人は死ぬと体の全身の力が抜けて、脱糞しますよね。さらに顔の筋肉もゆるむので口角も下がります。

三島由紀夫さんは割腹した後首をはねてもらい自殺されましたよね。生首の画像があるので、勇気のある方は画像検索してもらってもいいですか?三島由紀夫さんの生首の顔は笑っているんです。左顔の口角が上がっています。

右脳に感情をつかさどる機能があるので左顔に感情はでます。右顔は確かに死人の顔なのですが、左顔が安らかに笑っているんです。右の顔を隠してみてもらえますか?そしてその感想を文学的に説明お願いします。

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A 回答 (1件)

氏は常々次のような発言をしていました。



「文芸などが何となく卑しいのは、それは本当に
 命を賭けていないからだ」

俺は命を賭けたぞ。

どうだあ、俺は本物だ。

そういう満足感に包まれて、自決出来たからでは
ないですか。


三島由紀夫氏は武士に憧れていたのでしょう。

そのため武道などをやっていました。

剣道はともかく、空手はお粗末極まりなかったですね。

あれでイメージが崩れましたわ。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます

画像の方は見られましたか人が死ぬときは脱糞するほど筋肉がゆるむのに満足して自決すれば笑顔のまま死ねるのでしょうかねぇ

お礼日時:2017/03/17 14:27

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Q三島由紀夫の割腹自殺の理由は?

彼が自衛隊に乗り込んで演説をして、そのあと割腹して自殺をした、
ということは知っているのですが、(学校でちょっと習った)
彼は、何故そういう行動にでたのでしょうか。
なぜ、自殺しなければならなかったのか。割腹することにどんな意味がかくされているのか。とかその理由が知りたいです。
右翼・左翼者だったのでしょうか。

そして、その行動を当時の人はどう捉えていたのか。
(例えばあきれていた、とか、尊敬した、とか。)

三島の割腹で世間にどんな影響をあたえたのか、

など、ふと気になって、三島について学校の先生に聞いたら、思いっきりひいて変人扱いされてしまいました・・。(で、聞きそびれてしまって。)
知っていたら、教えて欲しいです。

Aベストアンサー

 
  あまり三島については、詳しくないのですが、わたしの知っているというか、考えられることを述べます。
 
  >彼は、何故そういう行動にでたのでしょうか。
 
  三島由紀夫という人は、非常にナルシシズムの強い人でした。また、自己の性的同一性に不安感を抱いていました。非常に明晰な思考力があり、優れた感性の持ち主でしたが、論理的に思考すると言う点では、問題がありました。あるいは、もしかすれば、三島は敢えて、論理的に考えることを避けたのかも知れませんが、やはり、美的感性判断が優先していたのでしょう。
 
  三島は女性が優越する家庭で育ち、男らしさにコンプレックス(複合感情)を抱いていました。また自己の肉体が貧弱で、男らしくないとも感じていました。彼は優等生で秀才で、上級職公務員になりますが、学習院時代から小説を書くことを得意とし、東大に進学してからも、やはり小説を書いていました。彼の小説は、一種の人工の美の小説で、彼のコンプレックスの補償の一面があります。
 
  三島は、自己の美的志向と、自己の男性性の確認のため、「男性の美学」というものに憧れ、「おとこ」たる者、生まれ来てなすべきことは、最善には何かという問いで、それは国家のために自己の命を犠牲にすることだと考えました。国家あるいは、祖国、日本の伝統に殉じることこそ、男の本懐だと考えました。そのようにして国に殉じることで、自己の「男性性」がまっとうされると考えました。
 
  男性の優位性を法的にも承認したのは、明治天皇制国体でした。また、伝統の武士のエートスは、男性の「いさおし」を讃美するものとして、三島は、武士の理想の姿を自己に重ねようとしました。こうして、彼は、古い武士のいさおしの理想を語ると共に、国に殉じることこそ、男子の本懐で、その場合の「国、祖国」とは、彼の美意識からして、大衆が跋扈する近代・現代社会ではなく、身分制があり、優れた者が人々を指導する貴族制社会、モデルとすれば、明治の天皇制国体だと考えました。また「日本の古来よりの伝統」は、天皇制にあるとも考えました。
 
  これが、三島が「右翼思想家」と見做される理由ですが、三島は、理論的右翼というより、美的右翼ともいうべきで、西欧の美術や文学でも、男のいさおしを称え、生死の美学を語るものは、これを評価しました。例えば、古典ギリシアなどです。
 
  三島はまた、「老醜」というものを嫌いました。若い絶頂の美のなかで、国に殉じて死んで行くのが望ましく、美しく、べんべんとして年を取り、老醜の姿、人生を晒したくないとも願っていました。「神々に愛された者は若く死ぬ」ということは、三島には、理想でもあったのです。
 
