きのう、友人から、借りて
読んだ本があります。

この文章の意味がさっぱり、わかりません。わかる方いらっしゃいますか?

『文章を書き慣れた人は、いまわたしがもっともらしく述べたようなこころの中での手続きを、文字化する以前に頭の中である程度はすませておくものだ。
その場合にしたって、書けば、かわる、
のである。』


「考える力」をつける本、より。

A 回答 (10件)

その文章は、多くの方が簡単に理解できそうですよ。


繰り返し、何度も本の頭から読み直すことで、分からない本も分かるようになりますよ。
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この回答へのお礼

すみません、10回くらい、読みましたが、わからなかったんです。だから、ここで、助けていただきたく、投稿しましたm(__)m
でも、がんばってみます。日々
精進します。((o(^∇^)o))

お礼日時:2017/05/27 04:45

まず、この文章の前段(示されていない冒頭の部分)で、筆者は「こころの中での手続き」について「もっともらしく(何かを)述べた」ということがわかります。


そして、「文章を書き慣れた人」というのは、今、わたし(筆者)が前段で述べたような「こころの中での手続き」というものを、文章を書く以前に、「頭の中である程度はすませておく」のが普通だ、と言っている。
また、このように、「こころの中での手続きを、文字化する以前に頭の中である程度はすませて」おいたとしても、つまり、文章を書く前に先に考えをまとめておいたとしても、実際に文として書き表わすと、先にまとめておいたはずの考えとは違うことを書くことはよくある。

大体、こういった意味でしょう。
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この回答へのお礼

天才やな

わたりやすかったです。勉強になりました。

お礼日時:2017/05/27 04:17

「きのう、友人から、借りて読んだ本があります。


この文章の意味がさっぱり、わかりません。わかる方いらっしゃいますか?」

あなたがこの程度の文章を書き慣れているなら、いまあなたがもっともらしく述べたようなこころの中での手続きを、文字化する以前に頭の中である程度はすませておいたのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

そうかもしれません。✨✨✨

お礼日時:2017/05/27 04:19

監視社会と堂々と示して「共謀罪」審議を 荻上チキさん


http://www.asahi.com/articles/ASK5841LLK58UTIL01 …
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この回答へのお礼

ん?なにがなんだか。読んでも
意味が、よくわかりません!(´;ω;`)

お礼日時:2017/05/27 04:27

端末をどうするのかという問題はあるだろうけれど


図書館が電子書籍の配信サービスを始めるのは可能なのだろうか。
閲覧する権利だけが利用者に一時的に付与されて、
図書館側がいつでも削除できるようにする。
本の所有権は図書館。
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この回答へのお礼

端末てなんですか?なにが、おっしゃりたいのが、ぜんぜん、わかりません。わたしの、質問と、関係ありますか?なにか。社会に伝えたいことが、『わかる』ひとに
その場に、お伝えください。

お礼日時:2017/05/27 04:32

「その場合にしたって」の、“その”が何を指しているのか?


これが分かれば、ある程度の理解は可能かと思います。

多分、『文章を書き慣れた人は、』の一文の前に“その場合”の事が書かれているはずです。
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この回答へのお礼

その場に が、わかりません。
(ToT)

お礼日時:2017/05/27 04:36

「著者は、文章を書きなれていない。

」と言おうとしている事が、解ります。

前半の文章は、そのままの意味。

後半の意味不明の文章は、「文字化する以前に頭の中である程度はすませておく」作業を
「自分は、出来なかった。」と言っているのと、同意。

故に、
「著者は、文章を書きなれていない。」と、白状していることに、
なります。
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この回答へのお礼

はぁ、そうなんですね~!(´;ω;`)

お礼日時:2017/05/27 04:38

「その場合にしたって、書けば、かわる、のである」


⇒その意味は分りませんが。

「文章を書き慣れた人は、いまわたしがもっともらしく述べたようなこころの中での手続きを、文字化する以前に頭の中である程度はすませておくものだ」
⇒それは、文章を書く時は考えながら書くのではなく、何を書きたいのかの全体を頭の中で整理しておかなければいけない。そして、その整理されたものを文章に書くのである。ということでしょうね。
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この回答へのお礼

Thank you

かんがえながら、書くのではなく?頭で整理してから?( ̄∇ ̄*)
なるほど!!!わたしも、そう
なりたい!!!

