嘗てフランスの近代詩人ステファン・マラルメは「白紙の上に絶対が宿る」といいました。
例えばここに一万円札がある。それで何かを買うということは、その一万円で買えたはずの他の品物を手に入れる可能線を全て放棄したことを意味します。
「選択する」ということは、ひとつを選ぶことによって残りの99の可能性を捨て去ることに他なりません。
逆にいえば一万円札をそのまま使わずにいる限り、そこには永遠に100通りの可能性が残されているということになります。
前回の質問でも述べましたが、「推敲」という言葉があります。
昔中国の詩人が詩句の一節を「僧は推(お)す月下の門」にするか「僧は敲(たた)く月下の門」にするかで悩んだという故事から来た言葉ですが、詩はもちろん声に出して詠むことを前提にされているのでしょうし、全体の音の流れの中で「推す」と「敲く」とでは随分感触が異なると詩人は感じたのでしょう。
しかし現にわたしたちはこの「推敲」という言葉も含めて、中国の詩を(当時の)中国の言葉(音/オン)で読んでいるわけではないし、大抵は外国文学イコール翻訳文学です。
同じ詩、同じ小説でも、訳者によってこうも違った言葉の選択になるのかという、ある種の驚きとも違和感ともいえる感覚は誰しも覚えがあると思います。
繰り返しますが、単に意味が通じればいいというのであれば、「推」(おす)であっても「敲」(たたく)であってもさほどの違いはないように思えます。ここで語の選択の基準となるのは、あくまでも耳に心地好い音の流れということなのでしょう。
以上のようなことをつらつら考えながら、いったいいい文章とはどのようなものを指すのだろう、と考えてしまうのです。
例えばこの質問文中に
「詩はもちろん声に出して詠むことを前提にされているのでしょうし、」という個所があります。
これを
「詩はもちろん声に出して詠むことを前提(と)されているのでしょうし、」
或いは
「詩はもちろん声に出して詠むこと(が)前提(と)されているのでしょうし、」
という風に書き換えることも可能です。
「推す」か「敲く」かの次元にこだわっていると、下手をするとなにも書けなくなるような気もします、一方で、このレベルから言葉の選択に対してこころを砕かなければ、もとよりよい文章を書くことなど覚束ないとも思うのです。
人は文章に対して何を(あるいはどこまで)求めているのか?そのようなことも含めて、お考えがあればお聞かせください。
尚お礼が遅れることがあるかもしれませんが、予めご了承ください。
No.8ベストアンサー
- 回答日時:
NO4です。
お礼有難うございます。
少し、追記させて頂きます。
>「伝えたいことを、可能な限り正確に伝える。」のが目的ですし、
それが出来ているものが、「良い文章」と言うものだと思います。
「可能な限り正確に」・・・ではその正確さとは何によって計られるのでしょうか?
↑
「正確さ」は、筆者の「価値観」によって、量られる、と思います。
文章を作成するのは、筆者であり、「記載すべき内容」は、
筆者の頭の中に、あります。
それを文章と言う媒体を通じて、他者に伝えようとする場合、
自分の中の概念を、可能な限り正確に表現しようとします。
詰まり、その表現が正確であるのか、妥当であるのか、の
判定基準は、筆者にあります。
例えば店で品物を買う。
「これ幾らですか?」
「300円だよ」
「それは300円です」
「ん?300」
「おい、これいくらだっけ?え?300?300円ですって」
「そちらは300円になります」
品物の正確な値段300円ということを伝える文で、正確なものは上の中にありますか。
↑
その品物が、300円である設定は、筆者がするものです。
当然、その金額が妥当であるか否か、の判定も、筆者がします。
この一連の表現の、「どれが正確なのか?」は、筆者が判定し、
表現すべきことで、他者は関係ありません。
文章と言うのは、「伝達手段」ですので、基本的に、読者の存在を
前提にしていると思います。
そして書かれた文章が、読者にとって価値のあるものであれば、
それは「良い文章」だと思います。
例えば、日記のようなものは、筆者自身が、読者でもあります。
このような場合、筆者と読者が同一であるので、「良い文章」か否かは、
客観性を欠いて、解りにくい、とは思います。
そのような質問のつもりでした。
