少し前から気になっていたのですが、日本文化を称賛する論調が多すぎると思います。
外国人タレントが文句を言ったりしています。
日本人である私も、食傷気味。

これって、どういう現象なのでしょうか?

「過剰な自画自賛?」の質問画像

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A 回答 (28件中1~10件)

昭和6年(1931年)から昭和20年(1945年)にかけてと同じ現象。

歴史は繰り返す。
http://www.seikyusha.co.jp/wp/books/isbn978-4-78 …

日本人の気質は奥ゆかしい(はたして本当にそうかはともかく)のに、自画自賛を大声で主張する行為は相容れなくて、行き過ぎると気持ち悪く感じます。


No.2さんの「自信喪失の裏返し」は成る程なと思いました。世界第2位の経済大国との自負も、2010年あたりに国内総生産(GDP)が中国に抜かれて世界3位になってしまいましたからね。日本メーカーの製品の多くも今では海外の工場で作ってますし、中国メーカーの製品も物によってはですがかつての安かろう悪かろうを脱してますし、日本の有名家電メーカーなどが中国や台湾の会社に買収されたりしてますからね。

日本に良い所が色々あるのはテレビで何度も繰り返し言われなくても分かってるし、他国の良い所を賞賛したり、見習ったりする姿勢が低下していかないか心配です。

ドイツの脱・原発の選択に日本も続こうというような風潮も少し前は多少あったのになぁ……
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この回答へのお礼

「歴史は繰り返す」という言葉はなんと悲しいひびきをもっているのでしょうか。
「同じ轍を踏む」と、人間はどんどん生命力が無くなっていくものだと思います。
これは、経験上そう思っています。

なるほど、同じ発想での国策ですか。生命力が無くなると、創造力が無くなって
パクリばかりするようになる、現代人ですね。

GDPで中国に抜かれたことは多くの日本人にとってショックだったのでしょう。
途端に中国の悪口ばかり言うようになりました。
経済の成長率についてはこの20年でゼロに近いというのは、先進国の中で日本だ
けだということです。
一方、アジア諸国は成長しています。タイ・ミャンマー・インドネシアあたりに
抜かれたら、日本人のプライドはどうなるのでしょうかね?

お礼日時:2017/03/29 03:33

豊かな国に生まれた事で、貧しい国の人々を馬鹿にするようならそれは慢心でしょうね。

日本人って、そんな態度が主流だったでしょうか?
むしろ、豊かな国に生まれた事をありがたく思ってる人々が主流だと思っていましたが、しかし、あなたの言うことにも一理あると思います。
弱者に対する思いやりのようなものが、減って来ている気はするからです。ニートやフリーター、派遣社員ともなれば負け組と罵られはしても手を差し伸べられることは少ない。高齢者になればお荷物扱いはされど人として大事にされることも少ない。
これでは豊かな国に生まれても、しあわせを実感することは難しいですね。
立場ある人間が自分のことしか考えなくなれば、社会の体は崩れてしまいます。代謝によって更新されるまでは、皆が歪な社会で生きる事を強いられるでしょう。そんな不満のガス抜きとして、日本文化も使われてしまっているのかもしれません。そうだとしたら、許せないですねー。
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この回答へのお礼

組織の中で役職が上がって急に気取りだした人、また、役職が上がらず、卑屈になって
愚痴を言う人、この二種の人をどれだけ見たことか(笑)。

これは、日本人のとても悪いところだと思う。

現代は、人間があまり大事に考えられない時代だと思います。だから、卑屈な人がとても
多いのだと思う。
卑屈な心は、人を褒められない、思いやりがない、イジメて差別する。

現代日本社会の分析は私にとって、まだ道半ばです。

お礼日時:2017/03/30 00:13

ただのクールジャパンの所為ではないように思えますね。


欧米初のグローバリズムに流されてアイデンティティが薄れた事に対する反作用、ってのも浅い考察のような気がします。
ほんとの日本文化を知る日本人ってそもそもどれだけいるのよって気もしますが、受け継がれた気性のようなものは遺伝子レベルで刻まれてもいそうで、口にしなくても外国に出れば日本人だとバレてしまう。外見以外のところで。

