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「フォトグラフィック・メモリー」と呼ばれる天才的記憶術というのがあります。例えば本のページを写真をパシャパシャと撮るように次々に脳内に記憶してゆく。でもそれを脳の内部に記憶させたとして、それを「理解」することは可能でしょうか?

例えばAさんは、ロシア語を知らないしフランス語も知らないが、フォトグラフィック・メモリーの能力を持っている。それで、ロシア語で書かれた『罪と罰』やフランス語で書かれた『失われた時を求めて』を丸暗記したとして、Aさんはそれをどのように「理解」するのでしょう?
この場合、Aさんが既に知っている「日本語」との対訳が必要になるのではないでしょうか?

また仮にAさんの母語である日本語で書かれているものであっても、高度な学術論文を「理解」することは可能でしょうか?

いずれのケースでも、「記憶する能力」と「知能」=「理解力」は比例すると考えていいのでしょうか?

また同じように、視覚的記憶ではなく、仮に「聴覚」に於ける「テープレコーダー的」記憶力というものがある人が、ロシア語で朗読された『戦争と平和』を、「聴き取った音声のまま」「音として」繰り返す=「発声する」ことが出来るのでしょうか?つまり唇の形や舌の動きに関する「知識」なしに。

憶えることと、理解することとの関係についてお聞かせください。

質問者からの補足コメント

  • 「ニンドスハッカカー、ヒジリキホッキョッキョー」のようなオノマトペ。
    「意味不明さゆえ」におもしろい、わらえるというのはどういうことなのか?
    何故、意味から外れているのに、意味がないのに笑えるのか?

    「音」(おと・おん)がおもしろいから?とはどういう脳の仕組みか?

    などと質問から外れて思ったことでした。

      補足日時:2016/06/17 13:35
  • >理解できないことによってこそ、手持ち無沙汰な意識は、より、静かな主張を見つけることができる気がします。

    上手い表現ですね。

    「意味」を捨象した「音」に意識が集中するということですね。それは知らない外国語を聞いたときに、先ず「音の連なり」としか認識できないことと同じだと思います。

    先に出てきた「寿限無」ですが、あれを意味が分からないままに日本人がほぼ再現できるのは、それが日本語だからで、「イエスタデイ」を再現できないのは母語ではないからではないかと思います。
    英語の歌詞を憶えることはできますが、それをその言語特有の「おと」の通りに再現するのが極めて困難なのは、やはり口唇の微妙な動きを異文化・異言語圏の者が再現することの困難さ、ではないかと思うのです。

    こちらこそご回答の意味を取り違えている可能性が高いと思います。よろしければ反論含め、またご意見お聞かせください。

    No.11の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/06/19 12:37
  • 理解について、なにかで読んだか聞いたかしたことですが、
    ある科学者が、夜中に目が覚めて、急いで夢に出てきた数式を黒板に書き留めた、
    けれども、その時点で彼はその数式を理解することが出来なかった。

    それがいつまでも誰にも解読できない、ということはありうるだろうか?

    など、とつおいつ思ったことでした。

      補足日時:2016/06/19 15:40
  • >僕はあふぉなさんや猫りんさんの投稿に愛を感じますよ。みなさま礼儀正しく思ったことを書いているではありませんか。

    わたしがハルさんなら、かかる愛情あふれる行為はとてもいたたまれないと思うだけです。

    No.20の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/06/20 01:00
  • オノマトペで思い出しましたが、例えば日本人が全く無意味な日本語を1分間、しゃべることができるでしょうか?これはそうとう困難に思えます。

    タモリの初期の芸である「インチキ外国語」、「日本語を知らない外国人には日本語はこう聞こえる」

    またこれらは正確に反復可能であるか?

