人間の攻撃性の問題は根が深い。

子供の頃から喧嘩をして 喧嘩をしてもあまりいいことないという事を学ぶはずだが

実際に人を殺す 言葉の暴力でいじめる ドメスティックバイオレンスや幼児虐待

老人虐待など。特に戦争等は取り返しのつかない巨大暴力な訳ですが

格闘とかスポーツでも「攻撃」ということが賞賛されます。

戦略的互恵関係とか何でしょうか? 子供も20年くらい前から言葉使いが攻撃的になりました

真面目君では居られないのです。人間が持ってる本能的攻撃性をスポーツなどで昇華するのは

良いと思うのですが そもそも攻撃性はそう奨励されることなのでしょうか?

競争の行き過ぎが攻撃性を助長してるように思います。

A 回答 (15件中11~15件)

なぜ攻撃というアクションを取る必要があるか、を考えてみましょう。


それは恐らく「何かを守る必要があるから」ではないでしょうか。
つまり守る必要がなければ、攻撃の必要もないのではないでしょうか。

守る必要がないとはどのような場合かというと、大きく分けて

a. 自身に十分な強さがあり、相手の攻撃が大きな打撃となることがない、と確信できている場合。
b. 相手の攻撃の結果を受け入れている場合、それはたとえ隷属または絶滅となる場合でも結果を受け入れている場合。

ではないでしょうか。
だとすれば、「自身に十分な強さがなく、かつ、相手の攻撃の結果を受け入れられない」場合にこちら側も攻撃というアクションを取る、ということのように思えます。

ここで「相手の攻撃の結果」を「相手の行為の結果」に拡張したものが、一般社会で多く見られる攻撃のパターンであるように思えます。
それは、「低い自己受容と狭い視野に捉われた結果、相手の行動が自身に許容できないダメージを与えると信じ込んでいるために起きる防御反応」と表現してもよいのではないでしょうか。

質問文における「競争」は、有限の対象を奪い合うことが前提であるように思えます。
もちろん、スポーツなどのトーナメントであれば、優勝のポジションは一つしかありませんし、学内の成績順位なども参加者が得られるポジションは一意に決まります。
ですから、そのような場合にはそういった考え方が妥当でしょう。

しかし、その競争の結果が意味を持つのは、競争の範囲内においてです。

トーナメントで敗者となったチームやチームの構成員が、人間として価値がないわけでは決してありません。
テストの点数によって順位が一意に決まるといって、それぞれに人としての価値が異なるわけでは決してありません。
二つの異なる考え方があったとして、片方の考え方が他の共感を得られなかったとしても、そのような考え方をした人の価値がないということを決して意味しません。

自己受容が低いために、そういったことを受け入れられず、何かにつけて他を圧倒することしか考えられなくなっている人が増えている結果、質問文にあるような攻撃性を持ったアクションが増えているように感じています。
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本能的攻撃性は必要なのだろうか?


  ↑
必要です。

これは少しでも優秀な遺伝子を残そうとする
本能が原因です。

競争し、淘汰されて、生き残った人間だけが
子孫を残せる。

こうしたメカニズムが無かったら、人類は
滅亡するからです。

競争があるから、攻撃があるわけです。





そもそも攻撃性はそう奨励されることなのでしょうか?
競争の行き過ぎが攻撃性を助長してるように思います。
   ↑
程度問題です。

競争が過激になり、あまりに激しい攻撃性ばかりになったら
文明が発達しません。

お互いに協力して文明を発達させ、豊かになれば
子孫が残る可能性も高まります。

文化人類学では、一夫一妻制が浸透したので、
♀を巡る闘争が減り、協力関係が発達し、文化、文明
が発達したのだと言われています。
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昔の「攻撃性」は、生存単位が個人ないし血縁である


事によって、他人と競合(生存競争)する事による。
現在の「攻撃性」は、十分発達した社会生命性=助け
合いにおいて、その自覚のない自己チューさをして
社会行動をとらしめるために、お金や出世などの
「馬車馬の目の前のニンジン」を発達させたため、
社会内淘汰=疑似生存競争が生じ、自己顕示欲や
虚栄心が強くなったのだ。
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しっぺ返し戦略(しっぺがえしせんりゃく、英: Tit for tat)とは、ゲーム理論におけるゲームの1つ「囚人のジレンマ」(プレイヤー=囚人が、ゲームの繰り返し回数を知らされない無期限繰り返しゲーム)での戦略の1つ。



