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「あらゆるものは「デザイン」である」といえるでしょう。

工場で大量に生産されるものから、手造りの品、自然界の動植物・鉱物・虫たちの姿かたち、海辺で見つけた貝殻・・・様々な建築もデザインだし、「バリアフリー」というものも、都市デザインといえるでしょう。

例えば「グッド・デザイン」とはどのようなものでしょう?

以前の質問にもありましたが、「シンプル・イズ・ベスト」は、デザインの方向性としてはどうでしょうか?

また「デザイン」とは主に「視覚」のみに依拠する概念なのか?
「音楽」とは違う「音のデザイン」というものはないのか?

デザインの目的とはなにか?

多様なデザインを考えることを通じて、みなさんの「美学」をお聞きしたいと思います。

狭義の「デザイン」に囚われずに、「デザイン」という言葉をキーワードに、思いついたことを聞かせてください。

質問者からの補足コメント

  • あほなさんの言われる

    >無機的だから意味があるのであって、無機的なものを重ねて有機的にしていくことに、(いわば調理にも似た)デザインの世界があるのではないか?

    という問いと、

    something2013さんの、ライトの「有機的建築」のお話し、興味深く感じています。

    個人的には、ライトはコルビジェ、ローエ、あるいはロース、グロピウス等とは異質の建築家(非・モダン)だと思います。

      補足日時:2016/05/29 03:30
  • スマートフォンはいかなる「デザイン」か?

    様々な用途に使えるプラスティック板。電話でもありカメラでもあり財布でもありコンピューターでもあり時計でもあり定期でもある。あれは究極の「デザイン」か?

    であるなら、デザインとは最終的に面白くもおかしくもない味も素っ気もないミニマリスムに帰着するのでしょうか?

      補足日時:2016/05/30 02:50
  • 例えば、そもそも東京でのオリンピック開催に反対の者にとって、それでも「素晴らしデザインの競技場」或いは「上出来のエンブレム」なるものが存在し得るでしょうか?

    例えばザハ・ハディド氏のデザインが、どこかほかの星の砂漠の真ん中に出現したような場合はそれは純粋にデザインとして見ることが出来るでしょうけれど、隈研吾氏やハディド氏のデザインはあくまで2020年のトウキョウオリンピックのためにデザインされたものである以上、(デザインの)「目的」に反対するものにとって、いかなるデザインも無意味でしょうか?

      補足日時:2016/06/01 13:44
  • >その人がデザインした新デザインはこれです(http://pop-a-gogo.com/wp/wp-content/uploads/2015 …)

    あたらしいデザイン。これはほぼ、赤いくまもんですよね。失礼ながら単に時流に迎合しただけではないかと疑りたくなります。

    No.27の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/06/01 14:22

A 回答 (35件中11~20件)

> 「デザインの優秀さというものは、それ自体としては存在せず、売れたことによって、それが優れていたということになる。

」ということでしょうか。

はい。正直、この後に述べる理由で、「売れる」というのはあんまり良い例じゃなかったな、と反省しているのですが、「デザインの優秀さは、その目的から離れてそれ自体としては存在しない」というのはその通りと思います。


> 消費活動には様々な心理・動機が入り組んでいて、単純に「そのもの自体」の価値に還元することはできない。
つまりわたしの考えでは、「売れました」イコール「デザインの優秀性」の保証にはならないのではないかということです。

この点、「売れる」というのは確かに仰る通り、単純に目的=販売数とデザインが結びつきにくい、という点であまり適切な例えではありませんでした(成り立たないのではなくて、評価しづらいだけですが)。すみません。その後に出して頂いた、

> 具体的には、家具や器、建築など、デザインイコール用途であるようなものです。

このあたりがもっとわかりやすい例になるかと思います。例えば「クローゼット」のデザインを例にとってみます。クローゼットをデザインするのは、その使用目的のためです。「使用目的から離れたデザイン」というのは、基本的にはありません(アートとしてはアリですが)。

クローゼットの使用目的とは何か。まず服をしまうことですね。これが出来ない・やりにくいクローゼットが「グッドデザイン」ということはまずない。

次に、家の中に置くものですから、家具としての見栄えがよく、部屋と調和すること。これも大事な機能です。めちゃくちゃ収納力があるけれど、段ボール箱のツギハギでできているクローゼットをグッドデザインとはちょっと言いづらいですよね。

