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「フォトグラフィック・メモリー」と呼ばれる天才的記憶術というのがあります。例えば本のページを写真をパシャパシャと撮るように次々に脳内に記憶してゆく。でもそれを脳の内部に記憶させたとして、それを「理解」することは可能でしょうか?

例えばAさんは、ロシア語を知らないしフランス語も知らないが、フォトグラフィック・メモリーの能力を持っている。それで、ロシア語で書かれた『罪と罰』やフランス語で書かれた『失われた時を求めて』を丸暗記したとして、Aさんはそれをどのように「理解」するのでしょう?
この場合、Aさんが既に知っている「日本語」との対訳が必要になるのではないでしょうか?

また仮にAさんの母語である日本語で書かれているものであっても、高度な学術論文を「理解」することは可能でしょうか?

いずれのケースでも、「記憶する能力」と「知能」=「理解力」は比例すると考えていいのでしょうか?

また同じように、視覚的記憶ではなく、仮に「聴覚」に於ける「テープレコーダー的」記憶力というものがある人が、ロシア語で朗読された『戦争と平和』を、「聴き取った音声のまま」「音として」繰り返す=「発声する」ことが出来るのでしょうか?つまり唇の形や舌の動きに関する「知識」なしに。

憶えることと、理解することとの関係についてお聞かせください。

質問者からの補足コメント

  • 「ニンドスハッカカー、ヒジリキホッキョッキョー」のようなオノマトペ。
    「意味不明さゆえ」におもしろい、わらえるというのはどういうことなのか?
    何故、意味から外れているのに、意味がないのに笑えるのか?

    「音」(おと・おん)がおもしろいから?とはどういう脳の仕組みか?

    などと質問から外れて思ったことでした。

      補足日時:2016/06/17 13:35
  • >理解できないことによってこそ、手持ち無沙汰な意識は、より、静かな主張を見つけることができる気がします。

    上手い表現ですね。

    「意味」を捨象した「音」に意識が集中するということですね。それは知らない外国語を聞いたときに、先ず「音の連なり」としか認識できないことと同じだと思います。

    先に出てきた「寿限無」ですが、あれを意味が分からないままに日本人がほぼ再現できるのは、それが日本語だからで、「イエスタデイ」を再現できないのは母語ではないからではないかと思います。
    英語の歌詞を憶えることはできますが、それをその言語特有の「おと」の通りに再現するのが極めて困難なのは、やはり口唇の微妙な動きを異文化・異言語圏の者が再現することの困難さ、ではないかと思うのです。

    こちらこそご回答の意味を取り違えている可能性が高いと思います。よろしければ反論含め、またご意見お聞かせください。

    No.11の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/06/19 12:37
  • 理解について、なにかで読んだか聞いたかしたことですが、
    ある科学者が、夜中に目が覚めて、急いで夢に出てきた数式を黒板に書き留めた、
    けれども、その時点で彼はその数式を理解することが出来なかった。

    それがいつまでも誰にも解読できない、ということはありうるだろうか?

    など、とつおいつ思ったことでした。

      補足日時:2016/06/19 15:40
  • >僕はあふぉなさんや猫りんさんの投稿に愛を感じますよ。みなさま礼儀正しく思ったことを書いているではありませんか。

    わたしがハルさんなら、かかる愛情あふれる行為はとてもいたたまれないと思うだけです。

    No.20の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/06/20 01:00
  • オノマトペで思い出しましたが、例えば日本人が全く無意味な日本語を1分間、しゃべることができるでしょうか?これはそうとう困難に思えます。

    タモリの初期の芸である「インチキ外国語」、「日本語を知らない外国人には日本語はこう聞こえる」

    またこれらは正確に反復可能であるか?

      補足日時:2016/06/20 01:47
  • >僕がハルさんに贈った言葉を聴いて、あなたは包丁で刺された気分になりましたか

    それに近い気持ちにはなりましたね

    No.27の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/06/20 23:56
  • みなさん。お礼をお待ちください。これまでいただいたご回答にすべて(形式的なりとも)お礼を終えた時点でBAを決めて締め切ります。

    これまでお付き合いくださりどうもありがとうございました。

    Grass_Roots

      補足日時:2016/06/21 00:03
  • ブログで「個人主義と民主主義」「私は鰻だ」など興味深く拝見しました。

    このようなテーマでこちらに質問を立ててもらえればと思います。

    No.28の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/06/21 15:36
  • たくさんのご意見、回答をありがとうございました。

