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田畑 山林は、沢山残っていたと思いますが、なぜ食糧難だったというのでしょう。‼
いくらアメリカでも、無駄な爆弾は投下していないと思われます。***

質問者からの補足コメント

  • HAPPY

    流通網の遮断でしょうね。なんか北朝鮮とにていますね。
    疎開が出来た方は、幸せということでしょう。
    我が家も疎開先でしたよ。もう皆さんいませんが、腐れ縁でこちらに来た時は、懐かしいでいました。こんな関係もいいかもしれませんね。

    貴様と俺とは同期の桜 精神も やまと魂 人情ですね。

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/12/01 15:45
  • HAPPY

    ほんものの土壁は、食べられますよ。
    ゴキちゃんは、ちとですがすべて生き物類は食べれます。
    生だと、命覚悟です。

    沢庵とお米ヴィエス大豆 お豆の勝ということでしょうね。
    納豆パワーは、凄いですから。元気でますね・・・・

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/12/01 17:37

A 回答 (2件)

都会に関しての流通・市場の破壊が最大の原因。


田舎、山間部など田畑がある地域にもお疎開で人が押し寄せはしましたが、普段より生産に専念していた生産農家にしてみれば、お金も持たない疎開者(預金、金融も焼失、遮断していましたし、倹約かん口令の世の中でしたし)、取引手段も普及していず、物々交換が主となる中、要りもしない物で作物を手渡さねばならない取引は正常なものではなかったので満足に行きわたらなかったはずです。
そういう意味では疎開先の人たちも、生産農家は食べ物に困りはしなかったものの、疎開者には厳しかったはずです。

戦中に育ち盛りだった私の両親も、母は農家の出で被災もせず食べ物にも困らず戦争といっても深刻な想い出はないそうで、片や父親は街中の育ちでろくに食べ物もなく、蛇、カエルでも捕まえて食べ、芋のつる、訳のわからない葉や根っこも口にしたのだとか。
時々境遇の違いで喧嘩でこそないにしても、言い合いをしてました。
この回答への補足あり
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食糧難は都会だけですよ。


もっとも、1945年だけが米の収穫量がめちゃ悪かったのは事実です。
60%ほどしか取れなかったそうです。
私の母は田舎の農家だったので全く食べ物には苦労しなかったそうです。
都会から着物を持って「食べ物と変えてくれ」みたいな人がたくさん来たそうです。
父は大都会に住んでいたので食べ物がまったくなかったそうです。
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