プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

ここ何度か占いについての質問をしていたのですが、
占いについて否定的な方の回答で、
占いには論理的根拠がないと言う、ご意見がありました。

そこでふと、素朴な疑問がわいたのですが、
論理的根拠がないという断言は、
どのような根拠を持って言えるのでしょうか?

またそもそも論理的根拠とは、
どのような物の事を言うのでしょう?

A 回答 (9件)

占いは、一般的に娯楽であるという位置づけです。


この場合、論理的根拠という使い方はあまりしません。
論理的根拠=科学的根拠と言い換えていいと思いますが。

科学的根拠がなくとも、統計的に相関性がみられるなどの、他人が納得できる根拠があればいいと思いますが、それもできないからではないでしょうか。
夢占いのように心理学的統計に基づく科学的要素を含む占いもあるのですが、、
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この回答へのお礼

ありがとございます。
論理的根拠=科学的根拠というお話は初めて伺いました。
すると論理的根拠という使い方をされていた方が、
言葉の使い方が変わった方だったのでしょうか。

そうしますとやはり、
>他人が納得できる根拠があればいいができない
と言う判断が何故出来るのかが疑問なんです。
納得は他人単位の個人で無数にあるように思いますし、
根拠の主張も無数にあり検証しきれないように思うのです。

>夢占いのように心理学的統計に基づく科学的要素を含む占いもある
のでしたら、
根拠はある事になるでしょうし。

お礼日時:2016/03/13 21:41

No.7 のWindFallerです。



何度もすみません。温かい返事ありがとうございます。
自分の書いたものを読み返してみると、やっぱりピントが外れているような気がしてくるのです。書けば書くほど、的外れで、自分の調子がおかしいのではないかと不安になっています。

happystealthさんの疑問と同じようなものは、世の中に一杯あるようですね。今度こそ、核心に近づけようと思います。
でも、これは、happystealthさん宛の内容ではありませんが。(^^;

大昔、パソコン通信時代に私が読んだ本からの抜粋です。私の今回の考えも含まれています。それは、そういう発言の人の中には、同情すべき真実があると思っているのです。もちろん、真実は明らかにはならないでしょうが。(この内容は、本からの抜粋ですが、私が本を読みながら、メモを取ったものですから正確とは限りません。)

「人間はいつの場合にも、"信念"には必ずよりどころとなる理由を備えていると確信している。しかし、大抵の場合、本当の理由は隠して、適当なその場を取り繕う理由が述べられる。われわれはいつも理由を述べたがるが、真実の理由が言いたくなくて、別の理由を考え出すものである。」

「あらゆる主張には、必ずそのよりどころとなる一般的法則がある。その法則を何であるか見抜かなくてはならない。」

今回の場合に当てはまります。
「相手の見解が誤っていることを発言するだけでは、不十分である。否定する理由を挙げないことには、虚偽になってしまう。否定したあと、否定する理由をつけなくてはならない。」

「all or nothingというような、それを全て否定するものには、根拠のない意見が多いのである。」

なお、
「論理的な根拠が説明できない以上、『ない』と見なすのが論理」
それは、科学的とか論理的な考え方ではないです。

引用・参考文献:Michel.A.ギルバート
『議論に勝つ』(創元社) 絶版 『議論に勝つ本(三笠書房)』も絶版
http://amazon.co.jp/dp/4422100270
洋書:How to Win an Argument (Wiley)
http://amazon.co.jp/dp/0471123498

この内容を読んで、腹を立つ人はいるかもしれませんが、少し冷静になってみれば、ひとつのパラドックスに陥っているのではないか、と思ってくれれば救われるのですが……。別に、今回の書き込みは、この問題に合わせて書いているのではなくて、ある種、普遍的なものがあるようです。では……。
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この回答へのお礼

何度もありがとうございます。

>「相手の見解が誤っていることを発言するだけでは、不十分である。否定する理由を挙げないことには、虚偽になってしまう。否定したあと、否定する理由をつけなくてはならない。」

