アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

「フォトグラフィック・メモリー」と呼ばれる天才的記憶術というのがあります。例えば本のページを写真をパシャパシャと撮るように次々に脳内に記憶してゆく。でもそれを脳の内部に記憶させたとして、それを「理解」することは可能でしょうか?

例えばAさんは、ロシア語を知らないしフランス語も知らないが、フォトグラフィック・メモリーの能力を持っている。それで、ロシア語で書かれた『罪と罰』やフランス語で書かれた『失われた時を求めて』を丸暗記したとして、Aさんはそれをどのように「理解」するのでしょう?
この場合、Aさんが既に知っている「日本語」との対訳が必要になるのではないでしょうか?

また仮にAさんの母語である日本語で書かれているものであっても、高度な学術論文を「理解」することは可能でしょうか?

いずれのケースでも、「記憶する能力」と「知能」=「理解力」は比例すると考えていいのでしょうか?

また同じように、視覚的記憶ではなく、仮に「聴覚」に於ける「テープレコーダー的」記憶力というものがある人が、ロシア語で朗読された『戦争と平和』を、「聴き取った音声のまま」「音として」繰り返す=「発声する」ことが出来るのでしょうか?つまり唇の形や舌の動きに関する「知識」なしに。

憶えることと、理解することとの関係についてお聞かせください。

質問者からの補足コメント

  • 「ニンドスハッカカー、ヒジリキホッキョッキョー」のようなオノマトペ。
    「意味不明さゆえ」におもしろい、わらえるというのはどういうことなのか?
    何故、意味から外れているのに、意味がないのに笑えるのか?

    「音」(おと・おん)がおもしろいから?とはどういう脳の仕組みか?

    などと質問から外れて思ったことでした。

      補足日時:2016/06/17 13:35
  • >理解できないことによってこそ、手持ち無沙汰な意識は、より、静かな主張を見つけることができる気がします。

    上手い表現ですね。

    「意味」を捨象した「音」に意識が集中するということですね。それは知らない外国語を聞いたときに、先ず「音の連なり」としか認識できないことと同じだと思います。

    先に出てきた「寿限無」ですが、あれを意味が分からないままに日本人がほぼ再現できるのは、それが日本語だからで、「イエスタデイ」を再現できないのは母語ではないからではないかと思います。
    英語の歌詞を憶えることはできますが、それをその言語特有の「おと」の通りに再現するのが極めて困難なのは、やはり口唇の微妙な動きを異文化・異言語圏の者が再現することの困難さ、ではないかと思うのです。

    こちらこそご回答の意味を取り違えている可能性が高いと思います。よろしければ反論含め、またご意見お聞かせください。

    No.11の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/06/19 12:37
  • 理解について、なにかで読んだか聞いたかしたことですが、
    ある科学者が、夜中に目が覚めて、急いで夢に出てきた数式を黒板に書き留めた、
    けれども、その時点で彼はその数式を理解することが出来なかった。

    それがいつまでも誰にも解読できない、ということはありうるだろうか?

    など、とつおいつ思ったことでした。

      補足日時:2016/06/19 15:40
  • >僕はあふぉなさんや猫りんさんの投稿に愛を感じますよ。みなさま礼儀正しく思ったことを書いているではありませんか。

    わたしがハルさんなら、かかる愛情あふれる行為はとてもいたたまれないと思うだけです。

    No.20の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/06/20 01:00
  • オノマトペで思い出しましたが、例えば日本人が全く無意味な日本語を1分間、しゃべることができるでしょうか?これはそうとう困難に思えます。

    タモリの初期の芸である「インチキ外国語」、「日本語を知らない外国人には日本語はこう聞こえる」

    またこれらは正確に反復可能であるか?

