アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

私は人よりも劣等感を感じやすい性格です。今も劣等感の波が襲ってきて、気持ちが塞ぎ込みがちです…。ただ、誰かに聞いて欲しいのですが、嫁とは不仲ですし、友人にも負のオーラを伝染させたく無いので言えません。気持ちを整理する意味で投稿しました。どなたか気軽に御意見頂ければ幸いです。劣等感の原因としては、①仕事でのトラブル ②趣味のバドミントンで誰にも勝てない の2つです。①については、仕事中新人との作業で、教育不足からトラブルを起こさせてしまいました。トラブル処理は行って再発防止計画も立てて後処理は進んでいますが、「教育不足だったな。俺はダメだな。」という自己暗示が頭から離れません。②については、①のことがある前から、社会人サークルでちっとも上手くなれず、誰にもゲームで勝てないことが気になってはいましたが、練習すれば道は拓けると思っていたところ、①の事と重なり「俺はスポーツもダメだな。やっぱりダメなやつだ。」という自己暗示がリピートされてます。思い起こせば、高校時代でも私は運動部だったのですが、補欠で後輩に抜かれてばかり…。運動で毎日体を動かしているんだから、帰宅部には〇〇は負けないだろう、というのがことごとくプレッシャーに変わり、例えば、スポーツテストの50メートル走で帰宅部に負けたり、嫌な過去がどんどん思い出されてしまいます。それなりに、最近働きながら勉強して資格を取ったなど、成功体験もあったりするのですが、こういう状態の時はマイナスのことばかり考えてしまいます。こういう時、どう考えれば気持ちが上向きになるでしょうか?

A 回答 (4件)

