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「フォトグラフィック・メモリー」と呼ばれる天才的記憶術というのがあります。例えば本のページを写真をパシャパシャと撮るように次々に脳内に記憶してゆく。でもそれを脳の内部に記憶させたとして、それを「理解」することは可能でしょうか?
例えばAさんは、ロシア語を知らないしフランス語も知らないが、フォトグラフィック・メモリーの能力を持っている。それで、ロシア語で書かれた『罪と罰』やフランス語で書かれた『失われた時を求めて』を丸暗記したとして、Aさんはそれをどのように「理解」するのでしょう?
この場合、Aさんが既に知っている「日本語」との対訳が必要になるのではないでしょうか?
また仮にAさんの母語である日本語で書かれているものであっても、高度な学術論文を「理解」することは可能でしょうか?
いずれのケースでも、「記憶する能力」と「知能」=「理解力」は比例すると考えていいのでしょうか?
また同じように、視覚的記憶ではなく、仮に「聴覚」に於ける「テープレコーダー的」記憶力というものがある人が、ロシア語で朗読された『戦争と平和』を、「聴き取った音声のまま」「音として」繰り返す=「発声する」ことが出来るのでしょうか?つまり唇の形や舌の動きに関する「知識」なしに。
憶えることと、理解することとの関係についてお聞かせください。
No.12
- 回答日時:
一口に「知っている」と言っても、例えば山奥の人に
車を見せたとして;
1. 写真で見た事がある。(が、何をする物か知らない)
2. 山道を走っているのを見た事がある。(が、名前は知らない)
3. 学校で習った。(が、運転の仕方は知らない)
4. 免許を持っている。(が、修理のはできない)
5. 修理ができる。(が、製造はできない)
6. 部品から組み立てられる。
7. 自然の中に放り出されても、製鉄から始めて車を造れる。
と、色んな段階の「知っている」がある。
それをどこかで、知っているvs知らないに分ける無意味な
困難に、文学的楽しみを見出だすのは勝手だが。
こんにちは。
確かに「知識」は通り一般の知識と深い理解があります。
ただ、上記の譬えは、誰でも学習することによって会得することができるものですが、
今回の質問は、記憶と理解との関係を問うています。
無論脳科学や認知の仕組みには無知ですから、けっきょくは言葉遊びになるかもしれませんけれど、
最終的な知識に至らずとも、その過程での質疑で、思わぬ発見や思い付きが現れることを期待しています。
ご回答をありがとうございます。
No.11
- 回答日時:
「記憶する能力」と「理解力」は比例はしないと思います。
しかし、密接な関係はあると思います。「意識」もキーワードになりそうです。
あなたの言う「テープレコーダー的」記憶力とは違いますが、絶対音感などによって、記憶の中の音楽を「音として再現する」ことはできる者です。
自分でも仕組みがよくわかってないのですが、音程をドレミの言語として理解できるからこそ再現できるのは間違いありません。
しかし脳内で、今までの人生で聞いた音楽を「音程として理解してさらにそれを記憶している」わけではないと思います。ある音楽を聴いて、聴いている瞬間は音程を理解できますが、理解したままに記憶する力は自分にはないと思います。
音程を理解していなくても、例えばベートーベンの『運命』を記憶することは誰でもできます。歌ってみて、と言えば「ジャジャジャジャーン」と歌えると思います。しかし、弾いてみて、といっても、弾けないと思います。これが、理解はしていないけど記憶はできている状態だと思います。
私の場合も、音程を理解した状態で言語として暗記してるわけではありません。ではなぜ弾けるのかというと、弾く行為によって、記憶の中の音楽が、音程として再び理解されるからです。まさに「再」び「現」れる感覚です。
歌詞を覚えていることを忘れていた体験ってありませんか?鼻歌うたってみたら以外と歌詞出てきて、なんか全部覚えてたわ、みたいな感じのやつです。歌うことによってはじめて、歌詞を再現し、もう一度理解できる。これとちょっと似てると思います。
これは、歌詞を理解しているからこそ再現できるものです。しかし記憶し続けていたというよりは、歌うという行為自体そのものによって、ふたたび記憶が呼び戻されたという表現が感覚として近いでしょう。もしも歌わなかったら、その記憶はもう忘れ去られていたかもしれない。『失われたときを求めて』のマドレーヌのような「きっかけ」にも通じますかね?