      補足日時:2016/06/20 01:47
  • >僕がハルさんに贈った言葉を聴いて、あなたは包丁で刺された気分になりましたか

    それに近い気持ちにはなりましたね

    No.27の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/06/20 23:56
  • みなさん。お礼をお待ちください。これまでいただいたご回答にすべて(形式的なりとも)お礼を終えた時点でBAを決めて締め切ります。

    これまでお付き合いくださりどうもありがとうございました。

    Grass_Roots

      補足日時:2016/06/21 00:03
  • ブログで「個人主義と民主主義」「私は鰻だ」など興味深く拝見しました。

    このようなテーマでこちらに質問を立ててもらえればと思います。

    No.28の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/06/21 15:36
  • たくさんのご意見、回答をありがとうございました。

    猪突さんの「ジュゲム」ー「オノマトペ」からはじまって、ぶらじゅろーぬさんの「俳句論」更にあほなさんの「サヴァン症候群」、瀬里香さんご紹介の猪突さんのブログ記事、雨がっぱさん、ニャンポコさんの言われた、ネットワークでの理解など、個々のお答えだけでは繋がりがわからなかったものが、それぞれの回答が補足し合い、補完し合って、質問者もとても考えさせられました。

    最終的には、繰り返しお付き合いくださり、「俳句論」(難解極まるアウグスティヌスを紹介してくれた)ぶらじゅろーぬさん、猪突さん、雨がっぱさん、「サヴァン症候群」のあほなさん、にしぼられましたが、妥当なベストアンサーなど選べるはずもなく、みなさまに感謝しつつ、これまでわたしがBAに選んだことのない猪突さんに決めました。

    改めてみんさんのご回答、ご意見に感謝します。

      補足日時:2016/06/22 15:17

A 回答 (32件中11~20件)

そう言えば プラトンの想起説がありましたね。



▲ (ヰキぺ:アナムネーシス) ~~~~~~~~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8A …

○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
メノン: それではどのやうにして探究なさるのですか、ソクラテス、
 一般に何であるか知らないものを。
 その中の如何なるものを問題にして探究なさるのですか。いや、
 ともかくそれを探求して得た場合に、知らなかつた所のものがそ
 れであるということをどうして知り得るのですか。
 ( プラトン『メノン』80d)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

これに対するソクラテスの応答によって「想起」説が発展すること
となった。

魂は不死であり、繰り返し甦ってくると彼は主張した。

彼によれば、実は知識はいつも魂に内在している(『メノン』86b)
が、魂が復活するたびに誕生の衝撃で忘れてしまう。そこで、人が
学び知ったものとは、実は忘れていたものを回収しただけだという
ことになる.
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ これは けっきょく≪ただ それを知ったときに まさしくそ
れを問い求めていたのだと感じる≫ということを むつかしく捻っ
て理解しようとしている。のではないかと思うんですけれど こ
れまた どうなんでしょう。



次の思索は 役に立ちましょうか どうでしょうか。

▼(アウグスティヌス:記憶の問題) ~~~~~~~
常に存在するもの〔* 非知なるナゾ(?)〕は 場所的空間的に
固定されている物体のように留まるものではない。
・・・
場所に置かれた感性的なものの叡智的・非物体的な根拠が場所的・
空間的でなく留まるだけではなく また時間において移り行くも
のの運動の感性的ではなく確かに叡智的な根拠も 時間の移り行
きなく滞留する。

精神の眼差しによってこれらのものに到達するのは極く少数の人
である。また なし得る限り 到達するとき 到達する人自身が
そこに留まるのではなく その眼差しそのものは言わばそこで撃
退されて はね返され そして移ろい行かないものの移り行く思
惟が生じるのである。