ひとまず、この二つの使用目的から外れた「デザイン」は恐らく存在しません。「クローゼットとして収納にも見栄えや家との調和にも何の役にも立たないけど、いいデザイン」というものを創ろうとしてみて頂ければ。私が凡才なだけかも知れませんが、私には思いつきません。

ですから、クローゼットのグッドデザインは、クローゼットの使用目的の中に回収され、そこから独立しては存在しない、と私は考えます。


ここで、補足で提示して頂いた問題、

> であるなら、デザインとは最終的に面白くもおかしくもない味も素っ気もないミニマリスムに帰着するのでしょうか?

に戻ってみます。ここに、それこそiPhoneのような、黒一色鏡面仕上げの美しいクローゼットがあるとします。シンプルでオシャレな大理石床の高級マンションにも、我が家のようなそこそこマンションにもぴったり合い、収納力にも優れた素晴らしいデザインです。

でもこのクローゼットをサン・ピエトロ寺院に持って行くと、やっぱりそこだけ異質な空間になってしまって浮くと思います。ミニマルデザインが究極ではあり得ず、「どこで何の為に使うか」という目的によって、全く同じデザインのクローゼットがグッドデザインにもバッドデザインにもなるわけです。

これが、私が「目的から離れてデザインは存在しない」と主張する理由です。同じデザインのクローゼットが、「どこに置くか」でグッドにもバッドにもなるんですから、「デザインの優秀さは、その目的から離れてそれ自体としては存在しない」というのは明らかです。


> この質問の趣旨は、デザインの教科書に書かれていることを再確認するのではなく、「デザインなるものを哲学してみよう」という試みです。

教科書通りのことを言っている、と認識されているならばちょっと不本意ですので言い訳しますが、私はデザイナーでも何でもなく、デザインの教科書を読んだこともありません。ここに書いたのは、飽くまで質問者様の「デザインなるものを哲学してみよう」という問いかけに対する、私の哲学です。

あるいは、哲学的な議論をしたいのだとすれば、最も重要なのは「答え」より最初の「問い方」であり、「グッドデザインとは」または「究極のデザインとは」という問い方は正しいのか、ということを問い返してみたかったのです。


長々と失礼しました。
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この回答へのお礼

こんにちは。

先ず、『この質問の趣旨は、デザインの教科書に書かれていることを再確認するのではなく、「デザインなるものを哲学してみよう」という試みです。』これはvipart_37さんの回答に関して言っているのではなく、この質問の趣旨確認のようなもので、補足欄に書けばよかったかもしれません。ご不快な思いをさせてしまい申し訳ありません。

>「クローゼットとして収納にも見栄えや家との調和にも何の役にも立たないけど、いいデザイン」というものを創ろうとしてみて頂ければ。私が凡才なだけかも知れませんが、私には思いつきません。

>ですから、クローゼットのグッドデザインは、クローゼットの使用目的の中に回収され、そこから独立しては存在しない、と私は考えます。

そうですね。服を収納する、という目的に沿っていなければ何にもならない。そのうえで更にいいデザインというものを考えると、それは周囲との調和ということになるのかもしれませんね。それはアートでも同様で、一枚の絵を飾るにしても、彫像をおくにしても部屋の雰囲気とのつりあいが大事だろうと思います。

このあたり、インテリアデザインについても考えてみたいですね。

>あるいは、哲学的な議論をしたいのだとすれば、最も重要なのは「答え」より最初の「問い方」であり、「グッドデザインとは」または「究極のデザインとは」という問い方は正しいのか、ということを問い返してみたかったのです。

言い訳めきますが、最初はぼんやりと「デザインについて」広くがんがえてみたいと思ってあまり厳密な質問ではありませんでした。
何を問いたかったかは、結局締め切るときになってやっとわかる、という感じでやっています(苦笑)

また何か思いつかれましたらご意見お聞かせください。

ふたたび、ありがとうございます。

お礼日時:2016/06/01 13:34

お気持ち分かりますよ^_^


思想然としていてかえって居心地が、、。というのはあるでしょう。
やはり、風土から生まれ風土によって育まれたデザインの物の方がしっくり来るでしょうね。その土地その土地で最適化されたものが良いデザインだと私は思います。