ご回答をどうもありがとうございました。
こんばんは。
>詰まり、その表現が正確であるのか、妥当であるのか、の判定基準は、筆者にあります。
そうですね。
>文章と言うのは、「伝達手段」ですので、基本的に、読者の存在を
前提にしていると思います。
>そして書かれた文章が、読者にとって価値のあるものであれば、
それは「良い文章」だと思います。
これもその通りですね。
>日記のようなものは、筆者自身が、読者でもあります。
このような場合、筆者と読者が同一であるので、「良い文章」か否かは、
客観性を欠いて、解りにくい、とは思います。
すべて仰るとおりです。
わたしが質問したのは一般論ではなくて先の質問同様に個人的な悩み(?)のようなものでした。
日記に書かれているものが、身辺のことばかりではなく、詩であったり、短篇小説よのうなものであったりするのは、前回にご紹介した『八本脚の蝶』も同じですね。
結局お答えはNo.6、7と同様、読者との関係で、読者が満足すればいい文章。それは同感です。
そして日記の場合筆者=読者となります。わたしは読者としてなかなか自分の書いたものに納得がいかない。
そうなると他の人にいくら「いい文章の定義」を訊いても求めている答えは得られないということでしょうね。
再度のご回答をどうもありがとうございました。
No.12
- 回答日時:
いや、拝見しました。
セピア色のセンスのいい写真を配置し、舌を巻きましたよ。載っている「小噺」も面白いです。背景が白だと、本文が映えていいですね。頭に入りやすいです。
いいじゃないですか。これで自分は納得できないと言われると、こちら側も冷や汗が出ます。
これ以上はそれこそ小噺に出てくるように、文豪に聞いてください(笑)。
でも何か言えたら、どこかで何か言うかもしれません。今は普通に楽しませてください。
すばらしい。
こんばんは。
前回サイコロさんにデザインのことを言われて、始めた時から以前のブルーのデザインだったのですが、
今回ちょっと変えてみました。もっと細かくいろいろと設定できるブログもあるのですが、楽天ではあれが限界です。でもまあ自分でも気に入っています。
モノクロの写真は1930年代のフランクフルトです。ドイツの写真家ポール・ウォルフが撮ったもので、
最も美しいトラム(路面電車)の写真の一枚だと思っています。
前回に読んでもらいお褒めの言葉を頂いて、それがわたしのモチベーションになっているのは確かです。
前回からのショートショート形式をおもしろいと仰ってくれたので引き続きああいう形式で書いています。
書いていてもやはりたのしいです。
改めてどうもありがとうございました。
No.10
- 回答日時:
月の砂漠と幻の図書館を読みました。
発想が良かったですね。面白かったですよ。
意味と修辞が一体となる俳句のような、という事ですが、それは文章の一つの理想形と思いました。
美しさについては意味内容の美しさや修辞の美しさ、音の、字面の、構成のと色々あると思います。
こんばんは。
わざわざブログを覗きに来てくださりありがとうございます。
質問文でもお分かりのように、わたしはどうも生真面目になり勝ちなので、すこし笑いをとりいれようとしています。(ご覧いただいた二つは、真面目なほうかもしれません)
自分の文章を離れても、包み紙と中味、どっちが大事かとかんがえてしまいます。
音楽は包み紙イコール中味ですね。いや、彫刻も絵画も建築も外形即ち中味かもしれませんね。
>美しさについては意味内容の美しさや修辞の美しさ、音の、字面の、構成のと色々あると思います。
それらをすべて兼ね備えた文章などというものがあるのだろうかとふと考えてしまいました。
いろいろある中で、自分の優先順位を決めることが大事なのかもしれませんね。
再度のご回答をどうもありがとうございました。
No.9
- 回答日時:
NO4,NO8です。
取り急ぎ追記いたします。
最後の一文、コピーした文章を
削除しきれていませんでした。
申し訳ありません。
No.7
- 回答日時:
>というよりも自分が納得する文章が書けずにいるので、
こうなってくると、哲学でも文学でもなくて、自分探しの範囲だから、他人がかかわることは大変難しい。
ちょっと私には何も言って差し上げられない(笑)。
また散文詩みたいなものが書けたら、教えてください。