これなんですよね。
「占いには論理的根拠がない」と言うだけでは、
なぜ論理的根拠がないのか?根拠がわかりません。

一番わからないのは、
「論理的根拠がある。」と主張している方がおり、
その人に対して「では根拠を示して下さい」と、
言っているわけではないんです。
先に「論理的根拠がない」断言がなぜ出来るのか?の、
根拠がわからないという事なんです。

また、
>論理的な根拠が説明できない以上、「ない」と見なすのが論理で考えるときのルール。
と考えた場合は先に言った者勝ちになる一方、
論理や説明と言うのを完全な客観で考えるのは、
無理があると思います。

あると思う側にとっては論理も説明もあるでしょうが、
ないと思う側にとっては認めない・出来ていない事になるでしょうし、
説明出来る出来ないと最終的な真実はまた別でしょう。

特定の占いや霊能力を絶対視して信じる方と、
占いを否定する事を絶対視して信じる方は、
似ているのではないかと思うようになりました。
占いを否定する事も、否定を信じている方にとっては、
否定する事そのものが信念なのかも知れません。

お礼日時:2016/03/13 21:37

#5で書きましたWindFaller です。



>確かに私が求めていた回答とは少し違うようですし、

大変すみません。お気持ちやお考えは分かっていたのですが、というよりも、本当は、ご質問に対する明確な解答は、その当事者の人しかないのだろうし、そのための質問だったと思っています。そして、私は、その人たちとは違う立場の人間です。ただ、このタイミングを逃したら、もう二度と、この件についての時期をなくなってしまうだろうと思ったのです。

「論理的根拠」の原理原則の発言も、それは諸刃の剣のようなものだと思います。日本人というのは、自我境界が弱いといわれます。だから、常に、マジョリティというものを意識して、それに、なびくような意見をする人が多いのです。個(自分)と多(一般社会)の関係の密接度が高いわけです。

私自身も、happystealthさんとは、また別な部分で、どちらかというと晴れない気持ちを抱えているのです。例えば、吉本隆明の『遠野物語』の解釈を読んで、その内容のモヤモヤ感は、ちょうど、この「論理的根拠」があるとかないとか言っている話と大差ないと思うのです。解釈するべきではないところに解釈を入れるのは、極めて残念なのです。

あえて、すごく分かりきった誤った論拠の議論を提示すると、
「神は存在しますか?」
「もちろん神は存在する。聖書にははっきりそう書いてあるのだからだ」

このような議論は、論理学にも出てくる問題だそうです。ただ、もちろん論拠としては成り立たないのは、「聖書」の内容を証明する手立てがないからです。日本人の多くはクリスチャンではありませんから、こういうことには痛くも痒くもないもありません。

では、本当に「間違っていると言う事になるでしょうか?」と聞かれて「はい、間違ってます」と言ってよいのか、という疑問に感ずるのは、良心的な人の考え方だと思います。科学的な思考のプロセスというのは、自分の意に沿わぬものを排除する原理主義ではなかったはずなのです。私には、「論理的根拠(a logical evidence)」という響きの中に、そうした原理主義が混じり込んでいるように思うのです。

「分からない」ときに、「分からない」という答えがあることを忘れている人たちがいるのです。それを「否定」し、「ないもの」にしてしまうということは、間違った考え方だと考えているのです。

超能力者や霊能力者などは、確かにマスコミが作り出した「ファントム(亡霊)」であって、そしてまた、自分たちが壊してしまうのです。そういう風潮に乗って、一時の風潮や感情に支配されて、批判したり、誹謗したり、時には、人の命さえ奪いかねない動きになっていくのです。そうした怖さを、日本人の気質や風潮から感じられるのです。

