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こんにちは。

エミール・シオランにこんな言葉があります

『自分が、現にあるがままのものであるがゆえに自殺するのはよい。
 だが、全人類が顔に唾を吐きかけてきたからといって、自殺すべきではない。』

これは『生まれてきたという不都合について』という原題をもつシオランの本からの引用です。

では、『あなたが、現にあるがままの者であるがゆえに、全人類が唾を吐きかけてきた』場合、これをどのように解釈しますか?・・・いえ、どう解釈するか?ではなく、あなたなら、どうしますか?

世に『嫌われる勇気』という本が流行っています。内容は知りません。

「すべての人から好かれる(嫌われないでいる)なんてそもそも無理なこと」という言葉の裏に、
「同じように、すべての人から、まんべんなく嫌われることもない」という「自信」が潜んでいるのではないかという疑問が残ります。

であれば、その「自信」は何処から来るのか知りたいと思います。

また、シオランに戻れば、

全人類に嫌われても、人は尚生きてゆけるか?
そもそもその上で、尚、ひとり生きる意味とはなにか?

ご意見をお聞かせください。

尚、お礼が遅れる事があるかもしれませんが、ご了承ください。

質問者からの補足コメント

  • わたしは「ヒト」という一個の動物ゆえ、同じ「ヒト」という動物からの愛を得たいと思います。

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/04/23 13:23
  • そういえばyy8さんは、昨日の「逆境で苦しんでいる」という方への回答で、「しばらくここで遊んで行ってください」というような回答を寄せられていましたね。あれはいい回答だったなと思っています。ぶらじゅろんぬさんの、「自信がない」という方への、「そのままでもいいんじゃないでしょうか。」という回答とともに、印象に残りました。

    No.3の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/04/24 00:53

A 回答 (8件)

こんにちは、blueさん。


他の場所であちこち不在になっていますがご寛恕くださいませ。


シオランはおそらくこういうことを言っているのではないか、という推測でしゃべりますので例によって頓珍漢ですと初めにお断りして、それでもしゃべります。


例えば自分が風船だとします。
◇1.風船の外側を観ることが多い人
◇2.風船の内側を視ることが多い人
というのがいます。中間の人もいます。めちゃくちゃ大雑把ですが。



シオランが言っているのは、◇2.の【風船の内側をさんざん見つめ倒し、それと真摯に対峙し疲れ果てて他人に助けを求め最善を尽くし、それでもどうしようもなかった人】であれば自ら命を絶つのも仕方のないことであろう、しかし、◇1.の【風船の外側ばかり必死で見つめることが正しいと信じており、ですから風船の内側は視野に入らず、他人が己に放つ矢が己に突き刺さるという現状からとにかく逃げ出したい】という理由で命を絶つのはアホらしい、という、だいたいそんなことではないかしら。省略しすぎかもしれませんが。


>では、『あなたが、現にあるがままの者であるがゆえに、全人類が唾を吐きかけてきた』場合、これをどのように解釈しますか?・・・いえ、どう解釈するか?ではなく、あなたなら、どうしますか?
:【気にならない】わけではありませんが、【気にしない】ように心がけるくらいです。ちなみにわたしはサッカーの審判の資格を持っていますが、唾を吐くという行為に対しては即レッドカードを提示するよう指示されています。全人類がわたしに唾を吐いたら?そんなツバは木曽川や長良川や揖斐川の透明な水で洗い流せばよろしい。たいていのことは宇宙のどこかが受け取ってくれて浄化してくれます。


だから、
>全人類に嫌われても、人は尚生きてゆけるか?
:自信を持って【はい】と答えます。わたしが生きているぢゃないですか。笑。
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この回答へのお礼

こんばんは、瀬里香さん。

>◇2.の【風船の内側をさんざん見つめ倒し、それと真摯に対峙し疲れ果てて他人に助けを求め最善を尽くし、それでもどうしようもなかった人】であれば自ら命を絶つのも仕方のないことであろう、