しかも この移り行く思惟は 精神を教育する学問によって記憶
に委託される。従って 移ろい行かざるを得ない思惟が再び還帰
し得る場所〔* 非思考の庭(?)〕が存在するのである。
(『三位一体論』 中沢宣夫訳 1975 vol.12 ch.14 )
~~~~~~~~~~~~~~~~
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この回答へのお礼

こんばんは。

>メノン: それではどのやうにして探究なさるのですか、ソクラテス、
 一般に何であるか知らないものを。
 その中の如何なるものを問題にして探究なさるのですか。いや、 ともかくそれを探求して得た場合に、知らなかつた所のものがそ
 れであるということをどうして知り得るのですか。

ははあ、これは正にこの質問のようですね。

けれどもこの問いかけ自体は面白いのですが、ここでのソクラテスの返答はそれこそ禅問答です。
結局「それを知った時にまさにそれがそれだと知るのだ」というトートロジーに聞こえます。

人間は人類の記憶や先祖(親)の記憶を受け継ぐことができないので、ひとつひとつの個体が全て一から学ぶことをしなければならない。
記憶の伝承というものがあれば戦争も無くなるかもしれません。

アウグスティヌスは、どうでしょう、訳のせいなのか?ちょっと理解ができないという感じです。(ワンセンテンスがながい!)

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/06/20 01:39

補足の数学者の夢の数式では、ラマヌジャンを思い出しました。


ラマヌジャンは、多数の公式を残しましたが、自身ではその証明をほとんど行っていません。
なぜか、「寝ている間にナマギーリ女神が教えてくれた」と言った事もあるようです。
ラマヌジャンはその類まれなる計算能力によって、数々の公式を計算したわけですが、それは直観のように閃いて来たものだったのかもしれません。
ラマヌジャンの公式については、計算の結果正しい事が証明されたり、友人の数学者がその証明を行っています。
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この回答へのお礼

しかし「夢」を、それも夢に出てきた数式を完全に憶えているというのはすごいですね。
でも自分では証明できない夢の中の数式というのもおもしろいですね。
理解できないものが頭の中にあるとは?これはもう一つの「未知」「既知」「非知」の問いの方ですかね(笑)

モーツァルトは音楽(譜面?)が、3次元に見えたというようなことを読んだことがありますが、それってどういうことなんだろう?
ああ、そういえば、『アマデウス』で、アントニオ・サリエリが、モーツァルトの音楽の採譜(だったかな?)をやっていて、「ああ!わからない!」と言っていた場面が印象的でした。優秀な作曲家であるサリエリは「何が」「わからなかったのか?」わからないものを一般聴衆が聴いてわかるわけはない・・・などなど。

再度のご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/06/20 01:21

もう一度場所を借りますよ。



>腹立たしいのなら関わらなければいい。
:本当にさうでせうか。
僕はあふぉなさんや猫りんさんの投稿に愛を感じますよ。みなさま礼儀正しく思ったことを書いているではありませんか。誰かハルさんをサンドバッグにしましたか?ハルさんに向かって糞便を垂れ流しましたか?唾を吐きかけましたか?
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ふたたびの投稿をありがとうございます。実は待っていたところもあります。わたしは勝手に腹を立てましたが、それに対して言い分があるだろうと。

>僕はあふぉなさんや猫りんさんの投稿に愛を感じますよ。みなさま礼儀正しく思ったことを書いているではありませんか。

以前プラポティさんが、「みなで寄ってたかってハルさんを叩いている、言い分はもっともだが、相手の状態状況を見なければならない、
誰もが打たれ強いわけじゃない」と仰っていましたがその通りだと思います。また同じように
「ぶらじゅろーぬさん、や人の道さんも叩かれているが、彼らを庇う人はあまり見かけないが、ハルさんは一定数の味方がいる」とも。

わたしはハルさんに自分を投影しているだけかもしれません。投影すると何故いやない気持ちになるのか?
「出来るやつ」「利口者」が苦手だからです。「反論しようのない正論」が嫌いだからです。
ま、つまりはハルさん云々よりも、出来損ないのルサンチマンのようなものです。
わたしはハルさんを自分と同じレベルに貶めるつもりはさらさらありません。あそこにも書き、ぷらぽてぃさんの指摘の通り、ハルさんにはわたしにはない人徳があります。

ただどうしてもわたしにはあれを「鞭打つ行為」としてしか見られないのです。誰に?「自分より劣っている」と「見做されたもの」への。

お礼日時:2016/06/20 00:57

bLuEさん?場所を借りますよ。



僕はハルさんを攻撃しましたか?いつどこでどのやうにですか?僕の発言が【攻撃】と名付けられるなら僕はとても悲しみます。
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この回答へのお礼

こんばんは瀬里香さん。

直接の攻撃はしていないでしょう。(攻撃という言葉を使いましたっけ?よく覚えていない(汗)
けれども、わたしはあほなさんの態度をある種の鞭打ちのように受け止めました、何故ならそれを単に他人事だと思えないからです。

そして瀬里香さんはそのあほなさんの態度に或いは言い分に「完全に同意する」と言っていました。それをわたしははるさんを鞭打つ言葉、態度への共感であると受け取ったのです。

わたしの誤解でしょうか?誤解であれば反論をお聞きします。

