「あらゆるものは「デザイン」である」といえるでしょう。
工場で大量に生産されるものから、手造りの品、自然界の動植物・鉱物・虫たちの姿かたち、海辺で見つけた貝殻・・・様々な建築もデザインだし、「バリアフリー」というものも、都市デザインといえるでしょう。
例えば「グッド・デザイン」とはどのようなものでしょう?
以前の質問にもありましたが、「シンプル・イズ・ベスト」は、デザインの方向性としてはどうでしょうか?
また「デザイン」とは主に「視覚」のみに依拠する概念なのか?
「音楽」とは違う「音のデザイン」というものはないのか?
デザインの目的とはなにか?
多様なデザインを考えることを通じて、みなさんの「美学」をお聞きしたいと思います。
狭義の「デザイン」に囚われずに、「デザイン」という言葉をキーワードに、思いついたことを聞かせてください。
No.1
- 回答日時:
デザインは意匠であり、目的と意志をもって生み出されたものだけがデザインだと考えます。
自然に偶然構築された風景をデザインとは呼ばない。なんらかの意志が介入したレイアウトがデザイン。
だから、自然界の動植物・鉱物・虫たちの姿かたち、海辺で見つけた貝殻は、環境物理的なデザイン性は持っていても、デザインされたものではない。
トラ柄の虎はデザインではなく、トラ柄を配置したものやトラ柄の虎を描くことがデザインである。
このルールに則ると
>例えば「グッド・デザイン」とはどのようなものでしょう?
デザイナーの意志が反映されるものがグッドデザイン。散逸し目的外の受け取りをされるのがバッドデザイン。
>「シンプル・イズ・ベスト」は、デザインの方向性としてはどうでしょうか?
デコレーションとソリッドの違い。塑像と彫像。盛ってもデザインはできるし、削いでも結晶化したデザインができる。
>また「デザイン」とは主に「視覚」のみに依拠する概念なのか?
>「音楽」とは違う「音のデザイン」というものはないのか?
音響デザインは職業としても存在する。ただし音の場を調整することがデザインであり、音色自体を作ることをデザインとは呼ばない。それはデザイナーではなくクリエイターの仕事。
「視覚」のみに依拠する概念ではなく、空間を配置し伝達することがデザイン。だから文章でもデザインはできるし、嗅覚や味覚だってデザインできる。コピーライターも調香師も料理人もデザイン職である。
だからデザインは認識を共有する再現力や言語を持たねばならない。全員が違う感覚を持ち、全く違う感想が出る意匠には高いデザイン性はない。
私がデザインのなんたるかを一番理解したのは、
中島らも氏のエッセーで、コピーライターとはどういう職業かという説明で、
広告で、鯛の形に切り取られた枠にあわせて文字を組んだ説明文を書き、「文字にウロコ感がない」とデザイナーにボツ出しされ、ウロコ感のある文字でレイアウトするのがコピーライターの仕事。という説明がいちばんしっくりきた。
こんばんは。
人間の想像した「意匠」以外の自然の「造形美」は何故「デザイン」と呼ばないのでしょう?
>目的と意志をもって生み出されたものだけがデザイン。
であって、
>自然に偶然構築された風景をデザインとは呼ばない。
無論「狭義」に捉えれば、なにもかにもがデザインであると考えるのは、あまりに話が広がり過ぎてしまうという懸念もありますが、
わたしは敢えて、「自然界のかたち」(「人体」をも含めて)をも、「デザイン」と考える余地を残しておきたいと思います。
◇
>デザイナーの意志が反映されるものがグッドデザイン。散逸し目的外の受け取りをされるのがバッドデザイン。
これは利用者=見る者にとってということでしょうか?であれば、アートとは異なるものとして受け取れるのです。
例えば、「作者の死」と言われるような、「受け手によって再創造されるデザイン」といった受け取られ方はどうでしょう。
>デコレーションとソリッドの違い。塑像と彫像。盛ってもデザインはできるし、削いでも結晶化したデザインができる。
ケースにもよるでしょうけれど、どちらがお好きですか?
>デザインは認識を共有する再現力や言語を持たねばならない。全員が違う感覚を持ち、全く違う感想が出る意匠には高いデザイン性はない。
一般に「アート」は、鑑賞者が新たに創造することを目的としているはずですが、デザインは何故、「言語」のように「それ」に対する「共通の」認識を求めるのでしょう?
