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「あらゆるものは「デザイン」である」といえるでしょう。

工場で大量に生産されるものから、手造りの品、自然界の動植物・鉱物・虫たちの姿かたち、海辺で見つけた貝殻・・・様々な建築もデザインだし、「バリアフリー」というものも、都市デザインといえるでしょう。

例えば「グッド・デザイン」とはどのようなものでしょう?

以前の質問にもありましたが、「シンプル・イズ・ベスト」は、デザインの方向性としてはどうでしょうか?

また「デザイン」とは主に「視覚」のみに依拠する概念なのか?
「音楽」とは違う「音のデザイン」というものはないのか?

デザインの目的とはなにか?

多様なデザインを考えることを通じて、みなさんの「美学」をお聞きしたいと思います。

狭義の「デザイン」に囚われずに、「デザイン」という言葉をキーワードに、思いついたことを聞かせてください。

質問者からの補足コメント

  • あほなさんの言われる

    >無機的だから意味があるのであって、無機的なものを重ねて有機的にしていくことに、(いわば調理にも似た)デザインの世界があるのではないか?

    という問いと、

    something2013さんの、ライトの「有機的建築」のお話し、興味深く感じています。

    個人的には、ライトはコルビジェ、ローエ、あるいはロース、グロピウス等とは異質の建築家(非・モダン)だと思います。

      補足日時:2016/05/29 03:30
  • スマートフォンはいかなる「デザイン」か?

    様々な用途に使えるプラスティック板。電話でもありカメラでもあり財布でもありコンピューターでもあり時計でもあり定期でもある。あれは究極の「デザイン」か?

    であるなら、デザインとは最終的に面白くもおかしくもない味も素っ気もないミニマリスムに帰着するのでしょうか?

      補足日時:2016/05/30 02:50
  • 例えば、そもそも東京でのオリンピック開催に反対の者にとって、それでも「素晴らしデザインの競技場」或いは「上出来のエンブレム」なるものが存在し得るでしょうか?

    例えばザハ・ハディド氏のデザインが、どこかほかの星の砂漠の真ん中に出現したような場合はそれは純粋にデザインとして見ることが出来るでしょうけれど、隈研吾氏やハディド氏のデザインはあくまで2020年のトウキョウオリンピックのためにデザインされたものである以上、(デザインの)「目的」に反対するものにとって、いかなるデザインも無意味でしょうか?

      補足日時:2016/06/01 13:44
  • >その人がデザインした新デザインはこれです(http://pop-a-gogo.com/wp/wp-content/uploads/2015 …)

    あたらしいデザイン。これはほぼ、赤いくまもんですよね。失礼ながら単に時流に迎合しただけではないかと疑りたくなります。

    No.27の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/06/01 14:22

A 回答 (35件中21~30件)

続きです;^_^



清々しさを覚えると同時に、諸現象が人の意図や思惑を顧みない故に、ありのままでいる事の危うさを排除する為の抽象化であるのです。分かりやすく言えば、世界を見つめ理解するための抽象化となりますが、そのスタンスの持つ効果について、私の考えるところを伝える事が出来たでしょうか。

ところで、私もブランクーシの様な間の作品、好きですね。好き嫌いは確かに私も持ってはいるのですが、それよりも作品の持つ意味に対する興味の方が強いのかもしれません。

楽しいお話をありがとうございます^_^
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この回答へのお礼

と、上記のような私見を述べましたが、あふぉなさんの真意はまだよくわかりません。ただこのように対照的な立場であるということに面白さを感じています。

ブランクーシは「キス」とか「スリーピング・ミューズ」といった具象作品が好きです。

モダニズムは相変わらず人気がありますが、何故でしょうね?
コルビジェとライトで、人気投票をしたらコルビジェが勝つような気がします。



>ライトが巨匠と言われるのは、人類の持つ無意識的な広がりの意識にアクセスする様な世界観を、表現できたからであると思います。そういう意味でライトは時代を超えた建築を生んだと言えるでしょうし、世界の持つダイナミズムを建築に落とし込めたのでしょう。非モダンと仰られる理由もここら辺にあるのだと理解しました。