お礼日時:2016/06/20 00:43

#12の者です。



>無論脳科学や認知の仕組み

特定の音や図形のパターン(記号)を、経験において、脳内の概念に
結びつける事で、言語が生じます。
その「特定の記号パターン」を介して、両者の間で共通の概念を想起
させる。

その「概念」が生じるのは、そもそもの意識の形成において、過去の
経験の蓄積において、新たな先行感覚(光や音といった情報性の高い)
の刺激に対し、脳内でそれ以外のより生理的な感覚を励起させる=
「そこへ行けば何が起きるかの予測」として空間は派生している事に
より、その「経験の蓄積」の総和において、類似性によるグループ分け
がされる事による(「犬」と聞くと過去の無数の犬の平均的イメージが
湧く(中には3本足の犬もいたかも知れないが「平均」によって4本足
のイメージが湧く))。

そうした「類似性」を生じる原因は、そうした現象的個体を可能にした
進化における、階層現象化(個体(認識)=細胞=分子=原子=素粒子=
クォーク=超弦(量子定常波=無の射影))の過程における共通性に由来
する(犬なら生物進化における種分化=系統的まとまり)。
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この回答へのお礼

なるほど、一匹の犬が「種としての犬」になり、またそれがわれわれの出会う個々の犬、という経験の総和から類似性を導き出し抽象化され、概念化されるということですね。

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/06/20 00:37

ある音楽を聴いて、それを真似て、はたしてその音楽がわかるかと言うゲームをある番組で行っていました。

(真似るのは日本人で、ヘッドホンで聞いた音楽をその人が歌うわけです)
問題は、英語の歌詞の音楽だったわけですが、はっきり言って、完璧に真似られる人もいれば、どうにもこうにも、なんでこうなるのかという人もいました。(これは、日本人である私が聞いた評価です)
これを答えるのが、英語のネイティブの外国人なわけですが、何故か、これが当てられるんです。
完璧に真似られた人の場合はわかるんですが、私が聞いた限りでは、これは何の歌と言うレベルでも当たるのが不思議です。(もしかしたら、日本人にはわからない部分を、きちんと真似ていたのかもしれません)
もちろん、問題の回答者のボキャブラリーが高いと言うのが理由だとは思いますが、この場合は歌い手は歌っている歌の意味は理解していませんが、聞き手は理解出来たわけです。
一種のチューリングテストと言えなくも無いです。(機械を人間と誤認するかのテストです)
もちろん、これは会話では無いので、日本人がテープレコーダーになったのと同じで、単純に記憶装置としての役目しか、になっていません。
聞き手に関しては、不完全な情報から、元を再現(理解)出来たわけですから、音楽でも冗長性を持っている事がわかります。(つまり、聞き手は、ある音楽を抽象的に理解している可能性があると言う事です)
人間の記憶に関しては、どうも完璧な記憶は不要である可能性が高いと言う事です。(つまり、人間の意識は、視覚・聴覚・触覚の一部を認識すれば足りると言う事です)
これは、現象の理解に関しては、高度な符号化による情報圧縮が行われている事を示唆します。
では、何故言語が冗長性を持つかですが、それは一種のエラー訂正符号の役目や、人間の感覚的な理由があるのかもしれません。(日本語の最短の会話として、「け!」、「く!」→「食え」、「食う」のようですが、ここまで冗長性を無くすのは、よほどコミュニケーションが取れていないと難しいでしょう)
記憶には、理解以外にも、時間感覚を生み出す意味がありますから、またさらに複雑な意味合いがあるでしょう。
ただ、記憶する領域が限られているならば、記憶力が高い=記憶の圧縮能力が高い可能性はあると思います。
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この回答へのお礼

こんばんは。

へえ、そんな番組があったのですか?それが上手に真似られている、下手であると感じるためには、ルパンさんが、元の歌を知っていなければなりませんね。おそらく「元はこの曲です」と番組で紹介されるのでしょうが。

「何故これで当てられるのか不思議」というのは、歌詞の正確な復元性に目がいっているからでは?だって、よく知られた曲ならハミングでもわかるでしょう?

「イントロ当てクイズ」でもわかるように、親しみのある曲であれば、その曲の一部を聴いただけで、それが何という曲かを判別できますね。

「く!」や「け!」に関しては、やはり現実の文脈の中で理解されるということかなと思います。

道に迷い行き暮れて腹を空かしたものが、見知らぬ農民に助けられて、家へ招かれ、粥を差し出されて、「け!」と言われれば、その状況下では「け!」は「さあ喰え!」であろうと推測できるでしょう。

琉球語やアイヌ語を除いて、日本人がある程度、「方言」や地方の「訛り」を理解できるのも、抽象化と冗長性(補完性)の関係なのかもしれません。
つまり日本語という多様性を含んだ=(江戸弁を含めた)方言や訛りなどの冗長性から共通語というものを抽象したという見方はできないでしょうか?

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/06/20 00:27

お礼をありがとうございます。

ほんの少しのおぎないですが。
(文は長い)。

★(№13お礼欄) ~~~~~~~
オノマトペは無意味であるからおもしろいのか?というよりも、
やはりリズム感ですかね。

でも「アジャパー」とか「ガチョーン」「ビローン」もオノマ
トペですから、音韻とは違いますね。

「オノマトペ考」オノマトペは何故おかしいのか?と質問しま
すか。(笑)
~~~~~~~~~~~
☆ と成りましょうか。踏韻の関係しか頭になかったので 不
意をつかれました。