アメリカ合衆国ミシガン大学の政治学者ロバート・アクセルロッドの呼びかけで、世界中の専門家から集められた戦略をリーグ戦方式で対戦させる選手権が2度開催されたが、2度ともしっぺ返し戦略が優勝している。なお、2004年に開催された大会では­主人と奴隷戦略に敗れている[1]。

日本語としては応報戦略と呼ばれることもある。

概要[編集]
しっぺ返し戦略では、

1手目は協調を選択する。
2手目以降のn手目は、(n-1)手目に相手が出した手と同じ手を選択する。
例えば2手目の場合、1手目に相手が協調を選択していたら協調を選択し、1手目に相手が裏切りを選択していたら裏切りを選択する。
しっぺ返し戦略について初めて言及されたものは1965年発表のアナトール・ラパポートとAlbert M. Chammahによる「Prisoner's dilemma: a study in conflict and cooperation」(日本語訳版『囚人のジレンマ―紛争と協力に関する心理学的研究』(1983年、啓明社))においてである。この中ではSIMPLETON(バカ、マヌケの意)と名付けられていた。


https://ja.wikipedia.org/wiki/しっぺ返し戦略

~~~~~~~~~~~~~~~~~


これで説明されていると思うのよね。
You Tuberどもが真似ばかりしてくるのは。

あとは相手を尊敬するよりも、
自分のところまで引きずり落としたいという
ジェラシーよりもエンヴィーな感情なのだろう。

同じだ同じだ。

強盗のカンダタを引きずり落とす亡者どもと同じだ。
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本能の問題は難しいですね、正直私の手には負えません。

しかしせっかくですので回答をしてみます。

攻撃性とは、本来、自分や身内の身を守ったり、敵やライバルをやっつけたりする為にあります。
原始時代を想像していただければわかると思います。
一方、この文明の発達した世界では、本能の行き場が失われつつあり、それが発揮される場所は極めて限定的です。性欲一つとっても、公然ではタブーですよね。生存に関わる根本的なことなのに。代わりに幅をきかせているのが人間性というやつです。人間は動物とは違う、本能から解き放たれた存在なのだとする事で、モラルや理想、美徳などによって生きる事を課せられます。そんな風にして抑圧された本能が、時々どこかで爆発し、事件を起こすのではないでしょうか。
人間は本来、人間的に生きていくのが難しい存在なのです。人間性と言うのは後天的に作られたものであり、生来の人間を程度問題ですが限定してしまいます。
私は思います。もっと自由な存在だったはずだと。人間と言うのは。
人が自由を取り戻せば、度の過ぎた争いは起こらないのではないかと思います。
お腹が一杯の動物は、獲物を襲いません。
肉体的にも精神的にも充足したなら、人間は欲望を持たないのが本来の姿だと思います。変に人間的である事を課せられている故に、かえって欲望などを生じるのだと思います。
戦争など、人の攻撃性が歪に増大した形で現れるのも、どこかで抑圧を受けているからだと思うのです。
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Q教育哲学

教育の本質ということで「教育哲学」という言葉を思いついたのですが、
すでに学問の領域として存在していたことを知りました。

現代の日本において教育は、実利のみを動機とし、目的としていると思い
ます。これは、教育が欲望達成のための道具に成り下がっているというこ
とで、あるべき姿ではないと考えます。

教育の本質、つまり、社会は個々の人間に何をおしえるべきであるのか?
また、広く教育についてのお考えをお聞かせ願えれば幸いです。

Aベストアンサー

>教育の本質、つまり、社会は個々の人間に何をおしえるべきであるのか?

食糧の調達と保存と加工方法、それに栄養学、あとは哲学を教えるべきです。
上記を無償の義務教育として、それ以外は有料の選択科目とすればよいでしょう。

>また、広く教育についてのお考えをお聞かせ願えれば幸いです。

教師の収入・生活を確保するための議論は排除して、個人が自由に教育を買えるようにすることが重要です。
教育を買うだけのカネがない人達には、食糧の調達と保存と加工方法、栄養学、哲学だけは無料で(税金んで)教えるようにしましょう。

Q善悪の判断基準

私は、このような人間とか社会の基本的なことを、過去の哲人たちの思索を
手掛かりに、一般大衆がよくよく考えるべきであると思います。
もはや、我々一般大衆が、力を持っていることを自覚するようになった、そ
ういう時代になったと思うからです。

現代人にとっての「善悪」は、絶対的なものが存在するわけでなく、移り変
わる状況の中で、その都度おこってくる問題との関連で、一人一人がどう生
