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歴史の勉強をしていると急に豪族やら武士、大名、地頭やら地位の高そうな位がいろいろ出てきて、どれが貴族といわれる高い身分なのかよくわかりません。
なんとなく、「立場が高い人」=「貴族」というイメージしかありません。

それぞれの位の人がどれ程の規模の土地を納めていたのかも区別がつきません。

納めていた土地の範囲を現代風(県市町村単位)で表現することはできますか?

簡単に教えてください。

A 回答 (3件)

一般には公家を指しますが、場合によっては


武士なども貴族と称することがあります。
貴族の意味は時代と共に変遷しています。

当初は天皇や藤原家などの公家を貴族と称しました。

時代が経って、下級貴族が出て、そこから武士
などが台頭します。

明治になると華族と名を変えます。
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この回答へのお礼

大変勉強になりました。ありがとうございます。

お礼日時:2016/11/18 22:44

「豪族」というのは一定の広さの土地を支配し、そこに住む人から農産物やお金や労役などの負担を取っている人のことです。


「貴族」というのは、君主などのもと、特権を持った階層です。
「武士」というのは、おおざっぱにいうと、戦うことを自らの芸(武芸)とした者のことです。
「大名」というのは、もともとは大きな土地(=名)を支配する者のことで、のちに広い土地を支配する武士ことを指します。
「地頭」というのは、一般的には、鎌倉時代に鎌倉幕府につかえる武士である後家人が、将軍から任じられる職のひとつです。

色々言葉が並んでしますが、広い意味を持つものや、国や地域や時代によって異なるものもあってここでは一面しかいえません
支配地域やその大小などは、ケースバイケースです。
江戸時代の大名でも、県単位の領地を持つ人もいれば、もっと小さな市の一部という人も。石高でいうと将軍家400万石は別格としても、100万石から1万石です。

豪族・貴族・武士について古い時代から説明してみましょう。
弥生時代になって身分の別が生まれてきます。日本各地に一定の範囲を支配する小さな国の王がいました。国どうしが争い、勝った国が敗れた国を吸収しながら少しずつ大きくなっていきます。
やがて国々の連合がつくられます。3世紀の日本には邪馬台国を中心とした30か国の連合がありました。その連合の王が女王卑弥呼です。
5世紀には、関東~九州を支配するヤマト政権があらわれます。のちの天皇となる大王が盟主ですが、大王も畿内の一定領域を支配する王で、各地を支配する王たちの連合政権のような性格です。
このころの一定地域を支配する人を「豪族」といいます。蘇我氏や物部氏などが有名ですね。
聖徳太子のころから日本も豪族の連合政権ではなく、中国のような絶対的な君主である皇帝が治める国になるべく動きます。聖徳太子の政策や遣隋使もそのための動きです。
聖徳太子は、冠位十二階や、十七条憲法で、当時の政権の中枢にいた豪族たちに、おまえらはもう豪族じゃないんだと諭しているわけです。
じゃぁ何?というと、土地やそこにいる人民を支配する豪族(一定領域を支配する王)ではなく、日本で王といっていいのは天皇だけで、ほかはみんな天皇に仕える役人だよというわけです。
それを強力に推し進めるのが「大化の改新」で、「公地公民」というのは、豪族の支配する土地も人民も認めない、全部「公=国」のものだというわけです。
じゃぁ豪族らはいままで支配地から得ていた収益は無くなるのか?というと、役人=国家公務員ですから国から、地位や職に応じて給料を支給されるわけです。
それらの役人のなかの高位高官らは各種特権を持ち、その地位を世襲していくようになります。それが「貴族」です。
平安時代ころにはそれらの中から、藤原氏が他氏を押さえながら台頭したり、皇族から分かれた一族などがあらたな貴族となります。
鎌倉時代以降の武家政権になると、政治や経済の特権を失いますが、伝統的・文化的な地位は保ち続けます。
明治となると、当時のヨーロッパの多くの国が持つ貴族制度をまねて、従来の貴族の系統の人の他、江戸時代の藩主などに侯爵や伯爵といった爵位を与え「華族」にしました。
第二次世界大戦後、現在の憲法ではそういった身分制度ははっきり否定されています。

