最速怪談選手権

人間の攻撃性の問題は根が深い。

子供の頃から喧嘩をして 喧嘩をしてもあまりいいことないという事を学ぶはずだが

実際に人を殺す 言葉の暴力でいじめる ドメスティックバイオレンスや幼児虐待

老人虐待など。特に戦争等は取り返しのつかない巨大暴力な訳ですが

格闘とかスポーツでも「攻撃」ということが賞賛されます。

戦略的互恵関係とか何でしょうか? 子供も20年くらい前から言葉使いが攻撃的になりました

真面目君では居られないのです。人間が持ってる本能的攻撃性をスポーツなどで昇華するのは

良いと思うのですが そもそも攻撃性はそう奨励されることなのでしょうか?

競争の行き過ぎが攻撃性を助長してるように思います。

A 回答 (15件中11~15件)

なぜ攻撃というアクションを取る必要があるか、を考えてみましょう。


それは恐らく「何かを守る必要があるから」ではないでしょうか。
つまり守る必要がなければ、攻撃の必要もないのではないでしょうか。

守る必要がないとはどのような場合かというと、大きく分けて

a. 自身に十分な強さがあり、相手の攻撃が大きな打撃となることがない、と確信できている場合。
b. 相手の攻撃の結果を受け入れている場合、それはたとえ隷属または絶滅となる場合でも結果を受け入れている場合。

ではないでしょうか。
だとすれば、「自身に十分な強さがなく、かつ、相手の攻撃の結果を受け入れられない」場合にこちら側も攻撃というアクションを取る、ということのように思えます。

ここで「相手の攻撃の結果」を「相手の行為の結果」に拡張したものが、一般社会で多く見られる攻撃のパターンであるように思えます。
それは、「低い自己受容と狭い視野に捉われた結果、相手の行動が自身に許容できないダメージを与えると信じ込んでいるために起きる防御反応」と表現してもよいのではないでしょうか。

質問文における「競争」は、有限の対象を奪い合うことが前提であるように思えます。
もちろん、スポーツなどのトーナメントであれば、優勝のポジションは一つしかありませんし、学内の成績順位なども参加者が得られるポジションは一意に決まります。
ですから、そのような場合にはそういった考え方が妥当でしょう。

しかし、その競争の結果が意味を持つのは、競争の範囲内においてです。

トーナメントで敗者となったチームやチームの構成員が、人間として価値がないわけでは決してありません。
テストの点数によって順位が一意に決まるといって、それぞれに人としての価値が異なるわけでは決してありません。
二つの異なる考え方があったとして、片方の考え方が他の共感を得られなかったとしても、そのような考え方をした人の価値がないということを決して意味しません。

自己受容が低いために、そういったことを受け入れられず、何かにつけて他を圧倒することしか考えられなくなっている人が増えている結果、質問文にあるような攻撃性を持ったアクションが増えているように感じています。
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本能的攻撃性は必要なのだろうか?


  ↑
必要です。

これは少しでも優秀な遺伝子を残そうとする
本能が原因です。

競争し、淘汰されて、生き残った人間だけが
子孫を残せる。

こうしたメカニズムが無かったら、人類は
滅亡するからです。

競争があるから、攻撃があるわけです。





そもそも攻撃性はそう奨励されることなのでしょうか?
競争の行き過ぎが攻撃性を助長してるように思います。
   ↑
程度問題です。

競争が過激になり、あまりに激しい攻撃性ばかりになったら
文明が発達しません。

お互いに協力して文明を発達させ、豊かになれば
子孫が残る可能性も高まります。

文化人類学では、一夫一妻制が浸透したので、
♀を巡る闘争が減り、協力関係が発達し、文化、文明
が発達したのだと言われています。
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昔の「攻撃性」は、生存単位が個人ないし血縁である


事によって、他人と競合(生存競争)する事による。
現在の「攻撃性」は、十分発達した社会生命性=助け
合いにおいて、その自覚のない自己チューさをして
社会行動をとらしめるために、お金や出世などの
「馬車馬の目の前のニンジン」を発達させたため、
社会内淘汰=疑似生存競争が生じ、自己顕示欲や
虚栄心が強くなったのだ。
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しっぺ返し戦略(しっぺがえしせんりゃく、英: Tit for tat)とは、ゲーム理論におけるゲームの1つ「囚人のジレンマ」(プレイヤー=囚人が、ゲームの繰り返し回数を知らされない無期限繰り返しゲーム)での戦略の1つ。



アメリカ合衆国ミシガン大学の政治学者ロバート・アクセルロッドの呼びかけで、世界中の専門家から集められた戦略をリーグ戦方式で対戦させる選手権が2度開催されたが、2度ともしっぺ返し戦略が優勝している。なお、2004年に開催された大会では­主人と奴隷戦略に敗れている[1]。

日本語としては応報戦略と呼ばれることもある。

概要[編集]
しっぺ返し戦略では、

1手目は協調を選択する。
2手目以降のn手目は、(n-1)手目に相手が出した手と同じ手を選択する。
例えば2手目の場合、1手目に相手が協調を選択していたら協調を選択し、1手目に相手が裏切りを選択していたら裏切りを選択する。
しっぺ返し戦略について初めて言及されたものは1965年発表のアナトール・ラパポートとAlbert M. Chammahによる「Prisoner's dilemma: a study in conflict and cooperation」(日本語訳版『囚人のジレンマ―紛争と協力に関する心理学的研究』(1983年、啓明社))においてである。この中ではSIMPLETON(バカ、マヌケの意)と名付けられていた。


https://ja.wikipedia.org/wiki/しっぺ返し戦略

~~~~~~~~~~~~~~~~~


これで説明されていると思うのよね。
You Tuberどもが真似ばかりしてくるのは。

あとは相手を尊敬するよりも、
自分のところまで引きずり落としたいという
ジェラシーよりもエンヴィーな感情なのだろう。

同じだ同じだ。

強盗のカンダタを引きずり落とす亡者どもと同じだ。
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本能の問題は難しいですね、正直私の手には負えません。

しかしせっかくですので回答をしてみます。

攻撃性とは、本来、自分や身内の身を守ったり、敵やライバルをやっつけたりする為にあります。
原始時代を想像していただければわかると思います。
一方、この文明の発達した世界では、本能の行き場が失われつつあり、それが発揮される場所は極めて限定的です。性欲一つとっても、公然ではタブーですよね。生存に関わる根本的なことなのに。代わりに幅をきかせているのが人間性というやつです。人間は動物とは違う、本能から解き放たれた存在なのだとする事で、モラルや理想、美徳などによって生きる事を課せられます。そんな風にして抑圧された本能が、時々どこかで爆発し、事件を起こすのではないでしょうか。
人間は本来、人間的に生きていくのが難しい存在なのです。人間性と言うのは後天的に作られたものであり、生来の人間を程度問題ですが限定してしまいます。
私は思います。もっと自由な存在だったはずだと。人間と言うのは。
人が自由を取り戻せば、度の過ぎた争いは起こらないのではないかと思います。
お腹が一杯の動物は、獲物を襲いません。
肉体的にも精神的にも充足したなら、人間は欲望を持たないのが本来の姿だと思います。変に人間的である事を課せられている故に、かえって欲望などを生じるのだと思います。
戦争など、人の攻撃性が歪に増大した形で現れるのも、どこかで抑圧を受けているからだと思うのです。
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