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イエスキリストは勘違いをしていた。
イエスキリストは自分が奇蹟を起こせば人々は喜ぶと思っていた。
しかしそれは彼の勘違いであった。
誰も奇蹟など望んではいなかったのである。
人々はイエスキリストが考えたほど愚かではないのである。
そんなことも知らずイエスキリストは奇蹟を起こそうとやっ気になっていた。
ガラリア湖の上を空中浮揚し歩いてみせたりもした。
しかしこれを見たナザレの村人たちはがっかりした。
「この人は何か間違ったことを考えている」と気付いたからである。
イエスキリストが奇跡を起こそうとやっ気になるのを見てナザレの村人たちは悲しんだのである。
それでもイエスキリストは奇蹟を起こすことをやめなかった。
死人の手をとってその死人を生き返らせたりもした。
しかしこれを見た村人たちはますます悲しんだのである。
彼らはこの世がカオスに包まれるのではないかと恐れたのである。
イエスキリストは完全に勘違いをしていた。
イエスキリストは自分がどれ程罪深いことをしているのか全く理解していなかったのである。
ナザレの村人たちは悲しんだのである。
なぜイエスキリストは奇蹟を起こせば人々は喜ぶなどと勝手な勘違いをしたのであろうか。

A 回答 (15件中1~10件)

奇蹟の教えは全て本当にイエスキリストが行った行動では無く、例えだという風に言われているのが多くあります。

例えば目が見えない人々を癒す治癒奇蹟というものがありますが、イエスキリストの行動で目が見えるようになったのではなく、目が見えなくても生きていける道だったり、病人の生きる希望を持たせたのがイエスキリストの行った事だと言われています。つまりイエスキリストは喜ばせるのでは無く、神に忠実にキリスト教を違った見方で広めていこうとされた中でイエスキリストと会った障害を持った方々に向き合っていった筈です。死人の手を取って生き返らせたのも例えではないでしょうか。
何方にせよ喜ばせる目的では無い筈ですが…
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この回答へのお礼

>奇蹟の教えは全て本当にイエスキリストが行った行動では無く、例えだという風に言われているのが多くあります。

バチカンやローマ法王はイエスキリストの奇蹟はタトヘとはみなしていないです。
実際バチカンでは奇蹟を認定しています。

お礼日時:2016/01/26 19:12

★ ガラリア湖の上を空中浮揚し歩いてみせたりもした。


☆ 出来るわけがない。とツッコミを入れなければいけない。

入れなかったあなたのほうが おかしい。

★ 実際バチカンでは奇蹟を認定しています。
☆ 放っとけ。放っておけないことのほうが 問題だ。
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この回答へのお礼

この問いは2段構成なのである。
第1段はイエスキリストは奇蹟を起こしたのかということ。
「出来るわけがない」とツッコミを入れるとすればここであるが。
ここはひとまずパスするとして、

第2段は、仮にイエスキリストが奇蹟を起こしたとしてもナザレの村人たちはそんなものを望んだのかということ。
ナザレの村人はそんなもの望むわけなかったってことである。
全てイエスキリストと聖書記者らの浅はかな勘違いであったということ。
実際のところ誰も奇蹟など望んではいないのである。
つまりイエスキリストと聖書記者らの発想は根本的に間違っていたということ。

お礼日時:2016/01/26 20:31

曹洞宗内紛(そうとうしゅうないふん)は、明治時代に曹洞宗で起きた内紛事件のことである。


概要[編集]
曹洞宗内では、開祖道元が開山である永平寺と、太祖瑩山紹瑾が開いた能登の總持寺の住職が、交互に宗派の管長を勤める両本山交替管長制度をとっていた。数百年来両山の確執は絶えなかったが、明治維新の頃には、積極的な總持寺派が永平寺派の10倍以上の末寺を保有するまでに勢力を伸長していた。
明治元年(1868年)6月、新政府が両山に対して沙汰書を発給し、ようやく調停が成立した。新政府から下ったのは、弱体化していた永平寺派にとって有利な裁定であった。ゆえに東京都港区高樹町(現在の西麻布)にある、大本山永平寺別院長谷寺に井上馨の先祖代々の霊碑を創建したのは、井上に対する恩に報いたものと考えられている。
また逸話として、内務大臣時代の井上が両山の僧侶を招いて料理を振る舞った際、「観樹将軍回顧録」によれば、井上は食事時に事前の調査に基づいて、精進を厳守している僧には精進の膳、破戒の僧には肉類の膳を出した。僧たちは膳に手をつけず、黙って顔を見合わせるばかりであったという。このことは、海鮮配膳として広く知られたという。