きるのが最も善の生き方であるかを選択する以外にないという「状況倫理」
の考え方でとらえているのが多数派であろうと思います。

しかし、私はこの「状況倫理」という考え方は、信念を持とうとして持てな
かった結果であり、一種の諦めであるように思えます。

その結果として、地に足のつかない、軽薄で自己中心の社会になり、相互不信
と断絶の状況になっているのではないでしょうか?

今から思えば、倫理・道徳感の残っていた「昭和」と、昭和生まれの人間もそ
れを捨てつつある「平成」とを比べてみれば、歴然たるものがあると思います。

さて、絶対的な「善悪」というものは何なのかという「観念論」とともに、善悪
の基準を持つべきなのか、また、いかなる基準を持つべきかという「現実論」に
ついて、ご意見をお聞きしたい。

私は、このような人間とか社会の基本的なことを、過去の哲人たちの思索を
手掛かりに、一般大衆がよくよく考えるべきであると思います。
もはや、我々一般大衆が、力を持っていることを自覚するようになった、そ
ういう時代になったと思うからです。

現代人にとっての「善悪」は、絶対的なものが存在するわけでなく、移り変
わる状況の中で、その都度おこってくる問題との関連で、一人一人がどう生
きるのが最も善の生き方であるかを選択する以外にないという「状況倫理」
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Aベストアンサー

>また、いかなる基準を持つべきか

お礼欄を拝読すると、これはもう結論が出ていますね。責任を持つこと。可能な限り長期的な視野で。
無責任、場当たり的責任の取り方は、「悪」ということになりそうです。
平成の様々な失敗を前にすると、そう言わざるを得ないでしょう。
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Qネアンデルタール人よりわずかながら小さい脳を持つ人類は、誰に・何に飼われている、のでしょうか?

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<奇妙なことに、家畜化されると動物の脳は小さくなるらしい。イヌは同程度の大きさの体をもつオオカミより脳が小さく、ボノボはチンパンジーより脳が小さい。人類も、現在は絶滅してしまったが自分にいちばん近いネアンデルタール人よりわずかながら小さい脳をもつ。>

人生相談ばかりには飽いているであろう、哲学カテの常連様に、次の質問をさせてもらいます。
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Aベストアンサー

多細胞生物の細胞は、単細胞生物の細胞より単純です。
単細胞生物は、単体で環境を甘受し、運動して捕食、
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反射的なものに退化させ、それによりシングルアク
ションするだけになってしまっているからだ。
(大量生産の工場では、生産ラインの一か所で単純
労働するだけになるのと同じ)

人類は本来、脳の発達により環境と自律的に対応し、
単体で複雑な行動をとれるのが特長であったが、
分業化・組織化する中で、単一行動化し、お金や
出世といった“馬車馬の目の前のニンジン(社会的
二次情報)”に対して、反射的に行動するようになっ
た=本来助け合っている社会で競争し、他律的に
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人を操っているのは、「誰か」ではなく社会常識
(法規や教育、常識といったミーム)、即ち単細胞
生物が集合して多細胞生物になったように、個体の
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Qきのう、友人から、借りて 読んだ本があります。 この文章の意味がさっぱり、わかりません。わかる方いら

きのう、友人から、借りて
読んだ本があります。

この文章の意味がさっぱり、わかりません。わかる方いらっしゃいますか?

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その場合にしたって、書けば、かわる、
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Aベストアンサー

その文章は、多くの方が簡単に理解できそうですよ。
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Q本当に戦争放棄は人類の理想でしょうか?現在の人類が有るのは戦争のおかげとも言えるのではないでしょうか

本当に戦争放棄は人類の理想でしょうか?現在の人類が有るのは戦争のおかげとも言えるのではないでしょうか?