中島らも氏の、「うろこ感」というのは、魚の枠内の「文字」=「文」が伝達する「情報」よりも、「鱗っぽさ」という「視覚」に訴えるモノに比重が置かれているようです。ということは、文字を「形」として捉えるタイポグラフィーの仕事により近いように思えます。
最初に頂いたご回答ですので、なにやら、たたき台のようになってしまいました。いろいろな方角からデザインと捉えなおしてみたいと思いました。
ご回答をありがとうございます。
No.2
- 回答日時:
>狭義の「デザイン」に囚われずに
狭義では、デザインとは「意匠設計」
広義では、デザインとは、「構造設計」「構想設計(=計画)」も含まれます。
自然界の動植物などは、人間などの思考の結果を表したものではないので、そういうのまで「デザイン」ということに違和感があります。
>また「デザイン」とは主に「視覚」のみに依拠する概念なのか?
構造設計は、明らかに、視覚に依存しません。たとえば、鉄筋コンクリートの中にどれだけ鉄筋を入れるか
なので、意匠設計とは性格が異なります。
>「音楽」とは違う「音のデザイン」というものはないのか?
遮音壁を設けて自動車騒音を軽減する場合の、騒音低減具合を計算で求めることは
音楽ではないが音の設計に該当。
こんばんは。
>自然界の動植物などは、人間などの思考の結果を表したものではないので、そういうのまで「デザイン」ということに違和感があります。
No.1さんと同じご意見ですね。「デザインとは人間が創造したもの」に限定する。けれども人間の創造する「デザイン」は、その多くの着想を「自然界の意匠」に負うてはいないでしょうか?自然界のデザインの多様さを捨象して、なお「人間のデザイン」というものがなりたつのでしょうか?
『テムズ川に霧が立つのは、ターナーが霧を描いたからだ!』という「自然が芸術を模倣する」という立場もあり得ますが。
やはり、自然なくしてデザイン無し、と、極論してみたくなります(苦笑)
ご回答をありがとうございます。
No.3
- 回答日時:
「デザイン」とは、「デザインする。
」「デザインされる(た)。」と言った使い方をするところから、「何らかの主体」が「意思」を持って、行う「設計作業の結果」と考えるのは、変でしょうか?
一般に言う「人工物」の結果としての「デザイン」と、ご指摘の「自然が形成した」結果としての「デザイン」は、
厳密には、若干性格を異にするような気がします。
しかし、「何らかの主体」を、西洋人が「神」と捉えるか、「自然淘汰」と捉えるかは、分かりませんが、
そのように拡大解釈をすると、「自然が形成した」結果も、「デザイン」と呼べない事は無いかも知れません。
私は、日本土着人なので、自然界が表す形態を「デザイン」と認識するためには、
認識する方の「主体」が、意思を持って、認識する必要があるように、思います。
美しい「デザイン」とどなたかが認識する「魚」も、私には、「おいしい晩御飯」にしか
見えないかも知れません。
こんばんは。
「造形」の主体が、人間(の知能)に限定されるという考え方に、むしろわたしは疑問を持ちます。
そこにはその主体自体が、自然の被造物であるという前提が捨象されているように思えるのです。
ですから「デザイン」を「行う」人間もまた、広く自然のデザインしたものと捉える方がわたしには自然に思えます。
無論これはわたしの個人的な意見です。
人間もまた自然の被造物である以上、人間のデザインが自然の影響から免れるということはありえないのではないか?と素朴に考えるのです。
日本にはアニミズム信仰があり「一木一草悉皆成仏」=すべての被造物に魂が宿るという考えがあるはずです。
そういう意味で、「自然のデザイン」と「人のデザイン」とを分けて考えることに抵抗があるのかもしれません。
魚は「おいしそう」だと思わせる「デザイン」なのでしょうか?(笑)
ご回答をありがとうございます。
No.4