★ ~~~~~~~~~~~
「トーフーボーフ」は豆腐屋の売り声ですね。あれも一種のオ
ノマトペでしょうか? 

物売りの呼び声というのも印象的に出来ていますね。

「ひと声と、み声はいわぬ玉子売り」「たまご、たまごっ」っ
て感じですね。「たまごっ!」でもだめだし「たまごたまごた
まご」でもへんだ。
~~~~~~~~~~~
☆ まさにそういう観点でも 主題・課題が成り立つようです
ね。





記憶と理解(知解)との隔たりとつながりについて:

★ ただその「記憶」が己の意味を知るー解凍される場合、ど
のような作業がおこなわれるのかが知りたいですね。

★ 今回の問いをもう一度整理すると、写真的記憶力を持った
ものが、「曼荼羅」の画を記憶=理解ではない(と思われる)
し、それを再現したとして、それがそもそも何であるかはわか
らない(はず)であれば、記憶とはどういう役目をしているの
か?というようなことだろうと思います。

☆ ≪解凍する・解凍される≫というキッカケを介在させれば
――精神の全体ないし≪われ≫という人格の全体が まとまった
ひとつの存在であるからには―― 記憶と理解とは やはり言
わば地続きなのでしょうね。

≪分立≫はしている。ただし 意志をも加えてそれら三つの行
為能力のうちどれかひとつが≪単独分立≫する・つまりは ≪独
立≫するということは ほとんど出来ない。

都知事騒動では 意志だけが突出し あとの記憶や理解に対し
てあたかも独裁体制を敷こうとしていたのかも分かりません。

解凍するには やはりあたたかさが必要なのでしょうか。ある
いは 能天気状態。
圧力というのも 当面の効果があるようですね。
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この回答へのお礼

>解凍するには やはりあたたかさが必要なのでしょうか。あるいは 能天気状態。

『周りの空気を温めてやりさえさえすれば花は自然にひらく』ー石川達三

Hさんを攻撃したところで、ますます頑なになるばかりですよ。北風と太陽の寓話を知らぬわけでもあるまいし。

ハルさんが間違っていたらそれが彼らになにか害でもあるのでしょうか?
腹立たしいのなら関わらなければいい。彼や彼女(瀬里香さん)の攻撃の意味がわかりかねます。

ぶらじゅろーぬさんの公開質問は正攻法でいいと思います。

おっと脱線。

お礼日時:2016/06/19 15:27

私は、長い文章を書くことが「格好悪い」という意識がどこかにあるんでしょうね、


ついつい文章を端折ってしまう癖があるようです。

情報のインプットのところから改めて述べさせてください。
ある情報に出会い認識した時に、人は脳に記憶しようとする。これは無意識つまり
automaticに行われるものと思います。脳のシナプスにインプットされる際には、
少なくとも5通りの形式が許されていると思います。即ち、五感です。

人間の場合視覚と聴覚にかなり偏っていると思いますが、先天的な全盲の人は他の
感覚で認識し、記憶をしているはずです。そして、彼らの世界に対する認識は健常
者とそれほど変わらないと推測しています。

どういうことかといえば、ある「存在」例えば「虎」がいたとします。虎の姿かた
ちは虎だけのものです。同様に、声もにおいも味も触感も独特のものでしょう。そ
してそれを「虎」と認識する能力は備わっていて、五つのうちのどの形式でインプ
ットされても、脳内では「汎用言語」で記憶されるのではなかろうか、と考えてい
ます。

「フォトグラフィックメモリー」記憶術とは、「速読術」から派生したものである
と思います。
普通の読書は、頭の中で音読してから理解するために5000文字/分がせいぜいなの
に対し、速読術では訓練次第で10万文字/分が可能とか。それは文字を視覚で認識
し理解するからだということのようです。普通の読書は、視覚で認識したものを、
聴覚に置き換えて再認識するから時間がかかるのではないかと私は考えています。