https://ja.wikipedia.org/wiki/曹洞宗内紛


~~~~~~~~~~~~~

3:23そこでイエスは彼らを呼び寄せ、譬をもって言われた、「どうして、サタンがサタンを追い出すことができようか。 3:24もし国が内部で分れ争うなら、その国は立ち行かない。 3:25また、もし家が内わで分れ争うなら、その家は立ち行かないであろう。 3:26もしサタンが内部で対立し分争するなら、彼は立ち行けず、滅んでしまう。 3:27だれでも、まず強い人を縛りあげなければ、その人の家に押し入って家財を奪い取ることはできない。縛ってからはじめて、その家を略奪することができる。 3:28よく言い聞かせておくが、人の子らには、その犯すすべての罪も神をけがす言葉も、ゆるされる。 3:29しかし、聖霊をけがす者は、いつまでもゆるされず、永遠の罪に定められる」。 3:30そう言われたのは、彼らが「イエスはけがれた霊につかれている」と言っていたからである。

マルコによる福音書


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第16章
16:1さて、安息日が終ったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとが、行ってイエスに塗るために、香料を買い求めた。 16:2そして週の初めの日に、早朝、日の出のころ墓に行った。 16:3そして、彼らは「だれが、わたしたちのために、墓の入口から石をころがしてくれるのでしょうか」と話し合っていた。 16:4ところが、目をあげて見ると、石はすでにころがしてあった。この石は非常に大きかった。 16:5墓の中にはいると、右手に真白な長い衣を着た若者がすわっているのを見て、非常に驚いた。 16:6するとこの若者は言った、「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのであろうが、イエスはよみがえって、ここにはおられない。ごらんなさい、ここがお納めした場所である。 16:7今から弟子たちとペテロとの所へ行って、こう伝えなさい。イエスはあなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて、あなたがたに言われたとおり、そこでお会いできるであろう、と」。 16:8女たちはおののき恐れながら、墓から出て逃げ去った。そして、人には何も言わなかった。恐ろしかったからである。

マルコによる福音書

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>3:23そこでイエスは彼らを呼び寄せ、譬をもって言われた、


>16:8女たちはおののき恐れながら、墓から出て逃げ去った。そして、人には何も言わなかった。恐ろしかったからである。



マルコ福音書が共観福音書の中でも成立が初期で、しかも使徒たちに批判的だったのであれば、
奇跡物語も、嫌がらせだったのかもしれないが、キリスト教はまあ、よくある病気治し系統の宗教だったのでは
ないか?悪霊を精神病だとか、病気を宗教的な罪とか穢れと解釈してしまうと、ちょっとどうかなとも思うけれど、まあ、べつに。宗教の始まりなんてそんなものではないか?

なぜ奇跡などというものが堂々と聖書で語られているのか不思議といえば不思議であり、面白くて興味深いけれど。
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この回答へのお礼

バチカンやローマ法王はイエスキリストの奇蹟はタトヘとはみなしていないです。
奇蹟はあったと教えています。
実際バチカンでは奇蹟を認定しています。

お礼日時:2016/01/26 21:48

ったく。



ツッコミは パスするな!


ガリラヤ湖畔の人びとが 奇蹟を望んでいたか。

この問いにも ていねいに・ふところ深く・情け深くこたえるとすれば。:
問題は 病気がなおって欲しい。徴税者の横暴から守って欲しい。あとは
出来れば ローマ帝国から独立したい。とは 人びとは思っていたし願って
いた。

それが メシア(マッシーアハ)=ギリシャ語でクリストスに託された課題
である。

イエス・キリスト自身は そのような政治的指導者になることからは自由で
あったが――なぜなら ユダヤイズムの枠内におけるヤハヱー神であること
から 普遍神の位に揚がって古い神は棄てることが主題であったーー それ
でも 民衆の願いには 答え得るものは答えたのだと思われる。

その中に 奇蹟とよばれるわざも入っている。

奇蹟を望んだというよりも すこやかで生活がよくなることをのぞんでいた。

と考えるのが 妥当だと思われる。

これでよいか?
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宗教の始まりと書いただけで


始皇帝暗殺の話をしてくる屑が居たので
しばらくやめます。

どうしてこう中国系の屑が多いのか?
中国が嫌いなわけではないのですが、
中国の関係者が私を揶揄してくるので困ります。
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□精神は時空間を超えている。


□或いは時間、空間、に束縛されない。

これに付いて人の道さん、そして"お主"は肯定しますか。
肯定するなら□に☑を入れてください。
正直にね。他の方々はご自由に。

さて、奇跡と云うものがあるかないか、に付いてですが。
この世という物質的世界は"物理"に束縛されて居ます。
束縛されないこの世の物質的"現象"は有りません。

物質的世界に奇跡は無い、と云う事です。
奇跡とは精神の世界の事なのです。
精神的現象、なんです。

イエスキリストは精神を通して人々の心に奇跡を体現させたんです。
人々はイエスキリストの奇跡を実感したんです。

但し、ここで勘違いしてはいけない事が有ります。
奇跡は善悪とは何の関係も無い、と云う事です。
奇跡は神も凡人も悪魔も起こせるからです。
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この回答へのお礼

つまり我々がいる世界には外界というものは存在せず、脳内世界のみが存在するということか?

お礼日時:2016/01/27 09:48

キリストはそんなことは考えていなかったんだろうと思います。


世の中の矛盾に対するキリストの主張が
ニーズのある人には‘目から鱗‘という感じで
そういうことが比ゆ的に表現されているのではないかと
漠然とイメージしています。
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この回答へのお礼

奇蹟はなくてはならなかったのですか。
キリストは自分の考えを表すのに奇蹟がなくてはならなかったのでしょうか。

お礼日時:2016/01/27 09:45

脳は受信と発信と消化吸収をします。


外部(外界)の刺激に反応して。
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奇跡という比喩的表現でぼかさざるを得なかったのは


強大な権力がアンチとして立ちはだかっていたからだと思います。
そういう存在とことさらに険悪にしないようにしながら同時に信念を貫いた。
そういうコンセプトの表出としての描写がそこにある
くらいな感じなんだろうと思っています。
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もっと素直に反応したら どうなんだ。

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この回答へのお礼

では何故未だにイエスキリストの奇蹟を持ち出すカルトが世界中で後を絶たないのだ。
バチカンやローマ法王でさえイエスキリストの奇蹟は事実であると宣言しているではないか。
何故そこでウソをつく必要があるのか。
真に正しい教えであればタトヘなど用いる必要があろうか。
真に正しいことを示すのに奇蹟に頼る必要があろうか。
よくよく考えてみなさい。
素直に判断出来ないのはそちらの方ではないのか。
間違っているのはそちらの方ではないのか。
どうだはっきり答えてみろ。

お礼日時:2016/01/27 18:10

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