まずはメンタルの病気、過労や睡眠不足、放置している歯痛、其の他傷病に



よる体調の異変、気温と連動した気分の浮き沈みなどを疑い、

リスクが最も高い体の変調について医師の診断を受けることが先決です。

其の他、考え方が原因で繰り返される人生経験に類することに関して、

私の考えを述べます。



罪と罰と言う言葉があり、最近になってなるほどと納得することがあります。

苦しいという事は、罰を受けていると考えないといけません。

原因と成った罪があるわけで、これを解消するまで繰り返されます。

これらは例えですので漠然とした表現になっていますが、

実際面で合理的な理由があるので、それらを説明します。


罪と言う概念を紐解くと、以下の要素を含んでいます。

・残留して悪影響を残し続ける。
・自他に関わらず被害を受ける人がいる。

つまり自然回復しないので、誰かが原因を取り払い、治さないといけません。

罰と言うのは、特に罪を作った人が被害を受けている状態です。

例えば空気が淀みやすい部屋で、換気をせずに、埃が出る作業をすれば罪になります。

これが原因で自分が咳き込めば罰を受けています。

さらに、埃が有害であり体内に残留すれば、多少の罰が続きます。

この様に罰の量と言うのは、自然に生じる被害に相当しています。


例えば、常に思いやりを忘れずに行動しており、多くの人から尊重されていても、

自分の言動が誤解され、誰かが傷つけば罪を作ったことに成ります。

相手の人と気まずくなったりするという罰を受けます。

しかし、相手の方が気にしなかったり、逆の誤解をして喜んだりした場合は、

同じ行為をしていても罰がありません。


先のことがどう転ぶかは分りませんから、以下の対応に分ける事が大事です。

・確実に、自他に被害が生じ、苦しみが残留するもの
・どう転ぶかわからないもの

前者を特定し、一般に言う罪とし、法により償いをするようにすれば、

気がつかずに罪を重ねることを防げますし、残留する苦しみを早く解消できます。

更に、罪を作った人が償うようにすれば、効率が良くなります。

私たちはこうしたものを法とし、罪として定義しています。

しかし、実際は私が述べたような経緯が先であり、

苦しみが残留するものを知り、解消を求め、更に防止を誘うのが本意であるのでしょう。


ルールに定められたものだけを対象としてしまうと、

普段から感度が鈍くなり、

苦しみが残留するような行為が沢山あることに気がつきません。

これらはケースによって変わるため法で裁けないというだけであり、

現実の中で罪として成立した場合は、苦しみが継続してしまいます。

しかし、苦しんでいる当事者が無自覚であったり、

償うという意識がありませんと、

「運が悪い。」
「向いてない。」
「不条理である。」
「と言う性格が災いをして・・。」

と環境が原因であり、自然に治る可能性を示唆し、

積極的に原因を取り払らわず、別の事が原因の様な表現をしてしまいます。

しかし、

苦しみの原因が放射能の様に残留しているのですから、

自然解消を期待しても、

被害を受け続けるだけと成ります。

恐らく何十年も掛かって、やっと事態に困窮し、消耗し続けて意欲が減退し、

愚痴をこぼす様になるのでしょう。


例えば、

人間関係においても、何が原因であるのか分れば、すぐに解消ができます。

この場合は、罪が軽い(すぐに解消できたので)と考えられます。

しかし、習慣が原因ですと原因が分りませんし、繰り返されますから、

想像以上に長く苦しみが続きます。

結果論ですが、こうしたものは罪が重い(苦しみが長いため)と捉えられます。


うちの家族の一人なのですが、

メンタルを失調して退職し、いまも困窮しているものがいます。

この人は、親しい間柄になると、相手を罵倒します。

それも嬉しそうにです。

どうも、親しい間柄では愛情表現の一つであると思っていたようです。

大きな勘違いですよね。

これが習慣となっており、本人は相当年配に成るまで無自覚でした。

そのため、職場で自分が認められたり、恋人が出来たりしますと、

必ず周囲からのけ者にされたり、失恋したりします。

友人が全て去っていきます。

最後は、力尽きるようでした。


誰かを罵倒することがどれほど関係を可笑しくするのか、

その罪の重さが感覚的にわからないのが原因です。


さてこの様に個々人がもつ、

「自分だけが感覚的にわからない。」

と言うものが沢山あります。種類も豊富です。

しかし、要因に対しては必ず同じ結果が出ますし、再現が出来ます。

同じ感覚欠如を持つ人は必ず同じ結果になり、同じ感想を言います。

ですので、何かで苦しみが続く場合は、

罪があり、それに対しての感覚欠如があると考え、

感覚的にわからずとも、意識的に防止をすることで解消する事が出来ます。

実は私にもあります。

苦しんでいるときは、「あれが原因だ」「これが原因だ」とせずに、

「自分の場合は、これが原因だ。」

としています。

すると、確かにあります。

「ええ、でも、これくらい誰でもあるよねえ?」

という感じは強くしますが、実際はそうではないのでしょう。

先ほどの家族の一人は、

「これくらい誰でもあるし、その代わり、こんな良いこともしている。」

と泣きながら主張していました。

私としては、「誰もやらんよ。」と驚いているばかりでした。


冒頭では罪と罰の話をしましたが、

主観ではわからないため、

苦しんでいる場合は、罪があると考えて、

原因を探ることが大事だと言いたかったのです。


劣等感に悩む人はやはり同じ罪を犯しています。

必ず最初は他人や物事を侮ります。