そしてこれは、インプットの速さという問題で、理解の深さとは別だと思います。

次に「理解」ということですが、繰り返しになりますが、インプットされた情報が
一体何者であるかということを位置づけるために、既存の記憶との関連を探るという
作業がなされる。これが「思索」だと申し上げましたが、これには無意識的になされ
るものと、意識的になされるものがあると考えます。
無意識的になされるものの一つに「夢」がある、という説があるようです。夢を見る
ことにより記憶が整理されるという説です。

つまり、「理解」とは記憶された情報を、既存の情報と関連付け、位置を確定する行
為の結果ということになりましょう。
そして、それは年齢、経験によってより多くのものと関連付けられ深められてゆくも
ので、意識的なものの割合が増えてゆくものであるようです。

まあしかし、素人が我見をこんなに長々と述べていいのだろうか、という気持ちはな
きにしもあらずですな。
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この回答へのお礼

こんにちは。

長い文章に抵抗がありますか?確かに短くキレのある文章は読みやすくてカッコいいですね。
しかしそれは長い文章を書くこと以上に知性を必要とします。例えばパスカルが友人への手紙の中で、「今日はあまり時間がないので、長い手紙になってしまうが許してくれ」と言っています。推敲し、無駄を省いて意を伝えるためには時間と体力がいるのでしょう。
ただ、元の意味のたくさん詰まった文章を時間をかけて知的なスタイルに圧縮するのと、端からスカスカの文章をまき散らすのでは次元が違います。(苦笑)

>つまり、「理解」とは記憶された情報を、既存の情報と関連付け、位置を確定する行為の結果ということになりましょう。
そして、それは年齢、経験によってより多くのものと関連付けられ深められてゆくもので、意識的なものの割合が増えてゆくものであるようです。

これはNo.14の雨がっぱさんの意見に近いように思います。既存の知識の文脈の中に納まるかどうかですね。

速読術は記憶のスピードで、それがどの程度理解の速度と比例するのかわかりませんね。

また速読は言うまでもなく、はじめから理解している日本語のテキストをいかに速く読むかということで、
写真的記憶のように、空間的な、2次元的な「面としての記憶」「画としての記憶」とは若干異なる気がします。

また速読はあくまで記憶に要する時間の短縮という点で、時間的な記憶術=時間の短縮法ではないでしょうか?

>まあしかし、素人が我見をこんなに長々と述べていいのだろうか、という気持ちはなきにしもあらずですな。

いえいえ、回答者それぞれの意見の断片を集めることで少しでも見えてくるものがあれば十分です。

またご意見お聞かせください。

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/06/19 14:15

ご質問への直接の回答ではないかもしれませんが、「理解する」ということは、「周辺また裏表にいたるまで深く慣れている」ということに近く、わたしたちが何かを分かろうとする時は、すでに概念化されている事物を手掛かりに、類推を重ねて慣れた次元まで引き落としているのです。


概念獲得の背景にはこの作業があり、それが網のようにおびただしく繋がって類推が可能になります。記憶は、この一連の構築の動きそのものに及んでいます。たとえ構築に失敗しても、網にかけようとする、繋げようとする、触手的な動きが記憶に含まれることが肝心なのです。そうして後で結び付く事もあるし、一斉に結びつく事もあります。たぶん知能が高いということは、このような触手が多いということ、分からなかった種(たね)を記憶にどれだけたくさんストレスなく抱えていられるかということに関係するのでしょうね。

理解の豊かさや素早さは、こういう諸関係の構築の豊かさや素早さであり、多角的で反復的な微細運動の成果にほかなりません。