ユングの言う人類共有の「集合的無意識」のようですね。
モダニスムもそういう意味では時代性の制約からは免れない。はやりすたりはあるでしょうが、ライトの建築は、それが集合的無意識(的なもの)=「自然」に根ざしていると考えるならタイムレスということでしょうね。

>丹下や村野藤吾、ザハハディドなどの作った現代建築にも言及したい気持ちもありますが、偏りすぎる気もするので一先ず此処までとしたく思います。

東京オリンピックに反対のものにも、よきデザインというものはあり得るか?なんて考えています。

いろいろと参考になりました、気が向いたらいつでも書き込んでください。

こちらでまとめてのお礼です。

改めてありがとうございます。

お礼日時:2016/05/30 00:21

私も、もののあわれや、紹介して下さった花伝書にある様な美の価値観が無いわけではありません。

しかし、同じ日本文化ならば、雪の日には花は飾らないといった、利休の考えた茶道の方に惹かれます。

抽象化と言うのは、捨てることで成り立っておるのでは無く、そのものの本質や特徴、エッセンスを捉えることで成り立っていると私は考えます。即ち、好きなものを執り、嫌いなものを棄てるでは無く、善悪、良し悪し、好き嫌いに関わらず、それを見るという事なのです。私がこの様な姿勢を重視するのは、物事の本質と言うのが、人間の都合に対しては気を遣ってくれ無い、基本的に人間がどうあろうがそれはそれである事を止めないものだからです。
人が住んでいる地域であろうが無かろうが、自然災害は起こります。人が住んでいようがいまいが恵みの雨や太陽光は降り注ぎます。美しい景色も、生命の躍動の瞬間も、人がいようがいまいがそこに繰り広げられるものです。その様に人為の及ばない事が世界の有様であることに、清々しさを覚えるのです。
少し用ができたので、ひとまずこれで送信します。また追記します。
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この回答へのお礼

こんばんは。

あふぉなさんの「抽象化」の説明はちょっと難しいですね。

>好きなものを執り、嫌いなものを棄てるでは無く、善悪、良し悪し、好き嫌いに関わらず、それを見るという事なのです。

つまり「自分を離れて」対象を見るということでしょうか?「自己」には当然ながら「わたし」の好悪があり、よしあしの価値判断がついて回ります。その上で、「自己を捨象した眼差し」というものがちょっとわかりにくい。

>人が住んでいる地域であろうが無かろうが、自然災害は起こります。人が住んでいようがいまいが恵みの雨や太陽光は降り注ぎます。美しい景色も、生命の躍動の瞬間も、人がいようがいまいがそこに繰り広げられるものです。その様に人為の及ばない事が世界の有様であることに、清々しさを覚えるのです。

これはわかります。人間の存在とは無関係に自然はその営みを続けます。人間の意思とは無関係に自然は存在する。それは素晴らしいことです。それに清々しさを覚えるのもよくわかります。わたしのなかに「所詮ヒトは地球の間借り人」といった思いがあるからです。

>清々しさを覚えると同時に、諸現象が人の意図や思惑を顧みない故に、ありのままでいる事の危うさを排除する為の抽象化であるのです。

「ありのままでいることの危うさ」を排除するための「抽象化」・・・

つまり「ありのまま」=「生身」或いは「裸形」であることは当然ながら「滅び」を内包しているのですが、それを回避するための脱・生身といったようなものでしょうか?

人間は人間の「分」というものを弁えるべきだという思いがあります。
土より生れて土に還る、それが有機体である人間というひとつの生物の生き方であろうと。
ですからことにアール・ヌヴォーのような、虫や植物をモチーフにしたデザイン(建築を含め)に惹かれます。

先日来他の質問で話していた「実存は本質に先立つ」という実存主義のテーゼですが、わたしはあくまでわたしの「好悪」に、価値観に、それが永続的なものではなく、一時的なものであっても、「その時に」何を感じているか?を重視してしまいます。
つまり物事の背景にある「本質」ではなく、一回限りの「その物自体」に関心を寄せます。