昔、インターナショナルなヴァナキュラーというものを唱えた建築家がいたのですが、調べてみると面白いかもしれません^_^
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この回答へのお礼

なるほど、イヴァン・イリイチっておもしろそうですね。

『われわれは「もつこと」(Having)と「すること」(Doing)と「いること」(Being)の関係を問いなおさなければならなくなっているのではないか。』

「ヴァナキュラー」。新しい概念を紹介していただいてありがとうございます。
新たな語彙は世界を見る視点がひとつ加わるということですから。

お礼日時:2016/06/01 00:24

>言い換えれば、「デザイン自体の優秀さ」と、「売れるという現象」は分けて考えられる、ということではないでしょうか?



デザインに関する限り、ですが、これは分けて考えられないと思います。「目的」のための「手段」が優れているかどうかは、「目的が達成されたかどうか」でしか測れないからです。

質問者様が仰っているのは、「デザインの優秀さ」ではなく「美術的価値」ではないでしょうか。それだと話の筋が通ります。美的には非常に素晴らしい(見ていて心地よい、心躍らされる、感動する)のだけど、それを買おうとは思わない、ということでは、商品のパッケージデザインとしては用をなしていません。飽くまで「買ってもらう」ことが目的ですから。


>デザインのよしあしとはとは、結局「多数決」によって決定されるのか?

というより、「見る側」が決めるものですね。数とは限りません。例えば、20代女性に売りたい商品のパッケージデザインならば、「実際それで20代女性がどれだけ買ったか」が全てです。

一方、例えば「意中の女の子を射止めるための手紙」のデザインはどうでしょうか。これは、ターゲットが「20代女性」ではなく、その女の子一人です。目的を達するためには、ただその女の子一人の気持ちを射止めればいい。この場合は、たとえ20代女性の90%が「なにこのデザイン、ダメダメ」と言っても、その女の子一人に響けば、デザインとしては成功です。「目的を達成した」あるいは「失敗した」という事実だけがそれを決めるのであって、多数決も、美術の権威の意見も、そのデザインの良し悪しを決めることはできません。


> また、デザインを決定するのは、購買者=20代の働く女性たちであって、デザイナーは彼女たちの意を汲んでそれに沿ってデザインを作ってゆく人ということになるのでしょうか?

デザインの良し悪しを決定するのは、そうだと思います。売り物であれば客。住宅であれば住む人。デザイナーは、美しいものをただ造る人ではなく、それらの人の意を汲んで、それらの人に訴求するものを作る人です。

> デザインというある種の個性は、結局は「商品」という性質の中に回収されてしまうのでしょうか?

はい。そこが純粋芸術との違いです。有名な商品、質問者様の大好きなデザインの商品を思い浮かべて下さい。その商品の素晴らしいデザインをした、優秀なデザイナーの名前を、ご存じでしょうか。恐らくご存じないと思います。私も好きなデザインはたくさんありますが、それをしたデザイナーの名前は知りません。古くは法隆寺でも東大寺でも構いませんが、これらの素晴らしい建築が、誰の出資や意図で行われたかは知られていても、誰のデザインであるかは知られていません。

しかし、どのデザインも、誰のどのような個性の発露かが知られていなくても、その素晴らしさには全く陰りがありません。デザインは、目的を達してさえいれば、誰がどうやったのであっても構わないのです。ですから、「売るためのデザイン」の個性は、確かに「商品(売り物)」という性質の中に含まれてしまう、と考えてよいと思います。


>デザインはあくまで商品の「意匠」(衣装)であるならば、歯磨きや目薬、醤油瓶やメガネなどの「主目的」は50年前も今も不変であるのに、デザインを変える意味とはなんでしょう?

これは、単純に質問者様が「デザイン」に対して「主目的」の分解能を低く設定されているからそう見える、ということだと思います。歯磨きや目薬の主目的は50年不変と書かれていますが、50年前の歯磨きと今の歯磨きは随分違う機能を持っています。材質が変わり、大きさや曲がり方が変わり、例えば歯間を磨ける細い毛が導入され、目薬には疲れ目やアレルギーに対応する様々な成分が追加され、メガネは軽いカーボンフレームになり、ブルーライトカット機能が追加されたりしています。機能もデザインも、両方とも日々変わっています。
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この回答へのお礼