ものごとを図像として記憶するのも、音声として記憶するのも、図像の概念カテゴリを構築している(視覚で図像を認識できる)、音声の概念カテゴリを構築している(聴覚で音声を認識できる)、ということは示していますが、それを類推に運んで他概念との参照に揉み込んで繰り返し動員して何と結びつけてどんな網の目を広げているか、理解はそれ次第、ということになります。認識を経験的な段階へ移植し、慣れた次元へ引き落とすということが理解には必要なのです。
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この回答へのお礼

こんにちは。

>「理解する」ということは、「周辺また裏表にいたるまで深く慣れている」ということに近く、わたしたちが何かを分かろうとする時は、すでに概念化されている事物を手掛かりに、類推を重ねて慣れた次元まで引き落としているのです。

つまり255+188=ということを、類推によって、1+1の次元に落とし込んでいるということでしょうか。
わたしなりの理解ですと、記憶した事柄はある文脈の中に配置されることによって類推可能になる、という気がします。

「今夜はとても気持ちのいい晴れた夜で、流れる雲の切れ間から○○の光がさやけく光っていた。」という場合、この○○には「月」か「星」が入るだろうという類推ですね。ですから、このような類推のパターンを多く持っているほうが未知のモノを類推しやすいということかなと思いました。

勝手な解釈で、一つの事柄はそれ単独では未知であり「意味不明」だけれど、文脈の流れの中におくことによって、これは意味として「解凍」されるということかなと。

であれば、ロシア語やヘブライ語等、まったくそれに関するコンテキストを持たない場合は、それを画像として記憶したとしても理解に至る仕組みの外にあるということですね。

的外れの解釈かも知れませんが、自分なりの手掛かりにはなった気がします。

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/06/19 13:49

お礼をありがとうございます。



★(№10お礼欄) ~~~~~~~~
  >〔記憶は〕世界のものごとについて模写したもの(知覚
  および認識)を無造作にしまい込んでおくというようなこ
  とではないと思われるのですが。

ただやはり写真的記憶は「フランス語のテキスト」を丸暗記し
たとしても、それは単にそれが脳の中にあるか、手元にあるか
の違いのように思うのです。それともインプット即ち理解なの
か?
~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ≪インプット即ち理解≫ではないと思います。

幼児から成長して来て ≪ものごころが着く≫という時期が来
ます。≪わたしはわたしである≫といった自分の自覚です。

そのように≪おのれの内にいちど折れ返って おのれ自身に到
来する≫ということがないと ≪理解≫はかなわないであろうと
思われます。

つまり 記憶は 知解=理解をすでに用意している。と同時に
それだけでは ほとんど用を成さない。


ぎゃくに言いかえると たとえ≪写真的記憶や丸暗記≫であって
も その意味があとになって分かる(つまり理解する)という
ことが起きるかも知れない。

フランス語のテキストが手元にあるか 脳の中にあるかは そ
ういった・脳内における時間的な経過を加味して捉えるなら
違いはある。と考えられます。


すなわち まさに次の≪解凍≫の問題になるかとも思います。
★ ~~~~~~~~~~~~
確かに記憶の「解凍」については脳科学(?)生理学の領域で、
仮に説明されても分からないでしょう(苦笑)
とはいえ、この質問の目標は、記憶イコール理解か、否か?と
いう当面の答えです、その仕組みについてはまあ詳しく知り得
なくても構いません。
~~~~~~~~~~~~~~
☆ ひとつに 記憶があたかもおのれの自己同一性について省
みることがなければ 知解=理解には到りません。