>ロシア語で朗読された『戦争と平和』を、「聴き取った音声のまま」「音として」繰り返す=「発声する」ことが出来るのでしょうか?
できると思います。
>つまり唇の形や舌の動きに関する「知識」なしに。
できると思います。手掛かりか、きっかけがあれば。知識0で弾き方の全く分からない楽器でも、音量・音質・音程などの手掛かりがあれば、そこから楽器の弾き方を導けるのと同じじゃないでしょうか。この場合なら唇や舌も楽器と同じ具合に考えてよさそうです。
ここから自分の音と言語に関する感覚の余談?込みですが、
例えば、「おやすみ」という音を聴いた時、第一に「good night」という意味が強く意識を支配します。第二に、音程が「シドドド」だとしたら、それも同時に知覚していますが、これは反無意識という感じです。(日常のほとんどの音はきっちり12音階に分けられないからという理由もあるとは思いますが)
理解ができると、そこに意識が持っていかれます。言葉の意味はかなり強いです。おやすみ=good nightという理解に意識がかなりもってかれます。
理解できないことによってこそ、手持ち無沙汰な意識は、より、静かな主張を見つけることができる気がします。
ですので、もし「おやすみ」の意味を知らなかったら、私は「シドドド」がまず聴こえます。実はこれは耳で補正されているだけで、日常において正確なシドドドを聞けることはほぼないです。シとドの間の名前のない音程ばかりです。それでもシドドドと聴けるのは、やはり言語化できるものに意識は引き寄せられるんだと思います。だから補正するんだと思います。しかし、シドドドを理解できるからこそ、これが補正であるということもある程度は理解できます。そして、相対的あるいは絶対的に、名のついていない無いシとドの間の音程も理解ができます。
また、「おやすみ」の意味を知らなかったら、「おやすみ」の発音を、より「シドドド」の土台にのっかっている装飾のように感じると思います。「す」の、舌と歯の隙間に漏れる空気の音に透明感をかんじたり、「み」と、唇をはねて発音するときに鳴ってしまう上唇と下唇の弾力と、適度な湿り気による「ピンッ」という音に可愛らしさを感じるなど、そういったささやかな装飾に意識が傾くと思います。言語に意識がもっていかれないとき、このように音を感じとれる静けさがあります。ですので、ロシア語で朗読された『戦争と平和』も、唇や舌を楽器とした、全く違うストーリー、音の風景として理解する集中力と意識を向ける力があれば、音にすることで再現する、というのは十分に可能だと思います。
論旨がずれている気がしますが書ききってしまいましたので。。すみません。
こんにちは。お礼が遅れました。
>記憶の中の音楽を「音として再現する」ことはできる。
ルナさんはそれをピアノ(?)で弾ける=再現できるということでしょうか?
>例えばベートーベンの『運命』を記憶することは誰でもできます。歌ってみて、と言えば「ジャジャジャジャーン」と歌えると思います。しかし、弾いてみて、といっても、弾けないと思います。これが、理解はしていないけど記憶はできている状態だと思います。
以下わたしの疑問が見当違いであったら申し訳ありませんが、感じたことを述べてみます。
どのような形で?かはわかりませんが、人って、誰でも好きな歌や曲を「おぼえている」はずです。でも歌をハミングすることと、それを五線譜上で音符にすること、或いは楽器でそれを演奏することとは、それぞれ別個の「知識」と「理解」ではないかと思うのです。ですから
『理解はしていないけど記憶はできている状態』、というよりも、メロディは記憶イコール理解であるような気がするのです。
ビートルズの「イエスタデイ」を丸ごとハミングできるということは、それを理解していることではないか?と。
「歌詞」と「メロディ」の関係では、ビートルズの歌のように比較的簡単な英語が使われていても、それを正しく英語で唄えるわけではありませんよね。ビートルズの歌を何べん聴いても、それを鼻歌で歌うことが出来ても、同時に聴いていたはずの英語の歌詞が理解できないのは、「英語」の知識がないからでしょう。ただそこで、メロディを唄う如く、歌詞を、理解していなくとも正確に「再生」出来る人がいるのかは不明です。曲と歌詞について仰っているのは、日本語の歌を聴くことによって、歌詞とメロディを同時に、というか不可分の「歌」として記憶しているので、より感覚的認識に近いものが「歌詞」=「言葉」を想起させるのではないでしょうか?