    猪突さんの「ジュゲム」ー「オノマトペ」からはじまって、ぶらじゅろーぬさんの「俳句論」更にあほなさんの「サヴァン症候群」、瀬里香さんご紹介の猪突さんのブログ記事、雨がっぱさん、ニャンポコさんの言われた、ネットワークでの理解など、個々のお答えだけでは繋がりがわからなかったものが、それぞれの回答が補足し合い、補完し合って、質問者もとても考えさせられました。

    最終的には、繰り返しお付き合いくださり、「俳句論」(難解極まるアウグスティヌスを紹介してくれた)ぶらじゅろーぬさん、猪突さん、雨がっぱさん、「サヴァン症候群」のあほなさん、にしぼられましたが、妥当なベストアンサーなど選べるはずもなく、みなさまに感謝しつつ、これまでわたしがBAに選んだことのない猪突さんに決めました。

    改めてみんさんのご回答、ご意見に感謝します。

      補足日時:2016/06/22 15:17

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A 回答 (32件中1~10件)

#27のneutralingさんが私信で、私が以前書いたブログ『 理解するって? タンパク質 vs アミノ酸思考』 2016-03-15



http://ameblo.jp/texas-no-kumagusu/entry-1213954 …

を思い出させてくださいました。参考にしてください。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

こんにちは、猪突さん、そして瀬里香さん。

ブログの記事、面白く読みました。難しいことが書いてあるのかと思ったら一種の科学エッセイですね。
わたし自身が、丸暗記が苦手だし、答えを受け取るよりも"Thinking" "Wondering" and " Asking" の方に比重が傾いていて、
ですから前のサムシングさんが質問した「質問と反論」についての問いかけに対する猪突さんの「問いかけは答よりも大事」という意見に賛同したものです。

人間はタンパク質で組成されているが、タンパク質をそのままの形で採りこむことはできずに、一旦アミノ酸に形を変えて=バラして
そこからまた「自分という個体に合うタンパク」を作ってゆくというのは、知識を採りこむことのアナロジーとして、面白いと思いました。

一旦分解することで、その構成を再確認したり、新たな要素を書き加えたりという過程がなされなければ、新たな創造は生まれないわけですね。

わたしは専門的な学術論文というのにせっしたことがないのですが

>その苦労した失敗がそこで提示されている事実には関係ないことが判っていても、どうしてもその苦労話を差し挟みたくなるのが人情です。

科学の論文の中の「人情」という視点が。

あほなさんの回答にあった

サヴァン症候群
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B4 …

とフォトグラフィック・メモリーの関連について
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A0%E5%83%8F …

何かあればと思い、いまいちにち開けておきます。

おもしろい記事を紹介していただいたお二人に改めてお礼を。

お礼日時:2016/06/21 13:24

注文を受けていないアウグスティヌスのお代わりですが。



▲ (精神はすでに自己を知っている?) ~~~~~~~~~~
それでは 精神は自己自身に知られていないのに 自己自身を知ろうと
熱心に求めるとき 何を愛するのであろうか。

 ☆ 愛する:意志するとも読めます。

見よ 精神は自己自身を知ろうと問い求め この熱心な努力によって燃
え立たされているのだ。

したがって 精神は愛しているのである。しかし 何を愛しているので
あろうか。自己自身であろうか。自己自身をまだ知らないし 誰も知ら
ないものを愛し得ないのに どうして自己を愛しようか。

それは私たちが よく不在なものについて聞くように 噂が彼にその美
を知らせたのであろうか。

その場合 おそらく精神は自己自身を愛するのではなく 自己自身とは
おそらく全く別なものである・自己についてつくり上げる表象を愛する
のであろう。

あるいは もし精神が自己に似た表象を自己についてつくり上げ した
がってこの表象を愛するとき 自己に似たものを凝視するゆえに 自己
を知る前に自己を愛するなら 精神はそのとき それらに基づいて自己
の表象をつくり上げる他の精神を知っており そして精神の類的な観念
によって自己に知られている。