まぁ、一言で言えば自信喪失の現れってとこなんでしょうけど、考えればかなり深いとこまで掘り進めれそうな題ですね。

自分は、お国柄なんてどうでもいいよと若い頃は思っていましたが、歳を重ねるに従い自分が日本人的であることを意識することも増えました。でも、根っこの根っこでは、やっぱりお国柄よりも人間性とか、生き方が大事で、日本人である事ってのはその次の次くらいなんですよね。日本人である事は自分の小さくない部分を形成していますが、それはなんていうか、生まれですから。生まれてからが勝負な訳で、幸運にも現代日本に生まれたけれど、その事実におんぶに抱っこじゃまともな人間にはならないと思ってます。
日本人に生まれただけで、優れた日本の誇りを享受出来る、それはそうなんだけど、それって人間としては矮小な精神だよねって思ったりもするんで。

人間に生まれたというだけで、持ち前の人間性を誇るようじゃ、ある種滑稽なように、生まれを誇る自画自賛も度がすぎると滑稽ですね。名家に生まれてそれを鼻にかけるなら、嫌な奴になると相場は決まっています。日本に生まれても、それを自慢しない方が出来てる人の様な気がしますね。

自信ってなんだろうって話でもあるかな。
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この回答へのお礼

「自信喪失」というより「慢心喪失」といったほうがいいのかも知れません。

慢心なんか喪失したほうがいいのですが、当人にとってみればパニックになる
ことでしょう。
50代くらいの世代の男性。彼らの中のエリート層は30年ほど前には実に「偉そう」
にしていました、今の若者に劣らず。
それが、社会的立場が上がっても、威張れなくなったどころか、女性や若者に
馬鹿にされてきている。それで、腹を立てたりパニックになったり、やる気を
失ったりしている状態というのが、社会の上層部の内実だろうと思う。

ただでさえ保守的になる年代ですから、より保守的になり「自分の手柄になるよう
な仕事しかしない」からこんな社会になっちゃったのではないだろうか?

豊かになった日本に生まれたのは、自信でも誇りでもなく、慢心であったといって
も過言ではないと思う。
そして、困ったことにこの「慢心」が壮年から女性と若者に移ってしまったという
か吸い取られてしまったと思う。

お礼日時:2017/03/29 04:10

性欲の固まりの猿❗

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いつの間にか 《絶対性理論》のほうが締め切りになりました。



では 時と場をあらためまして。
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この回答へのお礼

では、また。

お礼日時:2017/03/26 23:31

★ (№21お礼欄) 経験=無明、非経験=明知 ということで


よろしいのでしょうか?
☆ この一点についてのみ くどい発言をつづけます。

《明知》は 《非経験の場を受け容れたわが非思考の庭》におい
て 時として得られるヒラメキもしくは良心 これらからみちび
かれる知恵だと思います。



ブッダターのはたらき自体を 明知が言うのだとしたら そうな
のかも分かりません。そういう見解もあるかも分かりません。



あと 無明を《苦 ドゥッカ》のみとして捉えるのは あまりに
も片寄りすぎているというのが わたしの独断です。

あるいは・つまり 苦なる無明を乗り越えるチカラとしてのブッ
ダターがすでに 生まれつきそなわっていると言わなきゃウソだ
と思います。

(ゴータマ・ブッダは その点あいまいだったと言いたいのです)。


長々と このお話につきあっていただきありがとうございました。
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この回答へのお礼

先のご質問になかなか回答できないうちに締め切りになってしまった
ものですから。

では、このお話はまたの機会ということで。

お礼日時:2017/03/26 21:18

> 教育だけでなくあらゆる社会の根幹にかかわる部分には幾重にも堀がめぐらされています



ちょうど、texas-no-kumagusuさん(猪突さん)のブログが更新されたので読みましたが、この点について参考になることが書いてありましたよ。
出されない情報、書かれない文言のほうが重要であるということ、これはわたしたちがよく知っている事柄であるにもかかわらず、大衆向けの情報の次元になると、そうした注視はほとんど困難になりますね。マスコミが躍起になって流してくる声や文字があるとき、その裏焼きはどんな写像になっているのやら。