これはよくわかります。

>◇1.の【風船の外側ばかり必死で見つめることが正しいと信じており、ですから風船の内側は視野に入らず、他人が己に放つ矢が己に突き刺さるという現状からとにかく逃げ出したい】という理由で命を絶つのはアホらしい、という、だいたいそんなことではないかしら。省略しすぎかもしれませんが。

つまり、死ぬのは「自分であるが故」以外に、外に原因を求めるなということかな。逆に言えば「生きるのも自分自身」死ぬのも「自分ゆえ」。自分の生・死の原因を、自己以外の一切の他に求めるな、ということかもしれないですね。

>全人類がわたしに唾を吐いたら?そんなツバは木曽川や長良川や揖斐川の透明な水で洗い流せばよろしい。たいていのことは宇宙のどこかが受け取ってくれて浄化してくれます。

ははは。そんなものですか? 人類の吐きかけて来た唾を、清流の清き流れを以て洗い流す。やはりわたし流に解釈すると、人類対自然なのかな。

>>全人類に嫌われても、人は尚生きてゆけるか?
:自信を持って【はい】と答えます。わたしが生きているぢゃないですか。笑。

なるほど(笑)

久しぶりの瀬里香節がきけて良かった。

また来てください。

お礼日時:2016/04/24 01:16

勝手に結末をしゃべってしまひ申し訳ありません。


動画を拾ってきましたのでお時間があればどうぞ。
http://mvnavidr.blog116.fc2.com/blog-entry-12030 …
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この回答へのお礼

いえいえ。紹介してもらって興味が湧きました。

ただ、パソコンで映画を観る習慣がないので、TSUTAYAかどこかで借りてきます。

改めて、どうもありがとう。

なんだか雑談の場になってしまった(笑)

お礼日時:2016/04/24 23:32

こんにちは、blueさん。

どうでもよい追記です。

【二十日鼠と人間】という映画のラストシーンを覚えていますか?あれは自殺ではなく他殺なのだけど。のっぽのうすのろと、頭の切れるチビはいつも行動を共にする仲間でした。のっぽの方が仲間であるチビに撃ち殺された理由は、本当は複雑なのだけど、彼が彼であるから、という部分が大きいのではないかなあ。
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この回答へのお礼

こんにちは。

『二十日鼠と人間』スタインベックでしたっけ?これ観たことがないんです。実は『怒りの葡萄』も(恥)
最近は、本(と、漫画)ばかり読んでいて、映画をあまり観ていません。是非観てみたいですね。

おしえてくれてどうもありがとう^^

お礼日時:2016/04/24 16:04

#1の者です。



>「自らの深い認識による自律的なもの」と「生きる事自体(助け合い)による
>喜び」とが、どのようにして結びつくのかがちょっとわかりませんでした。

量子論的世界像において、有限な存在性(=宇宙)は、認識されることによって派生しています。
換言すれば、「自我仮説(心)と時空仮説(存在)が、(不確定性原理の相補的不確定性を介して)相補分化している=全てのものは、あなたが存在するための(物理的根源にまで遡った)補完である」という事なのです。

認識する事と存在する事が同根である時、生きる事は存在する事だけではなく、認識を深める事を包含し、生きる目的に於いて物質的繁栄は部分的要素であって、真の生きる目的は「人生を通算した充足量の最大化(生理的拡大×欲求の強さ×それを「人生通算での最大」にコントロールする認識力×その達成度×それを把握する認識力)」となります。
まとめると、下記のようになります;

      存在すること
         ↓
生きること    +   認識を深めること
   ↓            ↓
組織化(分業=助け合い)の追求:精神的充足量の追及
   ↓            ↓
自律的社会行動(生産)× 社会生命的自覚化(愛)
(エントロピー増大の反力としての反エントロピー)

