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①.なぜ、あるいはキリスト教のどういう面に興味がありますか?

②.キリスト教に関する疑問、「ここが知りたい・わからない」という点はどんなところですか?

③.クリスチャンになること、あるいは教会に行くことに興味がありますか?もしあるとすれば、いまそうしていないのはどうしてですか?何があなたを引き止めてますか?

④.キリスト教に対や神、キリストにして反感や疑いを感じる点はありますか?あるとすればどういうところですか?

率直な気持ちを教えてください。

質問者からの補足コメント

  • ご回答ありがとうございます。
    キリスト教で「神の右」といったばあい「神から見て右」ですね。
    ユダヤ人の文化で「右」は「正義」とか「正しさ」を象徴するので、キリストを父なる神の右に立たせることでキリストの正しさ、正統性、無罪性、救い主であることの確証を与えているんです。

    質問の他の項目に対する回答ももしよかったら教えてください。

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/02/22 15:19
  • 仏教では善を行えば極楽、悪を行えば地獄に行くと言われますが、キリスト教は違います。

    誰も行いや性質によって天国に行くことはできません。行いや心で判断すると全員が地獄行きです。

    だから神は自分のひとり子でを人間として送りました。そして彼が人類史上唯一天国行きに合格する人生を全うし、その合格したイエスが不合格の私たちの身代わりに死んでくれたから、不合格な私たちが天国へ行けます。

    で、ここからが意見が分かれるのですが、不合格者が救われるのは同じでも具体的には二つのグループに分かれます。

    一つのグループは、イエスが身代わりに死んだことによりすべての人が救われたと考えます。クリスチャンか否かは、それを知っているかいないかの違いです。

    もう一つは、救われるためにはイエスを救い主と信じることが必要と考えます。信じれば天国、信じなければ地獄です。こちらのほうがより伝統的です。

    私は後者です。

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/02/22 16:05
  • ご回答ありがとうございます。

    人間は創られたときは完全だったんです。サタンに騙されて罪を犯した結果不完全になったのです。
    してみるとmikasa190505さんの疑問は、「全能の神が創った完全であるはずの天使や人間がなぜ堕落するのか」ということだと思います。

    まず、人間や天使は他の被造物と違い、より神の栄光の性質を反映しているということがあります。天使は、神の働きを助ける霊的な存在として、人間は被造物の頭として特別な存在です。

    その特徴として、道徳や美の感性、知性などもありますが、それらと同様に重要な特性として「自由意思」の存在があります。自由意思がない存在は無自覚なロボットや動物と同じです。

    仮に悪を行う能力が無く元々善しか行えないとしたら、善悪の判断や選択すらなく機械と同じでもはや善とも呼べません。

    その自由意思の選択で間違ってしまったのが人間であり一部の天使なのです。

    No.4の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/02/22 16:39
  • 「キリストの言葉はキリストの存在より重い」というのは、「キリストの実像は聖書の描写と違う」という研究を踏まえ、「わたしたちの信仰は現実のイエス・キリストではなく宣教された(聖書にかかれた)キリストである」

    キリストの実像が聖書と違うとの認識はキリスト信仰の破綻をもたらすのでそれに対処するための言葉です。

    私自身はキリストは聖書どおりと信じてます。

    本当はあまり関わり合いたくないのですが、念のため言っておいたほうがよいと思いますので付け加えますが、次の回答番号の方の言っていることは全くの間違いです。

    多分本人が勝手に考えているか、間違ったところで学んでしまったかのどちらかだと思いますが、全くでたらめな考えです。正統的なキリスト教であのような見解を持つところはありません。

    No.26の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/02/25 07:38
  • 先の補足で文が途中で切れていました。

    「、、、、宣教された(聖書にかかれた)キリストである」という宣言に基づいた言葉でしょう。

    です。
    失礼しました。

      補足日時:2015/02/25 07:43
  • みなさんありがとうございました。多くの考えが聞けて大変参考になりました。
    ただ一つ思いましたのは、「純粋な疑問」というのはすばらしいものであり大事にすべきですが、「頭で考えて」「議論して」理解や納得に至ろうという考えでは「絶対に」答えも納得も得られないということです。絶対にです。