日本はいろんな矩や道や和のなかで守ってきたものを捨ててしまった国ですから、そして、捨てたことを知らない人がいっぱい育ちましたから、今になって薄っぺらい自尊心を謳うなんて気持ち悪い、というわけでこの質問なんでしょうね。
ものづくりとか、個々人とか、伝統とか、集団的性格とか、そんなふうに取材可能なものばかり謳いあげることになるでしょうけれど、損なわれた美徳に目を瞑りながら、というのが本質をごまかしているようで落ち着かない。
日本の今日は、人間が〈核家族〉で育って〈個別指導案〉と〈個性教育〉に踊らされ困惑しているサラリーマン教師だらけの小中学校に通って、ジェットコースターのように進学して就職していく社会なんですから、難しいですよ。個人というのは18世紀にヨーロッパで発明された概念に過ぎません。それより遥かに古く、社会の単位は家族だということは、ヨーロッパでも日本でも十分に吟味研究されてきましたし、日本はその結論を覆したこともないのです。〈個人〉を喜んで取り入れてはきましたけれど。(もっと切り込んだことを言えば、キリスト教社会だからこその個人だという地平が、すっぽり抜けるんですね。)
あいにく、家族の単位を維持しやすい体制はどんどん壊れてしまいましたね。これからも壊れていくのでしょうね。支え合う、困ったときはお互い様、お陰様、なんてことが、個人単位で持続して出来るわけがないでしょう。

教育現場だけ厳しくしようという揺り戻しもあります。でも、陸軍幼年学校で全人教育を厳しく躾けられたような人間の背景には、家族や地域の枷や絆があったということを忘れているんでしょうかね。家族と地域を取り戻さない限り、日本の美点は形骸化すると思います。
理念や教育でなく生身で穏やかに培う規律が、今は手に入れにくい。けれど何とかしようという動きもまた取りにくいように見えます。個を否定する動きと右傾化の動きにいくぶん重なりますから。かんたん便利でスマートな個の時代、を突き詰めれば、国家なんて何のためにあるのということになりますよね。投資家を儲けさせるためにあるんでしょうね。すでに。
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この回答へのお礼

cyototuさんのブログはごくたまにですが読んでいます。
大変に見識の高い方であると認識していますが、これは絶対に賛同できないぞ
ということが、かなりある気がしています何故か(笑)。

出されない情報、書かれない文言のほうが重要であるということ、また、それ
を見抜くことは極めて難しいことであることは仰る通りです。
大衆のレベルでは、大衆が高い確たる見識を持つことが必要であるという結論
はもはや自明のことであると言っていいと思いますが、その方法論の考察と具
体的行動の段階へ入ってゆかねばならないと思っています。嘘や自己満足でな
くて。

まあ、こんなことをヌケヌケと言ってしまう変わった人間ではありますが、世
の中変わった人間はいるもので、「昆虫食」を研究している学生とか(需要さえ
あれば商品化できる状態であるそうです)、教育改革を本気で考えている現役の
プロサッカー選手とか。。。
日本の青年ですね。彼らの特徴は「話が早い」ということと感じています。つま
り長々と演説をぶたないでサラッと結論を言ってしまうことです。頼もしく感じ
ます。

個人という概念は18世紀にヨーロッパで発見されたもの、キリスト教社会では個
人とだという地平がすっぽり抜ける、などという理解は私にありませんでした。
日本人から見ると欧米人は大人に見えてしまいますが、人類はまだまだ未熟なん
ですね。

お礼日時:2017/03/26 21:05

お礼をありがとうございます。



★ (№20お礼欄) ~~~~~~
「ミラーニューロン現象」というのは、他者の行為を観察者の脳に
映し出しているかのように、その部位のニューロンが活動するとい
うことが発見された、ということに過ぎないという風に理解してい
ます。
勿論、私は素人で全然詳しくはないのですが。