戦争が無ければ、人類は怠惰になり、ゴリラやチンパンジーとさして変わらない生活を送っていたのではないでしょうか?

確かに平和で良いかもしれませんが、それが、人類の理想でしょうか?

Aベストアンサー

確かに、そういう面は否定できません。

次のような言い方をする人もいます。

原始以来、人は常に競い合い、凌ぎ合い、いのちを賭けて戦った。
その闘争本能と生存本能のせめぎあいの中で、人は知能を磨き
力を養い、心と体を鍛え、一面で道徳律を築き上げた。

カントも次のように言っています。

戦争は、国民に数多の困難を与えながらも、それを乗り越えて戦い抜く
ことで、国民を崇高な存在にできる。
平和は、商人気質を旺盛にするが、卑しい利己心、怯儒や臆病の風を
はびこらせ、国民の心意を低劣にする




確かに平和で良いかもしれませんが、それが、人類の理想でしょうか?
   ↑
戦争が無かったら、人類はここまで繁栄しなかった
でしょうね。
ネットだって軍事技術でした。

殺し合いをしながら繁栄の道を選ぶか、
平和に浸って、衰退滅亡の未知を歩むか。

戦争を肯定するなんてタブーになっていますから
まともな議論も行われてきませんでした。

Q唯我独尊は治りませんか?

いろんなことを考えるのは自由ですね。
哲学についても同様です。

ただ、自分の考えだけが正しいと言い張ってはいけませんね。
自分の考えも、他の人の考えも共に尊重していきたいものです。

孤独の中で考えていると、どうしても自分の考えだけが正しいという結論にたどり着いてしまいます。
そうなると、他人が馬鹿に思えてしまうようです。

どんな考えも自由ですが、他の違う考えにも耳を傾けたいものです。
そうでないと、誰にも理解されず、最終的には自分が疲弊していきます。

人生も半ばを過ぎると、唯我独尊はなかなか治らないものですか?

Aベストアンサー

記憶によると、「天上天下、唯我独尊」だと思いました。
詰まり、当時は色々な宗教が、ごちゃごちゃしてましたので、
「新しい価値観を、自分が切り開いていく。」みたいな意味合いで
理解していました。

それはいいとして、「唯我独尊」と釈迦の言葉と結びつける
必然性もないし、確かに「己を信じる。」と言う意味では、
良いのではないか、と思います。

問題は、「自分の考えだけが正しいと言い張ってはいけませんね。」です。

少し謙虚に考えて、己の全ての知識、思考は、その源を
他者に依っています。

先ず、それを認めることが重要です。

教育を受け、書を読み成長してきたのであれば、それは
先人の知恵を頂いてきた事でもあります。
このことを謙虚に認めないといけない、と思います。
認めて初めて、他者に耳を傾ける事が、出来る。

哲学も同じでしょう。
私は、哲学で、路傍の石ひとつも動かせるわけでもなかろうに、と
思っていますが、それでも、存在を全く否定している訳でもありません。

しかし、独善的な論理構成と結論には、悲哀を感じます。

そういう人は、自分が受けてきた教育や読破した書の価値が
理解できていない。
どのように自分の血となり肉となったか、の理解も出来ていない、と
思っています。

まあ、病気なんだと思っています。

記憶によると、「天上天下、唯我独尊」だと思いました。
詰まり、当時は色々な宗教が、ごちゃごちゃしてましたので、
「新しい価値観を、自分が切り開いていく。」みたいな意味合いで
理解していました。

それはいいとして、「唯我独尊」と釈迦の言葉と結びつける
必然性もないし、確かに「己を信じる。」と言う意味では、
良いのではないか、と思います。

問題は、「自分の考えだけが正しいと言い張ってはいけませんね。」です。

少し謙虚に考えて、己の全ての知識、思考は、その源を
他者に依っています。

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Q人間とは 何でしょうか?

そもそも人間とは何でしょうか?

実存とか精神とか 性善説とか性悪説とかありますが

人間と言う者は 一体何なんでしょうか?

Aベストアンサー

> 人間と言う者は 一体何なんでしょうか?

それを探求し続け、現時点では、その末にすべてを解明する可能性がある、宇宙で唯一の生物・・と言うところじゃないですかね?

もし仮に、「神」とか「宇宙の意思」なんてのが存在し、その意思のもと、人類が何らかの目的とか、何らかの使命を帯びて誕生した生物であれば、宇宙や生命科学の真理に到達するか?
たとえ到達せずとも、その手前くらいまでは辿り着くと思いますが。

やっぱり神などはおらず、人類は特に目的なども無い生物なら、地球と言う惑星に偶発的に発生しただけの生物であって、いずれは死滅する存在じゃないかと。
そんな生物であれば、「人間とは?」などと大上段に考察する必要もなく、多少の知性などはあるものの、本質的にはアメーバーなどと大差は無い生物ってことで良さそうです。