- 回答日時:
デ・ザインという言葉は、端的には抽象化を伴う表現や作成行為の意かなと思いました。
人生設計なんて言葉もありますね。
また、自分を作り上げるのもデザインかもしれません。
しかしながら人生には人為的に演出出来ない事柄と言うものがあり、しかもそれが大きな意味を持ちますから、私は人生設計というのはその点においてナンセンスかなと思います。
無為を観じれば有為から解脱すると説かれますが、無為とは何だろうと思えば、それは抽象化の果ての様でもあり、一つの究極の様な気もします。また同時に、人生の中では意図せぬ出会いが大きな意味を占める様に、人の思索や営為を超えた因縁に基づいて起こるのが無為であるとするなら、それは不意のものであり、自分はそれを持っておるのだけれど意識的には表出出来ない代物かなとも思えます。
難しい事を言いましたが、私にはデザインという言葉から、有為と無為が想起されたのでした。
余談になりますが、有名なロンシャン教会の造形は、それ以前は極めてデザイン的であったコルビュジェが、光という人の創意ならざるものに気付いた結果、生まれた作品だと見る事も出来ないでしょうか。ラ・トゥーレット修道院に同じ傾向は見られますが、思い切ってデザインを解放した結果が、ロンシャン教会の礼拝堂だったのでは無いかと。
こんばんは。あふぉなさん。
デ・ザイン(Sein)・ゾルレン(Sollen)。(笑)デザインはデ・ザインなんでしょうか。
「人生設計」「ライフ・デザイン」と言いましたっけ。
>人生には人為的に演出出来ない事柄と言うものがあり、しかもそれが大きな意味を持ちますから、私は人生設計というのはその点においてナンセンスかなと思います。
むろんすべて設計図通りに行くわけはありませんが、だいたいの方向性のようなものではないでしょうか?卑近な例を挙げれば、「いい学校」-「いい会社」というような「人生設計」が、未だに有望視されているようです。
>難しい事を言いましたが、私にはデザインという言葉から、有為と無為が想起されたのでした。
難しいですね。「無為」とは「為さざること」つまり「永遠の待機状態」でしょうか?けれども「契機」というのは「有為転変」のなかにこそ生じるものではないのか、という思いもあります。簡単に言えば「犬も歩いているから」「棒」という「運」に「あたる」のでは?
「不意」=「意図せざる」ものは動きの中にこそ生じるのでは?と、見当違いのことを言ったかもしれません。
前に「シンプル・イズ・ベスト」の質問中でも述べましたが、わたしには、コルビジェの建築の魅力というのがさっぱりわかりません。
まったく無機的なハコ。国立西洋美術館には何度も足を運びましたが、あれを見るとうんざりします。味も素っ気もないというか、なんだか「竜安寺の石庭」を思い出します。両者に共通しているのはあの潤いのなさかなと思います。そもそも「モダニズム」って好きになれない。(苦笑)
ただ、ルーシャン・ハーヴィー(Lucien Hervé )というフランスのフォトグラファーの撮ったモノクロのコルビジェ建築を見ると、正に光と影のアートという感じで素晴らしく美しく見えます。逆に言えば、南欧の強い光に比べて、日本の光のなかでは活かされない「美」なのかもしれません。英国のコルビジェなんてちょっと考えられないように(苦笑)
ご意見をありがとうございます。
No.5
- 回答日時:
>「デザイン」とは主に「視覚」のみに依拠する概念なのか?
それはそうです、聴覚は感性であり、味覚は感覚ですから
>「音楽」とは違う「音のデザイン」というものはないのか?
音感は感性なのでデザインとは違いますよ
あと自然の造形物はデザインと言えるでしょう、自然というのも
偶然には出来ず、神の理念の体現に成りますから。
こんばんは。
>聴覚は感性であり、味覚は感覚ですから
「聴覚」も「味覚」も、「視覚」同様「五官」=「五感」に含まれるのでは?