お礼日時:2017/05/27 04:41

自分の考えや気持ちを文章に書く前には、頭の中で文章を


作ってから書き始めるものだ。
それでも、文字に書くと頭の中で抽象的だった考えが、はっきり
目に見える形となるので、考えが変わったかのような印象を受ける
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この回答へのお礼

ん?考えがかわる?そうゆうものですか!わかりました!✨(*^ー^)
きっと、書いているうちに、考えがかわり、自己解決に向かう、あらたな考えが、浮かぶ、そゆことでしょうか?

お礼日時:2017/05/27 04:49

この本は読んでいないのですが、引用された部分からわかることを整理すると



1. 思考をブラッシュアップしていくにはテクニックとしての論理的な経路があり、文章を書くということは特にそれに沿ったプロセスが必要である、と筆者は考えている。
2. そのプロセスは、恐らくある命題とその結論に至る議論の展開に関して、自分の心で感じているものと照らし合わせて、その文章が本当に自分が感じていることを十分に表現しているかどうか、を検討するという類のことであると思われる。
3. 文章を書くことに慣れた人は、実際に文章を書き出す前に上記のプロセスをある程度済ませていることが多い。
4. その結果、実際に文章を書き出してみれば、それが本当に自分が感じていること、表現したいことを十分に表しているか、は直観的にわかることが多い。

ということではないでしょうか。
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この回答へのお礼

すみません。ご丁寧にかいていただいて、すみません、、、でも、
レベルが、高すぎてぜんぜんわからない、、、アタマにはいってきません。ちょっと、頭がパニクったので、あとで、ゆっくり、読ませていただきます。m(__)m

お礼日時:2017/05/27 04:55

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Q「聖書が信用できる理由」について述べられた文章ですが

「聖書が信用できる理由」について述べられた文章ですが

http://www.watchtower.org/j/200711/article_03.htm

これについて自由な感想をお聞かせいただけませんか。

同意できる、同意できない、どちらの意見でも結構です。

※知恵袋にも同様の質問をたてていますが、たくさんの人の意見を聞いてみたく思い、こちらにも質問させていただきました。

Aベストアンサー

「聖書が信用できる理由」について述べられた文章ですが・・・・これについて自由な感想をお聞かせいただけませんか。

○私も#1さんに同意ですね。指定の文章を見る限り、まあ納得できる項目の抜粋でしかないですね。
エホバの証人であれば、旧約聖書の「血(のついた肉)を食べてはいけない。」と言う箇所の解釈を聞いてみることですね。輸血がいけないという解釈ですよ。
イエスはユダヤ教の安息日(働いてはいけない休日)に人を救っていますから、これになぞらえば人を救うためなら輸血だってしたでしょうね。
つまり、エホバの証人はイエス教じゃないんですよね。
一方、カソリックであれば、処女生誕について聞いて御覧なさい。イエスは母親だけの宇宙人になってしまいますからね。とっても科学的ではないですよ。
聖書は読めば読むほど「霊的解釈」のいるものですから、聖書研究会で読んでもだめですよ。
真っ当なところから入ってね。それが怖い人たちの常套手段ですね。
わからないところがあれば、ここで質問すれば良いだけですね。巷の聖書系宗教よりよほど真っ当な回答がありますね。

Q《わたしがわたしである》わたしがわたしする

1. わたしは 存在していないなら 誰かに・何ものかに欺かれることもない。
 
2. あざむく対象として存在〔らしき何か〕がないならば 欺かれえない。つま
り もし欺かれたなら それは わたしが存在しているからだ。
 
3. わたしとは いま・ここでわたしとみづからを呼んでいるその存在である。



4. この存在は もしそうとすれば 善である。意志の自由にもとづき そのこ
と(自由意志にて生きる存在)をよしとするわたしたちがいる。
 
5. 悪は 存在しない。悪とよぶ現象があるのみ。


 