>こうなってくると、哲学でも文学でもなくて、自分探しの範囲だから、他人がかかわることは大変難しい。
はは、まぁそうですね。
https://plaza.rakuten.co.jp/poboh/
あれやこれやぼつぼつ書いています。気が向いたら覗いてみてください(苦笑)
ご指摘をありがとうございました(笑)
No.6
- 回答日時:
前の問いに回答したので、今回はパスしようかなと思いつつも、面白いので簡単に回答。
推敲をどこでやめ、決定稿として良いのか。簡単にまとめるとこういうことだと思いますが、大問題ですね。
決めるのは自分です。しかし結局、物書き一般は、読み手の顔を思い浮かべて決めている気がします。私自身は物書きとは違いますが、そういう風にして書いていると思います。
これは読者から制約を受けるということでもあります。パズルみたいな文章を書いても読み解いてくれる読者がいるのか。いなければやっても意味がないでしょう。またそういう読者が仮にいたとしても、見切って、もっと大多数の凡庸な大衆?のために書く人もいるでしょう。
結局、物書きは、想定される読者層とか、文芸サークルの仲間に向けて書いているんだと思いますね。編集者がいるなら、編集者にわかるように書いている人も結構いると思います。最初の読者がやはり大切な気がします。
短いものを書くなら、細かい用語の水準ですみます。でも長いものを書くと、どこを既知として省いてよくて、どこを仔細に書くのか、なんて考えますね。つまり構成とか、中身が大きく動く話です。
推敲の問題、誰にあてて書くかと同義なんだと私は思います。
こんばんは。
先の質問で、わたしは物書きになる気はないと書きました。それは永遠に変わりません。ただ一つ、プロの物書きで「いいな」と思うのは「読者」がいることです。
読者のいないわたしにとって、唯一の読者は書き手であるわたし自身です。
プロには当然ながら締め切りというものがあって、少々気に入らなくてもそれを完成稿として差し出さなければなりません。作品に見切りをつける必要があります。
けれどもアマチュアは永遠に手を入れ続けることができます。
わたしは好きで書いていて、読者はいません、仮にいたとしても、どのような人が、どのような印象を持ってわたしの書いたものを読んでいるのかこちらにはまるでわかりません。
ですから、わたしはわたしに向かって書いているのですが、なかなかいい文章の定義というものがわからず・・・というよりも自分が納得する文章が書けずにいるので、せめて一般論としてでも「いい文章」の定義を、可能な限りわたしの知りたいところに近づけて知りたいと思ったのです。
尚、文章の長さ、分量ということについては、アンブローズ・ビアスが、『悪魔の辞典』の中の「小説」という項で面白く定義しています。
いつもご回答をどうもありがとうございます。
No.5
- 回答日時:
「G線上のアリア」(ゲーせんじょうのアリア[1]、ジーせんじょうのアリア。
独: Air auf der G-Saite,英: Air on the G String)は、ヨハン・ゼバスティアン・バッハが作曲した『管弦楽組曲第3番ニ長調 BWV1068』の第2曲「アリア(エール)」をヴァイオリニストのアウグスト・ウィルヘルミがピアノ伴奏付きのヴァイオリン独奏のために編曲したものの通称。通称は、ニ長調からハ長調に移調されているため、ヴァイオリンの4本ある弦のうち最低音の弦、G線のみで演奏できることに由来する。
https://ja.wikipedia.org/wiki/G線上のアリア
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
未だに体調がよくないので音楽が視聴できないのに音楽の話題です。
こんばんは。
作曲と文章を紡ぐことは似ているように思います。
モーツァルトは音楽がひとつの立体の像のように全体を見渡すことができたと言いますし、逆にベートーベンは推敲に推敲を重ねて作曲をしたと聞いています。
この次の音に何故この音でなければいけないのか?ほんとうに他の音ではいけないのか?
つまりほとんど無限にある組み合わせの中で、何故このひとつなのか?
そんなことを考えます。
ご回答をどうもありがとうございました。
No.4
- 回答日時:
ご質問者は、何のために、ここに文章を記載していますか?