>あと自然の造形物はデザインと言えるでしょう、自然というのも偶然には出来ず、神の理念の体現に成りますから。
神の理念の体現であっても、進化の経過によるものであっても、単純に自然の造形美は人間に快さを与えると思います。
ご回答をありがとうございます。
No.6
- 回答日時:
機能も「デザインする」とは言いますが、特に「デザイン的に」と
言う場合は、そうした「(物理的ニーズに基づいた)機能的な設計」を
指すのではなく、そうした合目的的な必要ではなく、その道具や器具を
用いる人間の心を対象とした、精神的充足感の増進を設計の要因として
配慮する事を意味します。
機能主義(=生きる目的を物質的繁栄や経済的利益におく)か、
表現主義(=生きる目的を精神的充足量の最大化におく)かの違い
に由来する。
こんばんは。
> 合目的的な必要ではなく、その道具や器具を用いる人間の心を対象とした、精神的充足感の増進を設計の要因として配慮する事を意味します。
なるほど、ではデザインAが機能主義的なものであるのか、表現主義的なものであるのかは、どのようにして判別することができるのでしょう。機能的に単純便利であることが、精神的なリラックスを与えるということも考えられます。
逆に
>精神的充足感の増進を設計の要因として配慮
した結果、デザイナーの独り善がりに陥ることもままあるように感じます。
「ユニバーサル・デザイン」のような、「誰にとっても便利」というようなコンセプトは、どのようにかんがえられるでしょう?
ご回答をありがとうございます。
No.7
- 回答日時:
NO3です。
「お礼」有難うございます。少しだけ、追記します。
「デザイン」=「「何らかの主体」が「意思」を持って、行う「設計作業の結果」」
上記が、私が考える「デザイン」の定義です。
ご返答の中にある、「そこにはその主体自体が、自然の被造物である」
「人間もまた、広く自然のデザインしたものと捉える方がわたしには自然」から、
「Grass」さんのご指摘の「デザイン」の定義は、上記の私のもの、とは
微妙に、異なるように思います。
私にとっては、「Grass」さんの仰る「自然界の動植物・鉱物・虫たちの姿かたち、海辺で見つけた貝殻」は、
「造形美」です。
機能的で、シンプルで、非常に美しい。
しかし、そのように評価するのは、人間だからです。(少なくともライオンがシマウマを美しいと思うか、多少疑問です。)
建築家フランクロイド・ライトが「有機的建築」の説明で、類似の指摘をしています。
「植物の機能美、シンプルさ、美しさ、の「造形美」から、学んで建築の「デザイン」をした。」と。
(すみません。何十年も昔に読んだので、正確ではありません。)
私の「デザイン」の関する定義が、正確かは、分かりませんが、「自然の造形美」はそこに「在るもの」であり、
それを人間が、消化、吸収して、表現したものが、「デザイン」」であると、思えます。
ああ、先日、「シンプル・イズ・ベスト」で、ル・コルビジェとライトのお話をしたのはsomething2013さんでしたっけ?
わたしは「アイコン」がないと(或いは日本語の名前でないと、なかなか憶えられません(笑))
>「自然の造形美」はそこに「在るもの」であり、
それを人間が、消化、吸収して、表現したものが、「デザイン」」であると、思えます。
ああ、なるほど。ではそれが先にあふぉなさんが言われた、ザイン(存在・実在)でしょうか?
再度のご回答をありがとうございます。
No.8
- 回答日時:
A1です。
お礼ありがとうございます。>無論「狭義」に捉えれば、なにもかにもがデザインであると考えるのは、あまりに話が広がり過ぎてしまうという懸念もありますが、
>わたしは敢えて、「自然界のかたち」(「人体」をも含めて)をも、「デザイン」と考える余地を残しておきたいと思います。
先に書きましたとおり、デザインは意匠であって、著作権の考え方と同じ創造主の寡占権利なのです。
独創性や、独自性がないと、個性を持つなにかをデザインしたとはいえない。デザインはデザインしないと発生しないもの。
自然界の形は、創造主である神のデザインであって、神の意思や意匠を、感じ取ったり享受することはできても、真の理解や独占はできないのです。神の意思は、デザインされたものとデザインされていないものの線引がなくなる。
だから自然物はデザインされたものではない。と私は定義しますし、多くのデザイナーはそう考えないと自己創作ができません。
>>デザイナーの意志が反映されるものがグッドデザイン。散逸し目的外の受け取りをされるのがバッドデザイン。
>これは利用者=見る者にとってということでしょうか?であれば、アートとは異なるものとして受け取れるのです。
アートとデザインは接する部分はあっても異なるものです。アートは表現の発露であって、あくまでデザインは商業的な個性や差別化の中で発生した、多くは著作権すら主張できない別ものです。
デザインは商標権や特許権に抵触します。アートは逆に商標や特許が取りづらい。それが登録発生権と自然発生権の違いでもある。だからデザインを主張するのに言語化や再現力が必要になる。
>例えば、「作者の死」と言われるような、「受け手によって再創造されるデザイン」といった受け取られ方はどうでしょう。
デザインはアートではないので、作者不詳なことのほうが多いのです。後世に残るのは名声でなく発明したデザインのコピーだけのことも多い。
アートは再創造されることもありますが、デザインで行われるのは再構築。再構築にはオリジナルへの理解と信仰や愛が必要。
マンガの実写映像化の失敗は大抵これですね。創造する力もなく、造主物への理解がないのに再構築するから、構成が破綻し、愛情を持つファンに否定され、存在自体なかったコトにされる。愛や信仰があれば全く違う形に仕上がっても同じ作品の別モノとして認識され共有される。これが再現性。
>>デコレーションとソリッドの違い。塑像と彫像。盛ってもデザインはできるし、削いでも結晶化したデザインができる。
>ケースにもよるでしょうけれど、どちらがお好きですか?