それでは 精神が他の精神を知るなら 自己自身よりさらに自己に現在
的なものはあり得ないのに なぜ自己自身を知らないのであろうか。

身体の眼は自己自身よりも他人の眼の方によく知られているようにであ
るなら 精神は自己を決して見出し得ないから 自己を問い求めないで
あろう。

眼は鏡によらなければ決して自己を見ないであろう。

つまり 精神がいわば鏡において自己を知り得るような或るものが 非
物体的なものを観想するときにも適用されると思ってはならない。
・・・

 ☆ いいとこですが 大幅に中略しました。精神は 物体ではないと
  言っているようです。

精神は自己を知っているのである。それで 精神は自己を知ろうと問い
求めるとき 自己を問い求めるものとして自己をすでに知っているので
ある。

だから精神はすでに自己を知っているのである。・・・
(『三位一体論』 中沢宣夫訳 1975 vol.10 ch.3 )
~~~~~~~~~~~~~~~

☆ 理解(知解)の基礎としてのごとく 精神が・つまり 意志(愛)
とともに特に記憶が はたらくものと思われます。自己自身の記憶と
してのごとくにも。

≪フォトグラフィック・メモリー≫のための容量くらいは 記憶は余裕
があるのだと思われるようになりました。
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この回答へのお礼

こんばんは、ぶらじゅろーぬさん。

>注文を受けていないアウグスティヌスのお代わりですが。

ははは(笑)

相変わらず難解ですが、つまり精神は己の姿を観ることができないので、「鏡像」によって自己を知る、というようなことでしょうか?
この場合の鏡像とは「他者」(の精神)で、いわばラカンの鏡像のように、「そこに自己を投影」するという認識でしょうか?

なにも専門的なことは書かれていないのに、非常に難解です。

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/06/22 02:55

余談になりますが、最近、無言の世界と言うものを意識する事があります。

どういう事かというと、雲なら雲、空なら空、ビルならビル、信号機なら信号機と言った名称がなされる前の、それら存在を見る、意識すると言った事です。すると、見ている世界が明るく広くクリアに感じられる。

写真記憶というわけには行きませんが、いきいきとしたものの存在を感じる事ができます。
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この回答へのお礼

こんばんは。

ものの名付けられる前の世界ですか。空や雲のような自然界のものなら出来るかもしれませんが、(=つまり人間が名付ける前からそんざいしていたものたちですから)ビルや信号機や車といったものも「記号」ナシで捉えるって可能でしょうか。

普段見慣れて、最早なにも意識に上らなくなっている世界を、何らかの異化作用によって新鮮に見つめるというのは、それがどういう方法でも面白いことだと思います。世界がもっとエキサイティングになればいいと思います。例えば恋をすると世界が輝いて見えるというのも、素敵な世界との新たな出会いですね。(他人事ではなく)

お礼日時:2016/06/22 02:25

Grass_Rootsさんは長居しないとどこかにご自分で書いておられましたが、


文も思考もきれいだし、長ーく薄ーく居続けてほしいですね。
brightかgiftedかといえばあなたはgiftedの類なのでしょうね。
brightにとっての理解と、giftedにとっての理解の違いも、面白い問題です。

ハルさんは前に、オスカー・ワイルドを引いてご質問を立てました。ワイルドつながりのGrass_Rootsさんには共鳴するところがあるのでしょうか。
ワイルドは美と調和から素早く和解を見つける作家だと、わたしは思います。一息に素早く、は、象徴がそなえる性質です。そしてgiftedは象徴を使うような理解をするのです。そうしたとき、新鮮さを失うと霞んでしまうものから容易に心を離してしまうかもしれない。新鮮で刹那的なものに動かされる心が、和解に満ちたどこかに着地できたら、人間ってそれだけで生きがいがあるんでしょうね。
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この回答へのお礼

こんばんは雨がっぱさん。

ご親切な言葉をありがとうございます。長くいる秘訣(?)は、やはり、うすーく居ることなんだろうと思いますけれど、そのようなバランス感覚を欠いているもので、どうしても「全てか無か」と、極端に走りがちです。

Bright でないことは明らかですが、Gifted とも言えません。ワイルドは正にその両方ですね。
「美と悲しみを知る者だけがわたしの興味を惹く」とワイルドは言っていますが、これもまさに彼の人生を表した言葉で、「美」に拝跪(はいき)することこそ生きる意味のように感じていたのでしょう。