一方、近年の宇宙科学とかでは、「ホンマかいな?」と言う様な発見や研究が多いのですよ。
たとえば、「重力は小さすぎる」なんてのが証明されて、「その力はどこに消えてるのか?」などが研究されるたり、「未知なる『第5の力』がある!」なんてことも言い出しました。
そうなると、高名な学者が「宇宙は少なくとも5次元以上で構成されているが、人間の脳は、まだ3次元までしか感知,認識し得ない」みたいな説を唱えたりもしています。

何か「言いたい放題」みたいな感じなのですが、1つのことが判れば、謎は深まるばかりと言う様相で。
ご質問も、それこそパスカルの時代から存在しつつ、誰も明確に正解を答えられない問いですが。
結局のところ、「人類はまだ、何も判っていない」に等しい状況と言えそうです。

もう一つ、興味深い説があって、宇宙には人類以外の知的生命体がいる存在は、否定されつつあります。
これはちょっと寂しい気もする説ですが、これが事実なら、冒頭の「真理を突き止められる可能性がある、宇宙で唯一の生物」と言うことになります。

また、上でも少し触れましたが、宇宙と脳には各種の関連性が指摘されていて、まあ人類も宇宙の子ですから、関連があって当然ながら、何らか「宇宙の意思」的なものがあって、その様に作られているのかも知れません。

いずれにせよ、人類は未だ「人間とは何か?」に対し、明確な答えを得ておらず。
その答えを得るためには、まだ戦争などの愚かしい行為も繰り返しながら、もっと科学技術などを高める必要性はありそうだし。
戦争などとは無関係に、宇宙や生命科学の真理を探求できる状態になる頃には、完全なる平和なども手に入れねばならないです。

現代に生きる我々に出来ることは、我々の子孫が真理を解き明かすことを願い、我々の時代を少しでも良くする努力をすることではないか?と思います。
また、もし真理に到達すれば、それが「宇宙の意思」そのものと言えそうで。
「人類こそが、宇宙の意思であった」と言えるのかも知れません。
あるいは、人類の産物であるAIなどが、人類の意思を引き継いで、それを実現するのかも知れませんが。
出来れば、私のDNAもちょっとは受け継いだ、人類であって欲しいです。

> 人間と言う者は 一体何なんでしょうか?

それを探求し続け、現時点では、その末にすべてを解明する可能性がある、宇宙で唯一の生物・・と言うところじゃないですかね?

もし仮に、「神」とか「宇宙の意思」なんてのが存在し、その意思のもと、人類が何らかの目的とか、何らかの使命を帯びて誕生した生物であれば、宇宙や生命科学の真理に到達するか?
たとえ到達せずとも、その手前くらいまでは辿り着くと思いますが。

やっぱり神などはおらず、人類は特に目的なども無い生物なら、地球と言う惑星に偶発的に...続きを読む

Qこの世界の行き詰まりを 三点突破だ!

A 国連に代わる――あるいは 並存してもよいはずですが――村際連合(インタ
ムライズム)によって世界を主導するシステムを!

1. 国家のレベルの国民政府による主導方式は もうふるい。
   ムラ(市町村)の市民政府がそれぞれ主役である。

2. ムラムラのネットワークが 世界をあたらしくつくりなおす。

3. 世界のムラどうしでムラ議会議員を互選する。

4. 世界中のムラムラのあいだで市民が互いに互いを知るようにする。
   つまり ひとの交流をすべてのムラビトがというほど推し進める。

5. いくらでも色んなよいアイディアを出し合ってこれを実行して行く。

6. 経済は それぞれのムラがインタナショナルなインタムライズムの場(市
場)へと企業それぞれを巻き込む必要がある。(連携でしょうが)。



B 《普遍神》論によって宗教という宗教の揚棄を!

7. 宗教にかんして オシへは二の次であって 個人の《わが固有の時》とし
ての信仰について それを一般論として知っておく。神は 普遍神だということ
だ。
  
8. すなわち わが固有の時に憩う《わが非思考の庭》なる信仰は類型として
だれにとっても 同じひとつであるということ。

  A. ブラフマニズム:梵我一如
   梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
   我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我

  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)
   無梵:シューニャター(空)・ゼロ
   無我:アン‐アートマン;ニルワーナ

  C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)
   仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)