小保方さんの「STAP細胞はあります」という言葉が思い起こされます。
社会的には「ない」ということになりました。ただ、冷静に考えたら、この話の発端から全体におかしな部分がいくつもあります。その結果だけをみて、「インチキ」だマスコミが発表して、小保方さんを悪者にして済ませてしまう報道と、それに付和雷同してしまう人々には、何か見過ごしているものがあるように思うのです。この件とは違うというご指摘も受けかねませんが、1970年代の超能力少年「関口淳くん」の話から
今日まで、いつまでも同じような話が繰り返されます。

2004年のイラク人質事件で、その被害者の高遠菜穂子さんらを、自民党議員すら批判しました。その批判する拠り所も、原理原則が働いているように思います。しかし、その根拠たるものが、血の通った人間のものではないように思えてならないのです。

人の命を平気で無視したりする、思いやりもなにもない、また苦しんでいる人たちに対して、「自業自得」という言葉を浴びせかけるのです。そういう意見に不服を言おうなら、再び攻撃的な言葉を浴びせるような、極めて非情な考えのような気がしてならないのです。この根底にあるものはなんだろうかと考えてしまうのです。他のカテゴリでも、同様に、心ない書き込みを読まされることがあるのです。

現代においては、たかが「占い」なのだとは思います。しかし、自分の信じていないものに対して、反論や批判は、TPOが必要なのだろうと思うのです。

少しは、前回よりもご質問に対して、フォローになっていますでしょうか?
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この回答へのお礼

たくさん回答をありがとうございます。
フォローというか言わんとされる事は、
やはりわかるような気がします。

>「分からない」ときに、「分からない」という答えがあることを忘れている人たちがいるのです。それを「否定」し、「ないもの」にしてしまうということは、間違った考え方だと考えているのです。

占いに否定的な方がされる回答で、
私が違和感を感ずる部分はこれに近いです。
あるとも言っていなければ確たる定義や線引き自体、
人によって変わるようなあやふやなジャンルに対して、
なぜ「論理的根拠が無い」断言が出来るのか?
 
そしてそれをなぜ占いの質問があるたびに、
ここまでこだわって主張され続けるのかが、
ちょっと理解出来ずに奇異に感じていました。

野球が好きでサッカーに興味がないなら、
野球のカテゴリーで好きな方同士で話すのが普通でしょう。
なぜあえてサッカーのカテゴリーに常駐され、
投稿があるたびに「サッカーを好む論理的根拠はない」
とでも言うような投稿を繰り返し続けるのか?

その本質は論理的な根拠があるからではなく、
>自分の意に沿わぬものを排除する
と言うご本人のお気持ちがなせる事なのかも知れません。

お礼日時:2016/03/11 21:36

>「論理的根拠がない」という主張は、


>間違っていると言う事になるでしょうか?

 いえ、論理的な根拠が説明できない以上、「ない」と見なすのが論理で考えるときのルールです。

>また、納得出来る形の説明と言うのは、
>人によって変わってくると思うのですが、
>本人が納得し、説明出来ているかどうか?
>と言う、個人単位で変わって来ると言う事でしょうか?

 論理的に納得できるというのは、疑いようがないと認められているものから導き出せる説明であること、および実際に観察・実験した結果がその説明と合致するということ、そしてその両方を組み合わせて導かれる説明となります。「理屈は確かにそうであるが自分の心が納得しない」なんていうのは通じません。

 ただ、その「納得しない」に理由をつけられて、その理由が確かにもっともだと誰もが認めるようならそれはまた論理的に正しいといえます。それが従来正しいといわれているものと矛盾するのなら、何かの見落としがあったということになる。
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この回答へのお礼

>  いえ、論理的な根拠が説明できない以上、「ない」と見なすのが論理で考えるときのルールです。

ああ、前提が違います。
あるともないとも言っていない場で、
先にジャンルやカテゴリー全体を指して、
「ない」と言う場合の論理的根拠のお話です。
もっとも肯定側も否定側も論理的な根拠の説明自体は、
個々ではそれぞれあるとは思うのですが。

例えばこのように教えて!gooで質問した時に、
「教えて!gooの回答には論理的根拠がない」
と回答がついたような場合です。

あるいは、
>論理的な根拠が説明できない以上、「ない」と見なすのが論理で考えるときのルールです。
と考えた場合、
「飛行機はなぜ飛ぶのですか?」
と聞かれて論理的な根拠が説明出来なかった時、
あるいは本人にとって論理的と思う根拠を説明したが、
相手は理解出来なかった場合は、
論理的な根拠は無い事になりますか?