これを人間同士の思想とか文化とか複雑な心などが伝播していく現
象の原理とすることは、仮説とはいえかなり無理があるのではない
かと思います。
~~~~~~~~~~
☆ 厳密さを要求されれば 跡形もなく吹っ飛ぶ仮説の用い方であ
ったかもしれません。

要は 《相手に合わせる》ということです。

★ ~~~~~~~~
自未得度先度也、無住処涅槃、ともに大乗仏教が説く深い哲学であ
ると理解しています。
これに対し、聖書の教えは、同じ立場、同じ目線に立てば心が通じ
る「はずである」という考え方であるのだと思います。

大乗仏教のこの二つの概念は、「仮に」自分が悟りが得られなくて
住むところがないとしても、衆生を救ってゆくべきだという、もっ
と言えばその精神性がなければ、救ってゆくことなどできないとい
うことであると理解しています。
~~~~~~~~~~
☆ われながらですが わたしの仮説のキモは:

 《経験(相対・有限・無常) ‐ 非経験(絶対・無限・常住)》
  なる構造を 一人の人間が生まれつきの自然本性において持つ

です。早い話が だれもが:

 人間は 《無明 ‐ 明知》なる構造から成る自然本性として
 生まれて来る

という想定した存在のあり方です。娑婆即浄土だとか言います。



★ ~~~~~~~~~
あなたの「神論」のキモは、人間は常に「神」に包まれ交流をして
いるのだから、自然に生きていれば幸せであるのに、宗教や悪い政
治、偏頗な思想などが邪魔をしているのだ、と。こういうことでよ
ろしいのでしょうか?
~~~~~~~~
☆ 《宗教や悪い政治、偏頗な思想などが邪魔をしている》と見た
とき それらをもわが自然本性は 一たん飲み込み おのが精神の
胃袋において消化して行くのだと言おうとしています。

それが 《すべての人に対してすべてとなりました》だと捉えます。

無住処涅槃などの説は いくらか理屈を交えていると言いますか
理論的に問い求めようとする姿勢をも持っていると思います。

すくいは 理論を超えているが 理論によっても説明するというこ
とだと思います。
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この回答へのお礼

経験ー非経験の構造

イコール

無明ー明知の構造をもって人は生まれてくる、と。

経験=無明、非経験=明知 ということでよろしいのでしょうか?

また、無明とは仏教的な「迷い」ということ、明知とは仏教的な「法性」「悟り」という
意味でよろしいのでしょうか?

お礼日時:2017/03/26 20:00

★ (№18お礼欄) ~~~~~~~~


仰るところの日本人の「ミラーニューロン現象」あるいは「猿まね現象」と
いう点について私は次のように思います。

〔* 中略します。〕

つまり、「猿まね現象」であるということです。ただし、そのこと自体はそ
んなに悪いことでもないでしょう。
~~~~~~~~~~~
☆ 両方の要素・要因があるとは思いたいのですが。

▲ 自未得度先度他

▲ 無住処涅槃

▲ 【Q:すべての人に対してすべてのものになりました》とは】 ~~~~
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/8811185.html

たとえば無法者に対しても無法者と同じようになるということでしょうか?
 
無法者とは 《無条件におれの言うことに従え。さもなくば 物理的にいら
れなくするぞ》とまづは言って来る場合を言っています。

一般的な実際としては 後半の部分は別にして前半の部分を けっきょくそ
の行動で言っている場合です。

つまりは 対話や問答において 意味のないことをもって答えとするような
場合です。ナンセンスなことを言ってその勢いで 話を逸らせる。あるいは 
自分に都合のわるい内容の話を終わらせる。つまり ガキ大将のような場合
です。




 ▼ (パウロ:コリント前書 9章) ~~~~~~~~~~~
 19 わたしは、だれに対しても自由な者ですが、
    すべての人の奴隷になりました。
    できるだけ多くの人を得るためです。

 20 ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。
    ユダヤ人を得るためです。
    律法に支配されている人に対しては、
    わたし自身はそうではないのですが、
    律法に支配されている人のようになりました。
    律法に支配されている人を得るためです。

 21 また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、   
    キリストの律法に従っているのですが、
    律法を持たない人に対しては、
    律法を持たない人のようになりました。
    律法を持たない人を得るためです。

 22 弱い人に対しては、弱い人のようになりました。
    弱い人を得るためです。
    すべての人に対してすべてのものになりました。
    何とかして何人かでも救うためです。