どちらにも理解がなきゃ、デザインは発明も再現もできませんよ。盛る方は華飾すぎて真意が伝えづらくなりますけどね。
>中島らも氏の、「うろこ感」というのは、魚の枠内の「文字」=「文」が伝達する「情報」よりも、「鱗っぽさ」という「視覚」に訴えるモノに比重が置かれているようです。ということは、文字を「形」として捉えるタイポグラフィーの仕事により近いように思えます。
タイポグラフィーはフォント自体のグラフィックデザインまでの自由度がありますが、
タイポグラフィーを持ちいずにデザイン要求されるのがコピーライター。それもデザイナーやディレクターの監修がはいることが前提。
それも「視覚」に訴えるモノに比重が置かれつつ、文章内容自体と字詰が本業で、ウロコ感は仕事の範疇外。
これがライターともタイポグラフィーとも芸術家とも美術家とも違う、コピーライターのレイアウトデザイン。
こんばんは。
>デザインはデザインしないと発生しないもの。
>神の意思は、デザインされたものとデザインされていないものの線引がなくなる。
だから自然物はデザインされたものではない。
>だからデザインを主張するのに言語化や再現力が必要になる。
デザインはプレゼンテーションに於いて、その「意味」を「説明」することによってはじめて「デザイン」として成立するということでしょうか?まぁ、そうかもしれません。ある「モノ」をいきなり目の前に持ってこられても、絵画でも彫刻でもその他の美術・工芸品ではない以上、「それはなにか?」は誰にもわからない・・・?
言い換えれば、デザインは在るのではなく「成る」のだ。と。
>アートは再創造されることもありますが、デザインで行われるのは再構築。再構築にはオリジナルへの理解と信仰や愛が必要。
ご存知のように、ゴダールの映像作品などは、創造という以上に再構築と言った方がいいくらいに「引用」が多用されています。
>>デコレーションとソリッドの違い。塑像と彫像。盛ってもデザインはできるし、削いでも結晶化したデザインができる。
>>ケースにもよるでしょうけれど、どちらがお好きですか?
>どちらにも理解がなきゃ、デザインは発明も再現もできませんよ。盛る方は華飾すぎて真意が伝えづらくなりますけどね。
でも、理解すること=知識があることと好き嫌いは別であるはずです。こういうのは「キライである」という感覚が、スキなものを作りあげるというモチベーションになるような気がします。
>文章内容自体と字詰が本業で、ウロコ感は仕事の範疇外。
そうでしょうね。小説家を広義に芸術家、とは言っても、コピーライターは広義にも「デザイナー」と呼ぶのは難しいでしょう。
再度のご回答をありがとうございます。
No.9
- 回答日時:
デザインに「目的」はありません。
目的に応じることがデザイン。デ・ザインとは存在、表象を削っていくということです。目的に応じて無駄なものが排除されることがデザイン。
したがって、おぞましく、醜悪なデザインもアリ。
目的の合致しないものをすべて排除して残ったものが最良のデザインになります。これがグッドデザインであり、良いものがシンプルイズベストになりがちな理由。
あらゆるものごとが人工的にあるいは自然にデザインされてます。
小説は、言葉の羅列。すべて辞書に書いてあります。小説家は言葉を創造しているわけではありません。
次に来る単語を一つだけ選んで、他を排除するという作業を続けているということです。これがデザイン。
画家も、あらゆる色の中から、そのひと筆の色と場所を選び、他を排除して絵を仕上げているということ。
こんばんは。
>デザインに「目的」はありません。目的に応じることがデザイン。
たとえば、「電話」ということを考えると、「相手との通話」が目的ですが、それに応じて、どのように「デザイン」がなされるのでしょう?