>論理的に納得できるというのは、疑いようがないと認められているものから導き出せる説明であること、

>ただ、その「納得しない」に理由をつけられて、その理由が確かにもっともだと誰もが認めるようならそれはまた論理的に正しいといえます。

ここまでみなさんのお話を伺ううちに、
理論は客観寄りだが論理は主観寄りの物と言う印象を持っていたのですが、
>理由が確かにもっともだと誰もが認めるようならそれはまた論理的に正しいといえます。
と言うのでしたら、
turborangerさんは「誰もが認めない限り論理的に正しいとは言えない」
と言うお考えでしょうか?

そうしますと人の判断で答えが変わるようなテーマでは、
誰もが例外なく認める事と言うのは無いでしょうから、
ほとんどの事は論理的には正しいとは言えない事になるわけでしょうか?

私の質問は、

>論理的根拠がないという断言は、
>どのような根拠を持って言えるのでしょうか?

ですから、
先に無いと言われた側が、
>論理的な根拠が説明できない以上、「ない」と見なすのが論理で考えるときのルール
と言う事になりますと、
例えば
「朝食は抜かない方が良い」
「朝食は抜いたほうが良い」
「教えて!gooの回答は参考になる」
「教えて!gooの回答は参考にならない」
このような場合はどちらも論理的根拠はない事になりますか?

お礼日時:2016/03/11 21:31

こんにちは。



私は、今回も何度も書きなおしてしまい、まだ、まとまっていませんが、そのままですと、締めに間に合いませんので、中途半端な回答ですが、答えをつけることにしました。

そのご質問の元になる話を探してみました。

>またそもそも論理的根拠とは、
>どのような物の事を言うのでしょう?

その本人がどのような考えで書いているのは、これは代弁するものではありませんが、「論理的根拠」というのは、"theoretical evidence" ではなく、本来は、"rationale"(ラショナーレ ラテン語)だと私は解釈しています。

Weblio では、
・論理的根拠
「現実的な事象などではない理論の側面からの裏付け。理論面での根拠。」
とあります。

「論理的根拠」という言葉は、インターネット検索でも多く見られません。しかし、別の呼び方「ラショナーレ」で調べますと、医学系のサイトなどでは、よくヒットしています。ご質問者さんに対して語った方は、ご質問者のhappystealthさんに違和感を感じさせる何かがあったものだと思います。それについて、質問から外していますが、問題点は最後に触れるつもりです。

この後は、「ラショナーレ」と呼ばせていただきます。

もし、占いに「ラショナーレ」を出せというのなら、それは、種類にもよりますが、Weblioの定義のままなら、可能なはずです。ここは、アマチュアのカテゴリですから、それを体系的に述べる人は少ないかと思います。ただし、占い自体は、その考えるプロセスが、まったく違うのです。

似た例とすれば「漢方」というものがありますが、そこには、直接の原理原則は見受けられませんが、そのプロセスには「帰納法」が存在します。言い換えれば、病原を明らかにして、薬剤を投入する例は少なく、症状に対する緩和の結果で以ってしか、効能を言い表すことができません。帰納法では、どんな長い歴史を持ってしても信用に足らないという方がいらっしゃいますが、現にその実績はあげています。

これと同様に、占いに「ラショナーレ」はあっても、近代科学によって解明できる部分は限られています。長い歴史を持った占いは存在し、「ラショナーレ」を持っています。近代科学には、理論物理学などがありますから、実証的できないというだけで、「ラショナーレ」がないわけではありません。