そういう意味ではこれは「本質」を主とする立場と「実存」を主とする立場の違いかもしれません。

下に続きます・・・

お礼日時:2016/05/30 00:02

夜分に失礼します。

;^_^
命の豊穣さ、これは見方を変えれば老いと死の集積を基に発生しているものです。一方、モダニズムには言葉の宇宙と言うものが見られて、腐敗のない形を生んでいる様に思えます。人が生命賛歌に走るのは、一重に強く本能的に示される、生存する事の正当なる根拠を求めているからだと思います。しかし客観的に見れば生命なんてそれ程良いものではありません。ただ、我々が生命体である故にそれを認めたく無いのだと思います。

追記になりますが、
細かく抽象化したものを密に重ねると、現代の摩天楼ではなく、私の抱くイメージとしては、イサムノグチの彫刻の様な、痛く無い人工物が出来上がります。食事を作るのに、材料のまま煮炊きするのでは無く、下ごしらえをしてから火にかけるなりする様なことです。素材のプリミティブならしさは残しつつ、人の胃に収まりやすい料理に仕上げる。そんなイメージでした。ここら辺は、ご質問のデザインの目的に関わってくる事かなと。聖路加病院のくだりについてはまた調べて理解しておきますね^_^
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この回答へのお礼

こんにちは。

>命の豊穣さ、これは見方を変えれば老いと死の集積を基に発生しているものです。一方、モダニズムには言葉の宇宙と言うものが見られて、腐敗のない形を生んでいる様に思えます。

なるほど。先日、「花を供える」のところで、花伝書『風姿花伝』の「萎れた花」の「美」=「しおれの美」に惹かれると言いました。
「萎れたる風體、返す返すも大事なり。」ですから、あふぉなさんのいわれるように、わたしは生命の花と萎れ、生と老いと死に美を見ます。
「言葉の宇宙」という意味がよくわかりませんけれど、モダニズムには変化がない。生々流転の変化がない。「腐敗しない」。
わたしにとってはデザインも有機物である方が快適なのです。造花的な「朽ちることのない」ものには興味を持てない。
これは必ずしも単なる「生命の讃歌」ではなく、その中に萎れ=老いと、朽ち=死を内包する生命の変化への共感です。
勿論これを「生命の讃歌」というふうに表現なさっても構いませんけれど。

彫刻に関してはイサム・ノグチも嫌いではありませんが、ここにもやはりわたしは「具象」を求めてしまいます。
ブランクーシなどには抽象化の一歩手前で立ち止まっているような魅力があります。具象と抽象のはざまの「美」のような。

つまりわたしは「田舎」に象徴されるような、有機的で、(老いや死という「変化」をふくみ持つ)=生命を感じさせるものに惹かれます。ですから「萎れない」「枯れない」「朽ちない」「腐らない」といった人工的な抽象の美に抵抗があるのです。

あふぉなさんのとこの明確な違いは興味深い。

何故あふぉなさんは「抽象」に拘る(好む)のでしょうか?

ご意見をありがとうございます。

お礼日時:2016/05/29 12:56

無為について少し補記を。


無為というのは何もしない、動かないということではなくてですね、表面的なことではない何かだと思うのです。自分も理解してないので余り書くことは出来ませんが、無前提の何かとか、そういうものではないかと。はからいがないというか。。
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好き嫌いを言われてしまうと、コルビュジェの建築を例に取った意味が半減してしまいますが、、。

同じモダニズムでも、コルビュジェとミースはポジとネガのように違うわけです。また、ライトのように世界観で勝負する建築家もいれば、前者のようにデ・ザインの先端、抽象化の極地で設計する建築家もいるわけです。そう言えばグラスルーツさんはゴシック建築などが好きだとおっしゃってましたっけ?私はやはりゴシックよりもモダンのほうが意味の重なりという面で上手だと思います。
石庭などは思想の表現であり、その表現されたものは情報量をそぎ落としてあるので、そこに来訪する人々は抵抗なくその場に入ることが出来ます。そんな石庭の軽やかさという意味では、ミースの建築に通じるものがありますね。私も昔はライトのような豊かな建築が好みでしたが、意味がわかってくると、コルビュジェやミースの建築が良く思えてきます。スカルパやカーンはその両方の感じを持てているでしょうか。ともあれそういう見方をしていたので、この度のデザインの質問に関してはライトよりもコルビュジェの方が、抽象化とそれからの脱却の例、デザインの変遷の例として良いかと思って記述したわけです。

