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功利主義についてレポートを書いています。

早く書かなければならないのですが、資料を読めば読むほどわけが分からなくなっていて、何を書いていいのか分からなくなってしまって困っています。

質問
1.功利主義者は一般的な道徳規範とは違うと言っていますがどこが違うのですか?また一般的なものと違うのなら批判が突飛なものになっても仕方ないと思いますか??
2.最大多数の最大幸福の立場をとっていますが、質と量どちらの立場をとるのですか??同じ功利主義者でも質を取る人とと量をとる人がいますよね?
授業でそんなに深くはやっていないので(●●がどちらで○○がどちらかなど・・)どっかを取り上げて批判してもよいのでしょうか??

ちなみに私は功利主義を批判したいです。ここら辺で批判できそうなのがネタ切れなのですが他にはどこら辺をつつけばいいでしょうか?

上にも書きましたが、一般教養の授業なのでそんなに深くやっているわけではありません。

アドバイスをお願いします。

A 回答 (1件)

1:


道徳規範といっても、世の中には多様な基準があるのですが、功利主義が批判した道徳規範は"宗教道徳"です。
架空の"救い"を売り、現実の金銭での対価を得る宗教は、しかし現実には救いをもたらしませんでした。
宗教道徳の原理は『人間は生まれながらに罪を背負っている。』というもの。つまり、人間は不幸であたりまえ、という理論です。
彼らの決まりでは、罪を雪ぐために生きている間にあらゆる不幸を体験しなければいけません。
言い換えれば、『生きている間に、苦痛を受け入れれば受け入れるほど、来世で幸福となる』という決まりです。
宗教の主導の下、人類は戦争・貧困・飢餓・疫病といったあらゆる不幸をあるがままに受け入れ、自らを死に至らしめてきました。


功利主義者とは、こういった旧体制の『虚偽の幸福説』に反対し、立ち向かった人達です。
つまり、『人間は、生きている間に幸福になるべきだ』としました。
宗教的なもの、つまり根拠の無いまったくの虚偽のものならば、公益というような甘い言葉に対しても断固として反対する。
公共の為に自分が犠牲になるのではなく、個々の人間が生きるためにこそ、公益というものが存在する。
こういった発想の転換を行ないました。この考えを基に、刑法を初めとして、民主主義の根幹となる様々な法律の枠組みを完成させ、
その結果ついに死後を言い訳にした中世の暗黒時代が終焉し、現実に人を救う、人類の発展の時代が始まったんです。


功利とは。突飛でも難しい話でもなく、何かをしてもらったら『死後ではなく現実に』見返りを与える。
つまり、功に対しては現実の利をもって報いる。罪を犯した人間には、大きすぎる罰を与えてはいけないし、小さすぎてもいけない。
法に従って評価し、相応の刑罰を与える。一言で言えば、正当評価。
これは民主主義が広まった現代ではごく当たり前の発想ではないでしょうか。
一方で、一般的な宗教道徳との違いは、後述する幸福計算により、快楽を肯定した点にあります。




2:
功利主義を広めたベンサムは、人間は良いことを量的に計算する『幸福計算』をした方がいいよ、
ということを言っています。たとえばこんな感じです。

年末帰省の高速1,000円じゃないのかよ・・・  -20点
やりたかった親孝行をしたぞ        +30点
帰りも渋滞・・・                    -10点
タバコも増税かよ・・・                 -20点
タバコうめぇぇぇぇ!                  +10点
口臭くなった・・・・                   10点

この発想もとりたてて突飛なものではなく、東洋では中国の道教にもある考え方です
行動を数的に捉えることで、慎重さや計画性を求め、浅はかな行動をなくす目的があります。
自分自身の行動を、こんな風に『数的に把握』して、最終的な収支がプラスになる行動を取れば
思慮深く行動できる、と考えたようです。
死後に幸福になったぞ +1,000点! なんて評価は、少なくとも人間にはできないですからね。
一方で、この見返りは金銭的なものには限定されず、個人が幸福に影響があるもの(つまり快楽と苦痛)
であれば評価の対象になるわけです。ベンサムはその快楽と苦痛を詳細に分けていきました。

とはいえ、この点数の部分は個々の人間によって評価が変わるのです。そこで、他人の採点に口をだすのではなく、
国の仕事は、このマイナス部分を減らして、国民全体の幸福の総和が最大になるようにすることに限定される。
みんなにとってのプラスだからと、自分勝手を押し付ける公権力は、これを最小化していくことが"正しい"こととなる。
このあたりの一連の理論を小さな政府とか、最大多数の最大幸福、と言っているわけです。




彼の弟子のジョン・スチュアート・ミルは疑問を投げかけ、"質的"という概念を提示します。
もちろん彼も功利主義者。彼の指摘は、幸福には質的な違いがあるので、量的な計算は出来ないものがある、
つまり、上の例で言うと、親孝行とタバコうまいのを一緒にするのはおかしいぞ、というもの。
幸福計算は個人個人で評価が違いすぎるので、個々に実証をして確認しなければいけない。
そこではじめて、国と国民はお互い、どこまで自由な行動を認められるかをチェックできるとしたんです。

(なんで弟子なのに反対しているの?というと、ジョン・スチュアートの時代は功利主義の浸透により
イギリスで普通選挙が始まったせいではないでしょうか。当時は後述するヘーゲルの批判を受けて、"愚民が選挙権を持つ"
ことに対して、知識階層が危機感を持っていたようです。そこで、個々の自由を認める功利主義に制限を設けようという話になっていく。
現代の愚民たる私からしてみれば、参加する人間を限定しちゃったら意味がないと思うんですけどね。)

というわけで、どちらも功利主義です。
人間という多様な存在を、宗教のごとき全く意味の無い、儀式的な制約から解き放つという点では共通しています。
ただ、その幸福の評価は各人、各時代で異なる。
そこにあるのは矛盾というよりは、単に一個の人間としての社会参加に対する姿勢の違いではないでしょうか。
それぞれが自由に、自分の考えを持って良い、というのが功利主義の本質ですからね。





さて、功利主義への批判をした人で有名どころはドイツの哲学者の大御所、ヘーゲルさんです。
彼は著書『法の哲学』で、イギリスの功利主義の理論の批判を展開し、一躍有名となっていきます。
そもそもヘーゲルさんは、倫理の最高の段階として自己犠牲があり、戦争が無ければ自分の財産にしがみつくだけの
国民は社会を沈滞させ、精神を堕落させていく、という考え方を持った人です。
彼にしてみれば功利主義者がまさにこの戦争に反対する人間。こういった人間はヘーゲルさんにしてみれば
『欲に駆られた身勝手な人間』として批難の対象となったんです。ヘーゲルさんの自己犠牲は民衆の総意である
"共和国"と共和国の法に対してのもの。自らが造り上げた国に対してならば、人は自ら進んで死ぬことが出来る、という主張です。

ただ、功利主義者はやはり幸福を計算します。戦争に、ヘーゲルさんの言うような効果があったとしても、
失うものが大きければ、あるいは得るものが全く無いのならば、やはり、戦争(あるいは自殺)には反対するわけです。
聞こえの良い自己犠牲が、気付かないうちにはた迷惑な自己満足にならないように、
つまり"宗教的に"ならないように、評価し、チェックするのが功利主義者なのですから。

一方で、ヘーゲルさんの考え方は大衆に熱狂的に受け入れられたのも事実。
功利主義を批判した上で支持を得るならば、"戦争に参加しない身勝手な人間"というような
批判の方法が一般的じゃないでしょうか。
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2010/01/11 18:32

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