6. 表現の問題とすれば 世界は善である。この善なる存在が ウソをつく。イ
ツハリをおこなう。光も曲がる。存在もそして存在の中軸としての意志も 相対的
なもの(善)だからである。
 
7. つまりは 善なる存在は そのみづからの存在としての善をも損傷する自由
のもとにある。ウソをつきイツハリをおかす。それは やましさ(恥づかしさ)反
応で分かる。


 


8. ウソを 思惟しただけではなくヤマシサ反応にさからって実行したなら そ
のぶん もともとの(生まれつきの身と心とから成る自然本性としての)善を傷つ
ける。自由意志がみづからに逆らう自由をも持つ。
 
9. このような善の損傷行為が 負の善であり いつもいつもマイナスの善と呼
んでいては能が無いから ひと言で悪とよぶ。悪は 表現の問題である。
 
10. 善が傷つけられた存在の部分ないしその欠けた状態をも 悪とよぶ。悪は 
善――正負の善――の関数である。




11. 存在は 意志自由において 善だが そもそもみづからは時間的な存在で
ある。うつろい行く相対的なものであるゆえ 善も損傷を受ける。ただし その損
傷があるのみであって 善のほかに別の存在または存在に敵対するものがあるわけ
ではない。善がひがみ ゆがむのみ。

12. 人びとの中には やけを起こすわたしがいるだけのことだ。これが やめ
られないとき その悪を悪魔といった独立の存在のしわざだと見たくなる。その想
像の産物として 悪や悪魔がある。



13. 相対的な善なる自由意志のうちに みづからをも傷つけるゆがみ――へそ
の曲がり――が生じる。わたしは わたしであるときこの悪をふくめてわが善なる
存在を自治する。自己経営する。
 

14. 《わたし》たちは 社会をつくって それぞれ自己経営しつつ 社会つま
り人間の行為関係を共同自治して生きる。
 

15. この わたしがわたしする自治の行為 あるいはそのような自己経営の集
まりとしての共同自治の行為は――政治ともよばれるが―― しばしば愛ともよば
れる。悪の共同自治ゆえ。

16. 愛とは 自治である。むしろ自己の愛に発する。自己を愛さずして 愛は
あるか。

 
17. 《わたしがわたしである》わたしがわたしする。のだ。


18. これだけのことであると考えられるところを 世の中には――自由意志ゆ
えに――スットコドッコイが出て来ておかしな阿呆テツガクをこしらえることがあ
る。

19. 理念を推し出しお花畑を描くことによってのみ人間と社会の問題に発言を
おこなったり あるいはぎゃくに 世の中はチカラのみだという〔しばしば悪の〕
社会力学のみを推し出したりする。・・・


成否・当否を問います。
あるいは この《18&19》のあとを ご自分の見解で展開して行ってください。

1. わたしは 存在していないなら 誰かに・何ものかに欺かれることもない。
 
2. あざむく対象として存在〔らしき何か〕がないならば 欺かれえない。つま
り もし欺かれたなら それは わたしが存在しているからだ。
 
3. わたしとは いま・ここでわたしとみづからを呼んでいるその存在である。



4. この存在は もしそうとすれば 善である。意志の自由にもとづき そのこ
と(自由意志にて生きる存在)をよしとするわたしたちがいる。
 
5. 悪は 存在しない。悪とよぶ現...続きを読む

Aベストアンサー

全ては善だ。

子供の頃、私は善だと主張する大人がいることを経験するのだ。
子供の頃、私は善だ。善でないものは悪だという大人を知るのだ。
そして、誰もが子供のとき深く傷つく。

そして心の傷を抱えたまま善を目指そうとする。

そして今の時代は
全てを善ととらえたらいい。

善と思えないものがあったとする。
たとえば事件、殺人事件
生命と尊さをしれた
この世で一人で生きてきた人はいない
もしかしたら奥さんがいた人かもしれない、子供がいたかもしれない
迷惑をかけてはいけない
不安を感じさせてはいけない
殺人は取り返しがつかない
時間はもとには戻らない
家族が嘆き悲しむ
親戚が嘆き悲しむ
その人の所属している団体、すなわち会社が、学校だったりが悲しむ