これは好きだ、これは嫌いだだけではデ・ザインの持つ抽象化という側面に当てはまらないと思います。なぜなら好きか嫌いかは結果を見て決まることであり、その形体の発生する起源や経過を考慮しているわけではないからです。つまりそれはデザイナーの視点ではないといえるでしょう。細かく抽象化したものを密に重ねていけば、洗練された豊かなものが生じます。ただ豊かなものが好きならば、田舎に行けばそれで事足りてしまいませんか。つまり、無機的だから意味があるのであって、無機的なものを重ねて有機的にしていくことに、(いわば調理にも似た)デザインの世界があるのではないかと私は思ったのでした。
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この回答へのお礼

ふたたびこんばんは。

>ただ豊かなものが好きならば、田舎に行けばそれで事足りてしまいませんか。

あははは!これは当たっています。なにしろ自慢にもならない東京生まれの東京育ち(あふぉなさんも)ですから。田舎には憧れがあります。

コルビジェとミース・ファン・デル・ローエも違いが分かりません(苦笑)

>これは好きだ、これは嫌いだだけではデ・ザインの持つ抽象化という側面に当てはまらないと思います。なぜなら好きか嫌いかは結果を見て決まることであり、その形体の発生する起源や経過を考慮しているわけではないからです。

人は「理念」を好きになることができるでしょうか?或いは「理念で好きになる」ということが?
好き、或いはキライから遡って、何故これが好きなのか、嫌いに思うのか?に遡行してゆくことで、自分の好きな「理念」や「思想」の原点にたどりつくことが出来ると思います。

モダニズムはやはりわたしにとってはハコです。尾崎放哉は最晩年、病篤く、師、荻原井泉水から京大病院に入院するように勧告されましたが、あのような白い箱に入るくらいならこの島で青い海と青い空を見ながら死にたいと、断固として入院を拒みました。しかし一方で、わたしは昔、今は無くなってしまった聖路加病院を見つけた時に、あまりの魅力に、ガードレールに小一時間も腰かけて、その佇まいに見惚れていました。放哉が入院を拒んだ、当時の京大病院も、今の私から見れば特別に魅力的であったろうと思います。

建築家でいえばわたしが好きなのはライトはもとより、ジョサイア・コンドル。或いはその弟子である辰巳金吾など、美しき帝都を彩った建築家たちです。

モダニズム建築には命の豊穣さが見当たらない。

>細かく抽象化したものを密に重ねていけば、洗練された豊かなものが生じます。

それが現代主流の超高層建築につながっているのではないでしょうか?
「抽象化」言い換えれば「ミニマリスム」です。ですからコルビジェやローエのような規格品のような箱が町を埋め尽くしているのでしょう。

ミニマリズムに豊穣を求むべくもありません。実際にコンドルやライトのような建築は大量生産には不向きです。好き、といえばC.
L.マッキントッシュなどはライトにも似た豊穣があり、室内装飾もシンプルでいてとても美しいと思っています。

再度のご意見をありがとうございます。

お礼日時:2016/05/29 03:09

デザインというのは「意図を込めた結果」だと思います。


一般的な人為的な意図はもちろん
自然界の法則の発現に神という主体の意図を見るような
‘ものの見方という軸‘に人為的な意図を込めたデザインというものもありそうです。
後者の‘人為的な意図‘は
説明しきれないことに対する、‘希望を込めた祈りに類するようなバイアスのかかった納得‘への希求
と言ってもいいかもしれません。
そこには人間が人間として進化してきた過程で
生存から遺伝子の継承に有利なものとして獲得してきた
精神構造の無意識下に組み込まれた何らかの枠組みがあるのかもしれません。