それとは別に、この占いの世界には、宗教学者のルドルフ・オットーの提唱した「ヌーメン(numen)」(聖なるものの体験)という言葉に付随したものがあります。そこから導き出される感情を「ヌミノーゼ(numinose)」と言い、畏怖と魅惑に似た感覚を導き出します。

こうした問題は、確かに脳の一部で沸き起こる現象だと言ってしまいがちです。しかし、その問題は、それが個人の脳で発生した現象なのに、なぜ、その経験自体が、他人に影響を及ぼすだろうかということなのです。これは、いろいろな宗教家たちが説明をしていますが、宗教とか関係のない人たちもいます。

そうしたものの中では、大脳生理学の品川嘉也氏が、他人の脳波の変化が他人の脳波の変化に影響をおよぼす実証を記録におさめています。これらの現象の原因はわからずとも、そうした実証的な科学を否定するというのは不可能だとは思います。

「占い師」または「占い」というものも、千差万別で、玉石混交の世界なのです。

おそらくは、数千年の時を経て、かろうじて現代まで残している「占い」もあれば、ちょっと占いをかじったぐらいの真似事、神秘主義者や心霊主義者、また、宗教団体のカモフラージュとして存在しているものもあるわけです。特に、宗教団体の場合は、「ラショナーレ」はあっても、その根拠が、教祖の思想であったのでは、その信仰がなければ、意味のないものです。

ここのカテゴリで示されるような占い師(占い師とは名乗らないかもしれない)には、本来は、経験と共感作用による読み取る、いわゆるエンパス(empath)の可能性があります。これが上記の品川教授の示すものと関連性があると考えています。

また、オーラについて色が見えるというのは、「共感覚(synesthesia)」の一種だと思われます。それと、「神」という問題は、私個人は、古代日本人が描いていた「神([か]みは[み]をかくす)」という古事記の定義や上代特殊仮名遣いで分かる、「kamï」の「み」がなぜ、乙類音を使ったのか、古代の人々が、どういう世界観を持っていたのか、それが、また、私たちの深層心理の中に眠る部分や意識と繋がりがあるのではないかとは思うものの、これは難問で、占いの範囲で手に負えるようなものではないと思います。

さて最後に、ご質問者さんの指摘している直接の問題なのですが、実は、私もずっと前から気にしていたことなのです。直接の回答にはなっておりませんが、「論理的根拠」というのは、自分を支えるためのプロパガンダのキャチフレーズのようなものだと、私は見ています。

本来、ここのカテゴリでは、回答者は専門家のみにしたら、とか、有償にするとか、一定のルールを設ければ、混乱は少なくなるだろうと思っています。ここはQ&Aのバランスがあまり良くありません。

回答者の中で、執拗に同じ内容を繰り返すのには、何か深い心の傷がそうさせているような気がしてならないのです。前回、私の書いた、私の母の話や、自分自身に起きたこと、そして、自分の家族に起きたことなど、一方で「占い」は、私の家族にとっては、タブーな部分もあるわけです。

私は、そういう前提を踏まえても、なおスピリチュアリズムやオカルティズムを、また占いなどを、安易には否定したりする気持ちにはなれません。また、前述のように、エンパスが、人の優しさ、思いやりからでさえあれば、信じようとする本人との関係に、割り込むことは、大変失礼な行為だと思っています。

むろん、そこには詐欺行為が発生しやすいし、元オセロの中島知子さんのような例はいくつもあります。いつぞや、辺見マリさんが、そのオカルト詐欺にあった話をしていました。社会的に知名度の高い人でも、巻き込まれて、輝かしい人生の経歴を失ってしまうこともあります。

しかし、スピリチュアリズムやオカルティズムに、首を突っ込んで、否定し続けたところで、根本的な部分を押さえなくては、誰も耳を貸すわけではありません。多くの人は、将来に対する不安、現在に対する不満を持っています。