他でも書いたかもしれませんが、「テムズ河に霧が出るのはターナーが霧を描いたからだ!」といった彼の数々の警句は、今でも世界中の人を魅了していますね。

「象徴」といえば、ワイルドと同じようにボードレールに惹かれていますが、大学時代、本だけが友達で、『惡の華』にうっとりとしていたころ、クラス(同じ学科)の人気者の男子学生から「そんなものばっかり読んでるから友達が出来ないんだよ」と気遣われたことを今でも憶えています(苦笑)長じて「真人間」になったということでもないようですし、孤独はいつもついて回っています。

雨がっぱさんの言われる「美的理解」というテーマも興味深いですね。

ハルさんとワイルドですか、これは意外でした。

これからもよろしくお願いします。

お礼日時:2016/06/22 02:14

番組では、サバン症候群の一例としてフォトグラフィックメモリーが紹介されていました。

自閉症などによって本来あるべき機能が大きく制限される一方、特定の事柄においてのみ常軌を逸した高い能力を見せる場合があるようです。

チンパンジーの子どもにもフォトグラフィックメモリーがあるとすると、むしろ知らない事によって、フォトグラフィックメモリーが実現しているように思われます。もし色々の事を知っておれば、その事によって目に映るものを解釈しますから、多くは合理化された、捨像された解釈でそれを見てしまいます。フォトグラフィックメモリーにはなり難いでしょう。

また、初めて目にする得体の知れないものを見る時にも、既存の自分の持つ知識と照らし合わせ、同じものがないか確認しようとする事が先立ち、この場合もフォトグラフィックメモリーは発現し難いのではと考えました。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

わたしがこのフォトグラフィック・メモリーというのを知ったのは、『グッド・ウィル・ハンティング』という映画の中で、ウィルの彼女が彼の記憶力を(英語で)そういっていたのを聞いたことからでした。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%83 …


でもサヴァン症候群と比較してみると、確かに天才と呼ばれる人にもこの能力は見られるようですが、これを通常の意味で使われている「記憶」と同じものとは捉えられないのかもしれません。

ウィキペディアの山下清のページに以下の記述が見えます

○清は驚異的な映像記憶力の持ち主で、「花火」「桜島」など行く先々の風景を、多くの貼絵に残している。とりわけ、花火が好きだった清は、花火大会開催を聞きつけると全国に足を運び、その時の感動した情景をそのまま作品に仕上げている。花火を手掛けた作品としては、『長岡の花火』が著名である。
旅先ではほとんど絵を描くことがなく、八幡学園や実家に帰ってから記憶を基に描くというスタイルだった。

これは天性の絵心と記憶が偶然重なったという例かもしれません。

お礼日時:2016/06/21 15:14

bLuEさん。

反応ありがたう。
穏やかに話しませう。

しかし先に感想を述べさせてください。僕はあなたから攻撃されている気分です。あなたから鞭打たれている気分です。あなたから軽蔑され侮辱され貶められ嬲られ晒されている気分です。勝手にハルさんのスレに回答をしておいて無責任かとは思ひますが、他人に八つ当たりされるのは僕の仕事ではありません。他人のゴミを引き受けるのは僕の仕事ではありません。僕は常に元気が無く生まれつき愚か者であり、しかも欠陥品であると何度もあなたに伝えてきましたが、僕を【理解】してくださいなどという図々しいことは言えません。あなたが僕を【理解】しないことも知っています。僕があなたやハルさんを【理解】できないことも知っています。
【理解】しようだとか【理解】されようという【甘え】については全面的に肯定しつつではありますが。そもそも【理解する】などというのは感覚や認知や記憶や抜群の体調と思考回路や注意の向きや環境などがタイミング良く出そろったときに、たまたまできるものだと僕は思ってゐます。奇跡とまぐれと偶然の結果なのぢゃないかしら。【理解できた!】というのは。

>理解できないという哀しみを認めつつ、なお僅かなつながりを模索してゆくしかない
:さうですよ。だからハルさんは僕を理解できなくてもお礼を書いてくださっているのだし、わたしやあふぉなさんや猫りんさんは、また話しかけているではありませんか。

>誰に?「自分より劣っている」と「見做されたもの」への。
:気のせいです。対等に話していますし、批判や反論や意見はしますが相手の人格を否定するものではありませんし、またこちら側も批判や反論はご覧の通り受け付けております。しかしあなたからの謂れなき暴力はあまり歓迎しません。

>誰に?「自分より劣っている」と「見做されたもの」への。
:さうですか。それならその【見做す】【という能力を持たない者】たちを憐れんで差し上げてください。【無関心になる】【という能力を持たない者】たちを憐れんで差し上げてください。