      / マハーワイローチャナ(大日如来)
   仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)

  D. クリスチアニズム:霊霊一如
   霊:神・聖霊
   霊:《神の宮なるわれ》

  E. (プラトン?):霊霊一如
   霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
   霊:《われ》

  F. 《もののあはれを知る》
   霊:かみ(超自然および自然)
   霊:われ(自然本性)

  G. ユダヤイズム:霊霊一如
   霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)
   霊:われ

  H. イスラーム:霊霊一如
   霊:アッラーフ(イラーハ=神)
   霊:われ

9. このあたかも霊のつるぎによって世界をリセットしよう。




C やっぱし《アース役はつらいよ》の全国的・世界的大合唱で ハラスメント
について本人に自省させるのがよいのでは?

10. 何気なく ♪あぁ アース役はつらいよ♪ とつぶやけばよい。

11. パワハラ・セクハラ・あるいはイヂメに際して みんなで合唱へと持
って行くとよい。

12. 半分は 減るのではないか?
    半分は あたまも気持ちもすっきりするのではないか?
    世界へも広げよう。

13. 無理をせずに 生産性が上がるのでは?
    社会保障費が省けて 財政再建に寄与するのでは?
    つまり 健康年齢(健康寿命)が上がるのでは?

14. その情況にあって いま横になっている人たちの半分は やおら起き
上がって来るのでは?


☆ ご見解をおしえて ぐー。

A 国連に代わる――あるいは 並存してもよいはずですが――村際連合(インタ
ムライズム)によって世界を主導するシステムを!

1. 国家のレベルの国民政府による主導方式は もうふるい。
   ムラ(市町村)の市民政府がそれぞれ主役である。

2. ムラムラのネットワークが 世界をあたらしくつくりなおす。

3. 世界のムラどうしでムラ議会議員を互選する。

4. 世界中のムラムラのあいだで市民が互いに互いを知るようにする。
   つまり ひとの交流をすべてのムラビトがというほど...続きを読む

Aベストアンサー

Aについてです。
国と言うのはいつ頃できたのでしょうね。
現代は、インターネットによる横のつながりによって、新しい共同体や経済の形が現れて来ているように思います。
それがインタムライズムというものの具体的な現れになるのかなと、ふと思いました。一人一人の意見や意思をダイレクトに吸い上げ、ビッグデータとしてそれを人工知能が処理すれば、一人一人が持つ小さな望みを、全体に反映する事も無理ではありません。今まで切り捨てられたり矮小化されたりと不当な扱いを受けて来た市井の人々に、力を復権させられるかもしれません。

Q「よい文章」とはなにか?

嘗てフランスの近代詩人ステファン・マラルメは「白紙の上に絶対が宿る」といいました。

例えばここに一万円札がある。それで何かを買うということは、その一万円で買えたはずの他の品物を手に入れる可能線を全て放棄したことを意味します。

「選択する」ということは、ひとつを選ぶことによって残りの99の可能性を捨て去ることに他なりません。
逆にいえば一万円札をそのまま使わずにいる限り、そこには永遠に100通りの可能性が残されているということになります。

前回の質問でも述べましたが、「推敲」という言葉があります。
昔中国の詩人が詩句の一節を「僧は推(お)す月下の門」にするか「僧は敲(たた)く月下の門」にするかで悩んだという故事から来た言葉ですが、詩はもちろん声に出して詠むことを前提にされているのでしょうし、全体の音の流れの中で「推す」と「敲く」とでは随分感触が異なると詩人は感じたのでしょう。

しかし現にわたしたちはこの「推敲」という言葉も含めて、中国の詩を(当時の)中国の言葉(音/オン)で読んでいるわけではないし、大抵は外国文学イコール翻訳文学です。
同じ詩、同じ小説でも、訳者によってこうも違った言葉の選択になるのかという、ある種の驚きとも違和感ともいえる感覚は誰しも覚えがあると思います。

繰り返しますが、単に意味が通じればいいというのであれば、「推」(おす)であっても「敲」(たたく)であってもさほどの違いはないように思えます。ここで語の選択の基準となるのは、あくまでも耳に心地好い音の流れということなのでしょう。

以上のようなことをつらつら考えながら、いったいいい文章とはどのようなものを指すのだろう、と考えてしまうのです。

例えばこの質問文中に

「詩はもちろん声に出して詠むことを前提にされているのでしょうし、」という個所があります。

これを