 23 福音のためなら、わたしはどんなことでもします。
    それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ 自覚していなくても――《独立心がよわく 内弁慶》であって ただ相
手の動きに反応しているだけだとしても―― 人間にはおのづから(自然本
性の発露として) 互いに社会性としての関係性(間主観性)がはたらきま
す。

その互いのマジハリの過程で 知らず知らずのうちにも アートマン(霊我)
ないしブッダターははたらく。と見たいですね。

と言いますか そういう良心やヒラメキは 人間がみづからのチカラ〔だけ〕
で発揮しようと思ってそうするものではないでしょうから。

そういった意味で 哲学とは けんかである。というお話もあり得ると思っ
ています。


★★ 過剰な自画自賛
☆ にも マジハリとしての社会性・つまり広く(正負の)愛・つまり潜在
性としてでもブッダターが はたらくと見たいですね。

言いかえると こちらに働きかけて来る相手の側に愛国心などとしての自画
自賛が過剰にあって それにこちらは内弁慶よろしく《素直に・バカ丁寧に》
反応している。

この《けんか》が 大きく広く愛である・・・・という虫のいい見方をも添
えたいですね。
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この回答へのお礼

「ミラーニューロン現象」というのは、他者の行為を観察者の脳に
映し出しているかのように、その部位のニューロンが活動するとい
うことが発見された、ということに過ぎないという風に理解してい
ます。
勿論、私は素人で全然詳しくはないのですが。

これを人間同士の思想とか文化とか複雑な心などが伝播していく現
象の原理とすることは、仮説とはいえかなり無理があるのではない
かと思います。

自未得度先度也、無住処涅槃、ともに大乗仏教が説く深い哲学であ
ると理解しています。
これに対し、聖書の教えは、同じ立場、同じ目線に立てば心が通じ
る「はずである」という考え方であるのだと思います。

大乗仏教のこの二つの概念は、「仮に」自分が悟りが得られなくて
住むところがないとしても、衆生を救ってゆくべきだという、もっ
と言えばその精神性がなければ、救ってゆくことなどできないとい
うことであると理解しています。

あなたの「神論」のキモは、人間は常に「神」に包まれ交流をして
いるのだから、自然に生きていれば幸せであるのに、宗教や悪い政
治、偏頗な思想などが邪魔をしているのだ、と。こういうことでよ
ろしいのでしょうか?

お礼日時:2017/03/26 16:00

>日本人にしかできない素晴らしい文化だと思いますが、



芝居ががったセリフがお好きみたいですから、ここは敢えて使い古された言葉を言っておきましょう。ナポリを見て死ね、と。たぶん、いろんな国でできることだと私は思いますよ。

「おもてなし」を誇るのは、本来の日本的な精神ではありません。伝統的なおもてなしは、さりげないものです。一期一会という言葉が茶道にはあります。これはその場では何のことかわからなくても、後から思い返したお客が「あ、あれはこういうことだったか」と気がつき、一度会っただけのことが、あとあと重要な重みを持ってくるような接し方のことです。

あらかじめ「自分たちは素晴らしいおもてなしをいたします」と予告しているのは、全く日本の伝統的な考え方ではありません。それはホテルマンの考え方でしょう。これはカズオ・イシグロが『日の名残り』で描いたような、イギリスの執事の文化に由来するようなものだと私には思えます。

しかし私の言い方は、やや非国民的かもしれません。
一方、DRさんは、日本に誇りを持っているんですね。
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この回答へのお礼

少し前に「東洋の魔女」という質問をさせていただきましたが、「滅私奉公」ではないですが
何かに自分を捧げるという精神文化が日本には存在していました。
これは非常に高い精神性のもので、世界に誇れるものであると思っています。

しかし、現在の日本人はこれを完全に捨てようとしています。それなのに日本の旧来の文化を
たとえば「おもてなし」などの文化を誇りにしようとしているのがおかしいと言いたいという
ことです。

私も同じ非国民ですよ。

お礼日時:2017/03/25 00:07

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われら日本人は 外国語に熟達する事例(人数またその深さ)が少ないと言われる。
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そしてこの場合は はっきりと《主観の要望〔としての命令〕》の気分(= mood :
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未然形が 不定詞に当てはまる不定法( infinitive mood )だと知れば ただちに
世界標準に立てる。《未だ然らざるかたち(状態)にその動詞を置く気分》という
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そのあと 

