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私は、小説・映画・漫画、共通して物語が苦手です。
特に、小説は長いので苦手です。
読む本は、ノンフィクション系ばかりです。
私は、なぜ物語が苦手か分析しました。

① 心の奥で「実際に起きた出来事ではない」と思っている。
「事実は小説よりも奇なり」で現実に起きたことの方が不思議だと思っている。
だから、物語は最初から冷めた目で見ている。

② 著者の本当に言いたいことを、出来るだけ短く簡潔に書いてほしいと思っている。
それを、いろんな登場人物の生い立ちや出来事があり、登場人物に著者が言いたいことを代弁させるという間接的な表現がつらい。
つまり、著者が言いたいことを、物語にして膨らませることがつらい。

私のような人がいる一方で、物語が好きという方も多くいます。
しかし、その方々の気持ちが正直なところ分かりません。
なぜ、作られた長い話に、長い時間耐えることができるのでしょうか?

A 回答 (4件)

基本的にフィクションというのはホラ話。


事実かどうかなんて関係ありません。
次の展開をあれこれ想像しながら読み進めて、
自分の想像を上回るような展開があればあるほど
楽しめます。想像力がなければ楽しめないんじゃないですか?
また、言いたいことがなんだとかいうことは
あまり考えません。結論が言いたいから知りたいから物語を
書いたり読んだりするというより、その想像を超えた
展開を楽しむために物語はあるんじゃないですかね。
登場人物に感情移入したり、この人物なら今度はこう
いうふうに行動するのか、考えるのかとイマジネーションを
膨らませたりするのが楽しいんだと思います。
言いたいことだけを書くのなら単なる論文やレポートだけで
いいわけですから。
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この回答へのお礼

>自分の想像を上回るような展開があればあるほど楽しめます。

そうだと思います。
ただ、優れた作品は非常に少ないのと、優れた作品でも自分に合うかという二重の高いハードルがあると思います。
ここが難しいところです。

お礼日時:2017/06/17 06:55

理系脳と文系脳みたいに、視点と次元の平面思考と垂直思考の想像力の違いも個人差があるので。


創作のフィクション好きは、物語に入り込んで主観的に想像力が働き、地に足がついてその世界の外側を意識しない。未知の経験に対して柔軟なのであり、
相談者さんみたいなノンフィクション好きは、多視点の客観性は想像できるが、フィクションの次元がずれると自分の立ち位置
を見失うので物語に集中できず、世界の外側ばかり気にしてしまい、常識を超えた想像が苦手。

この違いで一番わかりやすいのは、物語には「私」で書かれる一人称視点の私小説作品と、神目線の名前で書かれる三人称視点の文学作品の違いがあり、
一人称の話だと、どんな複雑な世界観のSFやファンタジーだろうと主人公目線で感情移入して理解できるけど、
推理小説や古典文学みたいな三人称で物語が進行すると、名前が覚えられず、立ち位置が変化する視点に迷子になって物語に入り込めない苦手意識を持つ人が多いです。
私小説や純文学って、言文一致運動での近代の発明品なので、それ以前の人は一人称の文体は想像できず、それ以降の人は小説の一人称に慣れ親しんでいるため、三人称の想像が苦手なのです。

フィクション/ノンフィクションっていうジャンルも近代の新聞・ラジオ・テレビ・レコードなどのマスコニュニケーションが普及したあとのジャンル分け。
鉄道と郵便と電話ができる以前の世界は、歩ける範囲のコアコミュニケーションの伝聞しかなく、真偽を確かめるすべがないので、フィクション/ノンフィクションの区別がなかったのです。

よって、人の想像力って、想像範囲の視点と次元に個人差があり、片方が拡大するともう片方の認識力が狭くなる傾向があります。
この想像力に限界がなくなると、視点が混濁し自我が崩壊して、統合失調症になってしまい、私は神であるとか宇宙人からの電波をひろったみたいなことを言い出します。
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この回答へのお礼

一人称視点と三人称視点の違いで、得手・苦手があることは初めて知りました。
小説好きの間でも、このようなことが起きるのですね。

>鉄道と郵便と電話ができる以前の世界は、歩ける範囲のコアコミュニケーションの伝聞しかなく、真偽を確かめるすべがないので、フィクション/ノンフィクションの区別がなかったのです。

昔は、知識・情報が不足していたので物語として宗教が強かったのかもしれません。
今は、世界中で宗教離れが起きていると本で読みました。

>人の想像力って、想像範囲の視点と次元に個人差があり、片方が拡大するともう片方の認識力が狭くなる傾向があります。

これは、人によって想像力の傾向が違うので、物語に入っていけない人がいても仕方がないのかもしれません。
古今東西の古典文学や芥川賞受賞作など、小説は崇高なものとして扱われていると私は思います。
しかし、私には合わないんだから仕方がないと、少し安心しました。

お礼日時:2017/06/17 07:52

楽しめないのは、楽しみ方を間違えているだけ。


別に誰からも強要されることではないので、自分で楽しめるものを見つけてそれをやるのがいいと思います。
推理小説、恋愛小説、エロ小説、歴史小説、どれもこれも楽しみ方が違います。
楽しめないのが悪いとは思いません、なにかひとつ楽しめればいいと思います。
小説でなければ、それでもいいと思います。
作られた長い話っていうのは、何かを楽しむために作られたのです。だからちゃんと楽しむべきことを楽しんでいる人には面白いものなのです。
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この回答へのお礼

>作られた長い話っていうのは、何かを楽しむために作られたのです。だからちゃんと楽しむべきことを楽しんでいる人には面白いものなのです。

よく考えてみるとスポーツが好きな人でも野球が好きな人、サッカーが好きな人と、いろいろ分かれます。
音楽でも洋楽のロックが好きな人、クラシックが好きな人とさまざまです。
しかも、そこから好みがさらに分かれます。
そう考えると本が好きな人でも、いろいろ好みが分かれるのは自然なことですね。

お礼日時:2017/06/18 04:56

本を読むのに「耐える」という感覚は、理解できません。


読んでいる内に、いつの間にか長時間過ぎていたという事は有りますが...
自分が面白そうだと手にした本が、いつの間にか長編シリーズになっていた
という事は良く有ります。
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この回答へのお礼

>読んでいる内に、いつの間にか長時間過ぎていたという事は有りますが...

私は、物語でこの経験は、まずありません。
興味の持ち方の違いかもしれません。

お礼日時:2017/06/18 04:42

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