こんばんは。

>「目的を達成した」あるいは「失敗した」という事実だけがそれを決めるのであって、多数決も、美術の権威の意見も、そのデザインの良し悪しを決めることはできません。

「デザインの優秀さというものは、それ自体としては存在せず、売れたことによって、それが優れていたということになる。」ということでしょうか。けれども、単に「売れた」ということイコールそのものの優秀さの根拠にはならない。例えば成金が金に飽かせて書画骨董美術品を買い漁る、ということも考えられます。シャガールとかピカソとか、「有名らしい」ということで、その真価は分からずとも「価値がある」ので買う。

デザインにしても、商品棚の「売れてます!」という惹句に惹かれて、よさも分からずに買うということもある。
これは「売る」という目的は達せられたけれども、その「手段」が優れていたから、とは言えないのでは?

美術作品であろうと、歯ブラシであろうと、消費活動には様々な心理・動機が入り組んでいて、単純に「そのもの自体」の価値に還元することはできない。
つまりわたしの考えでは、「売れました」イコール「デザインの優秀性」の保証にはならないのではないかということです。

またデザインが売れることに回収されるということであれば、デザインの向上とはなんでしょう?売れることを最優先するならば、そこには哲学も啓蒙性も不必要になってしまうのではないでしょうか?逆に言えば「いかに売るか?」が哲学になってしまうのではないか。

少なくともパッケージデザインに関していえば、中味の変化に伴ってデザインが必然的に変化しているとは思えない。何十年同じ中味でもパッケージだけはコロコロと変わっていたり、中味が変化していたにせよ、それをはるかに上回る頻度でモデルチェンジがなされているのではないでしょうか。

この質問の趣旨は、デザインの教科書に書かれていることを再確認するのではなく、「デザインなるものを哲学してみよう」という試みです。「売るため」のデザインから、改めて、よきデザインとはなにか?を広くデザインの世界に求めてみようと思います。
具体的には、家具や器、建築など、デザインイコール用途であるようなものです。

再度のご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/06/01 00:05

No.20の追記です。

お返事ありがとうございます。

私も書きながら気づきましたが、つまり「普遍的なグッドデザインはあるか」という問い方は、そもそも矛盾していて出来ないんですね。
何故ならば、「普遍性を失わせ、それぞれの目的に合わせて特殊化していくプロセス」こそがデザインであり、正しく特殊化されたものこそ「グッドデザイン」だからです。

>であれば、「購買意欲をそそる」デザインなどというものも存在しないことになるのでしょう。「一般性」などないわけですから。
ではデザイナーはいったい「誰に向かって」訴求すべきなのでしょうか?

いいえ、そうではありません。「普遍化すると同時に抽象化されてしまうので、究極のデザインはない」というのは、要するに「世界中の誰もが購買意欲をそそられるデザインはない」ということです。ですから、デザイナーの仕事、「デザインする」とは、「世界中の誰もではなく、この人たちの購買意欲をそそらなければならない」と狭め、特殊化していくことです。ですから、その問いに答えるとすれば、「誰に向かって訴求すべきか」を決め(目的)、それに適した色彩や形状を選ぶ(方法)ことがデザインである、ということになると思います。

黄金比が仮に世界中の誰にとっても普遍的に美しいとしても、黄金比でただ割られただけのパッケージは、誰の購買意欲もそそらないでしょう。でも、「これは女性用化粧品で、20代後半の働く女性に買って欲しい。だから、そういう人たちに売れるデザインにしよう」と考え、そこに黄金比を組み込むことはでき、恐らく実際有効です。普遍的なものが「20代後半の働く女性の購買意欲をそそる」という特殊な相手・目的に絞り込まれることで、機能するようになる。これがデザインではないでしょうか。

それを前提にすると、

>昔(70~80年代)に比べて、最近はパッケージデザインでもコロコロと変わります。とてもひとつの品物に対して「愛着」など持っているいとまがない。
>では「変わらなければ」売れないのか?