人の序列で難易度を測り、人の潜在的な力や努力、

状況や条件などを考慮に入れません。


状況が悪いときは闇雲にネガティブな結果を想像し、

状況が普通のときは、他人の成果と同じものが出せると期待します。

ここには他人が戦略と作戦、計画と努力をしていると言う考えがありません。

自分の苦労や苦しみ、自分が感じた難易度により、他人も同じ苦労をすると思い込みます。

更に、周囲の人が笑っていると、自分も大丈夫な気がしたり、

周囲の人が優れていると、自分もいつの間にか能力が乗り移ると錯覚します。

他の人の強気な発言を受けて、自分もその気になります。

弱気なときは、「自分だけが上手く行かないかもしれない。」と考えることで、

何かの罰を逃れられると思い込みます。

才能と言う言葉がとても好きです。

苦しみを伴う努力が必要とわかると、「普通すぎる。」と感じて馬鹿にします。

または無駄に感じます。

自分が出来るかどうか担保を取る必要があるとき、

他人が出来そうにないと、自分は出来る気がします。

自分が出来るかどうか担保を取る必要がある時、

他人が出来ると成ると、

自分も大丈夫な気がしたり、自分はダメな気がしたりします。

担保を取る事はしません。

何度も繰り返して実験することをとても嫌がります。


周囲を観察しないといけないときに、自分のことばかりを気にしており、

自分を気にしないといけないときに、周囲の状況で判断が変わります。

この、

「自他のどちらに注意すべきか?」

と言う判断が必要なとき、必ず逆に成る習慣があるのです。


他の人は全く逆である、という事を知らないんですね。

これが気付きづらい原因は、上手く行くときもあるからです。

たとえ、判断材料が見当違いであっても、

状況が成功するものであれば、成功します。

上手く行った原因は全く違うのですが、成功体験として捉えてしまい、

全く関係のないものを要因として、その判断方法を長く重用します。

そして、ここぞという時にはそれを頼り、見事に失敗をするわけです。

期待をして、がっかりしますから、余計にショックを受けます。


私はこれをガッカリ霊に取り付かれていると表現しています。


劣等感に悩む人は、他人が凄いか凄くないか? 

ばかりを判断材料にしています。

外見が温和であったり、目立たない人を見ると、普通の人として侮ります。

その人が出来ることは、難しいことではないと考えます。

「きっと、地味な努力をすれば俺も出来るんだろうな。

 ただ、そんなものにカマケテも誰かの尊敬は得られないんだけどね。」

文章にすると、かなり笑えますよね。

その人の実力は外見の地味さと関係ありません。



この癖がありますと、難易度について勘違いばかりします。

このように、劣等感が強いのは、失敗を重ねた苦しみから生じたのであり、

原因と結果が逆になっています。(ここも逆ということ)


簡単に言えば、凄い奴に負けたのに、相手を普通と決める頑固さがあると、

ショックも大きいので、その後萎縮するというわけです。


自分が出会う相手がタマタマ凄い奴かも知れません。

私はこれにとても用心しています。

侮れば大敗しますし、面子もなくなります。

意地になれば苦しみが続きます。

また、用心して相手を研究していないと、いいところを見せられず、

相手の記憶にすら残りません。

しかし、何故かまったく用心しない人がいます。


私の知る劣等感の強い人にあった癖でした。

思い当たりませんか?

以上、ご参考になれば。
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おじさんです。



「劣等感の原因としては、①仕事でのトラブル ②趣味のバドミントンで誰にも勝てない の2つです」
⇒そうなのですね。

でも
①仕事でのトラブルなど誰にでもあるのですよ。
ミス、トラブルが一番少ない人が社長になるわけではありませんからね。
配下のトラブルが上司の責任であれば、管理職、役員は全て降格になってしまいます。
そのくらい毎日がトラブルだらけだからです。

②趣味のバドミントンで誰にも勝てない 、は当たり前です。
趣味だろうが、スポーツだろうが、勝った負けたなどどうでもいいことです。

hanzohさんは完ぺき主義なようですね。
そのような考えでは一生が屈辱だらけになりますよ。

もっと、気楽に考えましょう。
勝つことが人生の目的ではありませんからね。
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2はもう辞めて、違う趣味に走ったらどうですか?競争系じゃなくて、ツーリングとかキャンプとか!1は、自分の足りなかった部分を反省したらすぐ忘れられたら良いのにね!難しいでしょうか‥?まぁ、今回の事で、またひとつ学んだ!経験値が増えてレベルアップしたって思うのが良いと思います。

実際そうやし!
やっぱり、心屋さん??とかプロにカウンセリングしてもらわないと性格ってなかなか変わらないと思います。私も、自分を変えたくて、自己啓発の本とか読むけど変わらないです。
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まずは自分に合った趣味を見つけ、達成出来そうな目標を見つけることです。

多少、物事に、強欲に強かになりましょう。そんぐらいしないと、幸せは掴めません。マイナス思考は楽ですが辛い事の方が多いでしょう。あんたいい歳してんだからしっかりしろおっさん。少なくとも私よりは年上だろうに。
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