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親鸞の思想で次のような解釈は可能ですか?

南無阿弥陀仏を唱えれば誰もが救われると説いた親鸞ですが、親鸞から始まる浄土真宗は現世利益や仏道授業そして南無阿弥陀仏と唱えた数だけ救われるという考え方を否定しています

そこで思ったのですが阿弥陀様は生命すべてを死後救ってくれるのだから南無阿弥陀仏は1度唱えればいい。なんなら唱えない人も救われる。

南無阿弥陀仏とはそんなすべての生命を救う阿弥陀様にありがとうと思う気持ちであって阿弥陀様に助けを請うものではない。

というのも祈ってもいまこの世がよくなるなど人間のエゴにすぎないからで、それよりは現世ではお前個人の人生を全力で生きろ死んだら阿弥陀様が助けてくれるからというような実存主義的解釈は可能でしょうか?

A 回答 (5件)

そうした解釈をしても、通常は、間違っていると言われてしまうと思います。



「現世ではお前個人の人生を全力で生きろ死んだら阿弥陀様が助けてくれるから」というような《死後の救済》を説いていたのではなく、《現世の今からの往生=救済》を説いていて、また、《現世ではお前の好きにして勝手放題生きてな!!》のようなことは説いてないと思います。

それと、「南無阿弥陀仏を唱えれば誰もが救われると説いた」のではないと言われています。心底阿弥陀の本願を信じることを強く《必要不可欠&十分条件》としていて名号のことは別次元の要請なのだと思います。

また、「いまこの世がよくなるなど人間のエゴにすぎないから」という社会情勢やその動向、変革や改善の可能性などに言及しているのか、私は知りません。仮に社会や暮らし向き、社会機構に関わる名称が文中にあっても、それらを主題にしてはいないのではないでしょうか。
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『南無阿弥陀仏』というのは、親鸞が説いたものではなくて、法然が説いたもの。



親鸞は法然の弟子である。

しかしながら、法然の説く『南無阿弥陀仏』には決定的な誤りがあり、それを誰も指摘していない。

誤りのある仏に願っても誰も幸せになるはずが無い。誰も救われるはずが無い。

法然は馬鹿なのか、肝心の一言を無視し、勝手に『阿弥陀仏』を祀り上げた罪は大きい。
それを何の疑いもなく信仰をしても、功徳は得られない。

もはや親鸞どうのこうのではなく、法然の問題に世の中全体が気付くべきである。
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唱えて救われるプロセスがない、南無阿弥陀仏で救われるなららくちんすぎる。

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浄土信仰は平安時代に流行ったそうですね、貴族の間で



当時は極楽浄土を思い描くことで
往生できるとされました
それで藤原氏は平等院鳳凰堂を建てた
あれは極楽浄土をイメージするために造ったもの
建物とか絵とかで表現された極楽浄土を見ることで
イメージできて極楽浄土に行ける、とされた

でもまあ、それだとお金持ちしかできませんからね…

また厳しい修行で解脱するとか
お経を勉強してとかだと
体力のない者や貧しいものは救われなくなっちゃう

そういう人が救われなきゃ意味がない、と考えた法然がたどり着いたのが
念仏

親鸞はその弟子で
「法然上人の教えに従って
それで地獄に堕ちたとしても構わない」
と生涯、師を尊敬していたそうですが
ちょっと教えが違うとこありますよね

念仏の回数もそう
法然は毎日一万回唱えたそうです

阿弥陀様は「生命すべてを死後救ってくれる」のでしょうか?

浄土真宗では
阿弥陀様と自分の一対一の関係で
そこで阿弥陀様に帰依する、と決意した者のみが救われるんじゃないんですか?
(浄土宗はちょっと違う…亡くなった人への供養として念仏を唱えます)
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当時の庶民は働きづめに働かないと生きていけない状況でした。


宗教のために時間を割くなどもってのほかです。
お経は買うのもお金がかかるし読んで理解できるようになるまでもやはりカネがかかります。

そんな庶民のために簡略化したのが南無阿弥陀仏とか南無妙法蓮華経です。

ただ適当にそうしたのではありません。
仏教には「一念三千」という思想があります。
たとえ一瞬思っただけでも自分を含むいろいろな世界に様々な影響を及ぼす。
毎日一回でも唱え続ければその影響力は計り知れない。
だから一日一回心を整えて南無阿弥陀仏と唱えるだけでも、救いの道は開かれるのだ。
ということです。

お経を買うお金も勉強するお金も修行をする時間もなかった庶民にとって、
これほどありがたい救いの道はなかったはずです。
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