      補足日時:2016/06/20 01:47
  • >僕がハルさんに贈った言葉を聴いて、あなたは包丁で刺された気分になりましたか

    それに近い気持ちにはなりましたね

    No.27の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/06/20 23:56
  • みなさん。お礼をお待ちください。これまでいただいたご回答にすべて(形式的なりとも)お礼を終えた時点でBAを決めて締め切ります。

    これまでお付き合いくださりどうもありがとうございました。

    Grass_Roots

      補足日時:2016/06/21 00:03
  • ブログで「個人主義と民主主義」「私は鰻だ」など興味深く拝見しました。

    このようなテーマでこちらに質問を立ててもらえればと思います。

    No.28の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/06/21 15:36
  • たくさんのご意見、回答をありがとうございました。

    猪突さんの「ジュゲム」ー「オノマトペ」からはじまって、ぶらじゅろーぬさんの「俳句論」更にあほなさんの「サヴァン症候群」、瀬里香さんご紹介の猪突さんのブログ記事、雨がっぱさん、ニャンポコさんの言われた、ネットワークでの理解など、個々のお答えだけでは繋がりがわからなかったものが、それぞれの回答が補足し合い、補完し合って、質問者もとても考えさせられました。

    最終的には、繰り返しお付き合いくださり、「俳句論」(難解極まるアウグスティヌスを紹介してくれた)ぶらじゅろーぬさん、猪突さん、雨がっぱさん、「サヴァン症候群」のあほなさん、にしぼられましたが、妥当なベストアンサーなど選べるはずもなく、みなさまに感謝しつつ、これまでわたしがBAに選んだことのない猪突さんに決めました。

    改めてみんさんのご回答、ご意見に感謝します。

      補足日時:2016/06/22 15:17

A 回答 (32件中31~32件)

理解するとは理解することであって、鸚鵡返しに言えることではありません。

他人に聞くまでもないことでしょう。次の言葉はかの有名な落語の一節です、さあ鸚鵡返しに記憶してください。

じゅげむじゅげむごこうのすりきれかいじゃりすいぎょのすいぎょうまつうんらいまつふうらいまつくうねるところにすむところやぶらこうじのやぶこうじぱいぽぱいぽぱいぽのしゅーりんがんしゅーりんがんのぐーりんだいぐーりんだいのぽんぽこぴーのぽんぽこなーのちょうきゅうめいのちょうすけ

これは落語家になるための初歩中の初歩で、これを鸚鵡返しに言えないような奴が落語家だと言うのは、カレー粉が入っていないカレーライスをカレーライスと言っているようなものです。

んで、このじゅげむで何か理解できましたか?何が質問なんですか?多分私の理解という言葉の理解によると、貴方の質問を理解していないのでしょうね。
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この回答へのお礼

こんにちは。

落語の「寿限無」は、生まれた子供に「長寿」であるようにという願いを込めた「おめでたい言葉」を連ねたモノですが、
たしか落語では、名付け親はこの「寿限無」=(音=ジュゲム)や、後光の擦り切れ=(音=ゴコウノスリキレ)の「意味」をいちいち父親に説明しているはずです。その解説部分をはぶいて、ジュゲムジュゲム・・・云々といったところで、それはただ、音の復唱でしかありません。

ただこの落語は、意味という以前にオノマトペのおもしろさで、この「ジュゲムジュゲムゴコーノスリキレ・・・」をおうむ返しに言うだけでも、聞いた子供はその「意味不明さ」に却って笑うかもしれません。

わたしの疑問=質問は「記憶する」ことと「理解すること」がどう違うのか?ということです。寿限無寿限無五劫の擦り切れと、文字で覚えたとして、それは「理解」ではないだろう、では「覚えること」と「理解すること」の間にどのような違いがあるのかを質問しています。

>理解するとは理解することであって、鸚鵡返しに言えることではありません。他人に聞くまでもないことでしょう。

ということは、記憶=理解ではないということですか?