    ではどうすれば本当の答えが得られるのかというと、「自分の心の奥底の声を聞く」ということです。これ以外にはありません。議論に固執するのは「自己正当化」や「本心では救われたいが自分で責任を負いたくない」心の現われです。別に、信じたければ信じればいいし、信じたくなければ信じなければいいだけです。本人の問題です。

    これで、今回の質問は閉じたいと思います。お答えできていない質問には、時間のあるときにブログに書きたいと思います。よかったらたまに覗いてみてください。質問の趣旨上ベストアンサーは選択しないことご了承ください。

      補足日時:2015/03/07 20:35

A 回答 (37件中21~30件)

はじめまして。


クリスチャンの方に聞いてみたかったことがあります。
初歩的なことですが...

①.
私は遠藤周作氏の著作が大好きです。いつも号泣してしまいます。
氏はカソリックですが、プロテスタントの方からは、氏の著作はどのように評価されているのでしょうか。
(カソリック内部でも氏は異端視されることもあるようですが...)

②.
●世界史や地理の教科書では、ドイツあたりはプロテスタントとなっていますが、ノルウェー・スウェーデン・フィンランドなどは、わざわざ「福音ルーテル派」と色分けしてあります。この違いは何なのでしょう?
●カソリックとプロテスタントの違いはなんとなく分かりますが、ギリシア正教・ロシア正教の位置づけが良くわかりません。
 特に、ギリシアと言えば多神教で有名なイメージがあるので、何故にその名前を冠したキリスト教の宗派があるのかが謎でした。

③.
実家は浄土真宗ですし、また神道を奉じてもいますので、特に宗旨替えの必要性を感じません。

④.
まあ、人間の作ったもの(と僕は考えている)ですので、残酷な歴史やら矛盾やらあって当然と思っています。今はとりたててキリスト教を特別視して反感を抱くことはありません。
(若い頃は結構反感をもっていましたが...)
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
①プロテスタントでも遠藤周作好きな人多いですよ。神学的に苦言を呈する人はいますがあれは神学書ではなくあくまでも彼の視点で語ったものなので文句を言う必要はないと思います。教会は「信仰的にうまく行っていない人を切り捨てる」結果になる場合があるので、彼のそういう人たちへの共感は別の意味で神の愛を表していると思います。

②あまり詳しくないのですが、欧州では国によりある教会が定められていて教会税があるそうなのでその関係かもしれません。

ローマカトリックと正教会については元々は一緒だったのですがローマとコンスタンチノープルの、いわゆる「本家争い」で分裂したのです。

「ギリシャ正教」ということばはギリシャにある正教会という意味と正教会全般を指す場合があります。後者については初期の正教会がギリシャ中心に繁栄したことによる通称です。

お礼日時:2015/02/24 15:59

ついでに・・・



この人はドブにハマってて臭いから要らないとか この人は片腕が無いから要らないとか・・ この人は罪を犯したから不要だとか 神は そんな差別しませんよ・・・

どの人間も 同じ神の子として救う為に 涙を堪えて救いの摂理を敢行しているのが判らないの!?
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あなたのブログ 拝見しようとした処・・あなたは こう書いてますよね‥「荒らしとか単なる悪意による書き込みは無視や削除をする可能性があります」・・・



これでは 神の意思ではありません・・・

神は どんな人であれ 全人類を救う事を考えているのです・・・

なので 荒らしだろーが 悪意だろーが 受け入れる体制で無い限り あなたは 単なる偽善者な だけです・・・
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①.欧州のキリスト教を中心とした宗教戦争(100年戦争カタリ派など)や、他民族迫害(北米南米への他民族の虐殺)の歴史



②.キリスト教上層部ほど(インノケンティウス三世など)キリスト教を隠れ蓑にした、弾圧、迫害などを行っているのに、末端の信者ほど盲目的な洗脳状態に陥ってるアホらしさ

③.まったくない。

④.キリスト教が過去人類の歴史上、どれほどの悪行をしたか見れば、普通嫌悪感しか浮かばないのが普通だが?
 戦国~江戸時代においてキリシタン迫害など被害者ぶってはいるが、宣教師の実情は日本でキリスト教に改宗した農民を奴隷にして本国に送るだけの奴隷貿易商