「‘意識上での意図100%‘から‘無意識下に組み込まれた傾向100%‘への直線上」の
どの位置にあるかで作為の度合いが変動するみたいなイメージがあります。

デザインとはセンスを出すことです。
そこにひずみがないほどエントロピー減少への寄与になる。
現実に蔓延する矛盾の中で、人間性から遊離しない欲求を
社会的動物にすぎない存在として折り合いをつけた範疇で
調整しようともがいたぎりぎりの極限の先に発現するのが
‘よりひずみのないという方向‘を持ったセンスです。
そこに普遍性を持ったものとして
文化の起点というきっかけとなる
可能性が萌芽するんだと思います。
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この回答へのお礼

こんばんは。

>自然界の法則の発現に神という主体の意図を見るような‘ものの見方という軸‘に人為的な意図を込めたデザインというものもありそうです。
後者の‘人為的な意図‘は説明しきれないことに対する、‘希望を込めた祈りに類するようなバイアスのかかった納得‘への希求と言ってもいいかもしれません。

わたしが、自然界の造形美というとき、そこに神なり自然なりの意図を感じているかというと、そうではなさそうです。
無論そこまで意識してなにかを観ているのではありませんけれど、それ自体を美しく思い、玄妙なデザインだと呆れてしまうわけです。
太宰治が、オオサンショウウオを見て、げらげらと笑ってしまったように。それ自体に感心しています(笑)

>人間性から遊離しない欲求を社会的動物にすぎない存在として折り合いをつけた範疇で
調整しようともがいたぎりぎりの極限の先に発現するのが
‘よりひずみのないという方向‘を持ったセンスです。

これはその通りですが、現実には世の中には不要なものが多すぎると感じています。
進歩とか進化という名のもとにどれだけの不用品が生まれてきているか?

ではそもそも、モノ自体が過剰であるならば、その上に乗っかった「グッド・デザイン」とはいったいなんでしょうか?

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/05/29 01:36

デザインに「目的」はありません。

目的に応じることがデザイン。
デ・ザインとは存在、表象を削っていくということです。目的に応じて無駄なものが排除されることがデザイン。
したがって、おぞましく、醜悪なデザインもアリ。
目的の合致しないものをすべて排除して残ったものが最良のデザインになります。これがグッドデザインであり、良いものがシンプルイズベストになりがちな理由。

あらゆるものごとが人工的にあるいは自然にデザインされてます。

小説は、言葉の羅列。すべて辞書に書いてあります。小説家は言葉を創造しているわけではありません。
次に来る単語を一つだけ選んで、他を排除するという作業を続けているということです。これがデザイン。

画家も、あらゆる色の中から、そのひと筆の色と場所を選び、他を排除して絵を仕上げているということ。
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この回答へのお礼

こんばんは。

>デザインに「目的」はありません。目的に応じることがデザイン。

たとえば、「電話」ということを考えると、「相手との通話」が目的ですが、それに応じて、どのように「デザイン」がなされるのでしょう?
また、目的を目指した「引き算」がデザインの本道であるならば、「多機能」とはなんでしょう?それは「多目的だから」ですか?

>小説は、言葉の羅列。すべて辞書に書いてあります。小説家は言葉を創造しているわけではありません。
次に来る単語を一つだけ選んで、他を排除するという作業を続けているということです。これがデザイン。

>画家も、あらゆる色の中から、そのひと筆の色と場所を選び、他を排除して絵を仕上げているということ。

ええ、それはよくわかります。

一方で、当然ながら選択されなかった「語」あるいは「色」が使われていたという可能性もあるわけですね。
主体的な取捨選択がデザインなりアートであるにしても、「それ以外にない」というわけではない。
ある意味でそれは語の、色の主体的な選択であると同時に偶発的な選択であったかもしれない。
そして一つの語が、一つの色彩が選ばれることによって、後続の語の選択、その周囲の配色がある程度決まってしまう。
全ての語、すべての色を支配しているわけではない。「神の見えざる手」がそこに添えられているということは?