私は、私が感じた事、思ったことを、ご質問者(或いは、ここを見られる方々)に、
出来るだけ、正確に、誤解無く、伝わることを願い、書いています。
そして、それがそのまま答え、だと思います。
文意を伝えるのか、情景を伝えるのか、音感まで含んだものを伝えるのか、
ケースバイケースでしょうが、それでも、
「伝えたいことを、可能な限り正確に伝える。」のが目的ですし、
それが出来ているものが、「良い文章」と言うものだと思います。
色々考えて、最も必要だと思うものに、1万円を支払うので、
「他の可能性を失う。」とは、「いい加減な買い物である。」と
認めるようなものでしょう。
こんばんは。
>「伝えたいことを、可能な限り正確に伝える。」のが目的ですし、
それが出来ているものが、「良い文章」と言うものだと思います。
「可能な限り正確に」・・・ではその正確さとは何によって計られるのでしょうか?
例えば店で品物を買う。
「これ幾らですか?」
「300円だよ」
「それは300円です」
「ん?300」
「おい、これいくらだっけ?え?300?300円ですって」
「そちらは300円になります」
品物の正確な値段300円ということを伝える文で、正確なものは上の中にありますか。
もちろん前後の文脈によって自ずと限定されては来るでしょうけれど、「これ」と特定できるものではありません。
一万円をどの表現に使うか?その「最も必要とされる一語」はどのように選ばれるのか?
そのような質問のつもりでした。
ご回答をどうもありがとうございました。
No.3
- 回答日時:
こんばんは。
私の場合は、イメージを呼びやすい語感や文章であると、いい文章だな、伝わってくるな、と判断しています。
また、平易な表現でもこの方は世の中をよく見ておられるな、と感じる文章もあります。
一番に中身、二番に修辞、ではないでしょうか。
何を、どこまで求めているかといえば、文章を書いた人の意図をすべて汲み取れる能力が読み手にあるわけではないですので、せめて誤解のない文章や、意味の伝わる文章、というものを最低限求めます。
その次に、文学的なもの、つまり意味の深さや美しさなどを求めると思います。
こんばんは。
今回の質問に関しては、「文藝」という意味に限定して考えてもらっていいと思います。
>文章を書いた人の意図をすべて汲み取れる能力が読み手にあるわけではない
例えば画家が、彼のイメージのうちにのみ存在している「この木の肌の色」、「この夕映えの雲の色」、「この海の色」を出すのにどれだけ苦労しているか、わたしたちにははかり知ることはできません。また苦労の末に「その色」を出すことが出来た場合と、結局そこまで至らなかった場合と、絵を鑑賞するものにその「違い」がわかるでしょうか?やはり画家のイメージ通りに描けた絵の方により強い印象を受けるでしょうか・・・
>一番に中身、二番に修辞、ではないでしょうか。
ここでわたしが立ち止まってしまうのは、例えば俳句のように僅か十七文字で森羅万象を表現しなければならない俳句のような形態では、修辞すなわち中味ではないかと思うのです。
これはひどくマズイ例ですが、
「古池や」を「古池に」にしただけで、読み手の受け取るイメージは随分異なってくるのではないかと思います。
「古池や蛙飛びこむ水の音」と「古池に蛙飛びこむ水の音」とでは全く別の俳句と言えるのではないか。
しかし意味としては「一匹の蛙がぼちゃんという小さな音を立てて古池に飛び込んだ」という、同じことを言っていることはわかるはずです。
>その次に、文学的なもの、つまり意味の深さや美しさなどを求めると思います。
ここに言われている「美しさ」がイコール「文章の美しさ」なのか「書かれている内容の美しさなのかがわかりません」また「文章の美しさ」から離れて「内容の美」というものが存在し得るのかも、わかりません。
とりとめもない「感想」になってしまいました。
ご回答をどうもありがとうございました。
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訂正
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>もとよりよい文章を書くことなど覚束ないとも思うのです。ー もとよりいい文章を書く「などということは」覚束ないと思うのです。
わたしはこのようなミスが多すぎます。
◇
やはりわたしにとって「書く」ということは紙の上に筆記具を用いて書くことであり、
読むというのは「紙に記されたものを」「手に持って」読む、というのが第一義になるようです。
先日Okwaveで「ゲームの魅力」について質問しました。
というのも、わたしはゲームというものを全くしない知らないので、一体何が魅力でみながああまで熱中するのか知りたいと思ったからでした。
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