学生時代、友人にあれほど反対したのに、宗教団体に入信してしまいました。そして、友人関係はそこでまったく途絶えてしまったのです。私は、そうやって、今まで、数名の知人と喧嘩別れになってしまってしまいました。とても残念なことだとは思います。私は、昔、この件の話をしていたら「エホバの証人から脱会させる会」の人から、お叱りを受けたことがあります。「あなたは、あまりにも軽々しく考えている、こういう問題は、肉親でなければ無理なほど命がけなんです」と。それは、この件でもいるのかもしれません。

ここの場で、他人の質問の回答に、自分の感情の赴くままに、アンチ・オカルティズム、アンチ・占いを繰り返したところで、それだけでは意味があるとは思えません。唯物論を述べたところで、逆効果になるだけだと思います。

少なくとも、個人に関する限りは、その本質は、人の心の不安や不満をどうやって安心にさせられるかに尽きるように思っています。

あまり、まとまっていませんが、とりあえず、ここまでにします。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
確かに私が求めていた回答とは少し違うようですし、専門的な部分はわからないのですが、くり返し読み直すうちに、言われたい事はなんとなくわかったように思います。

私が一番違和感を感じたのは、なぜ「無いという断言が出来るのか?」と言う事です。それについては他の方や、WindFallerさんの「現実的な事象などではない理論の側面からの裏付け。理論面での根拠。」と合わせて考えると、やはり個人単位の理論。理屈なのだろうなと思うようになりました。

言われるように「占い師」または「占い」というものが千差万別玉石混交だからこそ、あるにせよないにせよ、なぜ断言が出来るのかが疑問だったのですが、断言出来る根拠があるから断言出来るのではなく、本人の理屈ではそうなると考えると一番納得が出来ます。

色々な方の回答を読み比べているうちに思ったのは、占いに肯定的な方より占いに否定的な方のほうが、断言口調で全てを否定する方が多いように思ったと言う事です。これは少し意外でした。質問するまでは特定の占いや霊能者を信じている人のほうが、「絶対本物です」みたいな口調があるかと思ったのです。ところが実際は逆でした。

占いに肯定的な方のほうが、玉石混交である事を認めた上で、中にはこういう物もあります。こういう経験もありました。と言うような回答が多かったのに対し、否定的な方のほうは、占いというジャンル自体を仇にしているかのように、頭ごなしに全てを否定してくる印象なのです。

>執拗に同じ内容を繰り返すのには、何か深い心の傷がそうさせているような気がしてならないのです。

本当に興味関心がないなら、最初からそのジャンルには関わらないですよね。なぜ自分が信じてもいないカテゴリーにいつもおられ、質問のたびに否定的な回答をつけられ続けるのが不思議でしたが、言われるように何かご本人なりの、こだわりや思い込みがあるのかも知れませんね。

お礼日時:2016/03/09 21:26

またそもそも論理的根拠とは、


どのような物の事を言うのでしょう?
   ↑
まず疑いの無い真実、事実があることを
前提とします。

その事実、真実と、ある結果の間に、因果関係が
あることを論理的根拠がある、と言います。



論理的根拠がないという断言は、
どのような根拠を持って言えるのでしょうか?
    ↑
占いの場合は、
第一に、前提となる疑いの無い事実を
示すことが出来ません。出来ていません。

第二に、結果との間の因果関係を立証
出来ません。

故に論理的根拠がありません。



論理的根拠がないという主張の論理的根拠について
    ↑
論理については以上ですが、注意すべきは
論理的だから正しい、とは、必ずしも
言えない、ということです。
反対に、非論理的だから間違っているとも
言えないのです。

特に、社会科学における理論ほど信用できない
ものはありません。
その典型が経済学です。

ジョーンロビンソンはこう言っています。
「経済学を学ぶ目的は、経済学者に瞞されない
 ようにするためである」
ノーベル経済学賞を受賞したクルーグマンも
次のように言っています。
「経済学者は無能と加害者であり続けた」
同じく、ノーベル経済学賞を受賞した
マイロン・ショールズとロバートマートン
が経営者になったLTCMというヘッジファンドの
会社は空前の赤字を出して倒産しています。