たとえば旦那さんの不倫があったとする
それは奥さんが旦那さんから気持ちが離れた
旦那さんのことを気に掛けなくなった
旦那さんより自分の気持ちを優先させてしまった
一人では生きていけない
この世は支えあって成り立っている
仕事や自分の趣味等に気が行き過ぎるとよくない
バランスが大切

とか・・・。いろいろなことを教わる。
だから全ては善なんだ。

反対されるかもしれないが
こんな考え方 この世には善しかない
どうですかね?

全ては善だ。

子供の頃、私は善だと主張する大人がいることを経験するのだ。
子供の頃、私は善だ。善でないものは悪だという大人を知るのだ。
そして、誰もが子供のとき深く傷つく。

そして心の傷を抱えたまま善を目指そうとする。

そして今の時代は
全てを善ととらえたらいい。

善と思えないものがあったとする。
たとえば事件、殺人事件
生命と尊さをしれた
この世で一人で生きてきた人はいない
もしかしたら奥さんがいた人かもしれない、子供がいたかもしれない
迷惑をかけてはいけない
不安を感じさせては...続きを読む

Q文章の美について、或いは人は文章を裁けるか?

こんばんは。

今回は比較的個人的な質問になります。
「文章の評価について」、なんだかカテゴリー違いのようですが、一応「古巣」ということで大目に見ていただきお付き合いください。

昨年Grass_Rootsの名でいくつか質問をしましたが、とりわけ「美」についての投稿が多かったように思います。今回は同じ「美」の範疇でも「文章の美」に関してです。


以前から「いい文章が書きたい」と思いつづけてきました。自分の文章に対して劣等感があるというのもひとつですが、同時に、下手の横好き、文章を書くことが好きなのです。書く以上はいいものを書きたい。

けれどもわたしの文章を読み「正当に」評価してくれる人は存在しません。
この春で6年目に入ったアート系のブログには、1万数千人のフォロワーがいますが、それ以上長く続けているメインのブログには一日に3名くらいの訪問者しかいません。こちらが乞うてもコメントを残してくれる読者もいません。

先に「わたしの文章を正当に評価してくれる人がいない」と言いましたが、
嘗て「美」について立て続けに質問を発していたとき、わたしのスタンスは、「美」とは、何を美しいと感じるかは、全く個々人の主観による、という立場でした。

ダリやピカソ、ポロックやフランツ・クラインの「どこがいいのかわからない」「無茶苦茶だ!」「グロテスク」という評価も全く的外れとは言えないはずです。

では文章に関してはどうでしょうか?

例を挙げます

1)「鰊が地下鉄道を通って食卓に運ばれてくる」 

これは安西冬衛(1898-1965)というモダニスト詩人の「春」という詩です。
残念ながらこの詩の良さはわたしにはわかりません。

例文2)これはお気に入りの文章です。

「ある晩 ココアを飲もうとすると あついココア色の中から ゲラゲラと笑い声がした びっくりして窓の外に放り投げた
しばらくたって ソーと窓から首を出してみると 闇の中で茶碗らしきものが白く見えていた
なんであったろうかと庭へ下りて いじろうとしたら ホイ! という懸声もろとも屋根の上まで放り上げられた」

こういう文章は素敵です。稲垣足穂の『一千一秒物語』から「ココアのいたずら」という作品です。

わたしは、繰り返しますが、いい文章が書きたい。では自分にとってのいい文章とはどういうものかというと、強いて言うなら「非・天声人語的」文章です。ウィリアム・バトラー・イエイツの言葉を借りるならいい文章とは「1にワンダー、2にワンダー、3にワンダー」です。

最近読んだ本で強く印象に残っているのは二階堂奥歯という人の書いた『八本脚の蝶』という本です。
2016年の「本屋大賞」で「超発掘本」大賞に選ばれた2006年の本です。

アマゾンのレヴューでは、例えば評論家(?)の小谷野敦氏などは、この本について「ただただ気持ち悪いだけ」という評価を下しています。

つまりわたしがいくら「いい文章を書きたい」と願っても、ある文章が「いい文章」であるかないかという基準は存在しないし、それ故何人もある文章に対して「正当な評価」はできないということになるのではないか?