はい。広い意味ではそうだと思います。目的が正確に絞り込まれていればいるほど、その目的から外れる(時代や文化が変わる)ときには、変えなければならなくなる。企業だって、デザインを変えれば生産ラインを変えるコストが必要になりますから、気分で変えてはいないでしょう。実際、デザインを変えたほうが売り上げが上がるというデータを持ってのことだと思います。

もしそうであれば、「デザインを短いスパンで変えることで、ずっと同じにしておくよりも訴求力が増す」ということですから、パッケージそのものだけでなく、それを「コロコロ変える」こともデザインのうち、ということになるかも知れません。
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この回答へのお礼

こんにちは。

デザインを問うことによって、その人の(また質問者自身の)「現実観」「世界観」などが垣間見えてくるので興味深く拝見しています。

>「普遍的なグッドデザインはあるか」という問い方は、そもそも矛盾していて出来ないんですね。
何故ならば、「普遍性を失わせ、それぞれの目的に合わせて特殊化していくプロセス」こそがデザインであり、正しく特殊化されたものこそ「グッドデザイン」だからです。

なるほど、そうかもしれません。

>「これは女性用化粧品で、20代後半の働く女性に買って欲しい。だから、そういう人たちに売れるデザインにしよう」

仮に働く20代の女性100人に、いくつかのサンプルを示して、一番人気のあったものにする。
その場合、選んだ人たちというのは「どのような人たち」なのでしょう?芸大卒の女性(たち)か?画家の卵(たち)か?働く主婦(たち)か?
おそらくいろいろな職業、様々なセンスを持った人たちから広くえらばれているのでしょうが、100人の働く20代女性のうち40人が選んだ品物、が、どの程度、より多くの人に訴えかける「根拠」となり得るのでしょう?

言い換えれば、「デザイン自体の優秀さ」と、「売れるという現象」は分けて考えられる、ということではないでしょうか?
これはデザインに限ったことではありませんが、「売れている」イコール「優れている」という等式は当然成り立ちません。
たんに「売れているようだから」「買う」ということもあります。

デザインのよしあしとはとは、結局「多数決」によって決定されるのか?

また、デザインを決定するのは、購買者=20代の働く女性たちであって、デザイナーは彼女たちの意を汲んでそれに沿ってデザインを作ってゆく人ということになるのでしょうか?

デザインというある種の個性は、結局は「商品」という性質の中に回収されてしまうのでしょうか?

>目的が正確に絞り込まれていればいるほど、その目的から外れる(時代や文化が変わる)ときには、変えなければならなくなる。

デザインはあくまで商品の「意匠」(衣装)であるならば、歯磨きや目薬、醤油瓶やメガネなどの「主目的」は50年前も今も不変であるのに、デザインを変える意味とはなんでしょう?

「流行り」と「デザイン性」ということを考えてみました。

再度のご回答ありがとうございます。

お礼日時:2016/05/31 14:58

少々飛躍していると思われるかもしれませんが、「デザインする」という


ことは、「新しく生命体を創造しようとすること」と定義していいように
思いました。

そもそも人間が何故「モノ」を作りだしたかといえば、第一番の理由が「
必要だから」だったと思います。
はじめは、ただ石を砕いたシンプルなデザインだったものが、次第に二番
目以降の理由が統合され、淘汰され現在に至り、未来へ続いてゆくのでし
ょう。

グッドデザインといえば、いかに多くの機能を持った持ったものを、シン
プルに美しくまとめ上げることが出来るか、ということになると思います。

シンプルで軽量でなければ使いづらいからであり、美しくなければ興味を
引かないからです。

このことって、「生命の進化」に似ていると思うんです。つまり、とても
分かりやすく言うと、「人間は神の創造のまねごとをしている」。

だから、「あらゆるものはデザインであるといえる」というあなたの意見
には大いに賛成します。
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この回答へのお礼

こんにちは、ニャンポコさん。

>そもそも人間が何故「モノ」を作りだしたかといえば、第一番の理由が「必要だから」だったと思います。
はじめは、ただ石を砕いたシンプルなデザインだったものが、次第に二番目以降の理由が統合され、淘汰され現在に至り、未来へ続いてゆくのでしょう。

つまり単なる「必要」=「実用」であったものから「付加価値」を求め始めたということでしょうか。

>グッドデザインといえば、いかに多くの機能を持った持ったものを、シンプルに美しくまとめ上げることが出来るか、ということになると思います。

これは付加価値の思想(?)だと思います。「本来の用途」+α。しかしこの「+(プラス)アルファ」なるものが結構人生を複雑にしているとも思うのです。

人間存在が仮に「動物」+アルファ的な存在であるから厄介であるのと同じ理由で。

人間にとっての「プラスアルファ」とはなんでしょう?