1. 我等は、認識する個体である。

2. 我等の生存は、意志の結果であり、幸福の追求としての本質を持つ。

3. 幸福とは、認識に於ける意志と、その達成の認識により成る。

4. その個体的追求は、生存と認識に於いて為される。

5. その環境的対応は、生存は生産として、認識は学習として現れる。

6. より大なる学習は、より大なる社会的生産を可能にする。

7. また、より大なる生存に於いて、より大なる認識は可能になる。

8. これらの過程の認識とその意志化は、最大の生存と最大の認識に於ける、完全な充足を実現する。

9. そして、それらの統一的計量は、認識の深まり及び有効エネルギーの不可分な指向として、反エントロピーとして求められる。

10. 反エントロピーとは、宇宙の起源としての、絶対無=無限不確定性の潜在(有限)たる認識の自我仮説性(時間性~進化)の定性化である。

11. 潜在的認識性に対する相補的環境は、その認識の有限性による相補性の非自覚化により、他律的対象(=時空仮説)化する。

12. その他律的環境への反エントロピーの敷延は、自己矛盾として生じる環境を、その先入たる、仮説的時空性に於ける個体的有限性を、超越する意志化により、補償するものである。

13. 換言すれば、真理の限界は、愛により補完され得る。

14. 先述の要素との対応に於いて、真理とは認識の深化であり、愛とは社会的生産への意志に他ならない。

15. 宇宙の原理的本質は、自我成立の為の相補であり、そこに於ける完全な自覚に基づく完全な意志は、真の環境としての無限性=完全な自由を保証される。

16. この、利己と利他、あるいは唯物と唯心を包含した、完全な“自己”完結的過程には、金や地位といった外的価値、また主義・宗教他いかなる権威も介在し得ない。

17. 我等は、愛によって真理を成し、真理に於いて愛を為し、而して幸福なるべくのみ存在するものである。
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この回答へのお礼

こんにちは、再度の詳しいご回答をありがとうございます。

詳細については理解できた部分もあり、理解の及ばない部分も多々ありました。

psytex1さんは、okwebの方でも時々お答えを頂いていて、ひょっとしたら、この質問のヴァリエーションを先に向こうで投稿したときにもお答えを頂いていたかもしれません。

ここでの回答は往々にして、「人間存在一般」について、普遍性を持った「人の生きる意味」についてに傾きがちな気がしています。

それは「哲学」が普遍性を求めるものである以上当然のことなのかもしれません。ですからその上で、

「どのように解釈を加えますか・・・ではなく、あなたならどうしますか?」という「非・哲学的」な問いかけをしました。

psytex1さんの言葉、「哲学は科学、古典哲学は言葉遊び、よく言えば文学」という言葉、印象に残っています。

で、あえて、そこから文学的な問いかけをしてみました。

okwebでのわたしの居場所である「アンケート」で、同様の質問をしてみましたが、みなさん、わたし同様、「学としての」「哲学に疎い」方たちですので、「俺だったら」「わたしなら」という立場で回答を下さいました。

あくまで個別性・具体性にこだわるのは、ここ、「学」の場では限界があるのでしょうか。

お礼日時:2016/04/24 03:45

人間性否定かどうかが分かれ目だと思います。



現にあるがままの自分が他者の人間性を否定しているのならば
自分が改善すればいい。
それに唾を吐きかける全人類が自分の人間性を否定しているのならば
その改善を求める主張をすることに意味がある。

全人類に嫌われたら少なくとも生きるのは困難を極めるでしょうね。
前段のように是非を考えて改善を目指すことができたら一番いいんだと思います。

その努力を尽くした先でなお全人類に嫌われても
なお一人生きることにも意味はあると思います。
その矛盾の解決を模索することが
人類の繁栄と進歩の一つのきっかけになる可能性を秘めているからです。
時代の未熟さゆえに不可能だった共存を将来可能にするための何かのため
自分という個体の維持に賭ける。
より進歩した時代なら避けられる争いの一つへと
現在の自他の対立を過去のものにしていくために
人として限界のある身なりにもがく。
不要な争いの解決は多様性の平和的共存のきっかけになります。
それは人類が真価を発揮するために大切なことです。