「マドレーヌ」のような「共感覚」のようなものがどの程度働いているのかはわかりませんが。
「おやすみ」という「音」を「Good Night」と「翻訳」するためには、「おやすみ」の意味を知らなければなりません。
「意味」というのは例えばベッドに入って、寝る前に母親が「おやすみ」と言ってくれれば、その生活の文脈上で意味を知ることはできるでしょう。「オヤスミ」と聞こえる「シドドド」は、寝る前の挨拶なのだと。
補足に続きます。
No.10
- 回答日時:
お考えを提示するお礼をありがとうございます。
★(№5お礼欄) わたしの思う「理解」とは、その「知識」
が応用可能か? ということのように漠然と考えます。あく
まで限定された=記憶したのと同じ状況を離れ、特定の数式・
文脈からはなれてその「知」を活かしうるか?のように思い
ます。
☆ そのとおりにわたしも考えます。そしてこの理解を 知
解 intelligentia と呼んでいます。
≪それぞれの間の関係を捉えつつ( inter- )情報を拾い集め
る( lige- < legere )≫。
むろん≪拾い集める≫には ≪整理しさらに思索する≫要素が
ふくまれ それは 意思決定のための案となる選択肢を用意
することにまで到るものであると。
じっさいに≪応用≫するのは 意志の担当ですね。
タトへとしては 情報の倉庫たる記憶を≪たがやす(田を掘
り返す)≫のが 知解であると。つまり 文化( culture )
ですね。
つまり 世界を――すでにそれを知覚像および概念として納
めている記憶を介して――なお言葉化し 文と化する。そう
して意志があらたな行動を起こす資料ないし政策案を用意す
る。
俳句を例にとった場合ですが:
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
>内面をふくめた写実を一たんしておいて そのあとそ
の表現されたものをとおして あたかも反芻するかのよ
うに思索を繰り広げて行くのではないかと。
であるにしても、作品を更に深く熟慮する、推敲するなどの
背後には、その作品への「理解」が前提されるはずです。い
や、それとも、「暗室」での「現像」のように、その「意味」
が徐々に現れてくるのか?
~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 次の作品が 風景の模写だけであるとは思えません。
荒海や 佐渡に横たふ 天の川
しかも 言葉としては それだけのようです。あるいは:
閑かさや 岩に染み入る 蝉の声
になると ≪音が岩に染み入る≫と表現しているからには 自
然現象を内面においてすでに解釈し処理しています。そして
そういう意味では 模写というよりは 写実ということにな
るのでしょう。
ところが 表現された作品としては あたかも≪内面での思索
などの処理≫は 表わされていないか またはきわめて簡単な
かたちに止められています。
内面におけるあなたの思想は だからどうなんですか? と
しっかりと聞き返さなくては まづただちには分からない形
を取っています。それが 一般です。しかも 作品としての
ひとつの最終形式です。
すなわち ≪推敲や熟慮≫を経ていても それはもはや表には
現われて来ません。
作品の創成について≪理解≫があっても・また出来上がった作
品について作者も鑑賞者らも ≪理解≫をおこなっていても
それはあたかも≪どうでもよい≫と見られるほどに 半ば放っ
ておいてあります。
あるいはつまり人びとが≪理解≫を持ち合ってそのような評価
を話し合っても なお結論というような帰結は 決めつけな
い状態に放っておきます。
★ それとも、「暗室」での「現像」のように、その「意味」
が徐々に現れてくるのか?