自然科学だって怪しいものです。
かつて、光は粒子とされていましたが、その後波だ
という説が有力になり、現在は波の性質を持った粒子
つまり量子だ、ということになっています。
将来、どうなるか判ったもんじゃありません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
そうしますと疑いのない事実、真実や、
因果関係のあるなしについては、
何を持ってして判断したらいいのでしょう?
やはり因果関係の立証が出来ない断言というのも、
何故出来るのか疑問ですし、
因果関係の立証と言うのも、対象や受け取り方次第で、
相当変わってくるようにも思えます。
また「占いには論理的根拠がない」
と言う主張自体の事実はどこの部分で、
因果関係は何を持ってして立証されていると考えられるのでしょう?

経済学や自然科学のお話はよくわかります。
私自身、占いという言葉で胡散臭く思っていましたが
「憲法九条を守る事には論理的根拠はない」
などと置き換えて考えると、
疑いのない事実、真実とはなんなのか?
無いと言われた側に説明責任が生じるのか?
納得のいく因果関係を説明できない限り無い事になるのか?
(しかしおそらく、どのような論理的根拠を示されても、
 論理的根拠はないといった側は、納得はしないでしょう)
自分ではどれ一つ、答えられそうにもありません。
 
いずれにせよ、論理的だから正しいとは言えない。
非論理的だから間違っているとも言えない。
となりますと、
もし「占いには論理的根拠がない」
(もちろん、占い以外のどのようなジャンルも)
と言ってみたところで、
「占いに論理的根拠がないからといって、
 間違っているとは、必ずしも言えない」
「占い否定意見に論理的根拠があるからといって、
 正しいとは、必ずしも言えない」
と言う事なのですね。

お礼日時:2016/03/09 21:12

世の中の事象には全て原因があり結果があります。


何かが起こることに対して、その原因を説明出来なければ論理的根拠がないと言えるでしょう。
占い、例えば手相占いで生命線が長いから長生きすると言われたとしても、では何故生命線が長いと長生きするのかという論理的説明は出来ないでしょう。
他の占いにしても、占いの結果に対して、占い師に何故そういう結果が出るのか説明しろと言っても、神が言っているだの、オーラが見えるだのと曖昧な説明しか出てこないでしょう。
私はこれまで、こういったものに対して納得のいく説明を聞いたことがありません。
故に占いなどには論理的根拠は無いと思っています。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
そうしますと、やはり論理的根拠というのは、
客観的なあるなしではなく、
「その人が説明できるかどうか?」
「その人が納得できるかどうか?」
という受け取る人によって変わって来ると言う事でしょうか?

お礼日時:2016/03/09 21:07

論理的な根拠があると主張する側がそれを納得出来る形で説明できないならば、論理的根拠がないと言います。

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この回答へのお礼

ありがとうございます。
すると占いと言うにせよ何にせよ、
あるともないとも、特に言及していないような、
ジャンル全体について、先に言う、
「論理的根拠がない」という主張は、
間違っていると言う事になるでしょうか?

また、納得出来る形の説明と言うのは、
人によって変わってくると思うのですが、
本人が納得し、説明出来ているかどうか?
と言う、個人単位で変わって来ると言う事でしょうか?

お礼日時:2016/03/09 21:05

ロジカルの条件は、”主張”や”結論”を支える「根拠」は示されているか?「曖昧さ」はないか?だと思います。

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この回答へのお礼

ありがとうございます。
すると「論理的根拠がない」と主張するだけなら、
根拠も示されていなく、曖昧でもあるでしょうから、
その主張自体は「論理的根拠がない」と言う事になるでしょうか?

お礼日時:2016/03/09 21:03

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