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/05/29 01:18

A1です。

お礼ありがとうございます。
>無論「狭義」に捉えれば、なにもかにもがデザインであると考えるのは、あまりに話が広がり過ぎてしまうという懸念もありますが、
>わたしは敢えて、「自然界のかたち」(「人体」をも含めて)をも、「デザイン」と考える余地を残しておきたいと思います。

先に書きましたとおり、デザインは意匠であって、著作権の考え方と同じ創造主の寡占権利なのです。
独創性や、独自性がないと、個性を持つなにかをデザインしたとはいえない。デザインはデザインしないと発生しないもの。
自然界の形は、創造主である神のデザインであって、神の意思や意匠を、感じ取ったり享受することはできても、真の理解や独占はできないのです。神の意思は、デザインされたものとデザインされていないものの線引がなくなる。
だから自然物はデザインされたものではない。と私は定義しますし、多くのデザイナーはそう考えないと自己創作ができません。

>>デザイナーの意志が反映されるものがグッドデザイン。散逸し目的外の受け取りをされるのがバッドデザイン。
>これは利用者=見る者にとってということでしょうか?であれば、アートとは異なるものとして受け取れるのです。
アートとデザインは接する部分はあっても異なるものです。アートは表現の発露であって、あくまでデザインは商業的な個性や差別化の中で発生した、多くは著作権すら主張できない別ものです。
デザインは商標権や特許権に抵触します。アートは逆に商標や特許が取りづらい。それが登録発生権と自然発生権の違いでもある。だからデザインを主張するのに言語化や再現力が必要になる。

>例えば、「作者の死」と言われるような、「受け手によって再創造されるデザイン」といった受け取られ方はどうでしょう。
デザインはアートではないので、作者不詳なことのほうが多いのです。後世に残るのは名声でなく発明したデザインのコピーだけのことも多い。
アートは再創造されることもありますが、デザインで行われるのは再構築。再構築にはオリジナルへの理解と信仰や愛が必要。
マンガの実写映像化の失敗は大抵これですね。創造する力もなく、造主物への理解がないのに再構築するから、構成が破綻し、愛情を持つファンに否定され、存在自体なかったコトにされる。愛や信仰があれば全く違う形に仕上がっても同じ作品の別モノとして認識され共有される。これが再現性。

>>デコレーションとソリッドの違い。塑像と彫像。盛ってもデザインはできるし、削いでも結晶化したデザインができる。
>ケースにもよるでしょうけれど、どちらがお好きですか?
どちらにも理解がなきゃ、デザインは発明も再現もできませんよ。盛る方は華飾すぎて真意が伝えづらくなりますけどね。

>中島らも氏の、「うろこ感」というのは、魚の枠内の「文字」=「文」が伝達する「情報」よりも、「鱗っぽさ」という「視覚」に訴えるモノに比重が置かれているようです。ということは、文字を「形」として捉えるタイポグラフィーの仕事により近いように思えます。
タイポグラフィーはフォント自体のグラフィックデザインまでの自由度がありますが、
タイポグラフィーを持ちいずにデザイン要求されるのがコピーライター。それもデザイナーやディレクターの監修がはいることが前提。
それも「視覚」に訴えるモノに比重が置かれつつ、文章内容自体と字詰が本業で、ウロコ感は仕事の範疇外。
これがライターともタイポグラフィーとも芸術家とも美術家とも違う、コピーライターのレイアウトデザイン。
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この回答へのお礼

こんばんは。

>デザインはデザインしないと発生しないもの。
>神の意思は、デザインされたものとデザインされていないものの線引がなくなる。
だから自然物はデザインされたものではない。
>だからデザインを主張するのに言語化や再現力が必要になる。

デザインはプレゼンテーションに於いて、その「意味」を「説明」することによってはじめて「デザイン」として成立するということでしょうか?まぁ、そうかもしれません。ある「モノ」をいきなり目の前に持ってこられても、絵画でも彫刻でもその他の美術・工芸品ではない以上、「それはなにか?」は誰にもわからない・・・?