☆ つまり ≪ネガを収納した暗室≫が 記憶であろうし そ
の≪現像≫が 知解=理解であるであろう。――こう考えまし
た。
つまり何が言いたいかと言うと 俳句作品は あたかも記憶
のごとくであり 言葉がかまびすしい哲学や思想は 知解=
理解を担当している。のではないかと。
なお 俳句という芸術の形式にとどまろうというのは・した
がって それぢゃ分からないから言葉による説明で埋め尽く
そうというのは どちらもそれぞれ意志の問題だと考えます。
なお 記憶における整序のハタラキについては そういう見
通しが持たれるというところで いまは慎みます。:
★ ~~~~~~~~~~~~
つまり画像的に記憶=脳内に取り入れられた情報が、なにか、
脳の情報処理をする部分と「同化」するようなことでしょう
か?
はじめは水面に浮かんでいたものが徐々に深みに沈んでゆく
ように。
~~~~~~~~~~~~
☆ 専門の方におしえを乞いたいと考えます。
世界のものごとについて模写したもの(知覚および認識)を
無造作にしまい込んでおくというようなことではないと思わ
れるのですが。
こんばんは。
>タトへとしては 情報の倉庫たる記憶を≪たがやす(田を掘り返す)≫のが 知解であると。つまり 文化( culture )
ですね。
>つまり 世界を――すでにそれを知覚像および概念として納めている記憶を介して――なお言葉化し 文と化する。そう
して意志があらたな行動を起こす資料ないし政策案を用意する。
これはわかります。記憶を耕す-Cultivate-耕された状態にする。
俳句のご説明ですが、なるほど俳句にせよ、和歌にせよ短歌にせよ、限られた文字数によって世界を切り取っていて、尚且つそれは深い内面世界を含んでいる。それを仮に「記憶」的なものとして、「それはいったい何を言いたいのですか?」という注釈のようなものを「理解」=言語化というということでしょうか?
確かに記憶の「解凍」については脳科学(?)生理学の領域で、仮に説明されても分からないでしょう(苦笑)
とはいえ、この質問の目標は、記憶イコール理解か、否か?という当面の答えです、その仕組みについてはまあ詳しく知り得なくても構いません。
>世界のものごとについて模写したもの(知覚および認識)を無造作にしまい込んでおくというようなことではないと思われるのですが。
ただやはり写真的記憶は「フランス語のテキスト」を丸暗記したとしても、それは単にそれが脳の中にあるか、手元にあるかの違いのように思うのです。それともインプット即ち理解なのか?
ご回答をありがとうございます。
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No.8
- 回答日時:
感覚の記憶と抽象の記憶、として見ました。
感覚の記憶は理解が"比例する"
抽象の記憶は解る、ではなく知る事、で記憶される。
応用は記憶を基に・・・
こんなことを考えて見ました。
>感覚の記憶と抽象の記憶
例えばここから最寄り駅までの道筋を、全部写真的に記憶したとします。これは感覚による記憶です。
ではそれに基づいて「駅までの地図」を描くことが出来るでしょうか?
地図とは空間を抽象化したものです。
ふつうは下手なりに地図を描くことはできます=抽象化できます。
でも写真的記憶が抽象化されるにはどのような経緯を辿るのだろう?と考えてしまいます。
つまり「理解」とは世界を、対象を抽象化することであるなら、どのような仕組みで画像を抽象化するのだろう?
>感覚の記憶は理解が"比例する"
抽象の記憶は解る、ではなく知る事、で記憶される。
理解が比例するということは、記憶することイコール理解するということでしょうか?