「詩はもちろん声に出して詠むことを前提(と)されているのでしょうし、」

或いは

「詩はもちろん声に出して詠むこと(が)前提(と)されているのでしょうし、」
という風に書き換えることも可能です。

「推す」か「敲く」かの次元にこだわっていると、下手をするとなにも書けなくなるような気もします、一方で、このレベルから言葉の選択に対してこころを砕かなければ、もとよりよい文章を書くことなど覚束ないとも思うのです。

人は文章に対して何を(あるいはどこまで)求めているのか?そのようなことも含めて、お考えがあればお聞かせください。

尚お礼が遅れることがあるかもしれませんが、予めご了承ください。

嘗てフランスの近代詩人ステファン・マラルメは「白紙の上に絶対が宿る」といいました。

例えばここに一万円札がある。それで何かを買うということは、その一万円で買えたはずの他の品物を手に入れる可能線を全て放棄したことを意味します。

「選択する」ということは、ひとつを選ぶことによって残りの99の可能性を捨て去ることに他なりません。
逆にいえば一万円札をそのまま使わずにいる限り、そこには永遠に100通りの可能性が残されているということになります。

前回の質問でも述べましたが、...続きを読む

Aベストアンサー

NO4です。
お礼有難うございます。

少し、追記させて頂きます。


>「伝えたいことを、可能な限り正確に伝える。」のが目的ですし、
それが出来ているものが、「良い文章」と言うものだと思います。

「可能な限り正確に」・・・ではその正確さとは何によって計られるのでしょうか?
 ↑
「正確さ」は、筆者の「価値観」によって、量られる、と思います。

 文章を作成するのは、筆者であり、「記載すべき内容」は、
 筆者の頭の中に、あります。

 それを文章と言う媒体を通じて、他者に伝えようとする場合、
 自分の中の概念を、可能な限り正確に表現しようとします。

 詰まり、その表現が正確であるのか、妥当であるのか、の
 判定基準は、筆者にあります。



例えば店で品物を買う。

「これ幾らですか?」

「300円だよ」
「それは300円です」
「ん?300」
「おい、これいくらだっけ?え?300?300円ですって」
「そちらは300円になります」

品物の正確な値段300円ということを伝える文で、正確なものは上の中にありますか。
 ↑
その品物が、300円である設定は、筆者がするものです。
当然、その金額が妥当であるか否か、の判定も、筆者がします。

この一連の表現の、「どれが正確なのか?」は、筆者が判定し、
表現すべきことで、他者は関係ありません。

文章と言うのは、「伝達手段」ですので、基本的に、読者の存在を
前提にしていると思います。

そして書かれた文章が、読者にとって価値のあるものであれば、
それは「良い文章」だと思います。

例えば、日記のようなものは、筆者自身が、読者でもあります。
このような場合、筆者と読者が同一であるので、「良い文章」か否かは、
客観性を欠いて、解りにくい、とは思います。
そのような質問のつもりでした。

ご回答をどうもありがとうございました。

NO4です。
お礼有難うございます。

少し、追記させて頂きます。


>「伝えたいことを、可能な限り正確に伝える。」のが目的ですし、
それが出来ているものが、「良い文章」と言うものだと思います。

「可能な限り正確に」・・・ではその正確さとは何によって計られるのでしょうか?
 ↑
「正確さ」は、筆者の「価値観」によって、量られる、と思います。

 文章を作成するのは、筆者であり、「記載すべき内容」は、
 筆者の頭の中に、あります。

 それを文章と言う媒体を通じて、他者に伝えようとする場合...続きを読む

Q死後は無と考えている人に質問です ひとに死後 魂 心は存在しないと証明できますか?

死後は無と考えている人に質問です
ひとに死後 魂 心は存在しないと証明できますか?

Aベストアンサー

(No13,16の誤字訂正です)

No.13です。

お礼ありがとうございます。

脳神経学者が輝かしい業績といっているのは、意識の性質と脳神経の関係であって、
意識の存在に関しててではありません。特に、脳神経の状態が、どう意識に影響するかという方向だけ取り上げて言っているだけでしょう。

近年の研究成果を見ると、逆に、意識のありかたが、脳の形まで変形せさるという、めざましい研究もありますけどね、、。こういう逆方向の研究業績は、無視するんでしょうね、そういう脳神経学者は。

世界観という反証不能なものに、科学でいどめるというのは、そのような認知の歪みのもとでしか行なわれないでしょう。

(削除機能か編集機能がなく、タイプの苦手な自分にはお手上げ状態です、、どうもすみません)


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