しかし【理解】のために必要な条件はいろいろと書きましたが、最も重要なのは【関心】ではないでせうか。【関心】が無ければ【理解】する対象は僕を素通りし、僕はそのことに気づくことさへないでせう。関心があるからこそ勃発する喧嘩については、好んで買ったりはしませんが、僕や彼や彼女が生きるために必だと感じた場合は応じます。恥ずかしいのだけど、とりあへず喧嘩を売られた場合、第一次反応として僕の身を守らなければならない。つまりこの投稿は自己防衛そのものです。
それにしても僕は何か害を及ぼしましたか。取り返しのつかない間違いや失敗を犯しましたか。僕がハルさんに贈った言葉を聴いて、あなたは包丁で刺された気分になりましたか。衣類に火を放たれて火傷したやうな気分になりましたか。太平洋の真ん中に投げ捨てられた気分になりましたか。残念ながら僕にはあなたを【理解】する能力が不足している上、タイミングが悪いやうです。でも僕はあなたには謝りません。ハルさんから要求されれば謝りますけれど。


僕は【記憶】は得意だけど【理解】は大の苦手です。いつだって【気力】が無く【関心】が淡く、すぐに放棄したり逃げたりしてしまうからです。しかも臆病者だからです。今日は半月ぶりに、8時に起きて2度寝して13時にまた起きて今までずっと布団の中にいます。なぜなら布団から出たくないからです。僕は今日は何も【理解】しませんでした。僕は今日、別に悪いことをしたわけではない。


そろそろ自己弁護や言い訳や正当化や防衛する体力も尽きてきたのでこれで失礼します。
お読みいただきましてありがたうございました。XOXO。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

>でも僕はあなたには謝りません。ハルさんから要求されれば謝りますけれど。

そうですか。じゃあわたしが謝ります。

>僕はあなたから攻撃されている気分です。あなたから鞭打たれている気分です。あなたから軽蔑され侮辱され貶められ嬲られ晒されている気分です。

以上のことに関して。

どうもすみませんでした。

これは口先だけでかわそうというのではなく、ことほど左様に、人はどこでひとを傷つけているかわからないということの証しであると思います。

また、ニャンポコさんはハルさんとほぼ1年のつきあいだと仰っていました。あほなさんはもっとではないかとも仰ってました。
おそらく1年後にわたしはここにはいないでしょう。かつて同じ職場で1年以上続いたことは2,3回しかありませんし、インターネットに於いては、3年続いたのも、現在で5年目を迎えたのもすべて言葉の通じない外国のサイトです。
90年代からインターネットをやっていますが、日本語のサイトで1年以上続いた場所は残念ながら存在しません。

重ねて、お詫び申し上げます。

お礼日時:2016/06/20 23:51

フォトグラフィック・メモリーについてはあまり実例を知らないので間違った事を言うかも知れませんが、おそらく写真のように記憶するだけでは理解出来ないでしょう。

それは像を記憶しているだけだからです。外国語なら尚更でしょう。レコーダーのような記憶についても同じと思います。

以前テレビで、フォトグラフィックメモリー、或いはサバン症候群の方達の特集をやっているのを見たことがあります。
ヘリコプターからニューヨーク(だったかな?)を見た時の記憶を完全に再現するという事で、巨大な紙にニューヨークを描き出すという事をしていました。窓の数やビルの数は全く同じに再現されており、記憶の確かさは確認されたのですが、その絵は下手くそでした。
彼に模写をやってもらったとしても、同じ下手くそな絵を描いたことでしょう。
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この回答へのお礼

こんにちは。

フォトグラフィック・メモリーはやはり、「知っていること」の上に成り立つ記憶なのでしょうか。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A0%E5%83%8F …

「サヴァン症候群」というのは初めて聞きました。映画『レインマン』は観たことがありますが。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B4 …

これら二つの関連についてもう少しご意見を伺いたいたいと思います。

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/06/21 12:15

お礼ありがとうございます。


標準語については、明治時代に、文字通り方言を排除した日本語として策定されて、言文一致による文語体などの使用も検討されたようですが、結果的に江戸(東京)の山の手の言葉を見本として、整備されました。(一部には、廓言葉の利用も検討されたようですが、です・ます調がその名残りと考えている人もいるようです)
方言については、単語の違い、語尾変化の相違、イントネーションの相違がありますが、標準語ではそれらの差異を減らす為に平滑な言葉になっています。