わかるではなく、知ることで記憶される、というところが難しいのですが。
理解がトッ散らかっています(苦笑)
ご回答をありがとうございます。
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No.7
- 回答日時:
興味深い質問が次々と出ますね。
私は「記憶」というものは、生物に例えれば単細胞生物から高等生物まで様々な
レベルがありうると思います。
丸暗記的なものは、いわば微生物であって、寿命も短い、すぐ忘れる。
一情報として記憶されたものは、その人の脳内で「全体」の中でどこに位置され
るものかを検証される、即ち、情報同士がネットワークを構築することはよく知
られているところであり、その過程が思索をするということで、その結果が理解
をしたということであると考えます。
その人が「とりあえず満足できる」程度までまとまったネットワークの記憶され
たものが理解ということになろうかと思います。
記憶することも理解することも、人間の持つ能動性といえると思います。更なる
脳内進化をしたいがために、情報を求め、記憶しようとするし、理解を深めよう
とする。
これがなくなることが、老いるということなんでしょうね、気をつけなきゃ。
こんばんは。
>興味深い質問が次々と出ますね。
わたしはどこか異星人めいたところがあって、普通の人が当たり前の知識として持ち、当たり前のこととして認知していることが不思議でしょうがないのです。
「丸暗記」もいわば「写真的記憶」ですよね。例えば丸暗記したものが異なる数式、ことなる文脈で現れた時に、その暗記したものはどこまで通用するのでしょう?
>一情報として記憶されたものは、その人の脳内で「全体」の中でどこに位置されるものかを検証される、即ち、情報同士がネットワークを構築することはよく知られているところであり、その過程が思索をするということで、その結果が理解をしたということであると考えます。
ということは、「思索」「思惟」というものはオートマティックなものであるのでしょうか?言い換えれば「考える!」という自発的・内発的「意図」なくして自動的に行われるものなのか?
多分ニャンポコさんの言われている「思索」というのは、わたしの言っていることとは別のことだと思いますが、記憶ー思索ー理解というプロセスがもう少しわからない。
>記憶することも理解することも、人間の持つ能動性といえると思います。更なる脳内進化をしたいがために、情報を求め、記憶しようとするし、理解を深めようとする。
ただ、これは自己完結した思索であるのか?或いは他に(外に?)別の目的を持った思索なのか?つまり思索自体が生きることの糧であるのか、その他の目的のための糧であるのか?
>これがなくなることが、老いるということなんでしょうね、気をつけなきゃ。
老いるということは、外に何らの目的も持たずに思索を深め自己を深めることのように思えます。
ご回答をありがとうございます。
No.6
- 回答日時:
理解するとは
「思考回路のモジュールとして有効活用できるほどにこなれて腑に落ちている状態」
だと思います。
それに対して、覚えるというのは
「ただ象徴としての表面だけが脳内に定着している状態」で
「理解と言えるほど抽象的なイメージとして掘り下げられていない状態」
なんだろうと思います。
こんにちは、スズメさん。
仰る通りだと思います。
この質問では、「記憶する」イコール「理解する」ではないのか?という疑問を問うています。
言い換えれば、理解することなくして覚えるということは可能であるのか?
それは単純に「理解しているから覚えるのであって、理解し得ないものを覚えられるはずがない」といえるのでしょうか?
そうなると「丸暗記」とはなんだろう?というクエスチョンマークも浮かんできます(苦笑)
ご回答をありがとうございます。
No.5
- 回答日時:
№1です。
長くなりましたが。★ ですからわたしは、「作品」は、「写生」する主体が、世界の
前に立った時に、既に彼の内面に於いて形成されている=彼の視点
によって観られている、と考えます。ですから「作品」は純粋な模
写ではない。
☆ 舌足らずだったと思います。つまり:
☆☆(回答№1) 俳句も 社会的・人間的な自然をも含めて自然
の描写を内容(=形式)としています。
☆ の≪社会的・人間的な自然をふくむ≫というところに
★ 既に彼の内面に於いて形成されている=彼の視点によって観ら
れている
☆ という要素(またそういう過程)を言おうとしていました。
言いかえると ≪すでに内面の視点を経て来ている≫という側面は
じつは それでもだいたい熟考の以前にとどまっていると思うから
です。
内面をふくめた写実を一たんしておいて そのあとその表現された
ものをとおして あたかも反芻するかのように思索を繰り広げて行
くのではないかと。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~
>≪わたし≫が意志において情報の整理をおこなわなくても 記
憶という精神の能力がそれをおこない しかるべき資料室の一
画の棚に収納してくれている。と見られます。
ということは、記憶すると同時に、その記憶内容への「情報の処理」、
「解析」が行われ「意味」を知り得るということでしょうか?
