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“嫌われる勇気”という本の中で
感情は飛び道具と説明されていました。

嫌われる勇気という本でも
主人公はウェイトレスを威圧し、
支配するために怒りの感情を捏造した。
と哲学者より指摘されています。

人が怒るのは、自分の深層心理に触れ、
その行動変容に贖うために怒りを
捏造して対応にあたる。

この場合は性悪説になるのでしょうか?

私は人間は自分の利益のためなら
他者から見れば善にでも悪にでもなると
思うのです。

人間の深層心理は必ず
自分のために繋がると私は考えます。
人のためというのは、自分のための
延長線上にあると思うのです。

自分でさえも満足させれていない人間に
人のためなどできようか?

そこに自らを欺くことに、
欺いた者にどんな得があるというのか。
自分のためという言葉に罪悪感をかける
文化や道徳観もあります。

つまり、周囲の目が怖いから、
恥をかきたくないから
“誰誰のため”となる。

本当の意味での性善説とは、
自分をある程度に満足させることが
出来た人間にのみ感じる心理では
無いかと考えるのです。

つまり、人間は生まれた瞬間は
欲の塊である。その欲、一つ一つを
満たす事で始めて誰かも幸せにしたい
となるのではないでしょうか?

そういう意味で、私は性悪説の立場を
取ります。赤ん坊は皆、悪の塊である。
その悪の根源を一つ、一つと満たす事で、
やがて善になると考えますが。

つまり、世の中に溢れた
“誰誰のため”というのは、
これは満たされなかった人間が
自分のために人を動かす呪い文句では?

本当に満たされた人は、
“誰誰のため”になんか
使わないのではないでしょうか?

いかがでしょう?

A 回答 (2件)

性善説と性悪説は逆説ではないですよ。


ゆえに両立します。
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この回答へのお礼

何かの欲求に対する渇望が悪であるなら、そこから満足しすぎて、
次に誰かを満足させてあげたいとなる
満足させた本人まで満足した感覚になる。
これが善。コモンセンスって奴でしょう。

どこかの経営者なんかがお客様のため、
患者様のためと繰り返す。

当然、そんな事を言う経営者は腰が重い。
自分で動かず人を動かす。
しかし、それは迎合。
それに気づけない経営者は裸の王様である。

例えば、人間の心は甘えたいを抑圧すると
尽くしたくなる。
甘えると嫌われる子供が、
親に甘えるためにと勉強を頑張る。
親に尽くしている、周りの子供は遊んでる。

本当は自分も遊びたい、甘えたい。

人が猿だった時代。
小猿達はそうやってコミュニケーション
を学び群れを形成した。

遺伝的に99パーセントで
人とオラウータンは合致する。
しかし、人とオラウータンの決定的な
違いはこれから述べる環境だ。

勉強しない子供を親は良いと思わない。
だから甘えさせない、友達とも遊ばせない。
その見返りとして、ゲームやぬいぐるみを
買い与える。

不幸な子供は他の子供に
与えられたプレゼントを自慢する。
自慢とは劣等感の反動形成。

不幸な子の親は、
自分が子煩悩だと錯覚している。
自分さえ欺く魔王、魔女である。
この日本になんと多いことか。

その昔、藤子不二雄のアニメに
キテレツ大百科という漫画を思い出した。
ドラえもんのスネ夫に類似したトンガリ
というキャラがいた。

トンガリこそ本当は人一倍寂しいのに、
それを上手く表現できない子供だ。

トンガリは親が買い与えた玩具を自慢し、
甘えたい劣等感を抑圧し、合理化した結果
自慢することでその劣等感の解消にあたる

トンガリは自慢を繰り返す。
先ほどのべた経営者と同じ。

トンガリも、経営者も、
愛されていないという真実を
受け入れられない。

人を評し、自慢し、削る人生。
泣くほどの現実からは目を背ける。
人生を能動的に生きていない。
何のための人生だったのかという絶望。

年齢ではなく、ある時に気付く。

キテレツ大百科のトンガリの母親は
“ママもトンガリの事が好きよ。
お金の次に愛してるわよ”
母親はこれも嘘である。
本当は自分が一番好きである。
そして、子供が一番嫌いだと言わない。

ありがとう。
新しいインスピレーションを。

お礼日時:2015/04/09 22:13

人間は欲求を害するものに悪意を持ち、


害しないものに善意を持つのではないでしょうか。

その欲求には、
①生物としての欲求(生理的欲求等)
②社会的動物としての欲求(平和的共存等)
③人間としての欲求(個人的なセンス等)
があり、種・社会・個人として進歩して暮らしやすくなるにつれて
①②③の順にそれらが害されないで済むようになって
悪意を持たないで済むような方向に進むのではないかと思います。

そして、最終的には①②を満たしたうえでの③、
つまり「利他と矛盾しない利己」④というものを
自然体で肩の力を抜いて実践できる状態が理想として浮かんできます。
それはそのまま現代の繁栄につながり
さらなる進歩のベースになります。

自他のギャップによる矛盾に満ちた世の中において
暮らしやすさを求めるバイタリティの前傾がある限り
《ニュートラルから善を模索して④へと進むのではないか》と
個人的には考えています。
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この回答へのお礼

レスありがとうございます。

そうですね、分類化したりするとそうでしょう。

ただ、生まれてきた環境や、
社会の動向、他者からの干渉などで
とても影響を受けやすい欲求ですね。

肩の力を抜くと襲われてしまうような
世の中ではどこか安心できる場所を
求めてしまうのかもしれませんね。

お礼日時:2015/04/07 23:33

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