  三島は非常に几帳面で、例えば、割腹自殺の前にも、依頼された原稿の最終原稿を、時間通りに仕上げ、これを、編集者に渡しています。
 
  三島は、自分の人生を自分で、美的に演出したかったのです。思想的に見れば、また価値があるかも知れませんが、三島自身にとって、右翼とか天皇制は、自分の美学を支えるための要素で、いさぎよく、美しい「死の機会と意味を与えてくれる」装置であったと言えます。三島は自分の手で、自分の意志で、自己の人生を美的に完成したかったのです。また、その死が、日本の伝統のなかで、意味を持つようにしたかったのでしょう。こういう訳で、色々複雑な動機があり、しかし、やはり、自己の死を自分で選び、夭折し、美的な人生を実現したかったというのが基本的な動機だと思います。
 
  >そして、その行動を当時の人はどう捉えていたのか。
 
  次の質問の答えと重なりますが、三島の思想や著書をよく冷静に読んでいた人や、世間一般の人は、驚くと共に、自己の美学に陶酔して、ぎりぎりの決断で死んだのだと捉えたでしょう。非常識あるいはアナクロニズムで驚いた人、理解できないと感じた人もいましたし、外国では、日本人はいまでも「ハラキリ」するのか、と驚いたとも言われています。
 
  他方、右翼の運動者たちには、三島の(美学的)国粋主義や憂国の考えに共鳴して、高く評価した人もいましたし、三島は時代が必要とする行為を、命を投げ出して、身をもって示した英雄だという捉え方もあったでしょうし、三島の自決を、うまく利用しようとする、右翼や国粋主義者もいたでしょう。
 
   >三島の割腹で世間にどんな影響をあたえたのか
 
  以上に述べた通りで、世間は驚いたのですが、三島の思想が大衆に浸透することはありえませんでした。三島は、自己の美学に殉じたので、アナクロニズムなところのある、一つの国粋の理想に殉じようとする者の見本とも取られましたが、広く共感を社会には得ることができず、大きな影響とはならなかったでしょう。(右翼思想の象徴としての役割は果たしましたが、いまは、その影響も小さくなったことでしょう)。
 

 
  あまり三島については、詳しくないのですが、わたしの知っているというか、考えられることを述べます。
 
  >彼は、何故そういう行動にでたのでしょうか。
 
  三島由紀夫という人は、非常にナルシシズムの強い人でした。また、自己の性的同一性に不安感を抱いていました。非常に明晰な思考力があり、優れた感性の持ち主でしたが、論理的に思考すると言う点では、問題がありました。あるいは、もしかすれば、三島は敢えて、論理的に考えることを避けたのかも知れませんが、やはり、美的感性判...続きを読む

Q三島由紀夫

三島と東大生の討論会の内容がわかるものがあれば教えてください。

Aベストアンサー

今見ましたが、YOU TUBEに、
下記のタイトルで三島氏、東大生の東大での演説の模様が動画であります。
このサイトの規定でURLは貼れません。

<タイトル>
三島vs東大全共闘

Q三島由紀夫の「憂国」の主人公の兵科について

 三島由紀夫の「憂国」の主人公の武山信二中尉の兵科は、最近の文庫本を見ると「歩兵」となっていますが、古い本(昭和30年代)をみると「輜重兵」です。これは作者自身が改訂したものなのでしょうか?
 226事件に歩兵中尉が参加できずに自決するのと、輜重兵中尉が自決するのとでは、けっこう重みや意味が違うと思うのです。といいますのは、「輜重・輸卒が兵隊ならばちょうちょ・とんぼも鳥のうち」と歌われたように輜重兵には劣等感があったはずだからです。

Aベストアンサー

図書館にいるときにこの質問を思い出したので、本を探してみました。
『三島由紀夫の世界』(村松剛 新潮社)にこの部分に触れたものがありました。
#1の方の回答と重なる部分(村松の論評には典拠が示してありませんが、おそらくは#1さんがあげられた三島の随筆によるものと思われます)が多いのですが、こちらも合わせてお読みください。


「『憂國』の主人公は「小説中央公論」に出た初稿では、近衛輜重兵大隊勤務となっていた。ことさらに輜重兵としたのは、三島自身の注釈によると、「武山中尉の劇的境遇を、多少憐れな、冷飯を喰らはされてゐる地位に置きたいため」だった」(同書p.310)

>「輜重・輸卒が兵隊ならばちょうちょ・とんぼも鳥のうち」と歌われたように輜重兵には劣等感があったはずだからです。
という質問者さんのご指摘は、まさに三島が設定した主人公の境遇そのままであったわけです。