~~~~~~~~~~~~~~
☆ ≪整序作用≫がどこまで及ぶものか。の問題だと思います。
≪解析≫はしていない。つまり それをするには ≪記憶の自己反芻≫
のような手続き――つまり≪知解≫――を必要とするでしょうから。
同じ種類のものを同じところにおさめておくといった程度の情報処
理は おこなっているものと思います。
(それでも 秩序作用だというのは むしろ身体のほうで≪自己組
織化≫という自己修正(自然治癒でしょうか)が おのづと成され
て行くということにかんがみて 精神の記憶行為にはその能力があ
る。のではないかと)。
★ 「知解」=「理解」でしょうか?
☆ ≪理解≫については 確かに定義の仕方に幅があると考えます。
あたかもすでに知解や意志のあり方をふくめた≪実存≫の動態そのこ
とを ≪理解≫の問題だと前回言っていました。そのようにも拡大解
釈していました。
基本的には 理性のハタラキとしての――経験合理性という判断基
準によって情報をまとめ情況を交通整理するハタラキとしての――
理解 これを知解だと言ってよいと考えます。
★ うーん。この辺りは難しいのですが、「記憶」と「知解」(理
解)とは同時に行われるということでしょうか?
☆ そのほかにやはり 意志がはたらいています。
これら三者は 同時に作用しており しかも互いに分立していると
見られます。
互いの間にズレが生じていると見ます。
≪感性≫をとおして一目惚れした場合 それまでの経験の蓄積として
の記憶は もうそっちのけになるかも知れませんし あるいは い
やちょっと待て これはあぶないといった或る種のヤマシサ反応を
発して 知解能力(≒理性)に対してもそのことを勧めることもあ
り得るはずです。
理性(≒知解)は 感性のおもむくままに突っ走ってよいという理
屈をつける場合もあれば 同じく理屈としては――酸っぱい葡萄の
話の例のように―― たしかに記憶君の言うとおり あぶない 一
度同じような経験があって欺かれたではないかと言って 取りやめ
にしようと 意志氏の側にその選択肢をしめす。
ムッシュー意志は 理屈もへったくれもなくただちに行動に出よう
と決断するかも知れないし あるいは いややはりちょっと待て
一たん引いて考えてみようという意思決定をおこなうかも分かりま
せん。
国のレベルでの立法と行政と司法とが互いに分立してそのハタラキ
をおこなうように ≪われ≫の内でも 記憶と知解と意志とは それ
ぞれ自分の分をわきまえると同時に 自分だけを出しゃばらせよう
とする場合が出て来る。
――こういった仕組みだと考えられないでしょうか。
ふたたびのご回答をありがとうございます。
>内面をふくめた写実を一たんしておいて そのあとその表現されたものをとおして あたかも反芻するかのように思索を繰り広げて行
くのではないかと。
であるにしても、作品を更に深く熟慮する、推敲するなどの背後には、その作品への「理解」が前提されるはずです。いや、それとも、「暗室」での「現像」のように、その「意味」が徐々に現れてくるのか?
>秩序作用だというのは むしろ身体のほうで≪自己組織化≫という自己修正(自然治癒でしょうか)が おのづと成されて行くということにかんがみて 精神の記憶行為にはその能力がある。のではないかと)。
つまり画像的に記憶=脳内に取り入れられた情報が、なにか、脳の情報処理をする部分と「同化」するようなことでしょうか?