なんだか要領を得ない質問になってしまったようです。なにか感じられた方だけ、お答えください。

そういえば昔Okwaveにlittlekissさんのという方がいて、彼女の文章のうまさにはいつも舌を巻いていました。 

ではみなさん、よい週末を。

追記ー

二階堂奥歯の『八本脚の蝶』は2003年に彼女が自死するまで書き続けていたウェブ日記を基に書籍化されたもので、今でもブログ部分は読むことはできます。

http://oquba.world.coocan.jp/note5_p10.html

この2002年4月6日(土)のストーリーなど素晴らしい!

こんばんは。

今回は比較的個人的な質問になります。
「文章の評価について」、なんだかカテゴリー違いのようですが、一応「古巣」ということで大目に見ていただきお付き合いください。

昨年Grass_Rootsの名でいくつか質問をしましたが、とりわけ「美」についての投稿が多かったように思います。今回は同じ「美」の範疇でも「文章の美」に関してです。


以前から「いい文章が書きたい」と思いつづけてきました。自分の文章に対して劣等感があるというのもひとつですが、同時に、下手の横好き、文章を書...続きを読む

Aベストアンサー

Ooops!がタイトルだとは。してやられました。汲み取れず、失礼いたしました。
2008年も読みつつありますが、わからない。何が悪いのかが。
最初のテーマは愛ですねえ。孤独を守りつつ、どうあるか。うーむ。どこが悪いのだ?
2015年ですと、教訓を垂れることを巡って、山田氏と見解の相違があるのかないのか、とにかくテーマ化されています。

まあこれ以上の詮索はやめましょう。私には何が問題かが、わからないようです。非常に細かいところが問題で、それは文体のような問題ではないと思うのです。生きかたの問題、ものを書くということをめぐる考え方の問題とでも言いますか。それは十人十色でいいのでしょう。一つの色を決め、その人としか付き合わないというなら、距離を取る他ありません。
山田氏はそんなに器の小さい人物なのでしょうか。私はちょっとわからないです。距離の置き方が決裂でなければよかったでしょうが、GRさんの場合、いろいろと読んでいくと、些事でも決裂になることがあるのだとお察ししました。山田氏はこの頃合いがわからず、不用意に変なことを言ってしまったということはないでしょうか。

あと文体論ということで、一つだけご助言を。「・・・(苦笑)」というのが、伝わりにくいです。「(苦笑)」という言い回しを避けた方がいいとは言いませんが、ここの心理は一文くらい足して補った方がいいと思うのです。
なんというかな、書いてもお前ら読者にはわかんないだろう、分かる人だけわかればいいや、という書き手の傲慢さを、私は感じてしまうのです。精神障害者の独特な見方を示すと銘打っているだけに、一旦、読者が小馬鹿にされていると思うと、もう取り返しがつきません。精神障害者と言っているが本当は健常者で、内心で小馬鹿にしているのではないか、という疑いを持つ可能性があります。
私自身が書くときはあまり気にしていませんが、もしさらなる向上を目指すなら、ここは丁寧にやった方がいいと思うのです。

そして雑談。「ワンダー」についてですが、ホッケの『文学におけるマニエリスム』はお手に取ったことがありますか。まさにワンダーの宝庫と言って良いようなものですし、まあはっきり言えば「ワンダー」にあたる概念が説明されており、さらに類型が列挙されています。ここを手掛かりにいろいろ探していけるとも思うんですよね。すでにご承知ならお許しを。