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まず日本は島国であり、そして自然環境にも恵まれています。僕の知識だと、明治の開国まであった他国との戦争は、元寇と秀吉が朝鮮出兵したぐらいだと思われます。基本的に、民族を挙げての戦争がなかった。それに比べて大陸だと常に他民族との争いを気にしなければなりません。豊穣な土地がなければ食べることもできません。まさに弱肉強食の世界です。しかしそのような過酷な環境でこそ、武器や文明は進化しました。その点、日本は緩やかな環境だったと思われます。なので常に大陸からの輸入文化に圧倒されてきました。あっちだと金属を流して大量に武器を作る。俺たちはひとつひとつ石を削って作っていたのに…。とかく日本人にとって大陸の文明は凄かった。だから文化も真似る。仏教が輸入されればそれは凄いとして仏像を作る。その文化も幾分洗礼されて、京都に平安京の文化がうまれる。その繊細な芸術文化は確かに日本的です。

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このように比べてみても、日本は変わった国だと思います。現在は、西欧化され何が日本の文化・伝統なのかわからないような状況ですが、しかしやはり、その根底には、日本人としての本質が隠れていると思います。

#1の方の言われる通り、環境が大切だと思います。

まず日本は島国であり、そして自然環境にも恵まれています。僕の知識だと、明治の開国まであった他国との戦争は、元寇と秀吉が朝鮮出兵したぐらいだと思われます。基本的に、民族を挙げての戦争がなかった。それに比べて大陸だと常に他民族との争いを気にしなければなりません。豊穣な土地がなければ食べることもできません。まさに弱肉強食の世界です。しかしそのような過酷な環境でこそ、武器や文明は進化しました。その点、日本は緩やかな環境だったと思わ...続きを読む

Q憤激か称賛か

個人的な幼い頃の記憶です、以下のような、実の父と息子という、男性二人それぞれの光景で、当時、ただビックリして印象に残ったのですが、両親が好んで視聴していた懐メロ歌謡番組か何かでしたか、テレビから
「悪いときは、どーぞ、ぶってねぇえ~♪」
「あなた好みのォお~んなぁにィなりたぁいぃ~♪』
という、鼻にかかったお色気声が流れてきたとたん、私とは年齢が大きく離れた、当時お年頃だった兄が、食卓に着いて掻き込み中だったお茶漬けをブブッーと吹き出したのを憶えています。なぜなんでしょうか?
(そのあと、鼻の下が伸びてました。)
もう一方では、
「おんなひとりとるためにぃいくさしてもイイじゃない♪」
ここが流れたとたんに、
「ぬわにをぅ!!!」と、新聞から目を離して、父が激しく気色ばみました。(ちょっと怖かったくらいです。)なぜなのでせうか。

添付リンク先の歌詞を参考に御覧いただいたうえでの「哲学的考察」というものをみせていただけますか。

http://www.fukuchan.ac/music/j-sengo2/koinodorei.html
http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=36275
                           

個人的な幼い頃の記憶です、以下のような、実の父と息子という、男性二人それぞれの光景で、当時、ただビックリして印象に残ったのですが、両親が好んで視聴していた懐メロ歌謡番組か何かでしたか、テレビから
「悪いときは、どーぞ、ぶってねぇえ~♪」
「あなた好みのォお~んなぁにィなりたぁいぃ~♪』
という、鼻にかかったお色気声が流れてきたとたん、私とは年齢が大きく離れた、当時お年頃だった兄が、食卓に着いて掻き込み中だったお茶漬けをブブッーと吹き出したのを憶えています。なぜなんでしょうか...続きを読む