はじめは水面に浮かんでいたものが徐々に深みに沈んでゆくように。
>★ 「知解」=「理解」でしょうか?
☆ ≪理解≫については 確かに定義の仕方に幅があると考えます。
わたしの思う「理解」とは、その「知識」が応用可能か?ということのように漠然と考えます。あくまで限定された=記憶したのと同じ状況を離れ、特定の数式・文脈からはなれてその「知」を活かしうるか?のように思います。
また「記憶」と「理解」と「意志」は分離しているというご意見、なにを優先するかはその時々の力関係のようなものだということでしょうか?ということは、記憶したものをどう扱うか?記憶から削除するのか?理解しようという働きが生じるのか?は、三権分立ゆえ、決まった法則はないのでしょうか?
記憶処理の流れ、三権を統合する「場」というものがあるように思えるのですが。記憶する事象の取捨選択はいまは措いておきます。
あまり枝葉に拘らずに、記憶と理解の枠組み、仕組みを知りたいと思います。
No.4
- 回答日時:
#2関連で。
生物学では、
「個体発生は系統発生を繰り返す」
と言う経験則があります。何故そうなのかの説明は決定打がまだないようですが、これが正しいと言うことは経験的に知られております。
実は私の経験でも、これは学問でも成り立っております。あらゆる学問は、そこに到達した結果得られた最先端の言述を論理的整合性を持って復唱し完全に再生できるようになっただけでは、その学問が理解できるようになったわけではないようです。先人たちがその言述に到達するに当って苦労した苦悩の歴史を辿って自分の中で追体験しなくてはその学問の次の発展への寄与が出来ないようです。
再びのご回答をありがとうございます。
>あらゆる学問は、そこに到達した結果得られた最先端の言述を論理的整合性を持って復唱し完全に再生できるようになっただけでは、その学問が理解できるようになったわけではないようです。
>先人たちがその言述に到達するに当って苦労した苦悩の歴史を辿って自分の中で追体験しなくてはその学問の次の発展への寄与が出来ないようです。
これはよく理解できます。落語にしたって、踊りにしたって、はじめは師匠の「かた」をそのまま「真似る」、「型から入る」。おそらくその時点ではまだその動きの意味というものにまで思いは至っていないだろうと思います。
「真似る」-「学ぶ」が「覚える」「記憶する」の領域であるなら、じゃあそれから「理解」し「守」から「破・離」へとどのように移ろうてゆくのでしょうか?まあ「守・破・離」となるとまた話がズレてきますけれど。
ご回答はよくわかりつつも、同時に
『最先端の言述を論理的整合性を持って復唱し完全に再生できるようになった』
が
『それだけでは、その学問が理解できるようになったわけではないようです。』
は、何故?謎です。また、アインシュタインやホーキングのような天才の内面の追体験のようなものとはどういうものかという疑問も残ります。
>「個体発生は系統発生を繰り返す」
これはおもしろいとおもいます。
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No.3
- 回答日時:
私の場合は理解力は人並みだとは思っているのですが、記憶力は最低です。
だから、私にとっては"比例はしない"となります。
私の住む"職場"には記憶力の優れた人が大半です。
でもその人たちの、判断力にはいつも疑問を感じています。
記憶力と理解力は脳の働く部分が違うのではないでしょうか。
そんな気がします。
こんにちは。
>記憶力と理解力は脳の働く部分が違うのではないでしょうか。
そんな気がします。
ということは「記憶」イコール「理解」ではないという説ですね。例えば子供(幼児)に算数を教えるときに、1+1=2といっても理解できない。だから、「ここにりんごがひとつあるよね。Aくんもりんごを持ってるよね。ぼくのりんごときみのりんごを合わせるといくつになる?」というような教え方をするのではないか?と想像します。それは小さな子供はまだ抽象化すること、抽象化されたものに慣れないからでしょう。
同じように、キリル文字やギリシャ文字を「形」として脳にインプットしても、何故それが「理解できるのか?」
結局「覚えること」は「理解すること」とは違うということになるのかなという気がします。
言い換えれば、「意味不明の写真」が手元にあるか、頭の中にあるかだけの違いなのではないか、ということです。
ご回答をありがとうございます。
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「ニンドスハッカカー、ヒジリキホッキョッキョー」のようなオノマトペ。
「意味不明さゆえ」におもしろい、わらえるというのはどういうことなのか?