言い換えれば、デザインは在るのではなく「成る」のだ。と。

>アートは再創造されることもありますが、デザインで行われるのは再構築。再構築にはオリジナルへの理解と信仰や愛が必要。

ご存知のように、ゴダールの映像作品などは、創造という以上に再構築と言った方がいいくらいに「引用」が多用されています。

>>デコレーションとソリッドの違い。塑像と彫像。盛ってもデザインはできるし、削いでも結晶化したデザインができる。
>>ケースにもよるでしょうけれど、どちらがお好きですか?

>どちらにも理解がなきゃ、デザインは発明も再現もできませんよ。盛る方は華飾すぎて真意が伝えづらくなりますけどね。

でも、理解すること=知識があることと好き嫌いは別であるはずです。こういうのは「キライである」という感覚が、スキなものを作りあげるというモチベーションになるような気がします。

>文章内容自体と字詰が本業で、ウロコ感は仕事の範疇外。

そうでしょうね。小説家を広義に芸術家、とは言っても、コピーライターは広義にも「デザイナー」と呼ぶのは難しいでしょう。

再度のご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/05/29 00:47

NO3です。

「お礼」有難うございます。
少しだけ、追記します。

「デザイン」=「「何らかの主体」が「意思」を持って、行う「設計作業の結果」」

上記が、私が考える「デザイン」の定義です。

ご返答の中にある、「そこにはその主体自体が、自然の被造物である」
「人間もまた、広く自然のデザインしたものと捉える方がわたしには自然」から、
「Grass」さんのご指摘の「デザイン」の定義は、上記の私のもの、とは
微妙に、異なるように思います。

私にとっては、「Grass」さんの仰る「自然界の動植物・鉱物・虫たちの姿かたち、海辺で見つけた貝殻」は、
「造形美」です。

機能的で、シンプルで、非常に美しい。

しかし、そのように評価するのは、人間だからです。(少なくともライオンがシマウマを美しいと思うか、多少疑問です。)

建築家フランクロイド・ライトが「有機的建築」の説明で、類似の指摘をしています。

「植物の機能美、シンプルさ、美しさ、の「造形美」から、学んで建築の「デザイン」をした。」と。
(すみません。何十年も昔に読んだので、正確ではありません。)

私の「デザイン」の関する定義が、正確かは、分かりませんが、「自然の造形美」はそこに「在るもの」であり、
それを人間が、消化、吸収して、表現したものが、「デザイン」」であると、思えます。
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この回答へのお礼

ああ、先日、「シンプル・イズ・ベスト」で、ル・コルビジェとライトのお話をしたのはsomething2013さんでしたっけ?
わたしは「アイコン」がないと(或いは日本語の名前でないと、なかなか憶えられません(笑))

>「自然の造形美」はそこに「在るもの」であり、
それを人間が、消化、吸収して、表現したものが、「デザイン」」であると、思えます。

ああ、なるほど。ではそれが先にあふぉなさんが言われた、ザイン(存在・実在)でしょうか?

再度のご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/05/29 00:18

機能も「デザインする」とは言いますが、特に「デザイン的に」と


言う場合は、そうした「(物理的ニーズに基づいた)機能的な設計」を
指すのではなく、そうした合目的的な必要ではなく、その道具や器具を
用いる人間の心を対象とした、精神的充足感の増進を設計の要因として
配慮する事を意味します。

機能主義(=生きる目的を物質的繁栄や経済的利益におく)か、
表現主義(=生きる目的を精神的充足量の最大化におく)かの違い
に由来する。
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この回答へのお礼

こんばんは。

> 合目的的な必要ではなく、その道具や器具を用いる人間の心を対象とした、精神的充足感の増進を設計の要因として配慮する事を意味します。

なるほど、ではデザインAが機能主義的なものであるのか、表現主義的なものであるのかは、どのようにして判別することができるのでしょう。機能的に単純便利であることが、精神的なリラックスを与えるということも考えられます。
逆に

>精神的充足感の増進を設計の要因として配慮

した結果、デザイナーの独り善がりに陥ることもままあるように感じます。

「ユニバーサル・デザイン」のような、「誰にとっても便利」というようなコンセプトは、どのようにかんがえられるでしょう?

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/05/29 00:08

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