また、そのもがきに結果が伴わなくても
人間性否定を良しとしなければ
フェアに消費生活をするということにつながり
生きているだけで現代の繁栄に寄与する形になっています。

人類が進歩すればするほどそういう意味を認め合えるようになるものだと思います。
人間性の理解は進歩の必要条件で、人類が滅亡せずに進歩するほど
認めるべきことを認め合える世の中になっていくもの。
つまり少なくとも意味という点では絶望する必要まではなさそうだという考えです。

誤解が残っても意図が間違っていなければ進歩した未来には分かり合える。
残らなくても進歩への見えないたすきの一つにはなれる。
そんな納得のしかたが可能だと思います。
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この回答へのお礼

こんばんは。

仰ること、一般論としてはその通りだと思います。

今現在何らかの理由で疎外されていても、
>その矛盾の解決を模索することが
将来の進歩に役立つ。

ただ、一般論を超えて、わたし個人として、あるいはすずめさん個人として、
「人類」のより良き発展、共存のために「無理をして生きている意味」を見出せるかが問題になってくるのかと思います。

大きくいえば「人類のより良き姿」のための「礎」になれるか?という問になりますね。

人間一般としては理想の在り方が、個々(個別)の「我」や「汝」にどのように当て嵌り得るのか?

考えてみます。

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/04/24 01:34

Grassさんが望むレベルの“思い”では有りませんが、頑張って“回答”してみます。

参考程度にはなるかも。

全人類に、とは大げさですね。シオランと言う人は深い考えをこの表現に込めたのでしょうが、それはどんな思いなのでしょうね。

精神の柔な私はマスコミに叩かれただけでも逃げ出します。闘う勇気はまったくないのでたぶん人の居ない世界に隠るでしょう。
“人間嫌い”だから孤独には強いんです。

シオランは自殺、に付いては自分の価値観が理由であり、また動機で有るべきだと言っているようです。自尊心を持てと。

嫌われる勇気を持て、と言える人は自身の生きる世界を、それが精神的にで在っても、確固たる物にしているからと思います。
他人に好かれ難い人は“嫌われる勇気”はなかなか持てないのではないでしょうか。

独り生きる意味は自身で見つけるしか有りません。他者に依って与えられた、あるいは教えられた“意味”は本物に成りにくいからです。

私の場合は、比較的健康なこの“肉体”を見る毎に、この体を自分で傷つけてはいけない、そんなことしたらこの体に失礼だ、なんて思っています。

「私」はこの体が有ってこそ、と思っているのです。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

こんにちは、yy8さん。

「全人類」というのが元々どういう言葉だったかわかりませんけれど、「すべての人」というよりもインパクトがあるので、これは訳者の出口裕弘さんの腕前という感じです。

それにしてもシオランという人はよくまあここまでネガティヴになれるものだと感心してしまって、逆に笑ってしまうくらいのひねくれ者です。ですから好き嫌いがはっきり分かれるでしょうね。

>精神の柔な私はマスコミに叩かれただけでも逃げ出します。闘う勇気はまったくないのでたぶん人の居ない世界に隠るでしょう。

同じですね。人がいなくても自然や動植物に囲まれて暮らせれば「孤独」は感じないかもしれません。

>“人間嫌い”だから孤独には強いんです。

そうは見えませんね。とても率直でストレートな感じがします。わたしは、まだ人間に未練たっぷりのようです(苦笑)

>シオランは自殺、に付いては自分の価値観が理由であり、また動機で有るべきだと言っているようです。自尊心を持てと。

ああ、そうでしょうね。よくわかります。

>嫌われる勇気を持て、と言える人は自身の生きる世界を、それが精神的にで在っても、確固たる物にしているからと思います。
他人に好かれ難い人は“嫌われる勇気”はなかなか持てないのではないでしょうか。