Aベストアンサー

NO.2 です。
笑って20点頂けるかと楽観していたのですが、良そうに反して突っ込まれました(笑;)。
>どこがどう哲学としての答えになっているのか?
NO.1様の第一行の言葉ですね。
確かに哲学的な答えではないと私も思います。正確には回答者様ご当人のお答えを俟つしかないと思いますが、私見では、これは反語であって、「たかがこのような質問に”哲学的”もないだろうよ」という気分を篭めていわれたものであろうと思います。私も同じ気分ですが、これはある意味真面目ではない態度かもしれません。
>、「日本のごく普通のスノッブ的知性」とは、いかなる内訳のものなのですか
このような同時代における通俗エンタメを心から楽しめるレベルの知性というような意味で申しました。失礼がありましょたら申し訳ありません。
>性別や年齢に関係ある、または、ないことなのでしょうか。
一般的にはある、といえるでしょうが、対象のエンタメ、曲などによっては幅が異なり、あるかもしれないし、ないかもしれません。少なくともリンダの歌はかなり共感の対象と幅がが狭く作られてあるとは思います。
>なぜ、こうした歌謡曲のつくりが、彼らをして、そのような感情的高ぶりを引き起こしたのでしょうか。
一般的には「共感」でしょうね。お父さんの場合は”怒り”ですから「反感」でしょうか(私は”嫌悪”ではないと思いますよ。)。そういったものを意図して織り込むことだって通俗曲には(話題を作るという意味で)あると思います。いずれにせよ”反応する”という意味では同じようなものです。
ご参考まで。

NO.2 です。
笑って20点頂けるかと楽観していたのですが、良そうに反して突っ込まれました(笑;)。
>どこがどう哲学としての答えになっているのか?
NO.1様の第一行の言葉ですね。
確かに哲学的な答えではないと私も思います。正確には回答者様ご当人のお答えを俟つしかないと思いますが、私見では、これは反語であって、「たかがこのような質問に”哲学的”もないだろうよ」という気分を篭めていわれたものであろうと思います。私も同じ気分ですが、これはある意味真面目ではない態度かもしれません。
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Q日本文化と,禅宗について

日本文化において,禅宗の役割とは?

私は,浄土真宗でして,そういった環境にいますと,禅宗は,厳しい規則のある宗教で,日本文化の役割についてはほとんど無視できる気もするのですがいかが思われますか?
何か,日本文化に影響を与えたのでしょうか?

Aベストアンサー

>何か,日本文化に影響を与えたのでしょうか?

極めて大きな影響を与えています。
鎌倉時代の執権、北条時宗が深夜に至るまで坐禅修行したことは良く知られています。他にも禅に傾倒し、その影響を受けた権力者や文化人は、枚挙に暇がないほどです。鎌倉時代以降、京都五山、鎌倉五山などを中心として、禅が盛んになったのは、このような支配階級や知識人の深い帰依と支援があったからこそであり、逆にいえば、禅にはそのような人たちの心をとらえる何物かがあったからに他なりません。
近世では、山岡鉄舟も剣禅一如の境地を極めた人物としてよく知られています。
禅は禅僧のみのものではなく、現在でも、各地の修業道場には老若男女を問わず多くの一般参禅者が熱心に集い、修行に励んでいます。実際、禅を支えているのはこうした一般参禅者による「居士禅」であり、こうした人たちが、「実践の宗教」である禅の心を一般社会で生かすことによって、禅は今日でも社会に少なからぬ影響を与えていると私は考えます。

私自身も学生時代に数年間、修行道場に通い、老師の指導を受けて参禅しました。その当時お世話になった先輩居士の中には、その地方の教育界、実業界などで指導的な立場の方もいました。

禅宗ではは坐禅・読経のみならず、食事・清掃などの日常的業務も、すべて「真実の自己」を究明する機会としてとらえ、そのために一挙手一投足に至るまで、厳しい規則があることは、おっしゃる通りです。しかし、学問であれ芸道であれスポーツであれ、何事によらず道を求めようとすれば、先人が苦労して作ってくれた「形」に従うことは当然必要であるし、それが最も合理的でもあるのです。禅の道場の規則が厳しいと言っても、一旦納得してしまえば当たり前のことばかりですし、自らの心を磨くために必要かつ妥当なものであることは、すぐに理解できます。

禅の修行者には質実・清廉・謙虚・勇気・忍耐・報恩などを重んずる気風があります。これらは禅の宗風から生まれ、守られてきたものですか、実社会でも尊重される普遍的な道徳でもあります。これらは武士道にも取り入れられ、長く日本の支配階級の倫理道徳を支えてきたと思います。