と同時に 記憶がおのれを≪解凍≫すれば 理解へと道を開きま
す。


そのような事情を踏まえつつも 記憶は 理解とイコールでは
ないと考えます。互いに分立して協働していると思われます。

★ 〔理解は〕記憶を耕す-Cultivate-耕された状態にする。

★ 俳句のご説明ですが、なるほど俳句にせよ、和歌にせよ短
歌にせよ、限られた文字数によって世界を切り取っていて、尚
且つそれは深い内面世界を含んでいる。それを仮に「記憶」的
なものとして、「それはいったい何を言いたいのですか?」と
いう注釈のようなものを「理解」=言語化というということで
しょうか?

☆ そんな感じではないでしょうか。





≪門前の小僧 習わぬお経を読む≫というのがありますね。
それだけでは まだ≪理解≫してはいないでしょうね。

記憶は 理解とは――おのが精神として地続きであるらしいけ
れど―― 分かれて活動している。

お経が耳に入って覚えているというのは ほとんど意志をはた
らかせてもいないように見られますね。

覚えようという意志をもって記憶につとめたり 理解しようと
いう意志のもとに理解につとめたりすることもある。

と考えれば 三者三様であると思います。








★ 「ニンドスハッカカー、ヒジリキホッキョッキョー」
☆ ≪脳の仕組み≫は 分からないですが 音韻の類似とその並
列といったことが 印象的なのではないかと感じました。

 hA kkA kkAA
 hO kkyO kkyOO

ついこのあいだ 創世記・冒頭の句で次がありました。
▲ (創世記 1:1~2) ~~~~~~~~~~~
https://www.blueletterbible.org/kjv/gen/1/1/t_co

1: 初めに、神は天地を創造された。
2: 地は混沌であって、
・וְהָאָרֶץ הָיְתָה תֹהוּ וָבֹהוּ
・the earth was without form, and void
~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ≪混沌≫というのも 日本語で受け留めた音韻にすぎません
が / On / という韻を踏んでいる。

そしてヘブル語は ≪トーフー ボーフー≫です。

差し詰め シッチャカメッチャカのような感じです。

英訳は 硬い≪理解語彙≫で応じていますね。
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この回答へのお礼

こんにちは。

>≪門前の小僧 習わぬお経を読む≫というのがありますね。
それだけでは まだ≪理解≫してはいないでしょうね。

そうそう。これも同じですね。「記憶」しているし、口真似は出来るが、意味は全く分からない。これは記憶イコール意味の理解ではないことのひとつの証言ですね。

>お経が耳に入って覚えているというのは ほとんど意志をはたらかせてもいないように見られますね。

>覚えようという意志をもって記憶につとめたり 理解しようという意志のもとに理解につとめたりすることもある。

であればやはり単なる記憶は頭の中に意味不明の音や形ー(文字)が詰まっているだけということになるのかな?

>☆ ひとつに 記憶があたかもおのれの自己同一性について省みることがなければ 知解=理解には到りません。

>と同時に 記憶がおのれを≪解凍≫すれば 理解へと道を開きます。

ええ、なんとなくわかります。ただその「記憶」が己の意味を知るー解凍される場合、どのような作業がおこなわれるのかが知りたいですね。

今回の問いをもう一度整理すると、写真的記憶力を持ったものが、「曼荼羅」の画を記憶=理解ではない(と思われる)し、それを再現したとして、それがそもそも何であるかはわからない(はず)であれば、記憶とはどういう役目をしているのか?というようなことだろうと思います。

「トーフーボーフ」は豆腐屋の売り声ですね。あれも一種のオノマトペでしょうか?物売りの呼び声というのも印象的に出来ていますね。
「ひと声と、み声はいわぬ玉子売り」「たまご、たまごっ」って感じですね。「たまごっ!」でもだめだし「たまごたまごたまご」でもへんだ。

オノマトペは無意味であるからおもしろいのか?というよりも、やはりリズム感ですかね。でも「アジャパー」とか「ガチョーン」「ビローン」もオノマトペですから、音韻とは違いますね。

「オノマトペ考」オノマトペは何故おかしいのか?と質問しますか。(笑)

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/06/19 13:27

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