ニュートラルさんもいらっしゃったし、私がここで長居しても、あまり良くないでしょう。
この問いはこれくらいで失礼いたします。

Ooops!がタイトルだとは。してやられました。汲み取れず、失礼いたしました。
2008年も読みつつありますが、わからない。何が悪いのかが。
最初のテーマは愛ですねえ。孤独を守りつつ、どうあるか。うーむ。どこが悪いのだ?
2015年ですと、教訓を垂れることを巡って、山田氏と見解の相違があるのかないのか、とにかくテーマ化されています。

まあこれ以上の詮索はやめましょう。私には何が問題かが、わからないようです。非常に細かいところが問題で、それは文体のような問題ではないと思うのです。生きかたの問...続きを読む

Qイエスキリストと仏陀では、どちらが好きですか。その理由も述べてください

イエスキリストと仏陀では、どちらが好きですか。その理由も述べてください。

Aベストアンサー

キリスト教と仏教の違いは、前者は超常現象をもって救済できるとしているところ、後者は人間が持っている能力で十分救いがあるとしているところ。

キリスト教は「イエスは目が見えない人の目を見えるようにし、歩けない人を歩けるようにし、死んだ人を蘇らせた」としています。
この超常現象を売りに布教しています。

しかし、実際 信仰したら目が見えるようになった、歩けるようになった、死んだがその後ピンピンして今まで通り生活をしたって例は無い。
「信仰がまだ浅いからだ」「天の国はラクダが針の穴を通るより難しいものだ」という言葉を持ってとても難易度が高いと説明されている。


が、しかし、間違い。
何が間違いなのかというと、目が見えるようになったというのは、物事の善し悪しの分別がつくようになったという意味(ヘブライ語の慣用句)、歩けるようになったというのはニートが自立したみたいなもの。物質的豊かさより心が豊かであることが幸福であるが、そうなるのはなかなか難しい みたいなことを言っているわけで。
(ラクダというのは、古代ユダヤ教で祭司になる人向けのエリート学校が存在していて、その学校で卒業間近のランクがラクダという名称だったから。その学校を卒業し(穴を通ると表現されている)正式に祭司になった人であっても、完全に悟りを開いたわけではない みたいな意味じゃないかと)


イエス作家は超常現象を持って救いがあるとは言っていない。
ユダヤ教のエリート学校では先生がサタン(妨げる者)役になり問答をふかっけた。
例えばイエスの荒れ野の修行のシーンもそう。
この問答にパスできないと進級できない。
この部分を書いた人は恐らくユダヤ教の大祭司候補でエリート学校で修行をした経験を持つ人だったんじゃないか と。

ってことで、どちらも肩書きとか物質的豊かが人を幸福たらしめているのではない と言っているわけです。

その後、誤解されどっちも超常現象的解釈されちゃって、本来の意味が伝承されなくなったみたいですが。orz

キリスト教と仏教の違いは、前者は超常現象をもって救済できるとしているところ、後者は人間が持っている能力で十分救いがあるとしているところ。

キリスト教は「イエスは目が見えない人の目を見えるようにし、歩けない人を歩けるようにし、死んだ人を蘇らせた」としています。
この超常現象を売りに布教しています。

しかし、実際 信仰したら目が見えるようになった、歩けるようになった、死んだがその後ピンピンして今まで通り生活をしたって例は無い。
「信仰がまだ浅いからだ」「天の国はラクダが針の穴を...続きを読む

Qおのれの言いたい結論だけを述べておしまいとするのは 阿呆ではないか

質問に対して・あるいは要するに互いによる問い求めの過程で
おまえのかあちゃん 出べそ! とだけしか言えないのは きちがいではないか?

いつからこういう人間が少なからずいることになったのだろう?

おのれの頭をカネと色とにしか使えないのだろうか?

Aベストアンサー

>互いによる問い求めの過程で

この認識が間違ってると思います
サイトの作りからして一問一答の形式を採っていますから
質問に対して結論(回答)を与えて終いにするのが本来の使い方で
互いに問い求めようとするのは変則的な使い方です
それに質問に答えてくれてる人を阿呆呼ばわりするなんて良くないですよ
感謝の気持ちが大事です
それがあれば変則的な使い方であれ、問い求めに付き合ってくれる人も出てくるんじゃないですかね


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