冗長性が極端に少ない方言としては、津軽地方の言葉が有名ですが、あるTV番組で、津軽地方の会話を標準語に直したら、その長さは、3倍以上になっていました。
夢の中で数式を解くというのは、実際に私もやっていたようなので、ラマヌジャンに関しては、それほど違和感は感じませんでした。
私が、寝ている間に声を出して数式を解いていたのを、妹が聞いていた事がありました。(翌朝には、その数式は解けていました)
この事から、私の思考は言語で行われていた事がわかります。(脳内ではメタ言語や、他の機能で解いていたのかもしれませんが、それが言葉で口からは出ていたわけです)
夢自体は、脳の記憶整理機能の一部が、意識により想起されたものと解釈される例が多いですが、実際に意識活動を行っている場合もありえるのでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

「標準語」というのは一種の人工語ですね。ですからわたしのように東京で生まれ育った人間には「母語」がないと言えるのかもしれません。「故郷の訛り懐かし 停車場の 人ごみの中へ そを聞きにゆく」という気持ち。よくわかる気がします。
また東京は20世紀後半の経済成長で、街がごっそり変わってしまい。数学者、岡潔がエッセイで書いている、
「懐かしむ、同じ昔を持っているということがどれほどありがたいことか」というような「なつかしい場」もなくしてしまいました。

東京に生きるということは、母語からも記憶からも疎外されて生きるということのようにいつも感じています。
そのような東京化はいたるところでおこなわれているのでしょう。

あほなさんからの新たなヒントの提示もありもう少し開けておきます。

お礼日時:2016/06/21 12:36

科学者の夢の「補足」を読んで。



私は、寝入りっぱなと起きる直前に、何やら瞑想状態になりこういうような
ことがよくあります。

あるメロディが浮かんできて、それを鼻歌で歌いながら目が覚めるんです。
しばらく覚えているんですが10分もすると跡形もなく消えます。
素晴らしいメロディとは言えないけれど、そこそこですよ。

それから、映像がフラッシュのように浮かびます。あるとき、世にも恐ろしい
モンスターが浮かびました。形容ができないほど、見たことも聞いたこともな
いほどのものでした。

誰にでもあることだと思うんですよね。私は少し多いようですが、「いってし
まっている」のではないとおもいますが‥

ですから、年中数式のことを考えている科学者が、寝ているときに脳内で何ら
かの「創造」をしているなんてことは、ごく当たり前にあると思います。
ちなみに私はカラオケが大好きで、レパートリーはけっこうあります。
作曲の才能があるのかも‥
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この回答へのお礼

こんにちは。

寝る前に?自分の鼻歌で目が覚める?(笑)
起きてまだ覚えているなら何かに録音しておいたらどうですか?

>誰にでもあることだと思うんですよね。私は少し多いようですが、「いってしまっている」のではないとおもいますが‥

ははは!いやな映像だけでないのならむしろ楽しいのでは?

>ちなみに私はカラオケが大好きで、レパートリーはけっこうあります。
作曲の才能があるのかも‥

ですから夢の中の曲を録音すべきですよ。

これも記憶の蓄積ですね。

ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/06/21 12:03

例えば小学一年生になると平仮名を覚えるよう訓練されます。

一つ一つの平仮名が、つながる事で単語となり、さらに連なって文章となります。さらに大きな塊となって文脈などが生じ、また高度な文体が出来上がります。理解というのは、はじめに小さな照合(記憶)があって、その後に段々と深い理解と言うものが積み重ねられてゆくものでは無いでしょうか。

或いは、文字を介さない、人の心情やことばの理解の場合においても、記憶というのは役割を担っています。例えば、〇〇の言葉が酷く胸をえぐったとか、逆に救いとなったとかいう風に、印象的に表現される事がありますが、この印象というのは、記憶に強く残ったものの事では無いでしょうか。そのシーンや出来事を強く覚えた時と言うのは、なんらかの理解、或いは誤解が生じた時であると思います。
もっと言えば、よく伝わった、言葉や想いがよく伝わる事を、理解するというのでは無いでしょうか。

理解するという言葉は汎用性が高く、一つ一つ事例を取れば話し尽きないでしょうが、私の言えるところはこんなところです。

ところで、ハルさんの話題が出ていますが、それについて少しコメントしましょう。