私自身は、ここらへんの位階関係はいまひとつよくわからないのですが、村松はこう続けます。

「しかしろくに武器をもたない輜重兵が、もしも「決起」の先頭に立ったとしたらおかしなもので、盟友の討伐も直接にはできない。
 また彼は初稿では遺書として、
「皇軍萬歳 陸軍中尉武山信二」
 墨痕鮮やかに、半紙に書き残している。…(略)…正式な名乗りは陸軍中尉ではなく、陸軍輜重兵中尉である。
 これらの点について三島はのちに末松太平(元陸軍歩兵大尉)から忠告を受け、昭和四十一年以降の版では「近衛輜重兵大隊勤務」を「近衛歩兵一聯隊勤務」に、遺書の「陸軍中尉」を「陸軍歩兵中尉」に、それぞれ訂正した。帰宅した夫を玄関に迎えに出た妻が、「軍刀と革帯を」うけとって袖に抱く場面も、単に「軍刀を抱いて」に変る。革帯まではずして妻にわたしたのでは、軍袴がずり落ちてしまう」(p.310-311)

以上のことから、質問者さんがご覧になった文庫版では訂正後の原稿を底本としていたことがわかります。

本書では、この部分は、深沢七郎の『風流夢譚』と『憂國』の関係、とくに、三島が深沢の作品に触発されて、この作品を執筆したのではないか、という論考の流れででてきます。
普段、執筆前に入念な調査を行う三島が、このような「ミス」を犯したのは、『憂國』に限り、二・二六事件当時の軍人の生活をあまり調査することなく「一気呵成に」執筆したためではないか、それは深沢七郎の『風流夢譚』に刺激されたことの証左ではないか、という推測がなされています。

興味がおありでしたら、こちらもぜひご一読を。

図書館にいるときにこの質問を思い出したので、本を探してみました。
『三島由紀夫の世界』(村松剛 新潮社)にこの部分に触れたものがありました。
#1の方の回答と重なる部分(村松の論評には典拠が示してありませんが、おそらくは#1さんがあげられた三島の随筆によるものと思われます)が多いのですが、こちらも合わせてお読みください。


「『憂國』の主人公は「小説中央公論」に出た初稿では、近衛輜重兵大隊勤務となっていた。ことさらに輜重兵としたのは、三島自身の注釈によると、「武山中尉の劇的...続きを読む

Q三島由紀夫作品を深く理解するための解説書は・・・

三島の『金閣寺』『潮騒』などを読み、特にその文体に深く感動しました。
ですが作品に固有のテーマについては表面的な理解にとどまっています。
そこで、三島の様々な作品をさらに深く楽しめるようになるための解説書やホームページを紹介してもらえないでしょうか。

基本的には個々の作品についての解説書の紹介を希望します。
(作者本人や全体的思想に関する好著の紹介もありがたいです。)

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

個々の作品解説は文庫の解説読むのが一番手っ取り早いと思いますが。
それ以上を知りたいなら
http://base1.nijl.ac.jp/~ronbun/
にアクセスして検索画面をクリック→キーワードに作品名を入れると国文学系の論文がヒットします。

基本的なところで「三島由紀夫事典」が勉誠出版から出ているので参考になるでしょう。
また講談社から「三島由紀夫文学論集」が出版されています。

三島由紀夫を「深く」「楽しむ」のは無謀ではないかと思うのですが…。
個人的にはひじょうに表面的な作業しかできない作家だと思っています。たしかに文体(だけ)はうつくしいので、個人的なおすすめは「十代書簡集」なのですが。(これを読むと「十代でこの文章…」とちょっと凹みます)

Q三島由紀夫の肉声

三島由紀夫の肉声が聞けるカセットテープで、タイトルが「学習院時代の~」とついたものがあったと思うのですが、この正式なタイトルとどこから出ているのか分かる方がいましたら、教えてください。紙にメモっておいたんですがどこかへ行ってしまいました。

また、上記以外の肉声が聞けるもので発売されているものがありましたら、教えてください。
新潮社から出ている「学生との対話」「最後の言葉」は持っていますので、それ以外でありましたらお願いします。

Aベストアンサー

>「学習院時代の~」とついたもの? については、
『学習院時代の秘密』悠飛社(カセットテープ)、平成8年・徳大寺公英との対談。

三島由紀夫の肉声一覧のURLがありました。(工事中HP)
http://www3.tky.3web.ne.jp/~taqueshi/nikusei.html

参考URL:http://www3.tky.3web.ne.jp/~taqueshi/nikusei.html


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