何故、意味から外れているのに、意味がないのに笑えるのか?
「音」(おと・おん)がおもしろいから?とはどういう脳の仕組みか?
などと質問から外れて思ったことでした。
>理解できないことによってこそ、手持ち無沙汰な意識は、より、静かな主張を見つけることができる気がします。
上手い表現ですね。
「意味」を捨象した「音」に意識が集中するということですね。それは知らない外国語を聞いたときに、先ず「音の連なり」としか認識できないことと同じだと思います。
先に出てきた「寿限無」ですが、あれを意味が分からないままに日本人がほぼ再現できるのは、それが日本語だからで、「イエスタデイ」を再現できないのは母語ではないからではないかと思います。
英語の歌詞を憶えることはできますが、それをその言語特有の「おと」の通りに再現するのが極めて困難なのは、やはり口唇の微妙な動きを異文化・異言語圏の者が再現することの困難さ、ではないかと思うのです。
こちらこそご回答の意味を取り違えている可能性が高いと思います。よろしければ反論含め、またご意見お聞かせください。
理解について、なにかで読んだか聞いたかしたことですが、
ある科学者が、夜中に目が覚めて、急いで夢に出てきた数式を黒板に書き留めた、
けれども、その時点で彼はその数式を理解することが出来なかった。
それがいつまでも誰にも解読できない、ということはありうるだろうか?
など、とつおいつ思ったことでした。
>僕はあふぉなさんや猫りんさんの投稿に愛を感じますよ。みなさま礼儀正しく思ったことを書いているではありませんか。
わたしがハルさんなら、かかる愛情あふれる行為はとてもいたたまれないと思うだけです。
オノマトペで思い出しましたが、例えば日本人が全く無意味な日本語を1分間、しゃべることができるでしょうか?これはそうとう困難に思えます。
タモリの初期の芸である「インチキ外国語」、「日本語を知らない外国人には日本語はこう聞こえる」
またこれらは正確に反復可能であるか?
>僕がハルさんに贈った言葉を聴いて、あなたは包丁で刺された気分になりましたか
それに近い気持ちにはなりましたね
みなさん。お礼をお待ちください。これまでいただいたご回答にすべて(形式的なりとも)お礼を終えた時点でBAを決めて締め切ります。
これまでお付き合いくださりどうもありがとうございました。
Grass_Roots
ブログで「個人主義と民主主義」「私は鰻だ」など興味深く拝見しました。
このようなテーマでこちらに質問を立ててもらえればと思います。
たくさんのご意見、回答をありがとうございました。
猪突さんの「ジュゲム」ー「オノマトペ」からはじまって、ぶらじゅろーぬさんの「俳句論」更にあほなさんの「サヴァン症候群」、瀬里香さんご紹介の猪突さんのブログ記事、雨がっぱさん、ニャンポコさんの言われた、ネットワークでの理解など、個々のお答えだけでは繋がりがわからなかったものが、それぞれの回答が補足し合い、補完し合って、質問者もとても考えさせられました。
最終的には、繰り返しお付き合いくださり、「俳句論」(難解極まるアウグスティヌスを紹介してくれた)ぶらじゅろーぬさん、猪突さん、雨がっぱさん、「サヴァン症候群」のあほなさん、にしぼられましたが、妥当なベストアンサーなど選べるはずもなく、みなさまに感謝しつつ、これまでわたしがBAに選んだことのない猪突さんに決めました。
改めてみんさんのご回答、ご意見に感謝します。