questions/85

 下記には2字以外の僧名も上がっています。
 http://www.ne.jp/asahi/kiwameru/kyo/souryo2.htm

(2) 紫式部や清少納言は、平民ではなかったかも知れませんが、吉田兼好も平民ではなかったということですか?吉田兼好はどんな身分だったのでしょうか?

 吉田 兼好は、後についた名前です。彼は治部少輔卜部兼顕の子で、本名は卜部兼好(うらべ かねよし/うらべ の かねよし)です。

(3) 「聖徳太子」というのは、現在でいう「氏名」なのでしょうか?「

 いいえ、そうではありません。

 氏名」でないとすると、官職の名称なのですか?

 そうです。英国の皇太子はプリンス•オブ•ウェールズ(実名はチャールズ)のようなものです。

 本当の氏名は別にあったのですか?

 はい、本名は厩戸(うまやど)別名として豊聡耳(とよとみみ)、上宮王(かみつみやおう)などがあります。皆重ねて「上宮之厩戸豊聡耳命」とも。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

僧侶とは逝っても、「2字」とは限らないということですね。

英国の皇太子は、「プリンス•オブ•ウェールズ」というのですか?大東亜戦争の時、日本軍が沈めたイギリスの戦艦、確か「プリンス•オブ•ウェールズ」という名前でなかったでしょうか?もしそうだとすれば、イギリスにとっては、相当頭にきた事件だったのでしょうね。

お礼日時:2015/01/07 07:04

・氏名というのがはっきりしません



お坊さんは、氏(苗字)はありません。
浄土真宗では法名、他では戒名といいますが、
俗界の家身分を捨て、仏に仕え人々の成仏を祈る僧侶になったとき、、
法名(戒名)に改めます。
漢字二文字なのは中国の影響です、

・吉田兼好は通称です
本名は卜部兼好(うらべ かねよし)後に出家して 戒名は 兼好(けんこう)

代々、吉田神社の神主を務める家の三男に生まれ、朝廷の役人になりましたが、
三十台で、出家し、僧侶をしながら、和歌を詠んだり、徒然草を書いたり、
忠臣蔵の高師直に頼まれラブレターを代書したりした有名文化人でした。
吉田神社さんの息子の兼好さん という程度の愛称です

・聖徳太子は、死後、遺徳を讃えて言われるようになった通称です。
本名は厩戸皇子です。教科書では  聖徳太子(厩戸皇子)とか 厩戸王(聖徳太子)
と書かれてますね( ^^) _旦~~
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

「俗界の家身分を捨て、仏に仕え人々の成仏を祈る僧侶になったとき、法名(戒名)に改めます。」……はじめて知りました。俗人として、少し興味があるのは、僧侶になったときに、院号もついているのかということと、僧侶も偉くなるにしたがって、院号、法名(戒名)も変わってくるのかということです。例えば、字数が増えたり。(*^_^*)それとも、僧侶というのは、「名誉」などの煩悩とは一切関係がないので、僧侶になったときの院号、法名(戒名)が、そのまま一生続くのか、ということです。

「漢字二文字なのは中国の影響です」……他の方のご回答にもありますので、よくわかりました。私も、法名だけは、京都の観光のついでに、某寺から「釈○○」といただいておりますが、偉い人には2文字でない人もおられるのですよね。

それにしても、中国や朝鮮半島が、日本にもたらした文化的影響が大きいにもかかわらず、今日の関係というのは、一体何なのでしょうね。

お礼日時:2015/01/07 07:01

昔は2字が縁起がいいとされていたようです。

昔の国名、「泉」を「和泉」にしたり、「越」を「越後」「越中」「越前」など、無理に数か国に分けて区別したのも同じ理由です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

2字が縁起が良いというのは、はじめて知りました。

質問の後、ふと思いついたのですが、源義経の家来の弁慶は、確か「武蔵坊弁慶」といいましたよね。坊さんにも「氏名」があるのですかねぇ。

お礼日時:2015/01/06 09:17

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