本当の事を言うと、相手に嫌われたり怒らせてしまったりする場合があります。故に本当の事を言わないと言う選択が魅力的に見える事があるのですが、だからと言って口をつぐんだり、当たり障りのない事を言ったりするのは、その場凌ぎというものでなんの解決にもなりません。自分は無関係だと装い、その関係から遠ざかるのは、言って仕舞えばその程度の価値しか相手に与えていない事になるのです。その程度の価値しか、相手に感じていないのです。本当の事を言われない、「安全な人生」は、寂しいものです。結局、その人を本当に想っている人などいないという事が証明される様なものです。インターネット上だけでのやり取りで、縁は薄いのだけれど、真摯に、或いは本気でいう言葉には、かけがえのないものが含まれる、そう思っています。
地獄への道は善意で舗装されている、あなたは何処かでそう言っていましたが、対等の関係には善意も悪意もありません。言いたい事が言えない様な関係を、居心地良いと感じる様になれば、それは眠っているのと同じです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

今回の質問に限定していえば、「写真的記憶術」を持った人が、目の前の世界=例えば外国語のテキストを「写真を撮るように」脳内の記憶の貯蔵庫に収めたとして、もともとその言語に関する知識がなかった人が、その記憶をどのように「理解」するのか?という問いかけでした。
通常は、憶えること=記憶することは、理解とともに進んでゆきます。「あ」という形、音、それを使っての「あり」とか「あし」という単語の理解へと。この時点では「あい」とか「あか」といった抽象的なものはまだ覚えることができないのかもしれません。

「印象的」が「強い記憶」だというのはその通りだと思います。
それは多分「類推」なんでしょうね。初めて見た、読んだシーンに強く反応するのは、そこに込められている「情緒」-「愛」や「怒り」「憎しみ」「孤独」などを、過去の記憶の蓄積と照応しているのだろう、と。

ハルさんのことに関していえば、わたしとあほなさんの人生観の違いということになるのでしょう。立場の相違を前提としていくつかコメントするなら、まず、「人に何かを言える自分か?」という思いがあります。また「本当のことを言う」といい「何の解決にもならない」というのは、そもそも誰にとっての「本当のこと」であり誰にとっての「解決」でしょう?その人が見えていない「本当のこと」や「解決法」をどうして他人が知ることができるのか?それが偽善や自己満足でないと何故言えるのか?
>自分は無関係だと装い、もなにも、わたしは人が人を本当の意味で理解するということが出来るのか?という立場です。言い換えれば「他人の痛みを知る」なんてことはできないという立場です。ですから「見守る」ことくらいしかできない。前に瀬里香さんにも書きましたが、「理解できないという哀しみを認めつつ、なお僅かなつながりを模索してゆくしかない」のだと思っています。「酒を飲んで荒れている人」に、「からだに毒」であるとか「生活を立て直して」云々ということはたやすい。でもそういう人はどこまで「酒を飲まずにいられない」彼の内面の苦しみを知っているのか?それで原因で彼が死んでも、わたしはそれを悼むことしかできません。「わたしは彼の悲しみを悲しむことはできない」し「彼の人生を生きることはできない」のだから。彼の悲しみを知り得ない以上、「本当の解決法」も分からない。

お礼日時:2016/06/20 13:38

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Aベストアンサー

この質問は難しいですね。気が遠くなります(笑)。
理解するというのはみんな漠然とわかっていることなのに、説明しろといわれると一筋縄ではいかないですよね。
ボクは素人なんで自分の考えてることしか言えませんが、面白そうだったのでそれを書かせていただきます。
理解するというのはその場面に応じてはっきり言って変わります。
たとえば学校の授業で出てくる問題や課題について、先生が「わかりましたか?」といったときの理解と、社会で問題が発生したときにそれに対処する方法がわかるという理解は、質的な違いがあると思うんです。
学校の授業ではわかるというのは、たとえばある言葉の意味がわかる。「客観的」とはどういう意味なのかを先生が黒板に書きながら説明する。生徒はどういうことなのか考える。それに対して社会の中では、実際に効果を上げる方法を考える。このとき客観的という言葉なんて微塵も使わないじゃないですか。使えたとしてそれが直接利益にはつながらない。議論をしているときにみんなが主観的な意見を出しているときに、それだけじゃだめだ。客観的な視点に立たないといけない。と思って客観的に考える。そうすると初めて議論が前に進む。社会ではこのとき初めて客観的とは何かわかったことになる。
つまり理解するというのにもいろいろあって、今とった例でも「どういう意味か事例を挙げられる」「実際にどうすれば言いか現場で考えられる」の少なくとも2つは考えられるわけです。
なんだか哲学の話になっちゃってますけど、これに似たことは哲学の世界でよく取り上げられているんです。それは真実とは何か、です。繰り返し素人であることを確認しつつ話を進めさせていただきます。