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/05/31 03:33

狭義の「デザイン」でなくてもいいということなので、広義でお話しします。



「デザイン」という言葉は、「目的をもって行うこと・行われたもの」という意味ですね。
商品パッケージや建築、イラストレーション以外にも、
例えば「人生をデザインする」「キャリアプランをデザインする」といった使われ方をしますが、これは流されるままに生きるのではなく、目的をもち、それに向かう方法を考えるという意味です。

商品パッケージをデザインする、というのは、それを一つでも多く売ること、買う人に、商品の性質を直感的に理解してもらうことなどを目的としてパッケージを作ることを言います。


「目的」のための「方法」というのが、デザインの本質ではないかと思います。


そう考えると、例えば「シンプルイズベスト」が本当か、という問いに答えるのは、比較的簡単です。シンプルが求められる場所ではシンプルを。そうでない場所ではそうでないものを。目的によって方法は多種多様です。ひとつ反例を挙げましょう。

私は一昨年、ヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂を訪れました。
他のどこでも見たことがないほど壮麗な聖堂内部を見れば、恐らく私だけでなく見学者の大半に、そのデザインの意味は直感的に理解されると思います。一言でいえば、

「人間がこれほど美しく壮大なものを造れるとは到底信じられない」

ということです。クリスチャンでなく、キリスト教文化圏で育たず、現代科学教育を受けた私でさえそう感じました。それは、「人為でないもの=神がそこにいること」を感じさせるために必要なデザインであったはずです。そのデザインは細部まで極めて精緻な装飾が施され、シンプルとは対極の位置にあります。しかし、あれはそうでなくてはならず、シンプルであっては用をなさないものです。


究極のデザインとは、言い換えれば究極の人為であり、いかなる目的のためにも適用できる究極の方法ということですから、そんなものはない、と考えるか、あるとすれば「抽象的過ぎて各々の事例に適用する応用力がなければ役に立たないもの」であるはずです。

人間は、非常に多くのことについて「一般則」を見つけ出してきました。ですが、それでも「究極の方法」が見つからないのは、一般化と抽象化は同じことだからです。広く適用できるものほど具体性は失われ、個々の事例についての応用が難しくなってしまいます。

「人間関係って、どうしたらうまく行くんだろう?」「思いやりが大切だよ」。それは正しい一般則です。でも、じゃあ目の前で泣いている女の子に、どうしてあげたらいいんだろう?という具体的な方法は、自分が誰であるかと、相手が誰であるかで全く違い、同じ「思いやり」を持っていても、場合によっては大いに上手く行き、場合によっては通報されてしまいます。


プロダクトデザインについても、「結局ここに帰着する」と言える一般則は「目的に対する方法として適切なもの」ということだけで、それ以上は個々のプロダクトと、時代や文化と、受け取る人によって異なる、ということになるのではないかと思います。
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この回答へのお礼

こんばんは。

>商品パッケージをデザインする、というのは、それを一つでも多く売ること、買う人に、商品の性質を直感的に理解してもらうことなどを目的としてパッケージを作ることを言います。

よく思うのですが、昔(70~80年代)に比べて、最近はパッケージデザインでもコロコロと変わります。とてもひとつの品物に対して「愛着」など持っているいとまがない。やっと馴染んできたかと思うとまた変わる。パッケージデザインだけではなく、電車のボディーなどもそうだし、街の姿も絶え間なく変わっていく。
東京に住んでいると、「あの頃」のものなんてどこにもないことに気付きます。これは「デザイン」がすなわち「商品」の形である以上は避けられないことなのか?
では「変わらなければ」売れないのか?



>「人間がこれほど美しく壮大なものを造れるとは到底信じられない」
>それは、「人為でないもの=神がそこにいること」を感じさせるために必要なデザインであったはずです。

サン・ピエトロ大聖堂を見た時に、そこに神を見るか、ミケランジェロの天才を見るか、いづれにしても、

>そのデザインは細部まで極めて精緻な装飾が施され、シンプルとは対極の位置にあります。しかし、あれはそうでなくてはならず、シンプルであっては用をなさないものです。

は、その通りだと思います。

>人間は、非常に多くのことについて「一般則」を見つけ出してきました。ですが、それでも「究極の方法」が見つからないのは、一般化と抽象化は同じことだからです。広く適用できるものほど具体性は失われ、個々の事例についての応用が難しくなってしまいます。

そうですね。「誰のものでもある」ということは同時に「誰のものでもない」ということですから。

であれば、「購買意欲をそそる」デザインなどというものも存在しないことになるのでしょう。「一般性」などないわけですから。
ではデザイナーはいったい「誰に向かって」訴求すべきなのでしょうか?