これも仰ること、よくわかります。
わたしは「好かれ難い」ので、「嫌われる勇気」なんて持てません(苦笑)

>独り生きる意味は自身で見つけるしか有りません。他者に依って与えられた、あるいは教えられた“意味”は本物に成りにくいからです。

そうですね。結局自分の中を探っていくしかないのだろうと思います。自分の内面から生み出されたものでなければ結局は「自分の生」とは言い難いですからね。

>私の場合は、比較的健康なこの“肉体”を見る毎に、この体を自分で傷つけてはいけない、そんなことしたらこの体に失礼だ、なんて思っています。

>「私」はこの体が有ってこそ、と思っているのです。

なるほど、「身体あってこその自己」ですね。

なんだか頷いてばかりで、異論の余地がないのですが、何も無理して対立意見を探す必要もないでしょう。(笑)

とても参考になりました。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2016/04/24 00:53

キリスト教では、人は神と直接対峙します。



神との約束さえ守っていれば、他人にどう
思われようと構わない、という意味の個人主義が
原則になります。

それを極端に説明したのが、
『自分が、現にあるがままのものであるがゆえに自殺するのはよい。
 だが、全人類が顔に唾を吐きかけてきたからといって、自殺すべきではない。』
なのでしょう。


『あなたが、現にあるがままの者であるがゆえに、
全人類が唾を吐きかけてきた』場合、
これをどのように解釈しますか?
   ↑
現にあるがまま、というのと全人類云々は
全く無関係だと思います。
だから、現にあるがままだから唾を吐きかけ
られようが、賞賛されようが、そんな問いは
意味をなしません。

現にあるがまま、があるだけです。


「同じように、すべての人から、まんべんなく嫌われることもない」
という「自信」が潜んでいるのではないかという疑問が残ります。
    ↑
違うと思います。
理由は説明した通りです。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

こんにちは。

この質問を投じてから、過去、この「哲学」のカテゴリーで行われてきた質疑を振り返って、「神」や「宗教」という言葉が頻繁に出てきていることに気付き、
ああ、今回の質問に「神」という言葉が出てきたら困ったな、と思っていました。

つまり「我と汝」「わたしとあなた」がいて、「わたしが」「あなた」に嫌われた時、でも「あまねく「あなたたち」に嫌われても」尚そこには、神がいる。という話になってくると、

『神との約束さえ守っていれば、他人にどう思われようと構わない、という意味の個人主義が原則になります。』

という「原則」を持たないわたしは途方に暮れるだけです。

ご回答、ありがとうございました。

お礼日時:2016/04/23 12:09

生は、自らの深い認識に基づく自律的なもの


(生きる事自体(助け合い)による喜び)であるべき
であって、低認識なまま社会行動を他律的に
とらせる“馬車馬の目の前のニンジン(お金や出世、
虚栄心など)”の発達により、「お金をもらうために
イヤイヤ働かされる」ものにしてはならない。
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この回答へのお礼

こんにちは、psytex1さん。

>生は、自らの深い認識に基づく自律的なものであるべき

それは理解できます。

>低認識なまま社会行動を他律的にとらせる“馬車馬の目の前のニンジン(お金や出世、虚栄心など)”の発達により、
「お金をもらうためにイヤイヤ働かされる」ものにしてはならない。

これもわかります。

でも 「自らの深い認識による自律的なもの」と「生きる事自体(助け合い)による喜び」とが、どのようにして結びつくのかがちょっとわかりませんでした。

「主体的に自己を選択した」が故に「疎まれ」「忌避される」ということもあり得るのではないかと思います。

それは「正しい選択ではなく」また「深い認識に基づいたもの」でもないからだ、とすれば、「正しい選択」或いは「深い認識」に至るためには、どこか自己を離れたところから自己を律する方法論のようなものを持ってくる必要があるということでしょうか?

理解が至りませんが、よかったらまたご意見をお聞かせください。

いつもお返事をありがとうございます。

お礼日時:2016/04/23 12:24

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