真実とは、はじめは「事実に対応したもの」と考えられていました。つまり、日照り続きの夏の昼下がりに「今日は暑い」というと、これは正しいことを言っているので真実だということになります。これに基づくと理解とは事実に対応した発言ができること、になります。
しかしそれだと説明できないことがあることに気づきました。たとえば裁判を考えてほしいのですが、被告人の有罪を証明するときに、検事はさまざまな物的証拠(たとえば凶器のナイフ、犯行時刻のアリバイがないなど)を掲げると思います。でも実際に検事が、犯人がナイフを使って被害者を殺害したところを見たかというとそうではありません。ただ、さまざまな証拠がその事実を浮き彫りにするかのように存在しているだけです。しかしおそらく被告人の有罪を誰も疑わないと思います。こういった真実は「事実との整合性がある」「つじつまが合う」真実と言えます。この場合は理解とはきちんとした推論ができることになります。
しかし近代に入ってからプラグマティズム、道具主義と言う考え方をする哲学者が現れました。この人たちが言うには、真実とは「役に立つこと」なのだそうです。
たとえを出します。
野球選手がバットを握るとき、傘を持つような感じで持て、とか、一度片手で振ってから握って見なさい、とか言うそうです。これは本人の体に染み付いた自然なフォームを引き出すためにこういう言い方をするそうです。
このとき「自然に持てばいいだろ」と言ったところで、選手は「その自然さがワカランのです」と返答してくることでしょう。だからこそ困っているのですから。あえて傘を持つ、振ってから握る、といったぼかした表現をとることで初めて相手は自然なフォームをとることができます。
このとき、監督の発言のどちらが真実でしょうか。どちらの発言が、本当に野球を理解していると言えるでしょうか。「傘」でしょうか「自然に持て」でしょうか。
このとき理解するとは、「こうするとうまくいくと知っている」ことになります。
このように考えると理解すると言ってもたくさんの定義の仕方があるということになります。その状況に応じた「理解」とは何か知り、それをするように努めること、その行為そのものが一番大切なことなのか、とその哲学の解説書を読んだとき感じました。
これで少しは参考になったでしょうか?適切な定義ができなくてすいません。でもいろいろ考えられると言うことはわかったんじゃないかなと思います。
重ねて、もしも今まで話したことがすでに周知の事実だったりほしい答えじゃなかったらゴメンナサイ。理解するということをきちんと考えたいと言う意味だったら、お役に立てたんじゃないかなと思います。

この質問は難しいですね。気が遠くなります(笑)。
理解するというのはみんな漠然とわかっていることなのに、説明しろといわれると一筋縄ではいかないですよね。
ボクは素人なんで自分の考えてることしか言えませんが、面白そうだったのでそれを書かせていただきます。
理解するというのはその場面に応じてはっきり言って変わります。
たとえば学校の授業で出てくる問題や課題について、先生が「わかりましたか?」といったときの理解と、社会で問題が発生したときにそれに対処する方法がわかるという理解は、...続きを読む

Q哲学。結局、「他者」とはどのように理解できますか?

社会学系の大学院で課題のレポートを書いています。
講義でフッサールの現象学においては、「世界」は意識の志向性とそれに応じた現われである、ということを学びました。その場合、物質的なものに対してはなんとなく理解は可能な気もしますが、他者(他我)についてはどのように理解すればよいのでしょうか?なぜ、他者と概念的な共有可能で関係性の構築が可能となるのでしょうか?(言語の意味はなぜ他者と共有可能(のように感じる)のでしょうか? 

いろいろ見てみたのですが、議論が膨大すぎてどこから手を付けていいかわかりません。もし詳しい方がいらっしゃいましたら、フッサールの時代から現代にいたるまでどのような議論がなされてきたのか簡単な流れについて教えていただければ幸いです。(記号論?等についても)

Aベストアンサー

追伸:
>つまり各指の「自」および「他」は手の一部、つまり同じものの一部なのですね。これが共有可能であ>ることの証明です。 すべての生き物、存在物、人間も全く同じ原理なのですね。
>この部分だと思いますが、「東洋的」というのは具体的に誰のどの部分(どんな著書?記録?経典だとしてもどの時代のものの解釈なのでしょうか?)のものなのでしょうか?

○釈迦仏教(哲学)の基礎:涅槃教の一節、((一切衆生)悉有仏性)、曹洞宗の開祖、道元禅師道元禅師(山川草木悉有仏性)などが全て仏性で繋がっているという認識のことのですね。
仏性が、たとえの「手」ですね。
近代では、京都学派の哲学者の西田は、これを、自身あるいは自と他の関係に置き換えて、「絶対矛盾的自己同一論」を出しています。矛盾する自、あるいは矛盾する他は自身の一部であるという認識ですね。
どれもわかれば簡単なことですが、解説書読んでも、解説するものがわかっていないので理解は難しいですね。これも参考に。


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