興味深いご意見をありがとうございます。

お礼日時:2016/05/31 02:28

内容は企業間争いで、切磋琢磨して研究開発し、どっこいどっこいの現状!ならば購買欲をそそる物、決めてはデザイン?それでしょう!

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この回答へのお礼

こんにちは。

「購買意欲をそそるもの」=そんなデザインとはどのようなものでしょうか?

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/05/30 12:38

私の考える抽象について少し話させていただきます。



自己を離れる事は出来ませんが、ものを見ることにおいて、好悪、善悪、良し悪し離れる離れる事ができます。例えば円と言う図形、これに対して私は円が好きなんだとか、嫌いなんだとか言ってみても、円が円である事は変わらないでしょう?嫌いだからと言ってそれを四角にしたり或いは遠ざけたりは出来ません。それは、円というものをそもそも好き嫌いによって認知しているわけでは無いからです。
一方で具象物は、、そうですね、例えば実物の、まぁるい旬の温州みかんが一つ、グラスルーツさんの手にあったとしましょう。柑橘類特有の甘いような、苦いような、そして爽やかな香りがしています。それは、グラスルーツさんの好き嫌いによって、食べる食べない、捨てる捨てない、調理するしない、など、色々に変じる可能性を持っています。またその蜜柑から、少なからぬ影響をグラスルーツさんは受けるでしょう。そして、その蜜柑、具象物がグラスルーツさんの五感に訴えるのと違って、抽象物は六感、即ち意によって把握されるものなのです。

次に、ありのままでいる事の危うさについて少し。。
此処で言うありのままとは、情に従うという意味です。例えば何か痛ましい事件があった時、情が動いて人に様々な反応をもたらします。憎しみ苦しみ、悲しみ、焦燥などが人々を包むでしょう。しかし、それと事件の真相は別のものです。事件の真相は真相としてありそれは不動であり、その事件を伝え聞いた人々が何を思おうが確固として在るわけです。人々の情によってその事件、物事の真相が変じる事は無いのです。時に、情にほだされたりはぐらかされたり、情が先走ることによって人は混迷に陥る事があります。これを、ありのままでいる事の危うさと表現しました。情は実に色々な色でもって人を苦しませたり喜ばせたりしますが、それはある面では蜃気楼の様でもあり、脚色されたものであり、真実の相では無いわけです。真実の相は、情の動き如何に従わず、そこに歴然とあるはずのものなのです。それは五感や情に彩られず、ただ意によって認め知られることなのではないでしょうか。

少しくどくなってしまいました。。すみません;^_^
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この回答へのお礼

こんばんは。

「円」とか「まる」というのは「抽象概念」ですね。「みかん」というのも抽象概念です。でもそれがコルビジェの具体的な、「目の前に存在する実体としての建築」とどのように関連付けられるのか?つまりはあふぉなさんのなかでの「抽象性」への傾斜、ということでしょうか? 抽象建築というものはちょっと考えられませんが、具象画よりも抽象画を好むといった志向(嗜好)でしょうか。



「ありのまま」についてのご説明は、「ありのまま」=「事実そのもの」ではなくなるというということのようですね。
無論このことは顕著に「歴史」問題に結びついています。

>真実の相は、情の動き如何に従わず、そこに歴然とあるはずのものなのです。それは五感や情に彩られず、ただ意によって認め知られることなのではないでしょうか。

それは仰るとおりです。物事を「ありのままに受け取る」ということの必要性はもっと強調されていいでしょう。

けれども一方で、人はある事象を意味づけすることなしに受け取ることが可能か?という疑問が湧いてきます。
例えば「現職アメリカ大統領の広島訪問」という事象があります。「オバマがアメリカ大統領として広島へ行った」と。
しかしそこで終わってしまってはそれは単なる情報でありニュースでしかない。
世界、或いは社会とコミットするにはそこに主体的な「意味づけ」が必要ではないでしょうか?
事象の解釈=コミットメントではないでしょうか?