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/06/17 12:10

こんにちは。



★ 「フォトグラフィック・メモリー」と呼ばれる天才的記憶術
☆ この場合に言う≪記憶≫とは 事実認識における事実の≪模写≫
のことのみを言うということではないでしょうか。

俳句も 社会的・人間的な自然をも含めて自然の描写を内容(=
形式)としています。

そしてそのような世界認識〔としての表現〕のあと その表現内
容から自分もそうですし読んで鑑賞する側もそうであるようにい
ろいろ考えることを成す。

それと同じように 世界のものごとの模写のあとには とうぜん
これを思考し理解するという作業が来ます。

そういうことではないのでしょうか。





ちなみに ≪記憶≫という自然本性としての行為能力には 世界を
わが心という鏡に映すだけではなく おのづとそれらの情報を整
序するハタラキもが備わっている。と考えられます。

≪わたし≫が意志において情報の整理をおこなわなくても 記憶と
いう精神の能力がそれをおこない しかるべき資料室の一画の棚
に収納してくれている。と見られます。

記憶のこの秩序作用が 国の次元での≪司法≫の役割にあたると考
えました。






牛の胃が反芻するかのように記憶が記憶する(精神が精神する)
とき そこに知解が生まれる。

じっさいには既におのれの意志もはたらいており この意志の主
観性は 知解の中身の形成にも影響をおよぼす。

≪くせ・エートスあるいは個性≫をかたちづくって行きます。クセ
を伴なった世界観を おのが主観として持つようになります。


記憶・知解そして意志から成る≪思考の緑野≫が むろん身の能力
行為としての≪感性の原野≫とともに ヒトという自然本性を成し
ていると見ます。

この自然本性〔と じつは プラス・アルファとしての〔非思考
の庭≫をもふくめた全体〕としての存在たるおのおのワタシが 
≪自然性および社会的な文化性≫を帯びた自分というにんげんを作
りあげる。

≪理解する≫とは この≪にんげん≫に――修正を伴ないつつ――成
り続けること。でしょうか。




神によるひとと世界とのデザイン。それは こういうふうに成り立
っていると見ます。
≪人間よ きみたちが自由に考え自由におこない 自由に生きよ≫と。
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この回答へのお礼

こんにちは。ぶらじゅろーぬさん。

>そのような世界認識〔としての表現〕のあと その表現内容から
自分もそうですし読んで鑑賞する側もそうであるようにいろいろ考えることを成す。

>それと同じように 世界のものごとの模写のあとには とうぜんこれを思考し理解するという作業が来ます。

「写実」という言葉があります。写実的絵画(リアリズム)や子規の写実的俳句など。しかしそれらの「写実的」な作品は、外の世界をそのままパシャリとフィルムに写し取ったものではなく、「作品となる以前に」いったんその人の内面を通過しています。写真家たちの作品であっても、目の前の世界を「どのように切り取るか」という、写真家=アーティストとしての「視点」が存在しています。ですからわたしは、「作品」は、「写生」する主体が、世界の前に立った時に、既に彼の内面に於いて形成されている=彼の視点によって観られている、と考えます。ですから「作品」は純粋な模写ではない。「解釈」に先立って作品は在る、と思います。(「解釈」は、それを鑑賞するものがすることだと)

>≪わたし≫が意志において情報の整理をおこなわなくても 記憶という精神の能力がそれをおこない しかるべき資料室の一画の棚
に収納してくれている。と見られます。

ということは、記憶すると同時に、その記憶内容への「情報の処理」、「解析」が行われ「意味」を知り得るということでしょうか?

>牛の胃が反芻するかのように記憶が記憶する(精神が精神する)とき そこに知解が生まれる。

「知解」=「理解」でしょうか?

>記憶・知解そして意志から成る≪思考の緑野≫が むろん身の能力行為としての≪感性の原野≫とともに ヒトという自然本性を成し
ていると見ます。

>≪理解する≫とは この≪にんげん≫に――修正を伴ないつつ――成り続けること。でしょうか。

うーん。この辺りは難しいのですが、「記憶」と「知解」(理解)とは同時に行われるということでしょうか?

理解が至りませんが、ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/06/17 12:41
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