また、目的を目指した「引き算」がデザインの本道であるならば、「多機能」とはなんでしょう?それは「多目的だから」ですか?
>小説は、言葉の羅列。すべて辞書に書いてあります。小説家は言葉を創造しているわけではありません。
次に来る単語を一つだけ選んで、他を排除するという作業を続けているということです。これがデザイン。
>画家も、あらゆる色の中から、そのひと筆の色と場所を選び、他を排除して絵を仕上げているということ。
ええ、それはよくわかります。
一方で、当然ながら選択されなかった「語」あるいは「色」が使われていたという可能性もあるわけですね。
主体的な取捨選択がデザインなりアートであるにしても、「それ以外にない」というわけではない。
ある意味でそれは語の、色の主体的な選択であると同時に偶発的な選択であったかもしれない。
そして一つの語が、一つの色彩が選ばれることによって、後続の語の選択、その周囲の配色がある程度決まってしまう。
全ての語、すべての色を支配しているわけではない。「神の見えざる手」がそこに添えられているということは?
ご回答をありがとうございます。
No.10
- 回答日時:
デザインというのは「意図を込めた結果」だと思います。
一般的な人為的な意図はもちろん
自然界の法則の発現に神という主体の意図を見るような
‘ものの見方という軸‘に人為的な意図を込めたデザインというものもありそうです。
後者の‘人為的な意図‘は
説明しきれないことに対する、‘希望を込めた祈りに類するようなバイアスのかかった納得‘への希求
と言ってもいいかもしれません。
そこには人間が人間として進化してきた過程で
生存から遺伝子の継承に有利なものとして獲得してきた
精神構造の無意識下に組み込まれた何らかの枠組みがあるのかもしれません。
「‘意識上での意図100%‘から‘無意識下に組み込まれた傾向100%‘への直線上」の
どの位置にあるかで作為の度合いが変動するみたいなイメージがあります。
デザインとはセンスを出すことです。
そこにひずみがないほどエントロピー減少への寄与になる。
現実に蔓延する矛盾の中で、人間性から遊離しない欲求を
社会的動物にすぎない存在として折り合いをつけた範疇で
調整しようともがいたぎりぎりの極限の先に発現するのが
‘よりひずみのないという方向‘を持ったセンスです。
そこに普遍性を持ったものとして
文化の起点というきっかけとなる
可能性が萌芽するんだと思います。
こんばんは。
>自然界の法則の発現に神という主体の意図を見るような‘ものの見方という軸‘に人為的な意図を込めたデザインというものもありそうです。
後者の‘人為的な意図‘は説明しきれないことに対する、‘希望を込めた祈りに類するようなバイアスのかかった納得‘への希求と言ってもいいかもしれません。
わたしが、自然界の造形美というとき、そこに神なり自然なりの意図を感じているかというと、そうではなさそうです。
無論そこまで意識してなにかを観ているのではありませんけれど、それ自体を美しく思い、玄妙なデザインだと呆れてしまうわけです。
太宰治が、オオサンショウウオを見て、げらげらと笑ってしまったように。それ自体に感心しています(笑)
>人間性から遊離しない欲求を社会的動物にすぎない存在として折り合いをつけた範疇で
調整しようともがいたぎりぎりの極限の先に発現するのが
‘よりひずみのないという方向‘を持ったセンスです。
これはその通りですが、現実には世の中には不要なものが多すぎると感じています。
進歩とか進化という名のもとにどれだけの不用品が生まれてきているか?
ではそもそも、モノ自体が過剰であるならば、その上に乗っかった「グッド・デザイン」とはいったいなんでしょうか?
ご回答をありがとうございます。
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であるなら、デザインとは最終的に面白くもおかしくもない味も素っ気もないミニマリスムに帰着するのでしょうか?
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>その人がデザインした新デザインはこれです(http://pop-a-gogo.com/wp/wp-content/uploads/2015 …)
あたらしいデザイン。これはほぼ、赤いくまもんですよね。失礼ながら単に時流に迎合しただけではないかと疑りたくなります。