武装しているものや、警備などの任を負う人が「武士」というわけではありません。
武装したり、武力を用いるとはいっても、律令という法が施行され、それが機能していたころは、国家によってそのような軍事的な役割を与えられた役人にすぎません。
平安時代も中ごろになり、律令も機能しなくなって以降、政治は乱れ、そういった正規の軍事・警察権を行使する機関も名前だけになってしまいます。
国司という役人や、貴族の荘園の管理人として地方へ下った中央の貴族の一部が、都に戻らず地方に勢力を張り、武装して、地方の人たちを従えます。
そして、機能しなくなった律令制の警察・軍事の役割に際してその能力を提供し、中央からも認められていきます。その代表が桓武平氏や清和源氏です。
このような軍事専門の貴族がもとになって「武士」ができていきます。

長くなったのでひとまずこれにて。
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この回答へのお礼

詳細で大変わかりやすい説明ありがとうございます。考えがまとまりました。

お礼日時:2016/11/18 22:42

「貴族」というのは、世界中に居ましたし、古今東西時代と国によって内容が異なりますが、いくつか共通する条件があります。


・土地の所有とその土地に住む人々から税金を徴収する権限をもっている
・戦争時に王族など国家指導者の求めに応じて、将兵や武器を供出する
です。

日本の場合、天皇が大和朝廷を構築していく過程で、朝廷に服した豪族は「貴族」になります。自分の領地を保障してもらう代わりに、朝廷軍に参加する義務を負い、軍備を捻出するために領民に税を課すことができたわけです。当時の豪族は自分たちの領地と領民を守るためにそれぞれ武装して、小さな領国をもっていたわけです。

それが一旦公地公民で崩れるわけですが、朝廷が豪族たちを京に集めた時に自分たちの持っていた土地を公田として差し出すわけですが、実際には神社などに寄進して荘園を残し、自分たちの土地を保持していました(神社の神主は当然身内です)しかし、それだけでは土地を奪われることもあるので管理する人々に武装させ、彼らがのちに武士になっていきます。

 公地公民は奈良時代には墾田永年私財法で実態が崩れていき、その時に武士たちは開墾して自分たちの土地を持ち、公家に負けないような力をつけて行ったというのが日本の歴史の特徴です。

武士たちは各地方で土地を持ち、武装して自分たちの土地を守ります。公家は中央に居て法律を作れますので、地方の武士たちは法律を変えられて、土地を失うこともあったわけです。

こういう中央政府(平安時代は京都)のやり方に不満を持った武士はまず中央政府に入りこみます。これが平家です。この時点で平家は「貴族」であったと言っていいでしょう。武家でありながら公家の特権を持ち、貴族化していたからです。

平家が滅んだあと、武士たちは幕府を作って自分たちの政府を持ちます。この時点で幕府を開いた源氏は王と同等、ただし軍事政権ですから執権という立場、鎌倉幕府に所属する武家は、執権から領地を保障され、その代り鎌倉幕府の要請によって戦争に参加し、その準備のために領民に税を課す権利をもっていたので、事実上「貴族」と言ってもいいわけです。

このように日本の階級構造は、天皇・公家という流れと、武士執権・その配下、と言う2重構造が江戸時代の終わりまで続いたため、公家を貴族とすると武士は貴族とは言えず、武士を貴族にすると公家の身分が定まらないので、ヨーロッパ史のような「貴族」は出てこないのです。

もっともヨーロッパの貴族も時代と国によって異なります。ヨーロッパの特徴は「そもそも王族は貴族の中から出てきている」ということと「その前の時代(ローマ時代など)の国家制度によって成り立ちが異なる」という点があります。

たとえば古代のローマは「貴族(パトリキ・元老院階級)」という階級自体はありましたが、国家運営は民主主義だったため、領地も領民ももっておらず徴収権もありませんでした。実際には貴族というのは難しいのですが、のちの貴族の重大な要素である「戦争のための準備をする特権階級」であったので、貴族とよびます。

なぜ「貴族」が戦争の準備をするか、というと、昔は学問も軍事訓練も簡単にはできなかったからです。まず、法律や軍事戦略などを勉強して一人前になるにはその家が豊かで子供の頃から労働する必要がない、という条件が必要でした。さらに、馬を飼って育ていつでも戦争に出せるように訓練し、騎馬隊の軍事訓練をするのも相当に費用が掛かったわけです。そして、戦争の時には訓練した軍隊を統率できるように若いころから戦争に士官として、参加するなど、費用も時間もかかったわけで、農民をしながらそういうことをすることはできなかった、ということです。

ですから、近代以前の「貴族」というのは、どの国でも学問ができて、戦争で指揮ができるように農民の子供とは違って、小さい時から訓練と勉強を一生懸命やって、君主の求めに応じて戦争に出る、その代りの特権階級、であったのです。
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この回答へのお礼

大変勉強になりました。ありがとうございます。

お礼日時:2016/11/18 22:43

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