無論社会へコミットするつもりはない、という立場だってそれはそれで尊重されるべきです。

このようにわたしはあふぉなさんの説に「勝手に色づけを」ほどこしているわけです。

わたしの考えでは、事象という無色透明な事実から、具象へ=意味づけへ、となるようですが、
あふぉなさんは、具象から抽象へ=脱・意味へ、ということでしょうか?では「意味」を無化した事実の価値(?)とはなんでしょう?

わたしは世の中をよくしようなどと思ったことはありませんが、事実が捻じ曲げられているのは不愉快で仕方がない。

あふぉなさんのスタンスというものをもう少しお聞きしたいと思います。

が、あふぉなさんのこの説の背景には、なにかもっと入り混じった思いがあるのかもしれません。それは簡単に人に説明できるものではないのかもしれない。勝手な解釈をご不快に思われたら、お詫びします。

お礼日時:2016/05/30 02:39

まず、デザインとは無駄なものごとに排除であって、デザイナーが入ようがいまいが、それが人為的あっても自然であってもデザインです。

生命の進化はまさに、人間には及びもつかないデザインがなされていることを忘れてはいけません。


>>たとえば、「電話」ということを考えると、「相手との通話」が目的ですが、それに応じて、どのように「デザイン」がなされるのでしょう?

電話機、マイクとスピーカ、物理層、通信手段、プロトコルなどなど、低コストで良質な会話を可能にするものごとすべてがデザインかと思います。

>>また、目的を目指した「引き算」がデザインの本道であるならば、「多機能」とはなんでしょう?それは「多目的だから」ですか?

人間を考えればいいです。人間は高度にデザインされた多機能な生命体ですが、生命を繋いでゆくに無駄な物はほとんどなく、足りない物もありません。

>>全ての語、すべての色を支配しているわけではない。「神の見えざる手」がそこに添えられているということは?

人為的であれ、神であれ、なんであれ、「デザイン」は結果が全て。「デザインする」行為では、回答していません。ご質問の通り「あらゆるものは「デザイン」である」から回答しています
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この回答へのお礼

こんばんは。

「デザイン」というと「無駄を省くこと」と定義されることが多いように感じます。

例えば電話機。電話機として優れたデザインとは具体的にはどのようなものだとお考えですか?
個人的には昔の黒電話が好きです。デザインとして。

スマートフォンは「デザイン」ですか?つまり様々な用途に使えるプラスティック盤。電話でもありカメラでもあり財布でもありコンピューターでもあり時計でもあり定期でもあり。であれば、あれは究極のデザインでしょうか?

であるなら、デザインとは最終的に面白くもおかしくもない味も素っ気もないミニマリスムに帰着するのでしょうか?

再度のご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/05/30 01:51

補足を読みまして。

少し喋りたくなったので、、すみません;^_^何度も書いちゃって。
ライトは、草原住宅にも見られる様に自然の地形からの派生物としての建築を作ったのと同時に、ジョンソンワックスの社屋の様な奇想の建築を作ることにも成功しています。ジョンソンワックスの社屋に使われた細い柱は強度も高く、建物としての要件もしっかりと満たしておりました。その内部に拡散する光は森林のそれの様です。ライトは自然の造形にインスピレーションを受けていて、ドアや柱の細かい意匠にもそれを象ったデザインを施しています。私などは、イスラム建築に見られる様な、幾何学から出発する有機的造形が、ライトの建築にもあるのでは無いかと見ます。
ライトが巨匠と言われるのは、人類の持つ無意識的な広がりの意識にアクセスする様な世界観を、表現できたからであると思います。そういう意味でライトは時代を超えた建築を生んだと言えるでしょうし、世界の持つダイナミズムを建築に落とし込めたのでしょう。非モダンと仰られる理由もここら辺にあるのだと理解しました。
コルビュジェの建築が、住む機械からロンシャン教会の礼拝堂へと変遷した様とは別に、ライトが探究した建築の姿は、自然に馴染む建築から、自然から生まれる建築へと生まれ変わって行ったのかなと、そんな風にも思えました。

丹下や村野藤吾、ザハハディドなどの作った現代建築にも言及したい気持ちもありますが、偏りすぎる気もするので一先ず此処までとしたく思います。
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