 個人的にはイスラム国と同様のカルト集団だとおもってる。
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私は神の存在はあると思っています。


それは人の形をした偶像ではなく名前もなく自然だったり人間の想像を超える形で。
ただ、宗教は信じません。
どうしても矛盾が生じるからです。
人間が作った本に書いてある事を鵜呑みにし、人の倫理観で考えてはならない…とは矛盾すぎる。
そして人に押し付けるからです。
信じる気持ちは自由なのだから、
信じないのも自由ですよね。
信じるのと、盲目的なのは違う
と思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
確かに神は形なく、人間の想像を超える存在ですよね。

名前について神は、モーセに尋ねられ「わたしは『わたしはある』というものである」と答えています(出エジプト記3章14節)。

聖書に関しては、著者は神です。聖書に次のようにあります。「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有効である」第2テモテ3章16節)

つまり、実際に書いたのは人ですが、内容は神が霊感によって指示して書かせたものということです。

私も確かに盲目的になるべきではないと思います。ただ、「信頼する」ということにはあるところで「詮索を切り上げる」ことは必要だと思います。

「100%の保証はないけど、トータルでこの人は信用できるから委ねてみる」ということが人間同士でも、神への信仰でも「信じる」ということの意味だと思います。

お礼日時:2015/02/24 15:30

またまた これも面白い(笑)



「キリスト教で「神の右」といったばあい「神から見て右」
   ↑
神って あなた どんな大きさなのか知っていますか!?・・・この宇宙全体が神の実態なのですよ・・

なので 神の右や左なんて無いのですよ・・・・
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「右の頬を打たれたら…」に代表される原始キリスト教と魔女裁判に象徴される中世キリスト教の乖離がなぜ起こったのかに大変興味があります。



私は反クリスチャニティーではありません。単に人間の思想に興味を持つものです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
やはり一番大きいのはキリスト教が国教とされ、教会の権力が増大し聖職者が特権階級になっていったことじゃないでしょうか。

彼らが甘い汁をすするのを正当化するためには聖書の真理を民衆から隠す必要があります。それで教会は聖職者以外に聖書を読むことを禁止しました。

聖書の光が隠されたことが中世暗黒時代の原因だと思います。それを打ち破ったのがマルティン・ルターをはじめとする宗教改革者たちでした。彼らは聖書を民衆に伝えました。

お礼日時:2015/02/24 14:49

何故 あなたは回答者を選ぶの!? 全員が あなたの質問に疑問を持ち そして それを書いてるのだから 質問したあなたには 全回答者を安心させる責任が発生しました・・



なのに 俺の回答にも目もくれず 勝手に天国や地獄を表してる・・・天国が死後の世界にあるのなら 何故 人間は肉体で産まれなければならないのか・・等の説明が それでは出来ない筈です・・

創造原理 堕落論は 知っているみたいだが 肝心の 神の心は あなたは知ろうとしていないのです・・
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あ、あの~、まさか「世界統一教会」とか「エホバの証人」とか?



>>信じれば天国、信じなければ地獄です。

こんな教え、本当に、ありますか?

  
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
私はプロテスタントの福音派~聖霊派のクリスチャンです。
このグループは聖書信仰に立っていますので、聖書に書いてあるとおり、「彼を受け入れたもの、すなわちその名を信じたものには神の子となる資格を与えられた」という風に信じるのです。

一方、プロテスタントの「リベラル派」と呼ばれる人たちやカトリックは、先にも書いたとおりすべての人が救われていると考えています。これは「新普遍救済主義」といって比較的新しい考え方です。

お礼日時:2015/02/23 07:38

しつこくて申し訳ありません。

ブロックしていただいてかまいません。

キリストを救い主と信じれば天国、信じなければ地獄という説ですが。
100%信じていれば、もちろん天国へ行けるでしょう。
では、50%ではどうですか、1%では? 0.001%では?
合格ラインを示してください。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
キリストを救い主と信じるというのは、何パーセントの問題じゃなくてYesかNoか、二つに一つだと思います。

「キリストを救い主だと思う人?」ときかれて手を挙げるか挙げないかということです。神はそれにはっきりと自分で答えを出すことを人間に求めているんです。

お礼日時:2015/02/23 07:27

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