先にお二人の回答者の方が指摘された有形の文化遺産も、もちろん貴重なものであり、禅と日本文化との深い関わりを示すものです。しかし、それにも益して、禅のもつ深い精神性が日本文化に与えた、そして現在でも与え続けている影響は、計り知れないほど深いものがあると、私は考えています。

蛇足ですが、禅は自力、念仏は他力と言われますが、必ずしもそれだけでしょうか。禅にも他力的な要素があり、念仏にも自力的な面が皆無とは言えないでしょう。
禅の修行者が厳しい修業に自ら飛び込み、先人の智恵の所産を体得しようとすることは、形こそ違え、「仏にすべてを任せる」という親鸞上人の教えと、根本において何ら異なることはないものと思います。

>何か,日本文化に影響を与えたのでしょうか?

極めて大きな影響を与えています。
鎌倉時代の執権、北条時宗が深夜に至るまで坐禅修行したことは良く知られています。他にも禅に傾倒し、その影響を受けた権力者や文化人は、枚挙に暇がないほどです。鎌倉時代以降、京都五山、鎌倉五山などを中心として、禅が盛んになったのは、このような支配階級や知識人の深い帰依と支援があったからこそであり、逆にいえば、禅にはそのような人たちの心をとらえる何物かがあったからに他なりません。
近世では、山岡鉄舟...続きを読む

Q日本文化の中の七という数字の意味

聖書を中心とする西洋の文化の中で、7という数字が絶対性、完全性を意味する事に対し、日本の文化では七という数字が何を意味するものなのか教えて下さい。また、七転八倒、七転八起等の「教え」的なもののそれと、「七つ道具」や「七夕」等の物やイベントも、同じ意味として七を使っているのでしょうか?

Aベストアンサー

「七」という数字は主に中国から伝わった影響があります。
中国では奇数「一、三、五、七、九」を吉とする習慣があります。
これは数値が大きいほど吉なのですが、
「九」は恐れ多いので中国は元より一般では使われません。
そのため日本では「七」が最大の吉とされることもあります。
また日本は同じく「七夕伝説」の影響を強く受けている為
印象が強いのかも知れません。

七転八倒で次に訪れるものは何でしょう?
答えはそれより大きい幸せです。
それは八回目で起きた場合でも同じです。
それまでより大きい幸せが訪れることを予兆しています。

ちなみに七転八倒や七転八起の「七」と「八」はいずれも吉数です。
「八」は末広がりで、中国では「九」の次にめでたい数字とされています。
「八」は上下を除くあらゆる方向を指します(全てで十方)。

お釈迦様は生まれて七歩歩いて「天上天下唯我独尊」と言われたとあります。
日本仏教では、四十九日の死後を七日区切りで七人の裁判するような伝話があります。
実際、仏教では多く数字は使われていますが、
但しそれらに偏りは感じません。
二河白道、三宝印、四諦、五蘊、六識、七生、八大地獄、九品、十念
と様々な数字で表現されています。
よって仏教において七を吉数とする要素はないのです。

七福神は室町時代ぐらいに日本で作られたものなので、
余り参考にならないように思います。
七つ道具は仏教の七宝から由来しています。

また数字にまつわる伝説は数知れずですが、
日本の神話では特に奇数を吉と捉えていないように思われます。
(八百万神とか)

これらのことから実際は七が意味する
聖書のような(絶対的な)ものは無いように思われます。
神仏習合の精神と、中国の陰陽五行説の思想が織り交ざった、
日本独自の習慣ではないでしょうか。

「七」という数字は主に中国から伝わった影響があります。
中国では奇数「一、三、五、七、九」を吉とする習慣があります。
これは数値が大きいほど吉なのですが、
「九」は恐れ多いので中国は元より一般では使われません。
そのため日本では「七」が最大の吉とされることもあります。
また日本は同じく「七夕伝説」の影響を強く受けている為
印象が強いのかも知れません。

七転八倒で次に訪れるものは何でしょう?
答えはそれより大きい幸せです。
それは八回目で起きた場合でも同じです。
それまで...続きを読む


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